All in All

9th. 慟哭

 県大会で優勝したのに、自分自身は壇上に上がることが出来ない、という経験を常磐津千尋は十二歳で初めて経験した。この経験をしたのは千尋一人ではない。千尋のダブルスパートナーで、全ての試合を共に戦った千代由紀人(せんだい・ゆきと)も、シングルスで堅実に勝ちを重ねてきた柳蓮二も多分似たような感情を抱いただろう。学校という組織の一員として大会に出る。だから、壇上にあることが許されているのは部長と副部長の二人だけだ。二人とも、県大会レギュラーではない。一試合も戦ってすらいないのに二人は全校生徒の称賛を浴びた。
 そのことに対して、おかしいじゃないかと思いこそすれ、納得など出来ない。勝ったのは千尋だ。なのに千尋は講堂の床の上に座って、他の生徒と同じように壇上の部長たちに拍手を送ることを暗黙の了解的に強要された。憤りと悔しさを必死に抑えながら、千尋は全校集会を終える。ホームルームに帰る道すがら、クラスメイトの柳に声をかける。彼なら千尋の不満を理解出来ると思った。

「蓮二」
「『勝ったのは俺たちだ、そうだろ』とお前は言う」
「お前はそう思わねーのかよ」
「団体戦というのはそういうものだ。わかっていただろう」
「わかんねーよ。わかってたまるか」

 柳は物わかりのいい優等生の顔で千尋の主張をそっと棚上げした。千尋の何倍も、何十倍も頭のいい柳が見ている真理がどんなものかは千尋にはわからない。わかりたいとも思わない。あれだけのプレッシャーを押し付けておいて、いざ勝てば当然。称賛は組織のトップだけが受けて、千尋の活躍などどうでもいいと言わんばかりだ。これが屈辱でないのなら、きっと千尋の世界には今後屈辱という感情は芽生えないだろう。

キワ、お前は褒められる為にテニスをしているのか」
「何だよそれ。俺は好きでテニスやってんだよ」
「その結果、お前は勝った。勝った以上の充足がなければお前は戦えないのか? 違うだろう」

 小学校低学年の頃は、勝てば親が褒めてくれる。クラブのコーチも特別扱いしてくれる。だから頑張ろうと思った。そんな時期もある。それでも、千尋は年月の経過とともに成長した。褒められる為のテニスではなく、上を目指す為のテニスを知って勝った充足を自分自身の糧とすることが出来るようになった。
 勝ちたいから勝つ。勝てないのなら努力をする。それで勝てなければそれは千尋の努力が足りない。誰かを理由にしなければテニスを続けられないほど、千尋は弱くない。
 わかっている。千尋はもう小学生ではない。
 学校の名誉を積む為の戦力として進学した。千尋たち特待生は学校からこれ以上ないほど優遇されている。課されるものも多い。それでも、学校が千尋たちに与えてくれるものを考えれば、そのぐらいは当然だと十二の千尋でもわかる。
 わかるのと、感情的に納得が出来るのとは違う。
 県大会の勝利は千尋の働きの結果だ。その自負がある。取るに足らない相手だったかもしれない。そこはただの通過点で、勝てるのが当然だったのは知っている。
 それでも、勝ったのは千尋なのだ。
 お前は悔しくないのかと柳にぶつける。
 悔しいに決まっている、と柳は言葉とは裏腹に穏やかに微笑んだ。

「悔しいのなら、勝つしかないだろう。勝って、自分にはそれだけの価値のある選手だと認めさせれば、いずれ評価の方が追いつく。その努力が出来ないのなら、俺はその程度の選手だった。そうだろう、キワ
「それでも、俺は一瞬でもいい、自分が評価されてるのを実感したい。たったそれだけのことだ、わかるだろ蓮二」
「おかしなことを言う。お前の評価はレギュラー選抜戦が表している。関東大会のレギュラーに選ばれれば、お前はそれだけの価値があると部の誰もが認める。それ以上の何が必要なんだ」
「理屈とかどーでもいいんだよ。俺は『勝ったんだ』って気持ちがほしいだけだ。それがお前の世界でいう慣れ合いならそれでもいい。そうだとしても、俺は、お前の言う『客観的な』勝利がほしい」

