All in All

7th. 夜明け前

 眠れない夜なんてない。
 常磐津千尋は枕が変わっても、布団が変わっても、慣れない畳の匂いに包まれていても寝ると思えば眠れる。試合の前日でも、遠足の前日でも、修学旅行の初日でも関係がない。お前には緊張感が足りない、と小学校の頃の仲間たちからは随分とからかわれた。いつでも寝られるのに、どうして朝が弱いんだ、となじられるのが一番困る話題で、千尋自身不思議に思っていた。睡眠不足ではない。それでも朝はつらい。
 夢の時間はあっという間に終わり、千尋たち特待組のスマートフォンが起床のアラームを鳴らす。千代由紀人(せんだい・ゆきと)と徳久脩(とくさ・しゅう)のアラームが四時四十五分。鳴ると同時に二人は布団から起き出て座卓のある隣の和室へ消えた。三分後、四時四十八分に千尋のアラームが鳴る。スヌーズに切り替えたくて、千尋は枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばした。画面を見る。四時四十八分。今日は別に洗面所の使用権を争奪する必要はない。わかっていたが、千尋は眠い瞼をこすって、無理やりに起きる。隣の部屋に続く襖を開けると、着替えを終えた千代と徳久がいた。洗面用具を手に持っているところを見るに、洗顔はまだだ。ここは千尋たちの暮らす特待寮ではない。無許可で洗面所を借りるのには抵抗があるのだろう。「キワ、はよ」千代の定番の挨拶が聞こえて、千尋はもう一度瞼をこすりなおした。

キワ、柳と幸村がまだ寝てるからアラーム、ちゃんと解除しておけよ」
「いや、ロードワーク行くんだろ?」
「行くけど、案内役の真田はどこか行ってるし、俺たちは顔も洗えない」

 取り敢えず、ジャージにでも着替えるぐらいしか俺たちに出来ることは何もない、と千代が言った。その言葉の通り、千代と徳久は千尋と揃いのジャージを着ている。洗顔の目途も立たないのに着替えるのか、と思ったが、結局は千尋も鞄を開いてジャージを取り出した。

「ダイ、お前、英語わかるようになったか?」

 昨日は結局特待組が三人まとめて風呂に入って、裸の付き合いには抵抗のある真田弦一郎たちが一人ずつその後に続いた。男同士で裸になるのが気恥ずかしい、というのが千尋たちにはよくわからなかったが、体育の授業で水泳が始まるとどうするのだろう、とぼんやり筋から離れたことを考えて打ち消した。
 千尋たちとは生活習慣の違う三人が風呂に入っている間は自習の時間になり、自分の講師に質問も出来ずに必死に与えられた課題に向き合っていたから、お互いがどれだけ成果を上げたのかは知らない。
 一晩寝て、まだ薄暗い部屋の中、ふと確かめたくなって問う。
 千代が肩を竦めた。

「多分、キワと一緒。単語覚えないと話にならない、ってさ」
「シュウは?」

 確か社会科を教えてもらっていた筈だ。
 年号を覚えないと話にならない、という同じ筋の話が返って来るのを期待したが、徳久は自慢げに笑う。

「太平洋ベルト地帯は覚えたらー」
「うわ、お前、それ、覚えたっていうか地元ネタだろ」

 徳久は東海地方の出身だ。北九州、山陽、京阪神、東海、京葉。工業地帯が一列に並ぶ状態を示した単語が「太平洋ベルト地帯」だということは千尋も知っている。千尋の出身県はその中に含まれていないから、小学校の社会の授業で習ったとき、教室の中に不満が充満した。だから、千尋もその単語を知っている。親しみと妬みとは案外裏表の感情なのかもしれない。

