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10th. 強いより弱いより

 後悔という言葉は後で悔いることを表している。
 その「後」の定義を決めるのは悔いる本人の自由だ。一秒後でも、二日後でも十年先でもいい。いつまでに悔いなければならないという決まりはない。ことが起きてから、悔いる本人が死ぬまでの間、つまりは永遠にも近い間悔いる権利が認められる。
 それをいつ行使するのか、あるいは最期まで行使しないのか。それすらも本人の自由だ。
 関東大会のレギュラー選抜戦が始まった。常磐津千尋は先日の怪我により、千代由紀人(せんだい・ゆきと)と二人で安静を言い渡されたのでスコアラーを務めている。マネージャーたちに混じってそうしていると、少しは気分が紛れた。
 千尋が今までにスコアラーを務めたことはない。小学校の頃はトップ選手だったから、いつも優先的にコートの中にいることが許されていた。立海に来てからも特待生待遇だったし、何よりここには優秀なマネージャーが揃っている。千尋たち部員はテニスをすることに専念していた。だから、この仕事をするのは生まれて初めての経験だ。
 本当なら。
 あのコートの中を駆け回っているのは自分だったのに、と何度も思う。
 思うだけで表情には出さないし、誰にも愚痴ったりしない。
 病院から帰ってきたあの日、千尋と千代は一生分泣いたと思っている。人生は思い通りにならない、ということを神様だとかいう存在が教えたいのなら、そいつはきっと酷く悪趣味で自己愛性に満ちている。こんな非道な真似をしなければ伝えられないような表現力なら、人に何かを伝えることなどそいつが諦めるべきだ。
 だから。
 千尋は運命と戦うことを選んだ。人の不幸に訳知り顔で説教をぶつけるようなやつのことなど知らない。中学一年の夏は一度しか来ない。わかっている。わかっているから千尋は泣いた。泣いて、泣き疲れて、千尋は人生を割り切るという決断をした。過去を引きずって後悔に明け暮れて、今持っているものすら失うのにどれだけの意味があるだろう。千尋はそんなものに価値がないことを知っている。
 後悔がしたいならもっとずっと先でいい。今は、前を見て走るのが最善だ。
 千尋と千代が所謂名誉の負傷で欠場することを、千尋たち以上に後悔して憤っているやつがいるし、悔しい気持ちは何も変わらないが、今年の夏はそいつ――幸村精市に託そうと決めた。
 幸村だけではない。真田弦一郎、柳蓮二、徳久脩(とくさ・しゅう)。千尋の親しい友人たちは千尋と千代の為に最高の勝利を求めている。置いていかれる不安がなかったわけではない。ただ、幸村たちが勝ったら自分のことと同じように喜ぼう。
 そんなことを思いながら、この五日間、千尋と千代はずっと彼らを見守ってきた。
 千尋の担当したコートには真田がいる。真田のテニスはタイプで言えばパワー系だが、相手に合わせて攻め方が変わる、というのを自主練を重ねるうちに理解していた。
 この五日間、千尋は柳が集めた部員全員分のデータの分析を手伝った。柳の分析は千尋にとって高度すぎてとても理解出来るものではなかったが、彼の言葉を受けた幸村が効果を即実行してくれたことで、ある程度の効力は実感している。
 真田が今、対戦している三年生の先輩のデータももちろんあった。得意なコース、それを狙う頻度、判断するべききっかけの行動。それらを詳細に分析して、柳は千尋たちに説いた。真田ももちろん、それを聞いている。
 コートの中で走り回る真田の試合を観察しながら、千尋は柳の言葉を一つずつ思い出していた。三年生の先輩の得意コースを看破して、真田が力強いパッシングショットを決めた。あれも柳の分析だ。どこに来るかわかっている打球ほど処理の簡単なものはない。真田なら柳の分析がなくても同じ結果を残せるが、前もってわかっているのに越したことはない。幸村ならあそこでもう何球か引っ張って体力を削ることを選ぶだろうが、真田は圧倒的な勝ち方――柳の言葉でいう「綺麗な勝ち方」に拘る。その点において、真田は千尋と近いプレイスタイルの選手だと言える。
 ただ、真田には王たる素質がある。千尋にはない。正々堂々、正面から相手を叩きのめす。その威風は三年生の先輩に少しも見劣りしない。
 コートの外にいる真田は年功序列を馬鹿みたいに気にする、ただの堅苦しいやつだが、コートの中にいるとそんなものは微塵も感じさせない。千尋はそういう真田の割り切ったところを素直に尊敬している。多分、真田に変化の理由を聞いても幸村が言った「侮蔑」という概念に含まれる答えしか返ってこないだろう。
 そんなことをぼんやりと考えながらスコアを書いていく。
 結局、この試合は真田のワンサイドゲームで終わった。
 隣のコートでは幸村が戦っている。そちらを見に行くだろう、と勝手に千尋は思っていたのに、千尋が腰かけたベンチの空き席に真田が座った。