 わかるだろ。もう一度堂々巡りの会話を頭に巻き戻す。柳は呆れるでもなく、感心するでもなくただ淡々と言葉を紡いだ。

「ならば担任に直談判でもするか? 俺たちのクラスだけでも、俺とお前の勝利を祝ってほしい。そんな自己満足に何の価値がある」
「価値があるかどうかを決めるのは俺だ。俺の気持ちを勝手に決めるな」

 千尋と柳の感情の温度差がいつまで経っても埋まる気配がない。
 焦りから千尋の語調がきつくなる。階段を上る雑音が、不意に静まり返ったような気がした。
 柳がその空気の変化など気にせず、一つ溜息を吐き出す。

「お前の頑固さは弦一郎といい勝負だ。一度こうと決めたら譲らない」
「サダは関係ないだろ」
「そうだな、お前より弦一郎の方がまだ現実を割り切っている。弦一郎に失礼だった」

 実力も中途半端。選手としての心構えも中途半端。
 それでよく特待生になるという決断が出来たものだ。
 言外に含まれた批難だけがダイレクトに千尋に伝わる。どうしてこういう悪意にばかり敏感なのだろう、と嘆く。嘆いても何も変わらないが、それでも千尋も溜め息を吐きたい気分になった。踊り場を通過してホームルームのある階の廊下を歩く。

「何なんだよ、お前といい、ダイといいO型はナチュラルに煽ってきすぎだろ」

 上履きの音が人の流れに乗って聞こえてくる。千尋自身の上履きの足音もそこには含まれているが、双眸を見開いた柳の耳には届いていないらしい。言葉を失って、人の流れの中で不意に柳が立ち止まる。
 そして、本当に困惑しきった顔で、柳がぽつり呟いた。

キワ、俺はお前と同じA型だが?」
「えっ?」
「俺のこの性格でO型だと思われたのは初めてだな」
「えっ、でもお前、O型だろ?」
「繰り返すようだがA型だ」
「そうか、悪い、勝手に思い込んでた」
「後学の為にも、俺のどこにO型の要素があるのか聞いておきたいものだな」
「勘弁してくれ。人のプロフィール覚えるの苦手なんだって」
「正しい知識がなかったからこそ、お前は俺をO型だと思ったのだろう? その根拠を聞きたいだけの話だ」

 納得のいく説明が聞けたら、俺もお前の小さな自己満足に付き合おう。
 それは柳自身の小さな自己満足に付き合う見返りだから、と言外にあって千尋は逡巡する。不用意な発言をしたのは千尋だ。勝手に決め付けるなと言ったその口で、勝手に決め付けた発言をした。言葉は一度発したら二度と取り戻すことが出来ない。だからよく考えてから口にしろと両親にあれほど注意されて育ってきたのにこのざまだ。
 自分自身の至らなさが無性に情けなくなって、そこまで辿り着いてようやく千尋が柳にしていたことがただの八つ当たりだということに気付く。情けなさが加速度的に増した。

「聞いて笑うなよ」
「無論だ」

 じゃあ、教室着いたら担任来るまでに言う。
 言って千尋と柳の足が再び動き出した。一年生の教室は全て普通教室棟の二階にある。千尋たちのホームルームは二階の中では職員室から遠い部類に入り、全校集会のあと、職員会議を終えて担任がやってくるまでに必要な時間はそこそこ長いだろう。
 千尋の馬鹿な思い込みを語るには五分もあれば十分だ。
 だから。千尋は柳と約束して、何から話せばいいのかを頭の中で考える。
 柳は器が大きい。千尋の愚痴を聞いても菩薩のように受け止めて流してくれる。気配りも上手い。千尋のレベルにあったアドバイスをくれる。決して、自分本位な怒りをぶつけてくるような相手ではない。
 細かなことに気付く、のと、神経質なのは別だ。千尋は自らの中にあるものと柳が持つものを比べてそう気づいた。欠点に気付いたら気になって仕方がない、神経質なのは千尋で、それは自分がA型だからだと勝手に言い訳していた。なのに、柳は千尋と同じA型だという。血液型性格占いがどれだけ当てにならないのかを十二にして千尋は体感した。
 そんなことを訥々と教室で語る。柳は千尋の要領を得ない話を一つずつ頷いて聞いてくれた。この行動だけでも柳がいいやつだということがわかる。