キワもシュウも、何だったらうちに来ればいいらー。太平洋ベルト地帯、中々悪くないもんだに」

 徳久の何でもない一言には郷土愛が滲んでいた。地方訛りを隠すこともない。地元が嫌で離れたのでもない。多分、柳たちがこの会話を聞いていたらきっと難しい言葉で例えてくれるだろうが、今の千尋にはそれだけの教養がない。
 羨ましいなと思った。
 千尋の出身県は殆どの国民が隣県と位置や名前を混同している。どっちがどっちでも大差ない。そう思われている、と小学校の教員が悔しげに教えてくれたが、感情は理解していなかった。北関東出身で、こちらも隣県と位置や名前を混同されている千代とは、負け犬根性で何となくお互い親しみを覚えている。
 援護射撃を期待しながら田舎者と自虐的に笑う。
 千代は冷静な顔でその自虐を切って捨てた。

「へーへー、どうせ俺たちはクソ田舎者ですよ」
キワ、俺の県は新幹線通ってる」

 停車駅もある。だからお前とは違う。
 千代が得意げにそう言った。勿論、本気で言っているわけではない。ただの言葉遊びだ。わかっている。わかっているが、千尋の出身県に新幹線はない。将来的には敷設されるかもしれないが、その「将来」は千尋が存命の間なのか甚だ疑わしく、期待も出来ない。
 新幹線の利便性は、この春、神奈川に上って来るにあたり、実感した。
 千尋の最寄駅から、新幹線の乗車駅までにかかった時間と、そこから新横浜駅までにかかった時間は殆ど同じぐらいだ。都会は便利に出来ている。
 それでも、何となく反駁しないと負けのような気がして言い返した。

「ダイ、お前、ナチュラルに喧嘩売ってくるよな。新幹線がそんなに偉いか!」
「県庁所在地にコーヒーチェーンが出来てオツムハッピーな県民性よりは進んでるだろ」

 それは数年前の出来ごとだ。あまりにも平和すぎて全国ニュースになった。そのぐらい、千尋の出身県は現代の文化に対して後れを取っている。わかっている。それは千尋の所為ではないし、まして千代の責任である筈がない。
 大丈夫だ。千代の言葉を意訳すると多分褒められている。
 だから、千尋は悪口に乗った。
 
「オツムハッピーってお前、県民六十万人に対して喧嘩売ってんのかよ」
「事実だし、県の人口を万の位で四捨五入するやつは多分、自分でわかってるだろ」
「四捨五入しても六十万にしかならねー俺の気持ちを考えろ」

 千尋の出身県の人口は、県下全域で勝負しても、神奈川県の県庁所在地である横浜市一市の人口を遥かに下回る。厳密に言うと五十数万。見劣りがするのはわかっていたから、千尋は盛った。それを千代が指摘する。田舎だ。間違いなく田舎だ。

キワ、ダイちゃん。レベルの低い争いはやめるらー」

 太平洋ベルト地帯の徳久が間に入る。徳久はこのレベルの低い、田舎争いに参加する資格がない。する必要もない。なぜなら徳久は政令指定都市の出身で、新幹線の苦労も、コーヒーチェーンの苦労も、コンビニエンスストアの苦労もしたことがないからだ。
 そのことを千尋が指摘すると、千代が笑う。

「シュウ、お前んとこが一市で六十万越えてるの、俺が知らないとでも?」
キワ、その執念と意欲はもっと有効活用した方がいい」

 キワってさ、意外と数字強いよな。
 褒められた言葉が千尋の中で葛藤を生む。
 劣等感から覚えた数字が、強くても弱くても複雑な感情しか生まない。

「あーもー、俺だって好きで田舎に生まれたんじゃねーよ!」

 出来れば便利な都会に生まれたかった。
 そうすれば、そのうち必ずやってくる長期休暇の帰省の憂鬱さと戦う必要はなかったし、都会に対して劣等感を抱くこともない。
 羨ましい。もう一度口に出して言う。
 すると千代はすっと真顔になって、言った。

