All in All

6th. All in All

 人にはそれぞれ得手不得手がある。
 そのことを常磐津千尋は言い訳にする為に、何となく理解していた。
 自分に勉強は向いていない、だとか、運動が得意だからそれさえ出来ればいい、だとかそんな風にしか思ったことがない。全部に同じように打ち込め、というのは単なる理想だ。そうあることが出来るやつは勝手にそうすればいい。千尋には出来ない。だからしない。学校の勉強が一体何の役に立つのだ。日本の歴史を知らなくても、平成の現代を生きるのに何ら困りはしない。物理法則がどうなっていようと、千尋のラケットはスイートスポットでボールを返すし、気圧配置図が読めなくても明日の天気は明日になればわかる。
 それの何が悪いというのだろう。
 文法がおかしくても日本語は通じる。円周率が何十万桁あろうと、ボールが球形をしているのは決して変わらない。
 ほら、見ろ。学校の勉強なんて現実世界とは何も関係がないのだ。
 そんな屁理屈を重ねて十二年が経った。
 文武両道を掲げた立海大学附属中学の特待寮で暮らす仲間たちは概ね千尋側の意見の持ち主で、上級生の先輩たちから「そう言ってられるのは一年の間だけ」と笑われても、十五人揃って厳しい冗談か何かだと思っていた。
 五月の実力考査で課されるボーダーを知るまでは。
 特待生に課される本来のボーダーは半分より前の順位だが、初めての考査になる新入生だけは三分の二で許されている。一学年九百人という超の付くマンモス校である立海で、三分の二より前の順位を取るというのは簡単なようで実は意外と難しい。三百人に勝ればいい、と考えるのか三百人も勝たなければならない、と考えるのかは個人の主観による。
 千尋は後者で、殆ど絶望に近い感想を抱いた。小学校の通知表は万年、体育以外がオール一でテストで五十点以上を取ったことは一度もない。学習塾に通ったこともあるが、一か月もしないうちに塾講師の方から千尋がいると、他の塾生の学習意欲が下がる、という理由で辞めてほしい旨を伝えられた。
 そのぐらい、千尋は勉強が出来ない。
 中学に入ってからの授業も当然理解出来ないし、特待寮で行われる勉強会でも成果が上がったとはとても言えない。その状態で、五月の実力考査を戦う、というのは絶望以外の何ものでもない。
 途方に暮れる千尋に残された唯一の希望が柳蓮二だった。
 千尋でも勉強が出来る方法を教える。その言葉がどれだけ千尋を救ったのか、多分、柳は正確には知らないだろう。知られなくてもいい。知ってほしいとも思わない。
 ただ、一生分の借りを作ったと千尋は胸の内で一人思った。
 真田弦一郎の家に泊まることになったその日、真田の母親が作った懐石料理かと思うほどの立派な食事を終えると、幸村精市との約束通り勉強会が始まる。
 千尋には柳が、残りの特待生である千代由紀人(せんだい・ゆきと)には幸村が、徳久脩(とくさ・しゅう)には真田がそれぞれ講師として割り当てられた。最初の内は三人まとめて説明を受けていたのだが、千尋たちの誰一人、全く理解していないことを察した幸村が個別指導に切り替えた。入試トップの幸村は勿論、真田と柳の二人とも強いて言えば不得意な科目はないらしい。比較的戦力になりそうな科目から、重点的に説明を受ける。
 千代は英語、徳久は社会の解説を受けているのを横目に千尋は国語の教科書を開いた。開いたまではよかったが、読めない漢字の方が圧倒的に多い。音読をしろ、と言われたが最初の三行で既に五回以上つまづいた。その度に柳はフォローを入れてくれたが、何行か進むとまた同じ漢字が読めない。柳が教科書を閉じる。呆れられているのか、千尋の馬鹿さ加減は柳でも嫌になるほどだったのだろうか。不安が千尋を襲う。やっぱりお前には不可能だ。断言されるのが怖くて、読めもしない教科書を必死に握りしめる。