キワ、覚えておくといい。お前は人の長所をそのまま受け止められるだけの器を持っている。お前が他人に見る器の大きさはお前の器と正比例している。だから、お前は誇るべきだ」
「何を」
「無論、お前の人としての器の大きさだ」
「あるわけないだろ、そんなの」

 小さな自己満足に拘って、県大会の初戦で無様な試合をしたことは忘れていない。最悪だった。後で千代と謝罪合戦をするぐらいにはお互いのことをけなし合った。余裕なんてどこにもなかった。思いやりよりも自分の苛立ちを優先した。そんな千尋のどこに人としての器などあるのだろう。あるわけがない。
 否定すると柳はいっそう柔らかな顔で「ならばそういうことにしておこう」と言う。お世辞にしても、言い過ぎだ。そんなことを思いながら担任の来る気配を感じて、自分の席に戻った。
 トリ頭の千尋には難しい議論は理解出来なさい。一時限目が始まるころには柳の残した課題を忘れて、彼から伝授された「コツ」を思い出しながら、授業を聞いていた。
 重要な個所について、教員は何度も繰り返し言う。それが試験に出る目安だ。二度以上繰り返し解説されたことは試験に出る確率がかなり高い。軽く流された部分は聞き流してもいい。そこをきっかけに理解を深めたいと思うのなら、それは個人の判断だ。興味があるのだから、もっと追い求めれば深い知識を得られるだろう。百点を目指すなら、その努力も必要だが、千尋が目指しているのは半分のボーダーだ。全てを欲張ってもどうしようもない。読めない漢字には赤でルビを振った。書けない英単語には蛍光のマーカーを引いた。自分に出来ないことを具体的に意識する。千尋にはそれも難しい。それでも、今、千尋に出来ることはそれしかない。十二年間手を抜いてきたことに、今更取り組むのはこんなにもつらいのだと知って、千尋は中学で初めてテニスを始めた同級生たちが、どんな思いをしているのか、何となくわかったような気がした。自分に出来ないことをしているやつを見ると眩い。逆立ちをしたって敵わないと知っていたらなおさら近づきたくない。だから、千尋たちは敬遠される。それでも、彼らは尻尾を巻いて逃げてはいかなかった。テニス部を辞めれば、千尋たちを敬遠する必要はなくなる。本当に無理だと思うのならそれが一番簡単な解決方法だ。現に、テニスに意義を見出さなかったやつらはもう部活を辞めた。
 だから。
 と千尋はぼんやり思う。クラスメイトが黒板に書き綴っている数学の命題を眺める千尋もまた「そちら側」の道を選んだのだ。勉強なんて出来ない。泣き言に明け暮れて学校を辞める選択肢はあった。それを必死で回避して、学校の顔として戦い続ける。苦しくても、結果がすぐに出なくても、決して諦めないと自分自身に誓った。
 だから。
 柳の言う通りだ。学校の代表として試合に出ることを決めたのは千尋で、その結果が称賛されなくても、千尋が勝利したことは少しも変わらない。称賛を浴びたいから試合をしているのではない。わかっている。わかっていた。それでも十二の千尋は称賛がほしかった。
 それでも。
 この感傷とはここで決別しよう。そして次に待っている関東大会のレギュラーを決める選抜戦で勝つことを考えよう。
 そんなことを一人でこっそりと決意する。
 その、小さな決意の日の終わりに事件は起きた。
 わけのわからない授業を必死で聞いて、昼食は柳たちと屋上庭園で食べる。今日の部活のメニューをどうこなすか、ということに思いを馳せながら帰りのホームルームを聞き流して、コートへ走っていく。千尋と柳の教室はそこそこ遠い。毎日、二番目か三番目になるのが普通で、入口まで来るとこの日もコートに先客がいるのが見える。
 先客が誰かを確かめて、千尋は声をかけようとした。その隣をさっと誰かが横切る。危ないな、と思いながらその「誰か」を交わす。千尋の前を通り過ぎた「誰か」は右手にラケットと左手に何かを持っていた。違和感が千尋を襲う。瞬間的に千尋の頭の中で警鐘が鳴った。
 何かよくないことが起きようとしている。
 その直感に突き動かされて、気が付いたときにはコートにいた先客の名前を呼んでいた。

