All in All

4th. 二度あることは三度ある

 激闘の三日間が終わる。予選リーグから数えると、実に十試合以上対戦した。常磐津千尋はもうこれ以上の試合はごめんだ、と思うぐらいの疲労を抱えて夕暮れ空に消えてしまいそうな熱球を追う。ラケットを握る右手が重い。足は錘でも引きずっているかのようだ。
 予選リーグは勝ちの方が多かった。最終リーグの戦績は今のところ二勝二敗だから、今の試合の結果次第で県大会のレギュラーになれるかどうかが決まる。対戦テーブル的にも、時間的にもこの試合が最後だ。両隣のコートの試合はもう終わっている。名実ともに最後の試合を多くの部員が観戦していた。特待一年の千尋が勝つか、一般一年の柳蓮二が勝つか。ゲームカウントは6-5でデュースだが、千尋がアドバンテージを持っている。マッチポイントになってから、何度もその状態を行き来して、既にアゲインが何度告げられたのかを正確に記憶しているものは殆どいないだろう。そのぐらいの熱戦だった。
 ネットの向こうにいる柳の双眸はいつも通りの細さを保っているが、その隙間から熱意がほとばしっている。一歩も退かない。その覚悟が千尋の戦意を煽る。負けないという戦意には負けないという戦意をぶつける。それが千尋の覚悟だ。
 サービス権は千尋にある。千尋はそれほど長身ではないから剛速球を初手で叩き込むことは出来ない。華々しいテクニックもない。先輩たちのような必殺技を持っているわけでもない。
 それでも、ここまで来た。柳にしてもそれは同じ条件だ。ここで負けるなら千尋のレベルは所詮「小学生にしては強い」止まりだ。千尋はもっと上を目指して立海へ来た。敗戦の苦渋を舐めた柳に、勝利の充足を知っている千尋が負けるわけにはいかない。柳のデータはまだ不十分だが、千尋の苦手なコースを狙っているのはわかる。
 だから。
 渾身の力を込めてサーブを打つ。千尋が最も得意とするジャンプサーブ。狙える場所はまだ一か所しかないことを柳は知っている。着地点のわかっているサーブほど処理の簡単なものはない。わかっている。それでも、千尋はシングルスコートの一番外側の隅を狙う。フェイクを入れる余裕はない。打球は真っ直ぐにその場所を目指して弧を描いた。着地するのを柳が待っている。ここから先は心理戦だ。コートの外側ぎりぎりいっぱいまで柳は走っている。クロスが返って来ればラリーになるだろう。ストレートなら今の千尋の体力で返球できるかは五分五分といったところだ。柳の方もそれは承知している。駆け引きはもう始まっているのだ。千尋はストレートをくらいたくない。だからセンターラインよりも若干柳の方にポジショニングした。千尋がストレートをレシーブ出来る位置にいるというプレッシャーを与えなければならない。当然だが、センターラインの片方に寄っている、ということはクロスを受けたときに走る距離は長くなる。
 勝負の駆け引きに正解はない。
 結果がどうであろうとも、後悔のない選択もない。
 それでも「いい勝負だった」で済ませたいのなら千尋は今出来る全てを尽くすしかない。
 千尋の打ったサービスが一秒もかからずに狙った場所に沈む。柳のラケットが迷うことなくそれを捉える。ストレート、クロス、どちらだ。インパクト音が聞こえてから走ったのでは遅い。柳の視線の先、ラケットの向き、足の開き。その全てを一瞬で判断して、千尋はクロスを受けられる位置に駆け出した。
 リターンエースなどという格好のいい真似はさせない。
 瞬間の判断通り、対角を目指して飛んできたボールをそのままクロスで返す。ラリーの始まりだ。集中力と体力の勝負をしながら機会を窺う。
 その、譲れない勝負に一つだけ勝算があるとしたら、この試合が名実ともに最後の試合だということだろう。
 後のことは何も考えなくていい。今のベストを尽くせばいい。本当に、足一本動けないほど疲労しても問題ない。
 柳にしてもそれは同じ条件だ。
 でも一つだけ千尋と柳との間には違う条件がある。
