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8th. 負け犬の遠吠え

 598。この数字を見たとき、常磐津千尋の胸中には安堵が満ちた。
 立海大学附属中学が千尋たち特待生に課した学力試験の成績の最低ラインが600位だった。個別の科目での順位は問わない。総合成績が600位以内。千尋一人でも、特待生三人でも絶対に無理だっただろう目標は達成された。ぎりぎりのぎりぎりだ。それでも、条件は満たした。次の試験からはボーダーが上がる。この順位で安堵しているようでは未来は暗い。わかっていたが、千尋は心底安堵した。
 帰りのホームルームで配布された成績表をクラスメイトの柳蓮二に見せびらかして、溜め息を受け取る。そこまで千尋の中での予定調和で、二週間にわたる柳との個別指導が生み出した結果だった。
 千尋の成績は本当に壊滅的で、基礎からやり直していたのでは考査に間に合わない。千尋も柳も三日でそのことに気が付いた。だから、四日目の柳は基礎学習ではなく、試験対策の付け焼き刃を手解きしはじめた。理屈は後で教える。必ず、本当の意味で理解出来るまで教える。柳は何度もそれを念押しして、試験で点を取る為だけの勉強を説いた。千尋にそれを拒む権利などあるはずもなくて、二つ返事で応じる。教わっていることの意味なんてわからない。ただ、このパターンとこのパターンが来たらこう答える。それだけを必死に覚えた。
 その結果、成績は見違えるほど上がった。二週前には圧倒的ドベだった千尋が三分の二より前の成績を取る、というのは奇跡を体験しているとしか言いようがない。勉強なんてコツだけわかればいい。ゲームと同じじゃないか。それを口にするのは簡単だったが、言ってしまえば最後、柳が二度と勉強を教えてくれなくなるのは千尋が幾ら馬鹿でも想像がつく。勉強は本質だと柳は言った。上面を繕ってどうにか手に入れた数字に自惚れたら、柳の言う本質は見えなくなってしまう。
 千尋はテニスをしている間だけだったが、人からの期待を背負う意味をその身で体験したことがある。柳は多分、勉強でも私生活でも同じだけのプレッシャーを背負っているのだろう。それをいちいち説明されなくても理解出来る程度には千尋にも知性がある。
 不公平だとか、不平等だとかそんな感想を抱くほど幼くはない。
 柳は千尋の何倍もの努力で今の立ち位置を保っている。その一面だけを見て、ずるいだの何だのいう意味がどこにある。努力は裏切らない。千尋はそれを知っている。知っているから、千尋はずっとテニスを続けることが出来た。これからだってそうだ。上を目指している。その為に必要な努力を怠るつもりもない。
 それでも、勉強が必要な努力の範疇にあると知った時には臆した。努力は裏切らない。その暗黙の了解をもう一度信じることが出来たのはきっと柳のおかげだ。一位を目指しているわけではない。半分より前、それ以上の成績が取れるとも思わない。それでいいじゃないか。何度も自分で繰り返した。柳の努力に応えたいと思う気持ちと、自らを律する気持ちとがあればそれでいい。その先を望むのは、そこに辿り着いた後でも十分だ。
 だから、千尋は598を手にして心底安堵した。
 次の試験までにはまだ時間がある。今は県大会のことを考えよう。勝手にそう決めて千尋はテニスラケットを握る。練習は裏切らない。それだけを信じて千代由紀人(せんだい・ゆきと)とのダブルスの練習に毎日励んだ。
 自主練では真田弦一郎、徳久脩(とくさ・しゅう)の二人が組んで相手をしてくれる。シングルスで上位七名に入った二人を相手にするのは中々に骨が折れた。ただ、シングルスの才能とダブルスの才能とは少し違う。千尋と千代のペアがダブルスに馴染んでくると上位七名の二人からポイントを得られる場面が多くなった。柳の分析も手伝って、公式戦に臨むまでに勝ちのイメージはある程度出来上がっている。
 負ける要素なんてひとつもない。
 そう信じていたのに公式戦という魔物の力の前で、千尋は思いもよらない苦戦を強いられた。
 県大会初日、立海大学附属中学は第一シードで三回戦からの開始だった。県大会はダブルスの二試合から始まることになっている。千尋と千代のペアは第一試合だ。学校ジャージを着た集団があちらこちらに固まっている。試合会場に指定されたコートは四方をフェンスに囲まれている。中に入ることが出来るのは登録した選手だけだ。千尋、千代、柳は揃ってフェンスの中にあるベンチで準備を始めた。幸村精市、真田、徳久。自主練に付き合ってくれた三人は外周で試合を見守る。
 小学校の大会はいつも一人だったから、集団の一部だというのは新鮮だ。観衆の数が違う。空気が違う。雰囲気に呑まれそうになって踏みとどまる。
 自分でも気が付かないうちに緊張していた。ということを知ったのは第一試合が始まって十五分後のことだ。剛速球を打てるはずの千代のサービスが決まらない。あれだけ練習したはずのレシーブが上手く出来ない。まるで汚泥でも被っているかのように全身が重たく、動きが鈍い。息が上手く吸えていない。わかっているのにどうすればいいかがわからない。相手選手の動きから、次にどうすればいいのかはわかる。わかるのに現実は思い通りにならない。
 上手くいかない苛立ちから、千尋と千代の連携はがたがたになった。
 お見合いになる、お互い任せでポイントを落とす。そんな凡ミスが幾つあったかなんて数えるだけ無駄なぐらいだ。三ゲームを立て続けに落として、千尋のサービスゲームが始まる。千尋も千代も自分のプレーが出来ていない。わかっているが、どうすれば流れが変わるのかすら思い出せない。負けるイメージが脳裏をよぎった。
 その、未体験の思い通りに行かない苦痛を抱えながら、千尋は一本目のサービスを打った。ジャンプサーブが綺麗にネットに引っかかる。「キワ!」叱責の声がコートの中から聞こえた。