キワ
「何だよ」
「今日、俺との試合でお前がポイントを落とした場面のことは覚えているか?」

 その、何の脈絡もない問いの真意がわからず、一瞬だけ千尋は躊躇して、それでも柳が答えを待っているのだから、と口を開く。
 覚えている。一ゲーム目から十二ゲーム目まで、大体、どうやって自分がポイントを落としたのか。覚えていなくては反省が出来ない。どうして自分はポイントを落としたのか。何が足りなくて、何が劣っていたのか。次に戦うまでにその弱点を克服しないと、今日は勝てても次は負けるかもしれない。
 だから。

「覚えてる、けど」

 それと勉強の何が関係しているのだ。
 またテニスしか出来ない、と言われるのかと身構える。千尋の視界で、柳の細められた眦が更に柔らかく弧を描く。
 そして、柳は言った。

「では、お前にも記憶力や観察力、洞察力や思考力がきちんと備わっている、ということだ」

 お前はその能力の使い方を知らない。だから勉強が出来ない。ただそれだけのことだ。焦る必要はない。
 柳が何の躊躇いもなく口にしたその言葉に、千尋はこれ以上ないほど両目を見開いた。
 何を言われているのかがよくわからない。千尋の心の中は不安しかない。なのに柳は千尋の答えに希望を見出している。

「蓮二、お前」
「『何を言い出すんだ』とお前は言う。だから、俺はこう答えよう」

 試合の駆け引き、心理戦の末の勝利。それでもなお上を目指す為の反省。お前は人として必要な能力と心構えを持っている。

「勉強が出来ない、の何が悪い、とお前は逃げてきたのだろう。だが、キワ、よく考えてみろ。テニスのプレーでお前が苦手なものは何だ」
「お前だってわかってるだろ。速戦だよ」
「その根拠は何だ」
「根拠って、だから! そういうのはお前の方がわかってるだろ!」
「そうだな。だが、俺はお前の言葉で返答がほしい」

 柳が譲ってくれる気配はない。千尋が答えないと勉強の手ほどきは一生やってこない。
 そのことに気付いたから、千尋は自分の中に漠然と存在していた感覚を言葉にする。

「体力勝負に持ち込んだら相手のメンタルが弱くなる。そこで粘るのは俺にとっては苦手じゃない。だから、俺は長期戦が得意だ。けど、速攻で決められると、ああもうこのゲーム落とすか、って思う。だって、落としても次は俺のサービスゲームだ。ブレイクさせるわけないし、絶対に勝てる場面まで体力を残す方が有利だ」

 その計算の末に、千尋は今日、柳との試合で五ゲーム落とした。多すぎる。わかっている。もっと粘れば、落としたゲームの差で千尋も上位七名になれたかもしれない。それでも、千尋は敗色濃厚なゲームを戦う無力感に勝てなかった。
 柳に焦りを見通されていたのかどうかはわからない。それでも、千尋は自分のメンタルの甘さを痛感している。勝てる試合でしか頑張れないなら、千尋は一生、レギュラーなど無理だろう。
 そんなことを思いながら答えると柳は深く頷いた。

「なるほど。お前は自分でそう思っているのか」
「で? これが何の関係があるんだよ」
キワ、お前は全部のことがばらばらに成り立っている、と思っているな?」
「どういう意味だ」
「テニスはテニス。勉強は勉強。人づきあいは人づきあい。全部が点々と存在している、と思っているだろう」
「だったらどうした」
キワ、覚えておくといい。お前を取り巻くものは全てお前を中心に線でつながっている」

 だから、お前の得意とする勉強方法、というのも必ずどこかにある。
 その言葉が千尋の横面を殴る。
 柳はこの話をする為に、教科書を閉じた。万人に向けられた一般的回答ではなく、千尋の為の答えを模索している。
 千尋の世界の中心にいるのは千尋だ。そのことは千尋も知っている。千尋の世界でだけ千尋が主人公で、それ以外の世界では千尋も他の誰かもみんなただの登場人物だ。
 その、千尋の世界の中に色々な要素があることは千尋も知っていた。
 それでも、要素は要素で決してつながることはなかった。別々に点在している。柳はその要素の全てにつながりがあると言った。
 つまり。