 柳がこの試合に勝つ為には少なくとも、あと2ポイントに加えて、1ゲームを得なければならない。柳の焦りは頂点に達しているだろう。
 だが、それも裏返せば千尋の焦りを意味している。繰り返されるアゲインの声。千尋が今まで何度マッチポイントを逃してきたか。焦らない道理がない。勝ちを急いでいる。ここで2ポイント落とせば、千尋の勝利はぐっと遠のく。そのときに千尋のメンタルがどれだけ弱るか、柳はそれも知っている。
 このポイントに懸ける思いは同じだ。二人とも勝ちがほしい。だから一歩も譲らない。
 長い長いラリーが続いている。クロスの合間に千尋が無理やりストレートを返した。柳が慌てて追いついて千尋のいない方へクロスを返す。歯を食いしばってコートを駆けた。まだ動ける。ここで諦めるなんてごめんだ。その思いだけが千尋をどうにか走らせていた。
 バックハンドでもう一度ストレート。それを読んでいた柳が正面で待っている。今度はストレートが返ってきた。右、左、バック、フォア。ストレートもラリーになる。球速があり、距離の短いストレートのラリーはクロスのラリーとは比べものにならないほど、体力を奪う。
 永遠に続きそうな様相を呈していたラリーが終わりを告げたのは突然のことだった。
 柳のラケットがスイートスポットを外した。打球が大きく間延びして、浮き球が返る。千尋の位置からならスマッシュを決められる。返球をミスしたことで柳は動揺しているから、今、彼のいない方へ強打を叩き込めば念願のマッチポイントだ。
 千尋は勝利を確信して浮き球の軌道を追う。スマッシュの構えを取ったところで、不意に柳が正気を取り戻した気配を感じた。まずい。咄嗟にそう思う。千尋はスマッシュを打ったあと、二秒ほど隙が出来るのが弱点だ。だから、確実に勝てる場面でしかスマッシュを打たない。柳はそれを知っているだろう。だから、必死にメンタルを立て直して千尋の隙を利用しようとしている。わかっている。今ここでスマッシュを打てば、脇をパッシングされて終わりだ。デュースアゲイン。そのコールがどれだけ千尋のメンタルに影響するか、なんて考える必要もない。
 どうすればいい。
 千尋はもうスマッシュのモーションに入っている。柳に勝つにはどうすればいい。
 必死に考えて、それでも体はコートを蹴って空中にいる。柳の捕球位置はコートの後方だ。十五日間で彼が集めたデータが、それが千尋の得意コースだと教えている。そして、その場所からパッシングショットを打つのなら、絶対に千尋が返球できないことも知っていて、そこにいる。
 負けたくない。このポイントがほしい。譲りたくない。ここで、勝ちたい。
 その思いが身体を動かす。
 瞬間、千尋は空中で体勢を変えた。
 そして。
 スマッシュのフォームのまま、ラケットを振り抜かない。スイートスポットに柔らかく当てるだけ。温かみのある丸い音がコートに響いて、ボールがゆるゆると落ちる。スマッシュではない。ドロップショットでもない。それでも、勢いを失ったボールは確実にネットのぎりぎり向こうに落ちる。瞬間柳の顔色が変わった。白いネットのラインに当たりながら落ちたボールを拾うには柳の位置は遠すぎる。それは彼もわかっている。でも、諦めたら確実に負ける。柳が全力でネット際に駆けこんでくる。千尋はその間に着地して前に出た。柳がもし、ボールを拾えても、今度は千尋のチャンスだ。彼の脇を抜いてパッシング。何十手先まで予測する柳には千尋の考えがわからないわけがない。もう一度浮き球で返して時間を稼ぐかもしれない。その仮定に千尋の直感がノーを告げる。今の柳にその答えを選んでいる余裕はない。
 だから。
 コート前方に滑り込んだ柳のラケットが地面すれすれで捕球する。殆どヘッドスライディングだ。柳の瞬発力では次の返球までに立ち上がることすら出来ないだろう。
 それと知っていて、弱弱しくネットを越えたボールを千尋は渾身の力で反対方向へパッシングした。瞬間、世界から音が消える。誰もいない空白地を打ち抜いた音が響いて、そして慌てて審判がコールする。