キワ、お前、何やってるんだ! どこ狙ったらネット越えないようなサービスになるんだよ!」

 お前、本当にサービスのセンスないよな。
 ぶっきらぼうに放り投げられた言葉に、千尋の中で何かがぶつかってカチンと音を立てた。思いやりとか、チームプレーとか、漠然と抱えていたそんな概念が一瞬で吹き飛ぶ。気付いた時には千尋も千代に向かって吼えていた。

「るっせーな! 一本ミスったぐらいでごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ! 八本ネットにひっかけたのどこのどいつだ! お前のサービスゲームなんて0ゲームだったじゃねーか!」
「はぁ? だから何? だからお前もブレイクされていいってどんな理屈だよ。俺がミスったのわかってるならお前がフォローしろよ! 何ゲームブレイクされたら満足するわけ?」

 三人の特待生の中では一番寡黙な千代がすらすらと罵声を浴びせる。千代でもこんなに捲し立てることがあるのだ、という驚きより責められた内容の方が千尋の感情を逆なでした。
 千尋はベースラインに立ったまま、千代に言い返す。言われっぱなしで自分の非を認められるほど、千尋はまだ人格者ではない。十二の千尋の焦りは頂点に達していた。

「フォロー? 出来る範囲考えろよ! お前に処理任せたらスルー。取りに行ったらお見合い。お前、俺にどうしてほしいわけ? お前の方こそちゃんとフォローしろよ!」
「してるだろ! 全部お前が台無しにしてるくせに一人前に怒鳴ってる場合かよ! お前なんてレシーブしか能がないくせに、なんでちゃんと拾いに行かないんだ! やる気がないなら帰れよ! 俺は一人の方が上手く戦える!」
「はぁ? 何言ってんだよお前。一人でダブルスなんて出来ねーだろ! っていうか、レシーブしか能がない? かもな。でも、サービスしか能がないくせに0ゲームのやつよりよっぽど俺のが役に立ってると思うけどな!」
「何それ。嫌味? キワのくせに生意気なことするんだな」
「生意気ってお前、何様のつもりだよ。シングルスならお前より俺のが強いんだよ! そんなことももう忘れたのかよ。帰るならお前の方だろ!」

 堰を切ったように悪口が溢れ出る。千尋も千代も感情が暴れるままにお互いを罵って、チームワークなんてもう残っていない状態だった。セカンドサーブを打たない千尋を審判が促そうとする。その頃合いを見計らって、顧問がタイムを申し入れた。これ以上、千尋たちを放っておいても何にもならない。そう判断されたのだということはわかる。わかるが、それもまた千尋にとっては屈辱の助長にしかならなかった。
 不服を顔中で表した二人に顧問は冷たく言い放つ。このまま負けた場合、お前たちは二度と公式戦では使わない。その絶望的な響きに千尋たちの顔からさっと血の気が引く。負けても次があると思っていた。もうこの試合は一旦諦めて、その後立て直せばいいと思っていた。その可能性を端から否定される。千尋たちが立海で特待生を続ける意義を見出すにはまずこの試合で勝たなければならない。怒りが焦りに変わった。それでも気持ちは空回ったままだ。どうすれば勝てるのか、何を直せばいいのか。顧問は一言もアドバイスをくれない。多分、このプレッシャーに勝てないような選手は立海に必要ではないのだ。
 わかっている。わかっている。
 わかっているのに勝つ方法がわからない。
 ちら、と隣に立っている千代に視線をやる。千代も青い顔で千尋を見ていた。溜め息を吐く。その、沈黙の困惑に終止符を打ったのは幸村だった。