「精市! ダイ!」

 半ば叫ぶようにして出た声に遅れて、千尋自身もまた駆け出す。千尋の前方を歩いていた「誰か」が慌ててラケットを構える。
 そして。

「幸村! くたばれ!」

 罵声と共にラケットが尖った小石を打ち抜く。その数は一つや二つではない。ゆうに五個以上。その石の雨が幸村精市に向けて降り注ぐ。千尋の叫び声でこちらを向いていた幸村からすると顔面でそれを受ける形になる。浅慮を後悔した。後悔して、そのまま嘆いて悲劇の主人公を気取るのは千尋の性分に合わない。全速力で駆けて、気が付いたら凶行の根源――三年生の元レギュラーだった生徒に飛びついていた。
 殆ど無意識だった。
 元レギュラーの方も必死だったのだろう。ラケットのグリップで頭と言わず、顔と言わず、体と言わず何回も繰り返し殴りつけられた。鈍痛が千尋を襲う。それでも、地面から元レギュラーが起き上がるのを何度でも引きずり倒す。それはほんの一瞬の出来ごとだったのだろうが、殴られている千尋には永遠にも近い感覚だった。
 どうして、だとか、なんで、だとか考える時間すらない。
 ただ、この凶行に及んだ相手を放置していたら次こそ確実に幸村を襲うだろう。それだけがわかっていた。わかっていたから、自分の心配を放棄して必死にしがみついた。
 時間にして数分。その長すぎる時間は三人分の「キワ!」の声で終幕する。

キワ! もういい! もう大丈夫だ」

 だから、その腕を放せ。柳の声が遠くで聞こえる。声が聞こえても無意識でしがみついている千尋の身体からは力が抜けない。真田弦一郎と徳久脩(とくさ・しゅう)が後ろから力づくで千尋を引きはがす。そうでもしないと、どうにもならないぐらい、千尋は緊迫状態に陥っていた。
 ゆっくりと腕がほどかれ、コート上に座らせられる。
 痛みを感じる余裕はない。ぼんやりとした頭で、これ以上ないほど両目を見開いて、今にも泣き出しそうな柳と向き合った。ここまできて、やっと千尋は安全が確保されたことを知る。

「蓮二、精市は」
「無事だ。ダイが庇ったから精市は傷一つ負っていない」
「じゃあダイは」
「右膝を深く切ったが、命に別状はない。今は保健室で手当てを受けている」
「あ、そ」

 無事ならいい。誰も何も起こらなかったのならそれでいい。
 安堵が胸に満ちる。なのに柳は顔色をなくしたままで千尋を見ている。
 どうした。尋ねると彼はますます悲しみで顔を染めて「キワ」と千尋を呼んだ。

キワ、意識はあるな? 俺たちのことはわかるな?」
「うん、多分」
「顧問が救急車を手配している。すぐに来るから心配はするな」
「そんな大袈裟なことすんなよ。俺なら――」

 大丈夫だ。問題ない。
 救急車など呼んでことが大きくなれば、元レギュラーの先輩の立場がなくなる。もしかしたら学校ごと処分を受けて、立海の名前に泥を塗りかねない。
 だから、大丈夫だ。
 そう、言おうとしたのに不意に柳の双眸から雫が零れ落ちる。

「馬鹿なことを言うな! 何が大丈夫だ! お前は自分のことが少しもわかっていない!」
「そうらー、キワキワは何も悪くないんだに、ちゃんと手当てしてもらうらー」
「じゃあ保健室でいいって」
「いいわけがないだろう!」

 千尋の言葉は次から次へと柳の激昂で否定される。こんな感情的な柳を見るのは初めてで、戸惑う。柳でも心の底から怒ることがあるのだ、という意外な面の発見と心配が過ぎるという戸惑いの間で千尋は揺れた。
 揺れたが、普段あれだけ冷静な柳が語気を荒げている、という非日常的な光景に非日常を見出した。
 遠くからサイレンの音が近づいてくる。拒否権がないのだ、と察して、そのころになってようやく千尋は全身が酷く痛むことに気付いた。興奮で力んでいるだけだと思っていた右腕が思うように動かない。指先の感覚はある。でも腕を動かすことが出来ない。何回試してもその結果が変わらなくて、焦りが生まれる。
 千尋が自分の置かれた状況を理解したと察した柳の双眸に怒りが灯る。もちろん、千尋に対してではない。多分、柳は今、自分自身に対して憤っている。
 千尋を止められなかった怒り。柳自身が行動出来なかった怒り。そして、諸悪の根源である三年生に対する怒り。
 それらの怒りが柳の双眸をぎらつかせている。
 だからだろう。
 千尋の心の中で焦りが薄くなった。突然にやってきた不条理への怒りも薄れる。
 自分の為にこれほど怒ってくれる誰かがいる幸福を感じた。
 