キワ、ドリンクはあるか」

 不意にそんな声が聞こえる。ドリンクなら千尋の左側にサーバー単位で置いてある。好きなだけ注いで飲めばいい。適当にあしらうか、無視するか、相手をするかで逡巡して、結局は無言でマネージャーが用意したドリンクボトルを渡す。真田がそれを受け取てやはり無言で飲む。
 こいつは何がしたいんだ。真田との距離の取り方に対する答えを持っていない千尋はしばらくの間、居心地の悪さを味わった。「なぁ、サダ」スコアブックに真田の圧倒的な戦績を記述しながら、千尋は隣の友人に声をかける。

「お前さぁ、バックハンド苦手だろ」

 蓮二のデータにもなかったし、多分お前も気付いてないと思うけど。
 付け足した言葉が真田の感情を逆なでするだろうことは理解していたが言った。
 激昂が返ってくる。そこまでは覚悟していたが、現実は少し違っていた。

「例えば、どんなときにそう思った」
「一試合目で錦先輩と当たっただろ」

 お前が二ゲーム取った後だ。お前のサービスゲームで、お前ずっとやりにくそうだった。
 訥々と言葉を重ねる。真田はそれを怒るでもなく、否定するでもなく、かといって相槌を打つでもなく、ただ聞いていた。余計なことをしている。そんな感覚があった。それでも、千尋の言葉はひとつ、ふたつ、と重なっていく。

「結果的に今は勝ったけどさ、次、最終リーグで当たったら多分狙われる」

 立海の先輩たちは本当に容赦がない。弱点を見せる方が悪い。そう言わんばかりにウィークポイントは狙われる。だから柳はデータを集める。真田は徹底して練習を重ねる。千尋はその結果を抱いて、試合をずっと見ている。
 今日の第一試合の感想を素直に吐露すると、真田がドリンクボトルをベンチの上に置いた。
 そして。

「根拠は? と言いたいところだが、お前が言うのならそうなのだろう」
「否定とかしねーの?」
「否定されたいのか?」
「否定されて喜ぶ趣味はねーよ」
「では問題ないではないか」
「いや、まぁ、そうなんだけど」

 変な奴だ。言った真田の口元が僅かだが綻ぶ。千尋はその表情の変化に両目を瞠った。真田の笑顔は実に「レア」だ。殆どの相手が見ることがない。だから、真田の評価はいつも鉄面皮だとか無表情だとか、そういう薄情なものになる。
 それでも、千尋は知っている。
 真田が千尋と千代のことを本当に気遣ってくれていることも、千尋たちの為に彼が出来ることは試合で勝つことぐらいだということも、今、真田は千尋を元気づけようとしていることも。全部、ちゃんと知っている。
 真田の内側には千尋の居場所がある。それが揺らいでいないことを示しただけだ。それが真田にとっての最上の友情の表現であり、今、彼に出来る気配りだということを千尋も再認識すると、自然と千尋の口角も上がる。

「なぁ、サダ」
「何だ、キワ
「怪我が治ったらさ、俺の弱点、お前が見つけてくれよ」
「他力本願ならダイかシュウにしろ。俺は軟弱なことはごめんだ」
「お前がいいんだよ」

 多分、お前が一番先に見つけてくれる。
 そんな期待を込めて言葉を重ねた。千尋の視線は第四試合が始まったコートの中に向いている。隣に座った真田も同じようにコートの中を睨んでいる。視線が交わるわけがない。なのに、どうしてだか、真田の表情の変化がわかる。この感覚の名前はわからないし、知る必要もない。多分、真田と千尋の中でしかこの感覚は存在しないのだから、それだけがわかっていればそれでいい。