千尋、由紀人。そのまま頑張って負けてくれたらいい。そうしたら、俺たちもレベルの低い試合をこなす必要がなくなるし、もっとレベルの高いレギュラーが生まれるしね」
「なっ?」
「はぁ?」

 はっきりと、レベルが低いと明言される。当たり前だ。優勝しかしたことがない県大会の三回戦。誰のデータ上でも消化試合でしかないこの試合で、三ゲーム立て続けに落とした。レベルが高いはずがない。わかっている。馬鹿にされて当然だ。
 それでも、千尋の中にはまだ自負と矜持がある。
 幸村に負けたままで終わりたくない。肩を並べて争っていたい。
 そう思っていたのが千尋だけで、幸村は最初から歯牙にもかけていなかったのだというのならそれは十分に憤慨するだけの理由足り得る。普段の千尋なら笑ってかわせたかもしれない。それでも、今、千尋の耳には侮蔑にしか聞こえない。
 フェンスが千尋と幸村を隔てていなかったら、きっと今頃は幸村の胸倉に掴みかかっていただろう。そのぐらい、千尋は激昂した。

「ざっけんな! 誰が低レベルな争いだ! 俺たちは必死に――」
「必死にやってこの程度だろ? 部長、次からレギュラー選抜戦のやり方を考え直したらどうですか? 俺はこの程度のやつらが県大会とはいえレギュラーになっているのに納得出来ません」
「精市!」
「吼えるなよ、負け犬風情のくせに」

 その蔑みの眼差しに、千代に向かっていた怒りが幸村に向けて収束する。千代の方もそれは同じだったのだろう。「キワ」と千尋を呼ぶ声に先ほどまでの剣呑さはなくなっていた。
 その感情の変化を見て取った幸村が冷笑する。

「負け犬同士、そうやって傷の舐め合いでもしてればいいんだ。お前たちはどうせ俺には一生勝てないんだし、お似合いだよ」
「お前! ふざけんなよ」
キワ、もういい。そいつは最初から俺たちのことなんて眼中になかったんだ」

 友達だと思ったのは俺たちだけで、こいつはずっと俺たちのこと見下してたんだよ。千代が淡々とそう言う。それを聞いて千尋の胸の奥がずきりと大きな痛みを覚えた。違う。幸村はそんな最低なやつではない。そう思うのに、今の冷徹な幸村は千尋が抱いている友情を全否定して、そして嘲笑っている。負ければいい。こんな試合で負けるようなやつに興味なんてない。冷静さを欠いた千尋ですらそれを理解出来る。泣きたいを通り越して情けなさがこみ上げた。
 気勢を挫かれた千尋の語気が緩む。

「ダイ、お前はそれで納得出来んのかよ」
「するわけないだろ。ないけど、今更こんなやつの挑発に乗って、キワが退場になる方が馬鹿らしい」
「じゃあどうしろって言うんだよ」

 その感情の行く先で迷った千尋の声に、千代は「それなんだけど」と思案顔で言う。

キワ、俺のこと一発殴れよ」
「は?」
「いいから。この辺。一回殴れって」
「いいのか? マジで?」

 無駄に何度も繰り返して確かめた。
 顧問の方をちらと見る。どうでもいいから早く試合に戻れと顔に書いてあって、千尋は焦りながらも腹を括る。そして、千代の示した左頬を軽く殴った。殴られた千代が不意に悪戯気な眼差しになって「一回は一回だからな」と言って、何の構えも取っていない千尋の胴に強烈なボディーブローを叩き込む。みぞおちとまではいかないが、その付近を強か殴りつけられて、千尋の意識は朦朧とした。顔を左右に振る。痛みに耐えて、何をするんだと文句を言う頃には千代がいつも通りのクールな顔をしていた。

「ダイ?」
「負け犬ごときに負ける屈辱を味わってもらう相手はもう決まっただろ、キワ
「ま、一応?」
「好き好んで汚れ役引き受けて、何の痛手も負わない、なんて綺麗ごとは現実にはないのを知ってもらわないとな」