「蓮二、取り敢えず付き添い、お前に頼んでいいか」
「無論だが、俺よりも顧問や特待寮の寮長の方がいいのではないか」
「お前がいい。俺、状況がよくわかんねーからお前が喋ってくれよ」

 お前が頼りなんだ。
 そう言うと、柳の双眸が大きく見開かれる。そして、次の瞬間にはいつもの冷静沈着な「柳蓮二」の顔に戻った。
 赤色灯を点滅させた白い車体がコートの脇に到着する。担架を持った救急隊員が二人、千尋の座っている場所へ向けて駆けてきた。コートの周りはすでに野次馬だらけだ。そんなことも今気づいた。
 大ごとにしたくない、というのが千尋の願望だったが、既にそれは叶わない願いだと知る。三年生がどうして突然の凶行に及んだのかはぼんやりとしかわからない。彼は最初から幸村を標的としていた。千尋がそれを阻止しようとしたから巻き添えを食っただけで、当初の標的ではなかった。
 ただ、彼は「元レギュラー」で今シーズンから彼の出番はなくなった。その一点において、幸村と千尋の間に根源的な違いはない。彼をレギュラーの座から追いやった遠因である一年生は六人いる。それでも、三年生は幸村だけを狙った。
 何が彼を駆り立てたのだろう。
 そんなことを思いながら担架の上に寝かされる。救急隊員と柳が状況を確認し合って、車両に乗った。応急措置を受けながら、隊員の一人が搬送先を探しているのを遠くに聞く。病院に着いたら起こしてほしい、という何ともずれた言伝をしたところで千尋の意識は途切れた。
 こめかみの辺りがずきずきと痛む。満身創痍、というのは今の千尋のことを言うのだ、とぼんやり思いながら暗闇の中に沈んだ。
 次に目覚めた千尋が見たのは真っ白な天井だった。クリーム色のカーテンで仕切られたベッドの上に寝かされている。結局、千尋がどこに搬送されたのかは知らない。知らないが、ここが病院でどうやら大部屋の一つにいる。それだけはわかった。
 意識を失う前に、どうやっても動かなかった右腕のことを思い出し、そっと動かそうとする。緊張が走った。動かなかったらどうしよう。恐怖が千尋の胸中にある。それでも、腹を括って右腕に力を込めた。

「痛っ」

 鈍い痛みが肩で生まれる。それでも、千尋の右腕は千尋が思い描いた通りに動いた。痛みの強さはそれほどではなかった。県大会の三回戦で千代に殴られたみぞおちの痛みよりもなお軽い。咳き込むほどの痛みではなかったから、しばらくすれば治るだろう。
 千尋は安堵して、そして周囲を見渡す。誰もいない。こういうときは付き添いの誰かがベッドサイドで緊張感から解き放たれて眠っている、というのがセオリーなのではないだろうか。そんなつまらないことを考えていると、不意にクリーム色のカーテンが揺れる。
 ひだのある布地の向こうから姿を現したのは、松葉杖をついた千代だった。

キワ、はよ」

 緊張感の一切ない、普段通りの定型句に千尋の中に少しだけ残っていた緊張感がかき消える。千尋は千代のこういう不器用な優しさが決して嫌いではない。
 千代の右足には包帯が巻かれているが、ギプスをするほどではないらしい。杖を不慣れな手つきで操りながら、千代は千尋に与えられた空間に入ってきた。片手でベッドサイドの椅子を引き出して座る。彼の背中の向こうには大きな窓。そこからは眩しい光が射し込んでいた。