「念の為、理由を聞いておこう」
「理由? わかってるだろ? 無駄の嫌いなお前がよく言う」

 明るくて人懐こい徳久とは対照的な存在の真田。無駄が嫌いで、自分にも他人にも厳しい。
 特待生三人とは別に一年生の中でも群を抜いて強い真田たち三人が三強と呼ばれ始めているのを千尋も知っている。その、三強と特待組の最善の組み合わせならもう既にわかりきっている。千尋と柳、千代と幸村、そして徳久と真田。それぞれ違うタイプで、お互いに足りないものをお互いが持っている組み合わせだ。
 それとは別に、この六人の中で感覚的に「近い」タイプの組み合わせがあるのも、それぞれ何とはなしに理解している。
 柳と千代、幸村と徳久。そして、真田と千尋
 価値観だとか、プレイスタイルだとか、そういう共通点を持っている組み合わせだ。千尋も真田も薄々気付いている。だから、真田は千尋の隣で第四試合を見ている。
 そういうことだろう、と言外に含ませれば「俺はお前のように気分で試合をせん」と否定の言葉が返ってきた。
 そして、その答えが真実、肯定を意味していることを察して千尋は破顔した。

「サダ、お前、いいやつだな」
「持ち上げても結論は変わらんぞ」
「いや、今のはただの感想だから気にすんな」
「ただの感想なら胸の内で留めておけ。いちいち口にするな、男だろう」

 真田の中での理想の男像が漠然と語られる。真田にとってはそれが理想かもしれないが、千尋の中の偶像とは一致しない。それを今、試合のスコアをつけながら議論するべきかどうかなら迷う必要はない。十人十色。千尋が今週、漢字練習帳に書き綴るように指示された単語が不意に頭の中に思い浮かぶ。みんな違ってみんないい。かつて言葉を生み出した人々も今を生きている千尋も、感じることはそれほど違いがないのだと知って、千尋は国語が少しだけ嫌いではなくなった。
 だから。

「いいじゃねーか。俺は有言の方選んだだけだし」
「何の話だ」
「先週、国語の授業であったろ。有言実行と不言実行ってやつ」
「二択か」

 国語の話題だったからそれに乗る。千尋だって少しぐらいは知性のある会話が出来るのだ、と示したかっただけだが、悪戯心が余計な台詞を口に上らせた。

「有言不実行と不言不実行も混ぜるか?」
「勝手に日本語を作るな」

 言ってから実行する。言わないで実行する。その二つで不満なら、言っても実行しない。言いもしないし、実行もしない。そんな選択肢を増やすと真田は千尋の冗談を切って捨てた。勝手に日本語を作るな、と真田は言うが言葉というのは勝手に生まれていくものだ、と柳は語った。千尋が今作った単語も一千年ぐらい経てば日本語になるかもしれない。多分、その可能性は限りなくゼロに近いだろうが。
 軽い叱責を受けたぐらいで、自我が揺らぐほど千尋はか弱くはない。
 寧ろ、開き直れる強さを持っている。
 だから、千尋はこの場所にいる。

「じゃあ二択だ」
「じゃあも何も、二択以外ないだろう」
「だったらどうして『二択か』どうか聞いたんだよ、お前」
「狡賢い方には頭が回るのだな、お前は」
「人生を柔軟に生きてるだけだって。お前と違って」

 言外にお前は堅苦しい、と含ませる。また反駁されるのか、と僅か身構えたが真田は穏やかな顔で「そうだな」と言うに留まった。

キワ、お前は強いな」
「何だよ、急に。っていうか、俺、お前よりは色んな意味で弱いんですけど!」

 テニスの腕前を比べる基準は前回のレギュラー選抜戦ぐらいしかない。その順位で言えば、千尋は真田より下位に当たる。勉強ならもっと酷い。千尋が持っている数字は598だ。真田の一桁や二桁には遠く及ぶはずもない。人としての人徳ならどうにか比べられるかもしれないが、十二歳の千尋の器などたかが知れている。以前、柳にも器の話をされたが、千尋はどうして自分の評価がそうなるのかが全く理解出来ない。大きな器を持っているのは真田たちの方だ。断言出来る。
 なのに。

