5th. 平静と羨望の間
信頼を失うには一瞬あれば十分だ。一旦失われれば、回復する為には何倍もの努力を必要とするものなのだから大切にしろ。
常磐津千尋は、そのことを両親から繰り返し何度も聞かされてきた。
その教育の甲斐あってか、
千尋は不義理を嫌う傾向にあった。それでも、まだ
千尋は十二の子どもで、両親の言葉の本当の意味はわかっていないし、そんな理知に富んだ言動を貫き通せるだけの自己は確立されていない。
夕暮れどきに真田弦一郎の案内で辿り着いた彼の家を見た
千尋はとてつもない劣等感に襲われ、そして同時に納得して無意識的に唇を噛み締めた。
真田の家は「家」などという表現では生ぬるい。彼の家がある地区に踏み入った瞬間から、
千尋はある種の場違い感を覚えていたが、その中でも一際荘厳な佇まいの家が真田の生家だと告げられた瞬間、
千尋の中で驚きと同じぐらいどす黒い感情が生まれた。
千尋の隣で千代由紀人(せんだい・ゆきと)が同じように苦虫を噛み潰した顔で呟く。「武家屋敷かよ」という何とも言えない複雑な感情の乗った声は
千尋にしか聞こえていなかったらしい。それを運が良かったと思うぐらいには
千尋にも分別がある。千代の方が
千尋よりも語彙力に富んでいるから、なるほど、と感心して終わらせてしまうことも出来た。
それでも。
千尋は隣を歩く千代に目配せをした。
今いる四人――あるいは幸村精市と柳蓮二の二人を含んだ六人の中で、典型的な中流家庭に育ったのは
千尋と千代だけだ。
千尋たちは、硬式テニスという経済的余裕の必要なスポーツで成功する、という夢を繋ぐ為の金策として特待生でいることを選んだ。もう一人の特待生――徳久脩(とくさ・しゅう)は上流家庭の出身で、別段特待制度を利用しなくても立海に進学することが出来ただろう。特待生でいるのは徳久の上昇志向の表れで、彼の地元である東海地方にいるよりはもっと強い相手と切磋琢磨したいという願望を反映している。
だから、徳久は千代の言う「武家屋敷」を見ても何の感慨もない。徳久自身の実家も相当に裕福なのだから、別に「武家屋敷」程度で騒ぐ必要もない、ということだ。
大人たちが時々口にする「格差社会」というやつだ。直感的にそう察する。察したから
千尋は千代に目配せをした。千代の方も同じことを思っていたのだろう。視線の先で彼は何かにじっと耐えて、そして瞼を閉じた。
この世界に生きる誰も、生まれる場所を選ぶことは出来ない。中流家庭に生まれた
千尋たちも、上流家庭に生まれた真田たちも誰一人、その生まれを望んで手に入れたわけではない。わかっている。世の中なんてそんなものだ。不公平だとか、羨ましいだとか、ずるいだとか、そんなことは言い出せばきりがない。不公平でない世界などどこにもない。そんな幻想を抱いたままテニスに取り組んでも、誰にも勝てない。負けた理由を先に選んでいる時点で、負けることが決まっている。わかっている。
わかっているのに、
千尋の胸の内は濁る。友人の家に泊まるという、憧れのシチュエーションがこんな昏い気持ちを伴うのだと知っていたら、きっと
千尋は外泊許可を取ったりはしなかっただろう。それを今更悔いても遅い。わかっている。わかっているから、
千尋は試合に臨むときと同じように凪いだ表情を保つ。柳の言葉が不意に
千尋の脳裏に蘇った。コートの外では
千尋のポーカーフェイスは役に立たない。
それでも。
今ここで真田を侮蔑するのは簡単だ。恵まれた環境を嫉妬して、罵倒して、何の自慢かと彼を批難して踵を返せばいい。多分、
千尋がそうすれば千代も同じ泥船に乗ってくれる。わかっている。恵まれたものに恵まれないものの気持ちはわからない。住んでいる世界が違う。育ってきた環境が違う。