「ゲームセット! ウォンバイ常磐津!」

 その声が聞こえて、ようやく千尋の世界にも音が帰ってきた。千尋と柳の試合を見守っていた他の部員たちが異口同音に熱戦を褒めたたえているのが聞こえる。今年の一年はレベルが違うだとか、特待生なんだからそんなものだとか、言葉は本当に色々だったが、誰もが一様に興奮を隠せないようだった。
 コートに腹ばいで横たわった柳の方へは幸村精市と真田弦一郎が声をかけに行く。勝ったのだ、ということを茫洋と味わっている千尋には千代由紀人(せんだい・ゆきと)と徳久脩(とくさ
・しゅう)がタオルを被せにやってきた。
 ジャージを買ったときに一緒に買ったタオルだ。三人とも色違いで同じブランドのタオルを使っている。そのタオルが頭から被せられて、千尋の緊張感と臨場感が薄れていく。

キワ、いい試合だった」
「『一度勝った相手に負ける趣味はない』、ってやつ守れてよかったらー」
「マジで『キリッ』って効果音付いてたもんな」

 悪戯っぽく二人が笑う。普段なら反撃をするところだが、今の千尋にはその余力がない。タオルで顔を拭い、徳久が手渡してくれた千尋の水筒の中身を喉に流し込む。

「るっせ」

 まだまだ夏は遠いのに、飲み込んだスポーツドリンクの冷たさにはっとする。これが勝った充足だ。負けていたらこの味はきっと違うものになっていただろう。柳はまだ腹ばいのまま立ち上がらない。悔し涙を流すようなやつではない、と思っていたが違うのだろうか。そんなことを思っていると、不意に柳が千尋を呼ぶ。

キワ
「何だ、蓮二。負けた言い訳なら聞かねーぞ」
「俺はお前に二度負けた。二度あることは三度あるというが、仏の顔も三度までという言葉もある。次こそこの借りを返そう。絶対にだ」
「バーカ。二度あることは三度あるんだろ? 俺が勝って終わりだ」

 次に柳と試合をする可能性があるのは関東大会以降のレギュラー選抜戦だ。そのときまでに柳のデータはいっそう充実するだろう。千尋の成長のスピードが柳の分析を下回れば、いずれ負ける。そうならないように、千尋は自らの自尊心を懸けて練習に励む。
 だから。

「蓮二。楽しかったぜ」

 お前が強くなってて。
 タオルを被ったまま、千尋は言う。両隣で千代と徳久が呆れたように笑う。あんなに必死の形相で戦っていたくせに強がりは一人前だと言わんばかりだった。
 それでも、千尋の気持ちは柳に届いたのだろう。

「いい試合をさせてもらった。十五日のデータでは知らないお前が多すぎる、というのも実感した。だから」
「だから?」
「俺はお前のデータをもっと集めよう。約束通り、明日からお前たちの練習に付き合わせてもらうぞ、キワ

 明日からは県大会に向けての練習が始まる。千尋と柳の試合が最後だったから、その結果を反映した部内ランキングが部長たちの手によって集計されている。上位七名と県大会レギュラーの発表があれば、今日はここで解散だ。千尋たち特待生もこんな日まで練習をするほど馬鹿ではない。休息はときに練習よりも大きな価値を持っている。
 だから。

「楽しみにしてるぜ、参謀」
「俺が参謀なら、キワ、お前は遊軍だな」

 将ではない。兵でもない。どこにでもいて、どこにもいない。それでも確かに存在するし、いなくなれば、不利になる。頭で理屈を考えるのではない。誰かの言葉を実行に移す為の先天的な感覚と技術を持っている。
 柳が立ち上がって、ウェアの前面に付いた土を払い落としながらそんなことを言う。