「弱さを認められるのは強さだ。自身が強くないと知って、なお研鑽出来るものは十分に強い。俺はそう思う」
「それ、お前のことだろ?」
「俺か? 俺はお前ほど強くはない」

 俺がお前なら、多分、今ここに座って平然とスコアを取ることは出来ん。
 その真田の言葉が千尋の耳朶に届く刹那、彼は顔色をなくして弁明を始める。その双眸に第四試合のコートが映っていないことは疑う必要すらない。
 多分、真田は自分で口にした言葉が彼の意図していない意味を持ったことに気付いたのだろう。千尋は「平然と」座っているわけではない。本当は息が詰まりそうなほどの苦しみを抱えている。なのに、真田は彼の言葉でそれを否定してしまった。

「サダ、俺のことはいい。試合、見てろよ」

 お前、ちゃんと勝ってくれるんだろ。
 最終リーグに残って、最終リーグで勝って、そして上位七名に残る。残ったからには関東大会と全国大会で深紅の旗を持って帰る。そこまでを彼は彼の胸の内で誓った筈だ。だから、千尋の顔色など気にしなくていいのだ。結果だけが全てだなんて悟ったようなことを言うつもりはない。本当は千尋がその旗を手に入れたかった。それが叶わないから、千尋は真田たちに気持ちを託した。
 その、託した気持ちと一緒に戦ってくれる相手だと信じられる。
 だから、失言の一つやふたつぐらいどうということはない。
 その程度で揺らぐ気持ちは信念とは呼ばないということを千尋は無意識的に理解している。
 だから。

「サダ、お前の所為じゃねーよ。お前、なんも悪くねーし、寧ろ俺とダイの期待、勝手に押し付けてお前も重たいかもしんねーけどさ、じゃあそれでお互いさまでいいんじゃね?」
キワ、日本語が崩壊しているぞ。だが、言わんとしていることはわかる」
「日本語って難しいよな。俺、日本人で普通に日本語喋ってるから問題ねーって思ってたけど、それって俺が大丈夫なんじゃなくて、聞いてくれる相手がすげーんだなって最近やっとわかった」

 自己満足はいつでも出来る。自分の心の中で自分で決めたボーダーを下げるだけで、いつでも出来る。勉強が出来なくてもいい。勝手に自分で決めていたから、千尋は苦しいことなんて何も感じなかった。
 でも、それはその場しのぎの誤魔化しで、本質的には何の価値もなかったのだと、中学生になってやっとわかった。努力出来るやつは特別だと思っていた。そう思うことで努力をしない自分を肯定していた。
 千尋がどれだけ努力をしても、多分幸村や真田たちのように一桁の成績を取ることは出来ないだろう。それが才能の差だ。わかっている。それでも、望んで求めなければ何も始まらないことを知った。
 生まれて初めて努力をする苦しさと向き合って、やっとスタートラインに立ったと思ったのに一番好きなテニスで置いていかれる。一番好きなことが出来ない。その苦しさは思っていた以上に重たくて、すぐにでも逃げ出したくなる。
 それでも。
 千尋はここに残ることを選んだ。
 だから。
 真田がそんな顔をする必要はどこにもないのだ。彼の小さな失言を心底後悔しているなら、そんな顔はしなくてもいいのだ。

キワ
「だから! サダ、言い間違いとかさ、気にすんなよ。お前が、本当に俺のこと見てるなら、強いとか弱いとかそういうんじゃなくてさ、嬉しいとか、楽しかったとか頑張りたいとか、もし迷惑じゃねーなら、つらいとか悔しいとか、そういうの一緒に経験してくれよ。俺、田舎生まれだからさ、一緒に頑張ろうって言ってくれたの、お前らが初めてですげー嬉しくて」