「勉強を頑張ったら、テニスを頑張ってるのと同じだってお前は言いたいのかよ」
「広く言えばそういうことになる」
「俺、お前みたくデータテニスとかには興味ねーんだけど」
「だが、お前は長期戦。つまりは心理戦に持ち込みたいのだろう? ならば、お前に『理解出来る』心理が増える方が有利だと思わないか?」
「何となくわかってきた。お前、俺に『理解出来る』心理が勉強の中にあるって言いたいわけ?」
「国語というのは文字の勉強でもあるが、その実、他者の心理を読み解く教科だ。筆者の心理、編集者の心理、出題者の心理。それらが見通せるようになるのは、決して無駄な練習ではない、と俺は思っている」

 柳の主張が正論だということは、トリ頭の千尋でも何となく理解出来る。要は勉強を通して理解力と推察力を鍛えろ、と言われているのだ。その根底を支える為の記憶力は十分にある。人は興味のないものを記憶することは難しいが、興味があればどれほど難解でも受け入れられることもある。

キワ、お前からすれば意外かもしれないが、俺は十二ゲームで落としたポイントの全ては記憶していない。断片的な情報をパターン化して処理しているだけで、お前のようにイメージそのままを記憶することはまず不可能だ」
「いや、でも、お前その分析とかいうやつ得意だろ」
「思考の瞬発力と計算力はお前より俺の方が上だ、ということだ。俺には、お前や精市のように『感覚』でプレーする才能はない。それでも勝ちたいと思った。その結果、俺はデータ――つまりは数字と戦うことを選んだ」

 数字は嘘をつかない。偽りもないし、何より客観的だ。だから柳はデータテニスで戦っている。そんなことをつらつらと語る柳を見ていると、千尋は自分と柳との間にあるものがただの才能の差ではないことを思い知る。柳は、千尋が思うよりずっと深く色々なことを考えている。上面だけで、その場の気分次第で頑張ることと諦めることを決めてきた千尋にはないものを持っているが、決してそれを驕るつもりはない。
 人としてのあり方が違う。
 そのことをはっきりと見せつけられて、千尋は柳が望んでいるのとは反対に無力感を覚えた。誰しもが等しく努力をすることは出来ない。努力が出来るというのも才能の一つだからだ。千尋は柳にはなれない。自分の欠点と正面から向き合って、その苦しみから目を逸らさずに戦い続けるだけの強さがない。
 それでも。
 それでも、千尋は気付いてしまった。
 目の前にいるこの努力の天才は、千尋に自分と同じであることは求めていない。
 千尋の歩く速度を知り、立っている地面がどのぐらいの高さで、どんな道を歩いているかを知ることから手助けをするつもりだ。
 千尋は人として圧倒的に柳より劣っている。
 そのことを指摘する為だとか、優越感に浸る為だとか、ありがたい説教を上から目線で聞かせる為だとか。そんな理由の為に柳が千尋に声をかけたのだとしたら、それは永遠に柳と別離するだけの理由になりうる。
 それでも、千尋は気付いてしまった。
 柳は自らが驕る為に誰かと言葉を交わすようなやつではない。彼は、本当に、千尋の手助けをしたいと思っている。勿論、見返りは求めている。見返りも求めずに奉仕をしたいというのなら、それもまた千尋とは永遠に別離する必要がある。千尋は下僕や舎弟のような無抵抗の存在を求めてはいない。
 だから。
 溜息を吐く。この親切で合理的な隣人が何を求めて、千尋に声をかけてきたのか。柳の言葉をどのぐらい信じればいいのか。答えは見えているようで見えない。
 見えないが、無力感を無理やりに押さえつける。そうして、千尋が今、すべきことを考えるともう一つ溜息が零れた。

「蓮二、お前、いつもそんな小難しいこと考えてるのかよ」
「癖のようなものだ。俺は自分の性格上、利する理由がなくては納得出来ない。納得が出来なくては俺は行動に移せない。感情の一つひとつ、小さな起爆剤で邁進出来るお前にはわからないかもしれないが、意外と俺は俺の性格が厄介だと思っている」
「そうかよ」
「そうだとも。だから、俺はお前のように心底テニスが好きで、好きという感情一つで上を目指せるお前が何より羨ましい」

 人は自分に欠けているものを持っている相手に惹かれる。
 そんなことを柳が切なげに細めた眦で言う。
 千尋は驚きもあったが、柳の言わんとしていることが何となくわかったような気がした。