「ダイ、今何時だ」
「朝の九時。お前、昨日一晩起きなかったんだ」
「付き添いとかいねーのかよ」

 故郷の両親に突然神奈川まで来いというのがどれぐらい無理なことなのかは千尋もわかっている。だから、別に家族がいないことにはそれほど落胆しなかった。
 ただ、付き添いを頼んだ筈の柳がいないのが何とはなしに切なさを煽る。一晩明けても、今日は平日だ。柳には学校がある。帰って当然だ、と気付いて自分自身の意味のない感傷を切り捨てた。
 千尋の小さなわがままに千代は苦笑しながら答える。

「顧問がさっきまでここにいたけど、手続きするからって看護ステーション行ってる」
「で? 俺は無事なわけ?」
「意識がはっきりしてるなら俺と一緒に今日退院出来るってさ」
「何、お前も入院してたのかよ」
「うん、見ての通り、安静って言われたから」

 言って千代が自分の右足を指す。学校指定のハーフパンツの裾の下で包帯が自己主張しているが、千代の顔色は明るい。お互い大した怪我ではなかったのだろう。安堵した千尋は軽い口調で問い返した。千代も深刻そうな顔はせずに、淡々と答える。

「切ったって?」
「二針縫っただけだ。すぐに治る」

 千代はすぐと言うが、二針も縫う裂傷が一日や二日で治る筈がない。
 千尋は千代の言葉の端に焦りを感じた。ただ、それを指摘しても何も変わらないし、多分今の千代は自分の焦燥と向き合うだけの余裕がないだろう。強がりだろうと言うのは簡単だ。でも、それは千尋の印象の押し付けでしかない。
 だから、千尋は千代の焦りを見なかったことにした。
 代わりに彼が庇った友人のことを尋ねる。

「精市は?」

 怪我一つない。安心していい。
 千代がそう答えるのを安堵と共に受け止める。自分のしたことが無駄でなかったという安心感と、達成感が千尋の中で生まれた。それでも、全身はひどく痛む。千代の右足に巻かれた包帯が視界の隅でちらちらと存在を主張していた。
 それでも、千代はなおも淡々と状況を説明する。
 幸村は無事だ。それでも、と言葉が続いたから疑問符を頭の上に浮かべながら千尋は話の先を促す。

「サダとレンも含めて、三人ともげきおこぷんぷん丸」
「なんだそれ」
「うちの姉貴が面白半分でずっと言ってるギャグ」
「で? 意味は?」
「最近俺たちが教えてもらった熟語でいう『怒髪天』」

 その言葉には聞き覚えがある。千尋も三日ほど前に必死に漢字練習帳に書き殴った熟語だ。意味はこれ以上ないほどの怒りを意味している。本当に、本気の本気で怒っている。説明するとこれほど長くて煩雑なのに、熟語は漢字三文字でそのことを端的に表現する。知識の価値を体感して、千尋は柳が千尋に勉強も存外悪くない、と言われたことの意味をほんの少し理解した。

「怒髪天! その三人が怒髪天! 終わったな、先輩」

 幸村、真田、柳。この三人を本当の意味で敵に回すと怖い、というのを千尋は感覚で理解していた。テニスの実力はもちろん、学業の成績もよく、家柄もちゃんとしている。そんな三人の人脈が多岐にわたっていることは当然言うまでもない。
 部内はもちろん、学校内での信頼も篤い。その三人が揃って行動を起こすのなら、幸村を傷つけようとして、千尋と千代に怪我を負わせた三年生の先輩をあらゆる意味で抹殺することは決して不可能ではないだろう。死ぬよりなおつらい思いをする元レギュラーの先輩のことを思うと不憫だったが、千尋はその彼に害された。いい気味だ、と思って人の不幸を喜ぶ自分を少しだけ軽蔑した。
 そんな、千尋の心中の駆け引きなど知らない千代が表情も声色も変えずに静かに言う。

「ついでに言うと、俺とシュウも怒髪天だから」
「まぁお前も被害者だしな」
「何他人ごとみたいなこと言ってるんだよ、キワ。俺たち、関東大会のレギュラー選抜戦は欠場になったんだぞ」
「え?」

 当事者でありがなら、傍観者の立場を貫こうとしていた千尋の耳に、千代の言葉が鋭利な痛みを与える。関東大会のレギュラー選抜戦を欠場。勝ったとか負けたとか以前に、その勝負の舞台に上がることを拒まれたのだ、と理解するのに数拍必要だった。
 次こそ、幸村に勝つ。真田と直接対決をしたら絶対に負けない。そんな夢のような希望と願望を抱いていた千尋の胸を抉る言葉が聞こえて頭の中が真っ白になった。
 千尋が絶句したのを察した千代が説明を重ねる。