「何だい、常磐津。お前にしては随分高尚な会話だね。蓮二、その喩えなら俺は何になるんだい?」

 テニスの試合を本物の戦いに例えるなら、幸村は王相当が妥当だろう。
 三年の部長、副部長。二年の特待生。千尋たちには到底敵わないその難敵の全てを打ち負かして、落としたゲームも部内で一番少ない。頂点に立つ為に生まれてきた。そんな風情すら持っているのだから、将や兵で収まるわけがない。
 でも、それを今決めるのは何となく違う気がして、千尋は柳を止めようとした。
 その言葉の先を遮って、落ち着き払った柳の声が聞こえる。

「追い追い決まるだろう。こういう遊びは無理やりに考えるのは無粋だからな」

 そうだろう、キワ
 話の矛先を向けられて千尋は溜息を吐いた。

「なんだってお前らはそう言葉遊びが好きなんだよ」
キワ、俺もその喩えほしいらー」
「人の話聞けよ、シュウ」
「シュウが話聞かないのは今に始まったことじゃないだろ、キワ

 そんな他愛のない冗談に興じていると、部長から集合の声がかかる。
 千尋も柳も被っていたタオルを取り払って、その声に応じた。一番手前のコートに試合結果が書き出されていたホワイトボードがある。その対戦表の上から模造紙が貼ってあった。勝ち負けの数、落としたゲーム数。それらを根拠に順位と氏名が書かれている。
 一番上は文句なしで幸村だった。五勝無敗。その戦績は部長もだが、落としたゲームの数が格段に違う。五戦して落としたゲームが一ケタなのは幸村ただ一人だ。
 幸村の下に部長、副部長、と名前が続く。二年の特待を挟んで徳久。もう一人特待生を挟んで七位が真田だった。千尋の名前は九番目に書かれている。真田とは直接対戦していないが、スコアは彼の実力を雄弁に語る。中々に強い選手だ。それでも、次の選抜戦で当たったら必ず負かしてやろうと勝手に決めた。
 千代は千尋の二つ下で十位。千尋に負けて三敗を喫した柳は十一位。どちらも県大会レギュラーの枠の中にいる。上位十四名のうち六名が一年生だという事実に立海テニス部は黄金時代の到来を察した。
 それでも部長は顔色一つ変えずに、明日からの予定を淡々と告げてその場は解散になった。
 ありがとうございました。唱和した声も霧散する。
 そのまま特待寮に帰って風呂だ、と思っている千尋たちの背を呼び止める声があった。

常磐津、特待寮の門限は何時なのだ」

 不意に真田がそんなことを尋ねる。
 特待寮には細かいルールが幾つもあり、千尋たちも全てを完璧に理解しているわけではない。門限については割と自由が許されている。そのことをどう伝えればいいのか、と思案した結果、千尋の答えは前半と後半で支離滅裂になった。

「晩飯が七時から随時。風呂が十時までで、どっちもに間に合えば特に門限はねーよ」
「それは門限があるように思うのだが」
キワ、言い方が悪い。真田、どっちも外で済ますなら門限がない、に訂正する」
「何ら? 泊りの相談かにー」

 うむ。徳久の問いに真田が深く頷く。千尋と千代は軽く目を瞠った。

常磐津、千代、徳久。流石にいきなり泊まれ、というのはハードルが高いが、取り敢えず夕食を俺の家で食べないか?」
「弦一郎の母親がテニス部の友人に興味があるらしい。キワ、お前たちも問題がなければ来たらどうだ」
常磐津、知ってる? 真田家の料理はとっても美味しいんだよ。まぁうちの母親も負けてないと思うけど。料理のジャンルは違うけどね」