キワ、俺とお前とは正反対の存在だ。俺はお前のようにはなれない。お前も俺にはなれない。その大前提の上で話そう。俺もお前も、もっと高い場所を目指せる。だから、俺はお前がたかが学力考査で弾かれるのは納得が出来ない。ただ、これは俺の勝手な願望だ。お前が本当に迷惑だと思っているのなら、俺はこれ以上、お前に無理を強いるつもりはない」

 キワ、どうする。
 いつも閉じている柳の双眸がゆっくりと開いた。その奥にある強い輝きに千尋は息を呑む。そして、口の中に広がった苦い感情をも飲み込んで、千尋はゆっくりと瞼を閉じた。

「蓮二、本当に俺にも勉強は出来るんだな?」
「お前が頭ごなしに無理だと思いこまない限りは、理論上可能だ」
「だったら、ごちゃごちゃ言うのはもうやめだ。お前が思う、俺にも理解出来る勉強、を教えてくれ」

 楽がしたい。苦しい思いをしないで結果だけがほしい。テニスではそんなこと一度も思ったことがないのに、勉強ではいつもそう思っていた。千尋に出来る勉強なんて一つもないと思っていた。
 その前提が、千尋の思い込みなのだとしたら、いつか越えなくてはいけない壁なのだとしたら、手を差し伸べられている間に前に進むしかない。誰も助けてくれなくなってから焦っても遅い。そのぐらいのことはトリ頭の千尋でもわかる。
 だから。

「蓮二、俺は何をしたらいいんだ」
キワ、お前は小学校の六年間、勉強を放棄してきた。そのお前が、いきなり中学の勉強を理解出来る筈がないのはわかるだろう?」

 テニスで例えるのなら、小学校で何の経験もなく中学で初めて部活に入った、ラケットもシューズも持たない新入生と同じ条件だ。柳のその説明が千尋の胸を抉る。勉強に関してはど素人。そう言われると、中学の授業が全く理解出来ない理由が千尋にもわかった。

「特待生のお前には馴染みが薄いだろうが、お前たち十五人の他は全員、入試を受けている。その選別に残ったものだけが入学した。小学校の勉強がまともに理解出来ていないのはお前たち十五人だけだといっても言い過ぎではない」
「えっ、何だよそのいきなりのドベ感」
「ドベとはまた癖のある方言だな。そういえばお前の出身地は――」
「言わなくていい。俺はシュウみたいに方言全開で生きられるほど強くないから必死で標準語喋ってんだよ。無駄にするな」
「なるほど、覚えておこう」

 それでも、お前はお前の故郷をそれほど卑下する必要はどこにもないと思うがな。
 続けられた言葉の優しさに、千尋は一瞬同意しそうになった。故郷を卑下しているつもりはない。故郷を疎んでいるわけでもない。ただ、自分なりにけじめを付けたかった。関東にいる以上、関東の流儀を受け入れる。イントネーションが間違っているときもある。それでも、関東で戦うのだと決めた以上、使い慣れた方言と別離するのは最低限の礼儀のような気がしていた。

キワ、多分、お前はお前が思っている以上に誠実だ。そのお前にだから言う。明日から毎日、この漢字練習帳を四ページ以上、必ず埋めると約束出来るな?」
「四ページ? 毎日? 毎日だって?」
「別段五ページになっても六ページになっても俺は構わない」
「いやいやいや、俺にでも出来る勉強を教えろっつったけど、いや、時間さえあれば出来ると思うけど、地味すぎるだろ。よくわかんねーけど、腱鞘炎とかいうやつになったらどうしてくれんだよ」
キワ、お前は六年分の勉強を一朝一夕で終えるだけの知性を持っているのか? 持っていないだろう。持っていたら今頃、俺に勉強の仕方など問う筈がない」

 それに。と柳が続ける。

「流石のお前でも、漫画は読むだろう? わかりやすいものを用意する。まずは文章に慣れる練習から始めるのが一番効率的だと――」
「蓮二、ストップ。ストップ。その前提がまず無理」
「何がだ」
「蓮二、俺、漫画読まねー」