そんなことを言い訳にして、せっかく形になりそうな真田たちとの信頼関係を一方的に破棄して何が残るだろう。多分、誰一人として何の利益も得ない。
だから。
「ダイ」
「わかってる。
キワもわかってるだろ」
「おう、まぁ、一応」
具体的な単語は一つも出さない。それでも、十分に意思は通じた。
千代も同じように複雑な感情を持て余している。納得は出来ないし、こんな家に生まれていたら人生が違っていたのだろうかとも思う。ただ、それを今、言葉にするにはまだ
千尋たちと真田の距離は遠い。いつか。いつかまた、未来のどこかで冗談まで昇華出来たら、そのときに
千尋たちの愚痴を聞いてもらえばいい。
後ろを振り返らない真田と徳久の背中を見ながら、
千尋は隣の千代へ小さく拳を向けた。こつり、音もしないような柔らかさで、千代の拳が触れる。
多分、それが最後の合図だった。
胸の内の黒い感情に蓋をして、無理やりにどこかへ押しやる。そして、少し遠くなった真田たちの背中に追いついて、追い越して「武家屋敷」の門を目指して駆け出す。荷物の入った鞄はラケットバッグとは違う重さを持っていたが、取り沙汰すほどでもない。
「真田、早く! 早く!」
「真田、早く案内してやらないと
キワが暴走する」
「ダイ、どう見てももう暴走してるらー」
「う、うむ。
常磐津、少し落ち着け!」
徳久ののんびりとした指摘に、真田が困惑を示す。
千尋はそれに大らかに笑うことで応え、千代は「真田、少しぐらい、いいんじゃないか」と返す。
「千代、お前はどっちなのだ」
「何がだ」
「
常磐津が暴走して困るのか、困らないのか、だ」
「ああ、うん。俺も若干暴走してるし」
だって友だちの家に泊まるだなんて、実際、俺も初めてなんだ。
さらりと千代が返す。そこには武家屋敷を詰った彼の昏さはない。開かない門の前で二人、顔を見合わせて軽く笑う。大丈夫だ。まだ笑える。笑えるのだから、この感情は嘘ではない筈だ。そんなことを考えていると真田たちとは別の方向から声が聞こえる。
「奇遇だな、俺も友だちの家に泊まるのは初めてだよ」
「そして明日は日曜で部活が休みだから、と羽目を外すつもり、だろう? 精市」
「友だちの家に泊まるときまで自主練の道具を持ってきてるやつよりましだと思うけど?」
皮肉っぽく幸村が笑う。そうだろ、
常磐津。言われて
千尋は苦笑を返した。
「しっかりラケットバッグ背負ってるやつには言われたくねーよ」
「これかい? 習慣で『つい』持ってきただけさ。そっちこそどうなんだい」
「俺たちも『つい』持ってきただけだっつーの」
幸村の背中で存在感を持っている大きな鞄の中身など問うまでもない。学校に行くときと同じように「つい」持ってきてしまったのだ、という苦しい言い訳をオウム返しで放れば、幸村の後ろの柳の眉が面白いと言わんばかりに動いた。
「自主練用のジャージを鞄に入れているお前たちにその言い訳は苦しいと思うが?」
「仕方ないだろ、毎日の習慣なんだから続けないと気持ちが悪い」
「休むのも練習だ。
常磐津、今日と明日ぐらいは自主練を控えてはどうだ」
幸村、柳に続いて、
千尋たちの道案内を務めていた真田からも苦言が飛ぶ。
千尋と千代はその声に顔を見合わせて、どちらからともなく肩を竦める。
「二日も? 冗談だろ? メニュー省くにしてもゼロとかありえねー」
「これだけ試合して、ストレッチもせずに寝る方がリスクあるだろ。シュウ、お前もそう思わないか」
「そうだらー。最低限、することはするに決まってるしょ」