 悪い話じゃないと思うよ。幸村はそう言うが、千尋と千代は困惑した。徳久は既に話に乗る体勢ではしゃいでいる。もともと徳久は人懐っこい性格だ。誰かとつるんで馬鹿騒ぎをするのも好きだと千尋は理解している。特待寮の一年生で集まってやる勉強会でも徳久は人一倍騒ぎたがる傾向にある。
 それでも。
 真田の家がどこにあるかもわからない。何時開始で何時解散なのかもわからない。そんな状態で真田の家に行って、帰りの足がなくなったらどうすればいい。歩いて帰るだけの体力は今日の千尋にはない。千代にしてもそうだ。だから二人で困惑を顔に浮かべて目線でやり取りしている。
 なのに。

キワ! ダイ! 行くしょ!」

 徳久はそれら諸々の問題を度外視して屈託なく笑った。
 一度こうと決めたら徳久は絶対に譲らないことを、この二十三日間で嫌というほど思い知っている。徳久が行くしょと言えば行くのだ。その決定を覆したいのなら、千尋は徳久と未来永劫別離することを選ぶしかない。東海地方の方言は耳に柔らかく、それでも確実に決定を告げる。千尋と千代は顔を見合わせて苦笑いした後、両側から同時に徳久の背中を叩いた。力加減を間違えることはない。間違いなく全力で叩いた。徳久が「いてっ」と叫ぶ。その抗議の音など聞こえなかった体で千尋と千代は踵を返す。

常磐津

 真田の不安に揺れる声が千尋の背中を捉える。千尋は首だけを器用に回して、真田に笑みを送る。仏頂面の鉄面皮だと思っていたが、真田にも感情の起伏がある。この顔を見られるのはどの範囲の相手だけなのだろう。束の間思案して、千尋の中には答えがないことと、その試案が無為であることを察する。難しく考える必要はない。なぜなら、千尋は既に真田の表情の変化を自分の目で見た。それ以上の答えなどどこにあるだろう。

「真田、外泊許可取ってくるだけだ」
キワの場合、ルームメイトに報告しないといけないしな」

 千尋は今まで友人の家に泊まったことはない。まるで他人と同じ屋根の下で寝るのは学校行事でしか経験したことがなかった。ルームメイトの堺町秀人(さかいまち・ひでと)と同室で暮らすようになるまでは、他人と寝起きを共にするのは特別だとすら思っていた。
 その、千尋の認識が少しずつ変わっていく。
 真田の家に泊まる。しかも、真田と二人ではない。幸村と柳と、それから千代と徳久。小さな修学旅行だ。そんなことを不意に思う。
 特待寮の規定から外れるわけではない。だから、別に真田の家に泊まる、というのが確定しているのなら外泊許可を申請すれば何の問題もないし、寧ろそちらの方が気兼ねしなくていい。そんなことを考えながら千尋と千代は真田たちに訥々と説明した。
 徳久が不満げに頬を膨らませて言う。

「ヒデちゃんなら止めんらー」
「シュウ、俺は行くべき場所には誰が止めても行くっつーの。でも」
「でも?」
「一言断っといたら、ヒデも余計な心配しなくていいし、無駄にがっかりしないのも事実だろ?」

 信頼を培うには一晩や二晩では足りない。だのに、信頼を失うのには一瞬あれば十分だ。理屈はわからない。ただ、千尋は今までの経験でそのことを何となく理解している。義理だとか人情だとか、いったい何と言えば正しいのかはわからないが、それでも確実にわかっていることがある。千尋が堺町の立場だったとして、何の断りもなく留守にされたらきっとがっかりするだろう。与えられた部屋にいて、顔を合わせて、外泊の荷物をまとめてから出ていくのにまるで無視をされてなお、今までと全く変わらない人づきあいが出来る、というのなら、そいつにはきっと千尋とは全く違う感性が備わっている。千尋はそんなやつとは仲良く出来ないし、これ以上そいつのことは信じられないだろう。
 そのことを「がっかりする」という言葉で伝える。徳久にはそれで何かが届いたらしい。「あー」と思案顔をしていた。