「俺もお前も全治二週間。その間、運動禁止だから選抜戦は参加出来ない」
「マジ?」
「こんな後味の悪い嘘吐く趣味があるわけないだろ」
「まぁお前の性格考えたらないな」

 溜息と共に千代の憤りが伝わってくる。顔色一つ変えないのは落ち着いているからではない。激昂しているからだ、とやっと気づく。O型だから、おおらかだ、という先入観の押し付けをしていた千尋自身がA型なのに細かな気配りが出来ていないことと向き合って、やっぱり血液型性格占いには意味がないのだと知った。
 全治二週間。その間はなにも出来ない。
 ロードワークも、朝練も自主練も、筋トレも何も出来ない。その間、他の部員は確実に練習を重ねる。置いていかれる恐怖が千尋の中で生まれて、同時に、一人でロードワークに出なければならない徳久のことが気になった。
 その、複雑な感情の波を受け止めていると、不意に千代がぶすっとした顔で尋ねる。

キワ、お前、怒んないのかよ」

 怒っていないわけではない。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだという憤りはもちろんある。それでも、どれだけ憤っても怪我は治らないし、千尋が夏の大会に出場出来るようにもならない。
 それに。

「お前とか蓮二とかが怒ってんの見てたら、なんか色々どうでもよくなってきた」

 千尋の為に怒ってくれる友人が何人もいる。
 お互いを蹴落とし合うライバルのはずなのに、千尋の為に怒ってくれる。それは、千尋にとってはきっと財産だ。千尋の学力はたかが知れている。多分、一生柳に追いつくことはないだろう。それでも、千尋の直感が告げる。千尋は決して悲劇の主人公ではない。
 夏の大会が終われば三年生が引退して、二年生と一年生で秋の新人戦に臨む。それが終わったら春の大会があって、そうするうちに来年の夏の大会が始まる。
 千尋の目の前に、その道のりがずっと見えているのに今、焦っても何にもならない。
 投げやりな言葉に親愛の情を込めて言った。
 千代が不満げにそれを受け取る。多分、千代ももう気付いているだろう。

「特待生なのに試合に出られないのもどうでもいいのかよ」
「精市が前に言ってた。選手にとって負けよりも怖いのが怪我だって。未来なくなるからって」
キワ、お前、時々生意気なこと言うよな」
「ダーイーちゃーん、それはこの間あんだけ謝った話題だろ」
「だってそうだろ。頭悪いし、勉強も出来ないくせに、時々自分だけわかったようなこと言って聞き分けのいい優等生ぶってる」
「優等生とか、お前、目、大丈夫?」
「俺達にはテニスしかないのに、そのテニスを取り上げられて平気な顔してるお前ってすごいのか鈍いのか判断出来ない」
「すごくもないし、鈍くもねーよ。普通に怒ってるし、なんで俺がこんな目に遭わなきゃなんねーんだって思ってる。でも」
「でも?」
「現実逃避して、原因探しして、文句言って、同情買って、それで何になるんだよ」

 何にもならない。この論法が反語だということを今の千尋は知っている。
 時間はずっと流れていて、毎日はずっと続いていて、その中で小さな変化がいつか大きな結果につながる。その、繰り返される毎日と戦うことを決めたのはほかでもない千尋自身だ。今更、全治二週間の怪我ぐらいで置いていかれるだの、追いつけなくなるだの泣き言を口にするだけの弱さは持ち合わせていない。置いていかれて、追いつけなくて諦めるなら千尋はそこまでの選手だ。
 だから。
 本当はもうそのことに気付いている千代に苦笑いを送った。千代がばつが悪そうに下を向く。

「ダイ、俺一人なら、多分ここで諦めてた。何の巡りあわせなのか、俺にはわかんねーけど、お前が、ダブルスの相方が一緒に立ち止まってくれるから、俺は一人で色んなもの背負込まなくてすんでる。よかったなんて言わねーよ。こんな状況でよかったとかあり得ねーしな。でも」
「何だよ、キワ
「ダイ、二週間、俺と一緒に耐えようぜ。俺たちなら出来るだろ。一緒に、つらいこと噛みしめながら、その先のこと考えようぜ」