 断腸の思いで告白する。千尋は漫画を読まない。特待寮では持ち回りで週刊少年誌を買う習慣があるが、千尋は読む気もないので一切関わっていない。だから、千尋は漫画も読まないし多分読み方もわからない。
 そう、告げると柳が苦虫を噛み潰したような顔をした。
 そして、何らかの決意を双眸に灯して、柳は言う。

キワ、絵本と漫画、どちらかを選ぶといい。お前でも読めるものを俺たちが調達する。幸い、俺たち三人は本の虫でな。お前に貸す本ぐらい山のように持っている」
「蓮二、俺はガキじゃないんだけど?」
「お前の言う、ガキでも漫画ぐらいは読める。お前はそれ以下だという自覚を持つことだな」

 千尋の今まではテニスばかりだった。テニスに注いできた時間の長さには自信がある。だが、それは同時にテニス以外のことには手を抜いてきたということだ。義務教育課程で知るべき文字が読めない。娯楽である漫画ですら倦厭する。柳が呆れるのも道理だ。
 それでも。
 呆れられても、子ども扱いでも、それ以下の待遇でも、千尋が立海でテニスを続ける為には試験の成績を上げるしかない。自分自身で言った「圧倒的ドベ感」は多分、気のせいではないだろう。わかっているなら努力をするしかない。
 たとえ、それが小学校低学年の勉強だとしても、逃げ続ける理由にはならない。

「蓮二、約束と違うぞ、これ」
「お前は俺の想定以下だったのだから仕方ないだろう」

 歯に衣着せぬどころか、あっさりと一刀両断される。
 トリ頭の千尋でも理解出来る説明、を求めた筈だと文句を言うことも出来たが、それは千尋の立場をますます悪化させるだけだということぐらいはわかる。自制心で自重する。
 でも、とか、けど、とか、だって、とか言いたいことは山のようにある。
 それでも、実力考査は待ってくれないし、学校はボーダーを下げてくれない。
 千尋は自分の中にある不安や不満を一旦、胸の奥にしまうことに決めた。
 そして、未来を見る。
 今やるべきことが何かぐらい、察するだけの能力はあると示したかったのかもしれない。

「で? 漢字練習帳は何を書けばいいんだ」
「取り敢えず、明日は教科書の新出漢字を頭から十個ぐらいだな。多分、意味がわからないだろうから、月曜までには俺の方で優先的に覚えるべき漢字をピックアップしておく」
「お前、そんなのまでわかるのかよ」
「わかる、と言えばお前は不思議そうな顔をするだろうな」
「別に、何かもうお前と俺とじゃ次元違いすぎるから、そこまでは驚かねーよ」
キワ、お前はテニスのことをどのぐらい好きなんだ?」

 唐突に矛先を変えた質問に、千尋は柳の真意がわからなかった。
 それでも、テニスの話題なら柳に劣ることもない。ゲームの勝敗がどうだとか、気にすることもあるが、基本的にはテニスが好きなやつに悪いやつはいないと思っている。
 柳は十二分にテニスが好きなやつに含まれる。
 だから、千尋はこの会話がどこに向かっているか、予想もつかなかったが応じることにした。

「お前、わかってるだろ? 俺はテニスが『大好き』なんだよ」
「その程度を示すとしたらどれぐらいになる」
「目安はねーのかよ」
「なるほど、それは確かに必要だな。では、質問を変えよう。お前は立海テニス部で特待生だ。誰よりも先んじた立場にいる。そのお前に、テニスを教えてほしい、と一年生の誰かが頼んで来たとしたらどうする」
「よくわかんねーけどさ、それ、俺の圧倒的ドベ感の話だろ」
「お前は、本当にテニスの話題になると鋭敏だな。いっそ清々しいぞ」

 柳がこれ以上ないほどの柔らかな笑みを浮かべる。
 馬鹿にされているのではない。柳は千尋のテニスへの情熱を受け入れた。彼と同じだけかそれ以上かはわからないが、千尋がテニスに対する思い入れを持っていることを純粋に喜んでいる。
 その、柳に答えを返すのは決して苦ではない。
 千尋はそうだな、と一拍悩んで、それでも結論を出す。