真田の隣で、真田より長身の徳久が大らかに笑う。お前たち、本当にテニスのことしか考えてないんだね。呆れたような幸村の声にも誰も引け目を感じない。テニス特待生として、テニスを最優先させるのが当然の選択だ。だから、
千尋たちは誰の評価にも揺らがない。
三人揃って笑顔で応える。
「当然」
「それ以外取柄もないし」
「天は二物を与えず、だらー」
「三物ぐらいもらってるやつが一人いるけどな」
「嫌だな、
常磐津。そんなに褒めなくていいんだよ?」
お前、本当いい性格してるな。呆れた声から冗談の色に変わった幸村の雰囲気に乗る。多分、幸村は特別な存在だ。それでも、明日からは
千尋たちの戦いを見守る仲間の一人で、今更蹴落とすだけの正当な理由はない。そんな姑息な真似をしなくとも、
千尋たちの誰一人、幸村を上回る戦績を残すことが出来なかったのもまた事実だ。
現実を無視して、既に決まった結果に対して逃避して、そして残るつまらない自尊心になど興味はない。
千尋はもっと上を目指してここにいる。幸村一人も越えられないで一体どんな成功譚が期待出来るだろうか。もしかしたら、最初で最後の壁なのかもしれない。それならそれで、壁を越えた瞬間の達成感は言葉では決して表せないだろう。
目指す目標がこれほど明確なのは多分幸福だ。
絶対に越える。だから、今は一時停戦で晩餐を共にするのも決して吝かではない。
「で? いつまでここで待てばいいんだよ。真田家じゃ門の前が応接なのか?」
「夕食のあとで、お前たちがランニングに出ん、と約束出来るならすぐにでも開けてやろう」
「言ったな? 条件はそれでいいんだな? 後悔するなよ?」
「後悔はせんが、
常磐津、何かよからぬことを考えているな」
「いいから。条件はそれでいいんだな? 後出しなしだろ?」
「好きにしろ。条件はそれで構わん」
言質は取った。男に二言がない真田が口約束の条件を固定した。
そのことを確かめて、
千尋と千代は悪戯気に笑う。徳久が隣にいる真田の肩を叩いて闊達に宣言する。
「真田、明日の五時までにランニングコース決めるらー。あと、風呂の前に筋トレするだに」
「徳久、俺は休息も練習だと――」
「真田、男に二言はないらー。食後のランニングは諦める約束しょ? それ以外は構わんて自分で言ったしょ? 今更お小言は言わん約束だらー」
柔らかく、それでいて決して折れることなく徳久が特待生の日課を告げる。真田は反論を口にしようとしたが、それも全て徳久の柔らかさで封殺される。別段、徳久が弁舌に長けることはない。それでも、徳久は一度自分が決めたことは絶対に譲らない。多分、方向性は違うが、真田と同じ種類の人間だ。
千尋と千代はそのことを何となく察していた。
真田が勝算をもって交渉に出た時点で、徳久の答えは決まっていた。二十三日間、寝食を共にした。その、経験が告げる。剛直で一本気の真田。柔軟で愛嬌のある徳久。この二人はきっと馬が合うだろう。お互いを理解し合えば、もっと高みへ行ける。多分、柳と幸村もそのことに気付いている。そうでなければ、昼休みの勧誘に際して徳久に真田をぶつけることはしなかっただろう。
「だが」
徳久が、なおも言い募ろうとする真田を宥めるように肩を叩く。ぽんぽん、と小気味のいい音が聞こえて柳が破顔した。
「弦一郎、お前の負けだ。特待生の自主練に付き合うのもいい経験だ、ということで納得したらどうだ」
「真田、俺もお前が考えてくれるランニングコースには興味があるな」
「蓮二、幸村、お前たちまで何を言うのだ」
「だって、真田、お前が今、
常磐津と約束したんじゃないか。忘れたわけじゃないだろ? それとも、今更条件を増やしたいのかい?」
それはちっとも男らしくない。幸村の援護射撃を受けて、