「で? どうしたらいい。俺たちが荷物まとめて戻ってくるまでお前ら待っててくれんの?」
「幸村たちは荷物持ってる? 一旦帰るわけ?」

 一人、思案の世界に入った徳久を放置して現実問題と向き合う。千尋と千代の問いに、幸村が答える。

「俺たちも荷物を取りに帰るよ。俺と蓮二は家の方向が違うし、かかる時間も違うから真田の家に直接、でいいだろ? 真田」
「うむ。お前たちがその方がいいというのなら俺は構わん」
「では弦一郎、キワたちを連れて先に自宅へ向かってくれ」

 立海大学附属中学の校地はもうしばらくすると閉鎖される。幸村と柳が帰り、真田が校門で一人待っている、という図を頭の中に思い描いて、その虚しさに辟易した千尋は言った。

「じゃあ真田、お前も一緒に来いよ。特待寮、見たことないだろ」
「いいのか?」

 千尋の提案に真田が一瞬、躊躇う。
 千尋は彼の迷いを吹き飛ばすように笑う。千尋の隣で千代が真面目な顔で返答したのを聞いて、千尋は耳を疑った。

キワは自分が嫌なことを自分から言い出すほどトリ頭じゃない」
「いや、ダイ。お前、それ、普段は俺のことトリ頭だと思ってるって言ってるから」
「被害妄想? キワ、お前、そんなだから戦ってもない真田に負けるんだろ?」
「いやいやいや、直接戦って負けたお前に言われたくねーよ」

 どちらにしても、レギュラー選抜戦の順位は真田に劣る。劣るもの同士傷の舐め合いをしても意味がないとは千尋も思っているが、だからと言ってすすんで傷口に塩を塗りこむ必要はどこにあるだろう。
 それでも、千代の声色はいつも通り、淡々としていて千尋は千代は千代なりに真田のことを称賛して、負けたものとしては鼓舞しあっているのだということを察した。
 察したから、バランスを取ろうとする。特待生三人の中で、いわゆるツッコミが千尋の役割だと、何とはなしに決まっていた。

「とまぁ、こういう自意識過剰なキワが特待寮の自慢したいみたいだから、真田、来たらいい」
「ダイ、お前人の話聞けよ! っていうか真田も雰囲気で何となく頷いてんじゃねーよ」
キワ、絶好調らー」
「あー! もー! 好きにしろよ! 自意識過剰で被害妄想入っててマジですみませんね!」

 自暴自棄を装って声音を荒げる。千代と徳久がそれを取り合わない体で流す。
 幸村はその一連の即興を楽しみ、柳は「いい連携だ」と新たなデータを記録し、そして馬鹿真面目な真田が一人困惑を顔に浮かべている。

「真田、お前いいやつだな」

 不意にそんな言葉が口から漏れた。現状に困惑している真田の隣で幸村が不敵に笑う。

「あれ? 常磐津、そんなこと今更気付いたんだ?」
「前から知ってたけど、俺の常識的ツッコミを真剣に受け取ってくれるやつがこいつ以外にいないのを目の当たりにすると流石に感動しかけた」
キワ、それまだ感動してない」
「ダイ、お前もう黙ってろ」
「はいはい」

 まぁそいうことだから。
 言って千尋は仕切り直し、真田と対峙した。真田は落ち着き払った千尋の態度の落差に驚いているようだったが、それもしばらくすると無理やりなのか納得した顔に戻る。

「本当にいいのだな?」
「トリ頭の妄言でいいなら何度でも言う。来いよ、真田」
「うむ、では行こう」
「やったー! 外泊らー! 外泊っ!」

 じゃあ俺たちはもう行くから。言って幸村と柳が薄暗闇の向こうに消える。
 一人取り残された真田はどこか居心地が悪そうで、それでいてどっしりと構えているような不思議な態度だった。その真田を引き連れて、千尋たちは特待寮に向かう。
 そして、千尋は彼の思う義理を通し、必要な荷物を持って外泊申請を書いた。それに前後して千代と徳久も準備を終える。
 生まれて初めて友人の家に泊まる、というイベントに遭遇した千尋には、新しい体験がもう目の前に迫っていた。