「圧倒的ドベ感があるのが誰かは知らねーけどさ、教えると思う」
「お前の練習時間が減るし、その相手に才能があれば追い越されるかもしれないぞ」
「関係ないね。基礎練習はどれだけやっても損にならないし、教えられるってことは俺がちゃんと理解してるってことだ。無駄じゃねーよ。それに」
「それに?」
「追い越されて、そこで終わるならそこまでなんだよ。追い越されたら、もう一度追い越せばいいんだ。それが苦痛なら、きっと俺はそんなにテニスが好きじゃなかったんだろうよ」
キワ、俺もお前の意見には同意する。ところで、お前の中のテニスの話を勉強に置き換えると、俺の心理が理解出来ると思うが、どうだ?」

 遠回りの柳の論理に千尋はただ舌を巻いた。柳は一体何歩先にいるのだろう。千尋には合理的な理屈などない。感情の好悪で生きている。そうと見抜いて、適切な比喩を見つけ出し、千尋自身の言葉で説明させる。そうすることで、千尋の中に理屈を植え付けた。そのうえで、柳は元の話に戻す。元の話とつながっていたと知ったとき、千尋は複雑な論理を飛び越えて理解の海の中にいた。
 頭のいいやつ、への尊敬と畏怖が同時に湧く。
 自分の言葉で説明させられた理屈は感情を伴って千尋の中に残っている。柳は勉強が好きなのだ。好きだから、やりもしないで毛嫌いして、出来ないと逃げ回っている千尋を見ていると歯がゆい思いをする。やってみればいい。出来ないかどうかは挑戦の後でも決められる。そのことを柳の言葉でどれほど説明しても、千尋には理解出来なかっただろう。適切な比喩。千尋の中にある感情。それらを利用して千尋自身に理解させる。
 そんなことぐらいは朝飯前に出来るのが秀才だ。
 柳は本当に勉強が好きで、千尋にも好きになってもらいたいと思っている。
 その、努力をしようとする相手に、どれだけ時間を割いても決して無駄だったとは思わない。基礎は応用につながる。応用は実践につながる。そして、実践は理解につながり、結果を残す。テニスも勉強も成り立ちは何も変わらない。誰かに手ほどきをするのは自分の成長につながっている。そう思えるから、千尋は圧倒的ドベにテニスを教えることを拒まなかったし、柳は圧倒的ドベの千尋に勉強を教えることを厭わない。
 ただ、それだけのことだ。世の中は千尋が思っているより、ずっとシンプルに出来ている。

「蓮二、お前さぁ、そんなことばっか考えてんの?」
「俺のデータは相手に勝つ為に収集しているが、その過程で互いの理解が深まるというのなら、それを拒む理由などない。キワ、お前も勝てば何でもいい、と思っているわけではないだろう」
「でも、俺はそこまで深く考えてねーよ。その場がよけりゃ何でもいい」
「と、お前は言うが、お前のプレーは雄弁に物語る。お前は綺麗な勝ち方に拘っているだろう」

 綺麗な勝ち方というのがどれを指すのかはわからない。ただ、千尋はラフプレーは嫌いだし、マナーに反してまで無理やり勝とうとは思わない。それが綺麗な勝ち方だというのならそうなのだろう。ただ、テニスというのは概ねそういう思想を持ったスポーツで、千尋は自分が特別な考え方を持っているとは思わない。
 お前は違うのか。反駁に柳の微苦笑が返る。

キワ、お前にとってテニスはきっと『All in all』なのだろうな」
「うん?」
「『殆ど全部』そう言った」
「ああ、うん。殆ど全部。うん、違いねーわ」
「それも決して悪くはないだろう。ただ、一般常識ぐらいは身に着けておくといい。いつか、それがお前を助けることもある」

 取り敢えずは次の科目にも取り掛かりたいところだが、それではお前の頭がパンクするだろう。言って柳は真田を呼ぶ。どうやら風呂の時間になるらしい。千代と徳久をちらと見ると、二人とも疲労困憊していた。自主練をしても、平然としていた二人しか知らない千尋は圧倒的ドベ仲間の彼らもやはり苦戦している、というのを目の当たりにしてなぜだか妙に安心した。
 真田が席を立ち、廊下の向こうに消える。
 温泉旅館を特集したテレビ番組でしか見たことのない檜風呂が真田家にはあり、二人ずつ入っても十分に余裕があると知るまで残り数分の出来ごとだった。