千尋は少しだけ彼に対する印象を上書きした。幸村は味方にすると心強い。そして、一時的な感情ではなく、筋の通った道理の方を尊重出来る。だから、全面的に誰かの味方になるということはないのだ。
好敵手として、これほどまでに理想的な相手はいないだろう。
千尋の中で、いつか幸村に勝利する未来、の価値が高まる。
「真田、俺はお前と約束したよな。約束したんだから、さっさと中に入れろよ。それとも、俺たちは特待寮に帰った方がいいのか?」
「お前たちは揃いも揃って屁理屈ばかりだな。だが、俺が約束をしたのもまた事実だ。男に二言はない。筋トレとランニングの件、承知した。それ以外でお前たちの希望があるのなら今、聞いておこう。どうせ何かあるのだろう?」
連戦の疲れではなく、精神的な疲れから真田が折れる。柔よく剛を制す、だね。幸村が心底嬉しそうにそう言うのを聞いて、
千尋たち特待生の声が綺麗に重なる。
「それ!」
「そう、それ」
「だらー」
「勉強の仕方、教えてくれるんだろ? トリ頭の俺でも大丈夫なやつ」
「俺は
キワほどじゃないけど、やっぱり勉強は苦手なんだ」
千尋たちが三日前に受け入れた提案だ。レギュラー選抜戦が始まって、味方からライバルに変わり一時的に棚上げしていた話題がやっと実効性を持つ。その兆しに
千尋たちは一様に歓喜した。
三人寄れば文殊の知恵、だとかいう言葉があるが、勉学を放棄しそれぞれのスポーツに全てをかけてきた特待生の集まる寮では、どれだけ頭数が揃っても勉強の効率が上がらない。最低限の成績、と提示された水準は特待生たちにとって決して容易くはなく、どうして文武両道を掲げている学校を選んでしまったのか、と心底後悔しているものも少なくはなかった。
希望の眼差しで
千尋たちは幸村を見る。
「いいけど、俺からも一つ条件、いいかい?」
不敵に笑った幸村に
千尋たちはよくない予感を覚えながらめいめい頷いた。
幸村はいっそう大胆に微笑んで言う。
「風呂前の筋トレをやめて、勉強の時間にするなら今日から教えてあげてもいいよ」
ねぇ、真田。そう思うだろ。
勝利を確信した笑みで幸村が真田の味方をする。幸村に対する心象を更に上書きしながら、
千尋は自身で下した判断が間違っていなかったことを知る。幸村が全面的に誰かの味方になることはないのだ。
「やっぱりお前、そっち側かよ!」
「幸村に期待した自分の横面殴ってやりたい」
「連携プレーは卑怯だらー」
お前たちの方がよほど連携が取れている。言って柳が穏やかに笑った。それを受けて、真田も気勢を取り戻したのか「約束は守ってもらおう」と言いながら門の前に立つ。そして、手慣れた動作で門を開けた。磨かれ抜いた天然石が玄関に向けて美しく敷かれている。その両側には手入れのされた生け垣があり、
千尋は本当にここが平成の街なのか、一瞬感覚を疑った。その、石畳の上を真田は躊躇いもなく歩く。幸村と柳が慣れた所作でその背に続いて、徳久もすいすいと中へ入っていく。中流出身の二人は苦笑いで顔を見合わせて、そして結局は武家屋敷に入る決意を固めた。
「真田、門、開けっ放しでいいのか」
「構わん。後で俺が閉める」
「その間に誰か入ってきたらどうすんだよ」
「この辺りにそのような真似をするものはおらん」
江戸中期から続く街並みで、住人もそれほど入れ替わってはいない。誰がどの家の住人でどんな経歴を持つのか。概ねその情報が共有されているから、よそものが入り込めばすぐにわかるし、相互監視下にあるようなものだから、防犯意識は高い。
そんなものか、と
千尋は思う。そんな高尚な場所に
千尋が入り込む余地があるのか、と思ったが招かれたのに、一人自虐的に疎外感を覚えるのは虚しいことこのうえない。招かれたのだ。