「いいじゃん、田舎」
「何が」
「田舎で、周りにレベルの高い相手なんていなくて、お互いがお互いを育てるとかなくて、それでもキワは全国大会に出るレベルだろ。俺はキワのやってきたことと、才能を信じるけど?」

 その言葉が、千尋の劣等感を少しだけ薄くした。
 わかっている。生まれ落ちる場所は誰も選べない。選べるのは生き方だけだ。
 上を目指すなら不遇を嘆いていても意味がない。
 だから、千尋が立海にいるという意味を評価し、その事実を誇るべきだ。
 わかっている。千代も徳久も競うべき相手で、同時に、一緒に戦う仲間だ。
 仲間がいる幸福を無視して、自らの不幸を嘆き続けるのはただの自己愛だ。
 千尋は千代の言葉を聞いて、悪口の矛先を収める。

「ダイ、お前、そういうことは喧嘩売る前に言えよな」
「だって、直接褒めたら調子乗るだろ、キワ
「俺だってたまには調子に乗りたいんだっつーの」

 そんな会話をしているうちに千尋も揃いのジャージ姿になり、鞄の中から洗面用具を取り出し終えた。暇つぶしの悪辣な冗談合戦が終わり、静寂が帰って来る。
 真田はどこにいるのだろう。
 不意に千尋がそれを口にして問うと、柳蓮二と幸村精市がまだ寝ている筈の隣の部屋でアラーム音が鳴った。千尋たちは反射的に自分のスマートフォンの画面を見る。五時十五分。早くロードワークに出たい、という気持ちが更に高まった。
 そんな千尋たちの心情を知らない二人が襖を開ける。

「お前たち、準備万端だな」
「こんなに早く起きるから授業中に眠くなるんじゃないのかい」

 お前たちがロードワークに行きたい、っていうから俺たちもアラームをセットしたけどこんな時間に起きることないだろ。幸村が欠伸をしながら言う。
 眠い、と二人は言うが千尋たちにとってこれは日常で、朝練がないだけまだ練習不足の部類に入る。
 だから。

「それとこれとは別問題だろ」
「柳、真田がいない」

 今目の前にある問題の方を指摘すると、柳と幸村は顔を見合わせて笑った。

「真田は特別だから」
「弦一郎は四時起きで、今は道場だ。間もなく戻ってくるだろう」

 俺たちにはとても真似が出来ない。
 そう言って曖昧に濁した二人を特待生たちは一様に笑う。

「幸村、お前でも無理とか言うんだな」
常磐津、お前は俺を何だと思ってるんだい? 俺にだってつらいことはあるに決まってるじゃないか」
「お前はそういうの、見せないやつだと思ってた」

 そういう抜け目のない性格で、万事完璧主義を貫いている。それが千尋の中の幸村で、千尋の目には映った写像はぶれることがなかった。なのに、五時十五分に起きるぐらいで弱音を吐いて、真田を別格に扱う。千尋が初めて見る幸村のマイナス面に新鮮さを覚えると同時に、どうしてだが親しさを感じた。
 そのことをはっきりと口にしていいのか、一瞬だけ躊躇って、少し柔らかな表現に留める。
 幸村が千尋の言葉を聞いて寝ぼけ眼のまま穏やかに微笑む。