 行けるだろ、キワ。お前には俺がいるだろ。一人じゃないんだ。千代の眼差しに剣呑さはない。二週間、必死に戦ってきた戦友の表情の変化に今更気付くだなんて、どれだけ千尋に余裕がなかったのかを思い知るには十分な要素だ。千代は速攻に強い選手だ。千尋は速攻に持ち込む為の細かな駆け引きに長けた選手だ。心理戦なら負けない。それが千尋の自負だ。
 だのに、今、千尋たちがやっていた試合は自分たちのいいところなんて少しも出ていなくて、ただ翻弄されるだけの真実、無様な試合だった。こんな試合が許されるわけがない。
 幸村の愚弄が千尋たちの気持ちに火をつけた。
 馬鹿にされて黙って無抵抗で受け入れるなんて千尋たちの矜持が許すはずがない。
 だから。

「ダイ。四本だ」
「何が?」
「サービスエースに決まってるだろ」
「へぇ。キワ。打てるんだ?」
「リターン来たら任せる。その後はいつも通りで行こうぜ。俺たちは勝つ為に来たんだ」

 空気が変わる。変えたのは千尋と千代だ。幸村の鼻を明かす。その共通目的が、千尋と千代の感情をつないだ。だから。千尋たちは自分たちの試合が出来るはずだ。信じていい。信じられる。
 顧問が、早く戻れと背中を叩く。
 その手のひらの熱さが、千尋たちにもう一つ別のことを教えた。顧問は千尋たちが勝つことよりも、目の前にある壁と戦って乗り越えることを望んでいる。
 これほど多くの気持ちに望まれて、それでなお自暴自棄にならないぐらいには千尋たちにも知性がある。プレッシャーなんてどこにでもある。気持ちで負けたら終わりだ。
 だから。

「ダイ、行くぞ」
「任せる」

 センターラインの隅で、ボールを何度かバウンドさせた。狙うコースは決まっている。これはセカンドサーブだ。入らなければダブルフォルト。相手のポイントになる。わかっていたが、千尋はファーストサーブのつもりで臨んだ。
 狙う場所を見据える。そこに到達する放物線を瞼の裏に描いた。そして。中空に向けてボールをトスする。陽光の中、千尋の体躯が跳ねた。全身をバネにして強打を放つ。対戦相手が馬鹿を見る眼差しで嗤っていた。嗤っていられるのはいまのうちだけだ。このサービスをきちんとレシーブするのがどれだけ難しいことなのか。それは彼らが身をもって味わえばいい。
 ボールが千尋の狙い通りに飛んでいく。ネットを軽々と越えてコートの隅へ。今までの千尋からは考えられないほど正確な軌道、そして圧倒的な球威に相手選手のラケットがあらぬ方向を向いた。ホームラン。千尋の宣言通りサービスエースが決まる。レシーブを受けなかった方の相手選手が何をやっているんだと詰る。次のサービスを受けるのは彼だ。そのときに、自分の味方がどうしてレシーブ出来なかったのか、理解すればいい。
 勝敗はまだ決していない。試合はここからだ。
 強い気持ちで前を向く。千尋の前方で千代がほんの少しだけ微笑んだのがわかった。これが自分たちの試合だ。やっと帰ってきた感覚に闘志が揺らめく。
 次のサービスはノータッチエースだった。
 どうなっているんだ。こいつら仲間割れで空中分解だったじゃないか。
 相手選手の焦りが伝わる。どうもこうもない。これが王者立海の試合だ。精々、立海を相手に三ゲーム取ったことを自慢すればいい。彼らにはもう勝機などない。ここから先は千尋たちの独壇場だ。勢いに乗ったまま、千尋はサービスゲームをエース四本でキープする。今度は対戦相手が憔悴しはじめていた。
 結局、その後は千尋たちが五ゲーム連取で取り敢えずは勝った。
 勝ったのにちっとも嬉しいと思えない。そんな試合は生まれて初めてで、悔しさを二人で噛み締めていた。お互いのことを散々にけなした気まずさもあって、会話が続かない。先輩たちが第二試合のダブルスで見事に勝っていくのを、正座で観戦させられていたからかもしれないし、背後にいるはずの幸村の顔を見たくなかったからかもしれない。
 理屈で考えれば、幸村の侮蔑はただの挑発で、本気ではなかったとわかっている。でも、と千尋は思う。一度も思ったことのない言葉をさらりと口に出来るやつの本音はどこにあるのだろう。本当は心の底で普段から思っているから言えるのではないか。それとも、天才は悪役を演じることも完璧に出来るのだろうか。思考が巡る。悪い結論ばかり頭の中に浮かんで試合を観戦しているどころではない。
 試合に勝ったのに泣きたいなんて、小学生の頃の千尋には多分、理解出来なかった状況だろう。
 第二試合が6-0で終わって、シングルスの柳が出る。柳も千尋たちに言いたいことがあるだろうに何も言わない。慰めがほしいわけではない。健闘をたたえてほしいわけでもない。それでも、何か一言あれば千尋の気持ちは少しは楽になる。だから何か言ってほしい。
 でも、と冷静な千尋自身が思う。
 柳はきっと何も言ってくれないだろう。
 救われたいだなんて甘えを許してくれるわけがない。だから、千尋は自分がしたことを振り返って、ぐっと唇を噛み締めた。今、千尋がするべきことならわかっている。柳を送り出して、正座のまま彼の試合を見守る。生まれて初めての団体戦で、中学テニスデビューだ。柳だって緊張している。柳は自分一人でその壁と向き合わなくてはならない。それでも、余計な力みの籠った背中かどうかならわかる。柳の緊張感を消し去ったのは千尋と千代の無様な第一試合だ。
 だから。