 特待生だと敬遠されたときに、千尋は千代と徳久以外の友人がほしいという望みと決別した。それでも、真田たちは歩み寄る余地を与えてくれた。そんなやつ、千尋の十二年間には誰一人としていなかった。
 テニスが強い。それ以外の長所を見出せなかった千尋のことを客観的に評価してくれたのは柳が初めてだ。生まれて初めてのプレッシャーに負けそうになって、助けるだけではなく、突き放すことも優しさだと教えてくれたのは幸村だ。
 そして。
 真田は厳しさの裏側に隠れている気持ちもまた思いやりだということを教えてくれた。今では三人とも千尋の中にいる大切な友人だ。
 その、かけがえのない友人を守る為に体を張った自分自身を恥じたりするつもりはない。間違ったことはしていない。道を踏み外したのは加害者であって千尋も千代も、そして運悪く標的となってしまった幸村も、誰一人恥じたり責任を感じたりする必要はどこにもないのだ。
 それでも。
 そうだとしても、千尋は一番好きなテニスをただ眺めていることしか出来ない。
 今は耐えるときだ。頭ではわかっている。人のテニスをただ見るのではなく、戦略的な視点で観察するのは決して無駄ではない。わかっている。
 それでも。
 千尋はテニスのことを心底愛しているのだ。
 涙なんてもう出ないと思うぐらい泣いた。
 なのに千尋の頬の上を雫が伝う。
 真田が彼の汗臭いタオルを千尋の頭から被せる。人のタオルの匂いなんてごめんだ。そう思うのに、同じぐらい安堵して千尋の両目は次から次へと雫を零した。
 千尋より大きな真田の掌が乱暴に頭を撫でる。

キワ、もういい、わかった。もういい」
「わかんねーだろ! 蓮二と精市がいたお前にはわかんねーだろ! こんな気持ち、わかんねー方が絶対いいんだ」
「そうだな、俺にはお前の気持ちは本当にはわからん。わからんが、俺がお前だったら不貞腐れて全ての努力を放棄しているだろう。お前とダイが俺たちに託したものの重さを量り違えていたようだ」

 すまない。言って真田が千尋の手からスコアブックを勝手に受け取った。ラリーの続く気配に、真田は千尋が書いたスコアを一枚ずつ丁寧な手つきで捲って何かを確かめているようだった。
 真田がそうした意図が千尋にはわからなくて、あるいはスコアラーの役割ですら千尋には役者不足だと言われたようで、焦りが生まれる。泣き止まない両目を無理やり手でこすって顔を上げる。滲んだ視界に今まで見たどんな真田より優しい顔をした真田が映った。

「サダ、返せよ」
「もう少しぐらいいいいだろう」

 初めて書いたとは思えない、記録者の思いやりに富んだ丁寧なスコアだと真田が言う。千尋の対戦相手としては不足のあるテニス初心者の試合でも、一ポイントずつきちんと記されている。そのうえで欄外に千尋なりの改善点が書いてあるのがいい。どの試合も公平な目で見ている。お前は本当にテニスが好きなのだな。
 そんな風に言われて、驚きと嬉しさで涙が止まった。

「お前ほどじゃねーよ」
「いや、お前には負ける」
「いやいやいや」
「ではお互いさまという落としどころはどうだ」
「そうだな、それなら別に問題ない」

 泣き止んだ千尋の視界にはもう仏頂面の真田しかいなかったから、一瞬、千尋は幻でも見たのかと思ったが、自分の記憶を疑わなければならないほどは耄碌していない、と結論付けた。
 テニスのことが本当に好きで、今まで続けてきた。テニスが好きすぎて千尋の周りから人が離れていった。そんなことで千尋の気持ちを試したのなら、神様とかいう存在は本当に悪趣味だ。
 試されなくても、千尋はずっとテニスが好きだし、続けていく。
 それでも、同じ目線の高さで戦える友人との出会いも運命の一つなら、それだけは感謝してやってもいい。そんな風に思う。
 後悔はいつでも出来る。悔しさはそんなに綺麗に消えたりはしない。多分、今のこの気持ちは決してゼロになることはないし、生きていればこの気持ち以上の悔しさもどんどん増えるだろう。
 それでも。
 戦うことを選んだ。自分で決めた。その気持ちを受け取ってくれる仲間がいることを不幸中の幸いだと思えるぐらいには分別もある。
 だから。

「サダ、頑張れよ」
「無論だ」

 汗臭いタオルを頭からはぎ取って真田に返す。この予選リーグで最終リーグに残りそうなのは真田と錦先輩ぐらいだ。その、錦先輩に真田は勝った。全勝を目指せ。言わずに拳を突き出すと真田の拳がこつんと触れ合う。
 その真田の真摯さと情熱と優しさで、千尋はあと二か月も続くスコアラーの仕事を頑張れると思った。