「お前たちの前でまで俺は偶像でいなきゃいけないのかい?」

 問いの形をした確認に千尋は両目を軽く見開く。
 多分、幸村は今、物凄く大きなことを言った。その感覚がある。でも実感はない。ただ、千尋の目には幸村が穏やかさの後ろで緊張しているのが伝わる。この言葉を口にする為に幸村が使った勇気、という目には見えないものを推し量って、そしてようやく千尋も笑顔になった。
 仲間だと認められた。友人として彼の心の内側に入ることを許された。そのことがどれだけ大きなことなのかは馬鹿な千尋にははっきりとはわからない。
 それでも、感覚で生きている千尋には伝わった。
 一年生の中でも特待生である千尋たちを敬遠する部員は多い。小学校の全国大会二連覇を果たしている幸村もまた尊敬の念を向けられると同時にある程度の距離を置かれている。その線引きはあって当然だが、どこか居心地が悪いのもまた現実だ。
 千尋たちだって友人がほしくないわけがない。それでも、特待生であることは変わらないし、それが変わるときには千尋たちはこの場所にいる権利がない。だから、最初の十日で目に見えない何かを黙認することを受け入れた。幸村も同じような気持ちだったのだろう。それを察して、千尋は妙に納得した。
 テニスはコート上では一人きりで戦わなければならないスポーツだ。
 一人でいる重圧に負けるのなら、そこまでの選手だっただけの話。千尋はそう思っている。それでも、二十四時間を一人で過ごすことに耐えうる十二歳などいる筈がない。だから、千尋は千代たちと交流を持っている。
 幸村にとってのその相手は真田と柳だった。
 二人だけだった友人の枠に、千尋たち三人を加えようと思ったのがいつからだったのかはわからない。入学式の後で出会ったときからなのか、レギュラー選抜戦の途中からなのか、答えは幸村自身ですら知らないのかもしれない。
 少なくとも、柳は三日前にはその決断をした。
 その決断の結果が、今の外泊だ。寝食を共にしていいと思った。千尋たちもそれに乗った。
 だから、千尋は不必要に色んなことを考える必要はないのだ。

「幸村、お前、俺の苗字呼びにくいんだろ。千尋って呼んでもいいぞ」
「失礼なやつだな。お前の苗字ぐらい、普通に呼べるさ」
キワでもいいけど、お前、人と同じなんて嫌だろ。だから、お前だけ千尋でいい」
常磐津、俺の話を聞いてる? 俺は別にお前の苗字ぐらい呼べるって言ったんだけど」
「聞いてないのはお前の方だろ。意地張んなよ。別に苗字を呼ばないと死ぬわけでもないし、名前で呼べばいいじゃねーか」

 親族以外で常磐津という姓を聞いたことがない。千尋本人がそうなのに、地元を遠く離れた神奈川で生まれ育った幸村に常磐津という姓の知り合いがいるとも思えない。
 複雑な字面で、小学校低学年のときには両親を恨んだ。
 書道の授業では千尋だけが不必要に不格好な氏名を書いて成績が下がった。
 その、複雑な心中をテニス部長が知っているのかどうかはわからない。彼が仮入部半日で付けた簡易な呼称も、今では千尋の身に沿ってきた。一見するとよくわからない親しみの籠ったあだ名ではなく、本当の下の名前で呼ばれてもいい、と思った。だから、言う。幸村が何度か否定した。それでも繰り返す。千尋には細かな理屈や道理はわからない。様式美が何回まで同じ会話を繰り返すことなのかもわからない。それでも、自分で言い出したことを安易に撤回する意味だけはわかっている。ここは譲る場面ではない。
 だから。

「なぁ、俺もお前のこと、精市って呼んでいいだろ?」

 駆け引きなら負けない。幸村のように先が見えているわけではない。今、自分がすべきことだけが千尋の目に映っている。それを行動に移すのに必要な勇気なら、幸村が先に示した。なのに臆していいかどうかなんて考えるまでもない。
 眠かった千尋の頭がすっきりとしている。その視界で、とうとう幸村が折れた。
 泣きそうな顔をしている。不意にそう思ったが、その表情はすぐに消えた。見間違いかと思い、声には出さない。泣き出しそうな顔が消えて、幸村は穏やかに笑った。

「仕方がないやつだな。どうしてもって言うなら、呼んでもいいよ」

 譲歩の形をしていたが、声音は酷く優しかった。幸村の中の線引きを越えた感触に、千尋も自然と笑みが浮かぶ。自分の勘が正しかったという達成感、新しい友人が出来たという充足、そして、この瞬間から始まっていく未来への期待。それらがないまぜになって千尋の中に湧いた。三人揃いのジャージに着替えた残りの二人にもそれが伝播する。千代と徳久が競うように声を出した。