「蓮二、ストレートだろ」

 躊躇いがあった。あんな無様な試合をして、今更、普段通りに仲間面をしていいのか、自信がなかった。それでも千尋は柳の背中に声をかけた。信じている。その気持ちは伝わっていると信じられる。それでも、敢えて音に載せた。声が波形を作って柳の耳に届く。振り向かない背中がふと笑った気がした。

「そうだな。これ以上、学校の名前に泥を塗るわけにはいかないからな」
「じゃあお前が落としたゲームの数だけ缶ジュース奢れよ」
「お前たちが落としたゲームより多くなったら考えてもいい」
「それ、学校の名前に更に泥塗ってるんだけど?」
「婉曲な否定の表現だ。お前はやはりもう少し日本語表現について学ぶ必要がある」
「最悪。嫌味かよ」
「それだけのことをしたのはどこの誰だったか忘れたわけではないだろう」
「トリ頭の俺にはわかりませーん」
「それだけ開き直れるならもう大丈夫だな」

 キワ、三タテだ。俺たち立海にはそれしか許されていない。
 不意に柳が振り返る。薄っすらと開いた双眸が高揚に煌めいていた。

「最悪の展開はお前たちが見せてくれた。無様なことこの上ない。それでも」
「でも?」
「俺の中学テニス界デビュー戦はお前たちより酷い結果にはならない。それを断言出来るぐらいには、お前たちの内輪もめで毒気を抜かれたのもまた事実だ」

 だから、そこで最後まで見ていろ。
 言って柳は再び踵を返して、今度は二度と振り返らないでコートの中へ赴いた。千尋は隣で正座した千代と視線を交わす。最悪って言われたぞ。だって最悪だったじゃないか。苦笑が二人の顔を彩る。
 フェンスの向こう。千尋たちの背中の後ろにいる幸村が悪口を叩いた理由なんて最初からわかっている。叱咤激励。その意味もあっただろうし、本当に情けないとも思った。それでも、千尋と千代は気付いている。あのとき、幸村がばっさりと千尋たちを切り捨てなければ、千尋たちは試合に負けていただろう。公式戦を戦う重圧。中学校という一つ上の世界の空気。学校を背負って立つ、正真正銘最初の試合。千尋たちは完全にそれに呑まれていた。
 何も背負わない小学校の頃とは違う。
 そのことに気付いていたが、気持ちが追いつかなかった。
 それを無理やりたたき起こしたのは幸村だ。
 だから、千尋はこの試合が終わったら。柳がストレートで三タテを決めたら。幸村に缶ジュースを買ってこようと決めた。
 信じている。信じられる。信じると信じる。
 天才という演者の本音を探るのは千尋には不可能だ。わかっている。だから、千尋千尋の直感を信じる。人の気持ちを疑うのなんて簡単で、なのに底がない。どこまでも悪い方向に考えることが出来る。だから、千尋は暗い感情に蓋をする。敢えて考えないという選択肢を見出した。それぐらいしか、馬鹿な千尋には決められない。
 だから。
 落としたゲームは覚えている。柳が称賛した記憶力が、全て鮮やかに千尋の脳裏に焼き付けた。反省はこの試合の後でも出来る。後悔に囚われて本質を見失うのだけはごめんだ。
 今は。
 柳の一人きりの戦いを応援したい。プレイ、の声が審判台から飛んだ。人生に一度しかない、中学テニス界デビューの一戦が間もなく終わろうとしていた。