千尋は真田に望まれてここにいる。何度も繰り返しその理屈を反芻して、自分を納得させる。
そうするうちに石畳が終わって玄関が待っていた。
敷居を跨いで中に入る。
千尋の実家の玄関にはない、広がりに目を見開いた。正面に大きな衝立。その前に生けられた花と、荘厳な雰囲気をもって並ぶ骨董品。小学校の社会科見学で訪れた古民家を思わせるそれらの空気に圧倒されたが、そろそろ正常な感覚というやつが麻痺し始めていた。
これは小旅行だ。非日常への逃避だ。
千尋の眼前にある非常識が真田の常識で、普通だというのならもう
千尋自身の感性で受け止めるのは不可能だ。
だから。
「ダイ、俺、なんか色々どうでもよくなってきたわ」
「奇遇だな、
キワ。俺も今、そう言おうと思ってた」
溜め息を零す。そうして、
千尋の中にあったわだかまりが少しずつ薄れていくのを感じた。
千尋は真田にはなれない。真田の境遇をどれだけ羨んでも、妬んでも、
千尋は真田にはなれない。
千尋がなれるのは
常磐津千尋だけだ。
わかっていた。わかっていたのに
千尋はその現実と向き合うのを拒もうとしていた。
馬鹿なことをしている。気付いていたのに、感情を偽ってつまらない自尊心の為にもっと大切なものを棄てようとしていた。そのことに気付いた
千尋の心の中から暗い感情が少しずつ薄れようとしているのを感じる。
千尋の隣で千代が靴を脱いで玄関の簀子に上がった。
それを見ていた
千尋の中でくだらない遊び心が湧く。今の
千尋の心境なら、冗談に昇華出来る。気付いたから茶化すような口調で言った。
「真田! スリッパねーのかよ、スリッパ!」
「
キワ、スリッパ出てきたらまるで温泉旅館だらー」
「いいじゃねーか、温泉旅館。俺、ホテルより旅館の方が好きだし」
「
常磐津、俺の家は宿泊施設ではないが」
「お前、本当冗談通じねーのな。雰囲気味わうってあるだろ。それに」
「それに?」
「お前が言ったんだぜ? 休むときは休め。休むのに一般常識気にしてたらもったいねーよ」
今、
千尋が表現し得る最上の笑顔で応えると、真田は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに鉄面皮に戻る。そして、彼は「蓮二、幸村。お前たちの分も用意する。少し待っていろ」と言い残して玄関ホールの奥に消えた。一分後、真田は六人分のスリッパを持って再び現れ、板間に一人分ずつ並べる。真田自身の分もあることを指摘すると、真田は不敵に笑った。
「非日常を満喫するのなら、俺も客の気分になってみたいのだ」
それが、休む、ということだろう。
返された言葉に
千尋は笑みで応える。千代が黙って
千尋の背中を叩く。気負わなければならない相手と、心を許す相手の区別をしようと言っているのが何とはなしに伝わった。
夕方まで、ここにいる全員が
千尋の敵だった。
でも。
今は、県大会を共に戦うかけがえのない仲間だ。
だから。
不必要な劣等感は捨てよう。それは、いつかの未来で絶対に敵わない相手に出会ったときに抱けばいい。全戦全勝の幸村にすら、負けないと思った。必ず勝つ。その気持ちはまだ揺らいでいない。
揺らいでいないのなら、この場にいる五人。その全ては信頼に足る相手だと気付く。
千尋は心の中に作っていた溝にそっと橋を渡す。その上を歩いてくる相手がどれだけいるのかはまだわからない。わからないけれど、全てを拒む愚を犯したくはない。
だから。
「真田、一晩世話になる」
言って
千尋は真田が用意した客用スリッパに足を通した。
千尋の、生まれて初めての小旅行がようやく始まろうとしていた。