「幸村、その話、俺たちも乗っていいだろ」
「ユキちゃん! ユキちゃんって呼んでいいらー?」
「好きにしなよ、三人とも。その代わり、俺も好きにするから」

 ね、ユキちゃん。
 幸村が悪戯げに片目を瞑って千代の方に視線を投げた。そして千尋たちは「ダイ」の下の名前を思い出す。

「ダイ、お前もユキちゃんだったな」

 千代のフルネームは千代由紀人だ。便宜上ユキちゃんが二人いる状況で、それでも二人とも動じる気配はない。多分、二人とも途中からこの展開になることに気付いていた。徳久が千尋の指摘におかしいほど狼狽して答える。

「で、でもユキちゃんは幸村だらー」

 そうしょ? そうしょ?
 幸村の返答を待つ体制の徳久に千代が表情を変えずに答える。

「俺はダイでいい」
「じゃあ俺もユキちゃんは辞退しようかな」

 どうせなら下の名前で呼ばれてみたい。
 年相応のあどけない笑みでそう言われて、それでもなお固辞するものがいるのなら、多分そいつは徳久よりもここにはいない真田よりも頑固で一途で、そして自己中心的だ。
 徳久はそこまで馬鹿ではない。幸村の笑みの意味もわかっている。
 だから、彼は一拍考えて、沈黙の末に言った。

「イッちゃん、でいいらー?」
「初めてだよ、そんな呼び方」

 お前たちはあだ名で大喜利でもしているのかい。その声は本心から問うているようで、千尋たちはそれぞれ顔を見合わせて笑った。あだ名の大喜利を始めたのは部長だ。部長が千尋を「キワ」と呼ぶから千尋は負けじと千代を「ダイ」と呼んだ。その呼称が巡り巡って部長に伝わって、今では部長も千代を「ダイ」と呼ぶ。
 徳久のあだ名がないのは何も差別ではない。
 徳久には自然と名を呼ばせる気安さがあった。あだ名を付けなくても、十分に親しみを表せる。だから、彼にはあだ名がない。
 その、徳久が別の誰かのあだ名を考える。精市、から来たあだ名に幸村自身も驚いて、そして微笑んだ。初めて聞いた自分の新しい呼び名を反芻して、受け入れて、そして幸村は「それでいいよ、シュウ」と徳久の名を呼んだ。その名前にも何の捻りもない。幸村にも徳久の気安さが伝わっている。それを確かめて、千尋と千代は自分たちの感性が間違っていなかったと微笑みあった。
 そんなやりとりをしているうちに縁側の向こうから足音がやってきて、千尋たちが集まった和室の障子を開ける。そこには果たして真田がいて、既にひと汗かいていた。

「真田、遅い」
「む、遅かったか? お前たちのことだからそれほど早くは起きんだろうと思っていたのだが」
「弦一郎、四時四十五分、四十八分とスヌーズのようにアラームが鳴れば、俺や精市も十分に起きられる」

 幸村の率直な抗議に真田がたじろいだ。それを追撃するかのように柳の声が続く。その内容は暗に千尋たちを責めているうえに正確で、千尋は改めてこのデータマンを敵に回したくない、とぼんやり思った。
 そんな感想を抱いていると徳久が不意に「弦ちゃん!」と呼ぶ。