 気障ったらしいことを言っている、と千尋自身思う。
 それでも、綺麗ごとでも机上の空論でも、思いは伝えようとしなければ伝わらない。ボールは千尋の気持ちを表してくれるかもしれない。でも、そのボールに触ることは禁じられた。だから、千尋が自分の思いを伝えたいなら言葉にするしかない。
 柳が教えてくれた二つの熟語を思い出す。
 不言実行と有言実行。
 不言の方が恰好いいと思っていた。何も言わずに結果を残す。最高の勝ち方だと思った。それでも、千尋は有言の方を選んだ。千尋の戦いは一人で完結するものではない。千代と一緒に戦っていく。だから、千尋は敢えて言葉を残すことを選んだ。
 その、千尋の不器用な決意が千代にも伝わる。
 彼の顔から剣呑さが薄れて、千尋を見る眼差しが幾分柔らかくなった。

キワってさ、馬鹿だよな」
「仰る通りで」
「でも、俺もお前が相方でよかったって思う。お前見てると、励まされるし、俺が悩んでるのなんて馬鹿らしくなる」

 一年生の夏は一度しか来ない。その夏を見守ることしか出来ない。
 わかっている。わかっているから、千尋も千代も悔しさを味わった。自分を生かす機会が減った。これが損失でないと思うなら、千尋たちは早晩特待生の座を手放すだろう。
 それでも、千尋は一人ではない。
 テニスは一人で戦うものだと思っていた。地元にいた頃はずっとそうだったし、そういう戦いが続いていくのだと疑いもしなかった。
 なのに、立海に来て団体戦を戦う重責を知って、ダブルスで戦う相方を得た。
 千尋の世界がまだ見たことのない輝きを持っている。その輝きを追っていきたいと思っていたのに現実はブレーキをかける。
 その悔しさは多分、「怒髪天」の仲間たちが本当の意味で理解することはないだろう。
 それでも。

「ダイ、帰ろうぜ。精市たちは置いていくのに罪悪感持つようなやつらじゃないだろ。蓮二じゃねーけどさ、あいつらの試合見て、次当たるまでに勝てる方法考えようぜ」
「お前って本当に前向きだな。怪我も治ってないのにもうそんなこと考えてるんだ」
「いや、だって後ろ向きにずっと怪我したこと後悔しても仕方ねーし、先輩とは多分もう二度と会わねーだろうし、文句言う相手もいないんだぜ? あいつら遠慮なく練習して強くなるんだから、出来ることはやっとかないと別の後悔するだろ」
「確かに。言えてる」

 そうして、視線が交錯するとどちらからともなく笑みが浮かんだ。
 折よく戻ってきた顧問が、千尋の体調を問う言葉を幾つか重ねて、退院に問題がないと判断される。昼食をとったあとで、顧問の車で特待寮まで送り届けてもらうと、その玄関口には怒髪天の四人が待っていて異口同音に千尋と千代を気遣う言葉を聞かせてくれた。
 馴れ合いなどしないと思っていた。
 一人でも十分戦えると思っていた。
 自分は前を向いていると思っていた。
 顧問の姿が消えて、幸村たちだけが残ると、緊張感が緩み、千尋の頭の中が真っ白になった。テニスが出来ない。大会に出られない。わかっている。納得した。それでも、十二の千尋にとってはそれは大きな事件で、気が付くと嗚咽していた。柳がゆっくりと励ますように涙を零す千尋の背を撫でる。千代も泣いている。号泣なんてみっともない。わかっていても涙は次から次へと零れる。
 結局、泣き疲れて目頭が腫れるぐらいまで泣いて、千尋と千代は自分の部屋に戻った。ルームメイトの堺町秀人(さかいまち・ひでと)が彼の私物であるココアパウダーで作ってくれたホットココアの味は多分一生忘れないだろう。
 その日以来、凶行を引き起こした張本人はまるで最初からいなかったかのような雰囲気になり、一族も巻き込んで社会的に抹殺された。彼の名前を口にすることすらタブー視され、千尋は現実社会の残酷さを知る。
 その五日後、関東大会のレギュラー選抜戦が開幕した。