「弦ちゃん、ロードワーク! 約束らー」

 その、何の前触れもないあだ名に、真田は一瞬驚いた顔をしたがすぐに元の鉄面皮に戻って「うむ、約束だからな」と言いながら部屋に入ってきた。
 千尋の中の真田像ではあり得ない準応力に、認識を改め、そして彼もまた友人として千尋たちを欲していたのだということを知る。信じてもいいと思ったから、彼は昨日、千尋たちを家に招いた。信じられると思ったから、勉強の手助けをした。
 その期待に応えられないのが、千尋たちにとっては最大の屈辱で、同時に最大の損失なのだということを察する。
 そういう、駆け引きの心理だけはどうしてかはわからないが、千尋にも理解出来た。

「その前に、顔、洗いたいんだけど。『弦ちゃん』」

 冗談めかして徳久の用いた呼称を重ねる。真田は空気が読めない。そんな風にしか思っていなかった自分の浅はかさを馬鹿にしながら、新しい認識と対面した。真田は空気が読める。だから、この次の反応は多分、軽くいなされるのだろう。わかっていて悪手を選んだ。そこまでを理解した真田が顔色一つ変えないで、千尋の言葉を一刀両断する。

「お前にそう呼ばれる理由がわからんのだが、キワ
「ひっで、差別かよ」
「区別だ。勘違いするな」

 何でも差別と言えば済むと思うな、と言外にある。知っている。差別と区別は別の概念だ。一定の合理的な理屈を伴った線引きが区別、不条理で一方的で攻撃的な線引きが差別だ。知っている。今の立海テニス部で一般生が千尋たちに向ける感情こそが差別と呼ぶべき現象なのだろう。
 想定していた答えが返ってきたことに内心喜びながら、千尋は柳に負けた発想の瞬発力を鍛えるべく、次の答えを紡ぐ。真田が面食らった顔をした。

「じゃあ、サダ。サダでいいだろ」

 サナダ、のナ抜きでサダ。そんな言葉遊びを聞いた柳が、ネーミングセンスの良し悪しを超越した感想を呟く。

キワ、お前のその切り替えの早さは真実、感心に値するな」
「蓮二、お前の感想は若干ずれていると思うのだが」
「弦一郎、ならば『サダ』の感想はお前の答えを返してやれ」

 キワが待っている。言って、柳は会話のキャッチボールを真田に一任した。
 五人の視線が真田に集中する。真田はその居心地の悪さに一瞬たじろいで、それでも結局は鉄面皮を貫いた。

キワ、顔を洗いたいのなら突き当りを左だ。そこに洗面所がある」

 サダについては一切触れないその対応に、千尋はやっぱりか、という思いとキワと呼ばせたのが聞き違いでなかったという充足の両方を得る。今はまだ真田と千尋の距離感が遠い。多分、徳久ほど近しい関係ではないのだろう。いつか、そういう距離感に辿り着いたら、そのときは名前を呼ばせてくれるだろうか。
 未来への不安と期待の両方を抱えて、洗面用具を手に立ち上がる。

「ダイ、シュウ。今日はゆっくり出来るな」

 その声に肯定の声がそれぞれ飛んでくる。めいめい立ち上がって千尋と同じように縁側へと出ようとする背中に、幸村の追い打ちがやってきた。

千尋、俺たちも待ってるんだけど?」
「お前らなら十二、三分ぐらい待ってくれるだろ」

 にっ、と笑って返す。幸村、柳が絶句して真田が重い溜め息を吐いた。

「ゆっくり、の概念がおかしいと思うのは俺だけか」
「特待寮だと実質八分が普通なんだ、サダ」
「十二、三分でいいのなら好きなだけゆっくりしてくるがいい。ロードワークは逃げん」
「うん、ゆっくりしてくる」

 その間にお前らも準備しておけよ。
 言って千尋は縁側に続く障子を開けた。
 千尋たちにとって、それぞれ二人ずつ出来た新しい友人と繰り出すロードワークを楽しみにしながら、十二分間の一般的には短い洗面時間を満喫する。
 ロードワークの後にもう一度風呂を借りて、その後は結局、近場のストリートテニスコートで自主練をすることになる未来はもうすぐそこまで来ていた。