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18th. 感傷の広報活動

 全国大会で優勝を果たした立海大学付属中学テニス部の次の目標は新人戦の制覇だ。全国大会のような規模ではなく、県下でのお披露目戦のようなものだから、特別に意気込んでいるものは多くなかったが、それでもモチベーションは上がっていた。
 ジャッカル桑原が特例措置を受けて四人目の特待生として立海に来てから一週間が経った。新人戦のレギュラー選抜戦にも参加して、八面六臂の活躍、というのが理想だが、新部長の平福との面談の結果、桑原はスコアラーの役割を与えられることが決まっている。常磐津千尋は数か月前の自分と照らし合わせて、その役割に収まることがどれだけつらいかを平福に陳情したが、部のルールも完全には覚えられないような選手を選抜戦に出すことは出来ない、と頑として譲らなかった。
 結局、新人戦のレギュラーは二年の特待生である河原と佐用、そして全国制覇を支えた三強と千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)で確定した。倉吉は控え選手として登録されることになり、桑原と二人、スコアラーを務めることを前向きに検討している。
 新人戦があるのは十一月だ。
 優勝以外の戦績は認められない。神奈川の覇者・立海の名に恥じない試合をしたい。その為には練習に次ぐ練習を重ね、今よりもレベルアップするしかない。
 一年生のコートからレギュラーコートへ戻った千尋と千代を待っていたのは三面ではなく、二面で河原はその采配をした平福に不満を隠さない。レギュラーが三面使って、残りをほかの部員が使えばいい。あからさまに傲慢を絵に描いた河原とレギュラー選手になったことのない部長との攻防が毎日続く。千尋は十六人で二面のコートなら満更間違った配分でもない、と思っていたが上級生の攻防に口を挟む余地など当然ある筈もなく、流れに身を任せていた。
 最終的に、勝ったものが正しい、という立海の精神を持ち出してまで河原は三つ目のコートをレギュラーに返還するよう求めたが、部長の方針に従えないならレギュラーから外すと言われて三流の悪役のごとく、捨て台詞を吐いていた。
 その間、我関せずと練習に打ち込むのも人としての情緒に欠けている、という妙な哲学のようなものを抱いた千尋は一年生コートで千代、桑原と三人で丸井ブン太たちの練習に付き合っていた。

「お前らさぁ、ここにいんの、好きなのかよぃ」

 恒例のコートエンドでのボレーボレーが四十分まで続いた。最近では手加減をしなくても、丸井とのボレーボレーが成立する。おかげで時々、お遊びでわざとコースを外して返す、という駆け引きすら生まれていた。お互いが半径一メートルの移動距離を超さない、という大前提が生む遊びを終えて、今日の改善点を丸井に伝えていると、不意に彼が言った。
 ぽつり、零れ落ちるような一言が千尋の耳に届いて、一瞬だけ答えに悩んだ。
 多分、丸井は千尋の心配をしている。でも、こうして一緒に練習が出来ることを手放すのは惜しいとも思っている。千尋は一人しかいないから、どちらか片方しか選べないのに、手放したくない、と思ってしまった自分のことを少しだけ自己嫌悪しているのだろう。そこまでが一拍で理解出来る自分自身に驚いて、なるほど、これが読解力か、と一人納得する。
 好きか嫌いかなら決まっている。千尋はどこでする練習も全部好きだ。嫌いな練習なんてない。幸村精市とやって、絶望感しか抱かない練習試合だって根本的には好きでやっている。いつか勝つ日が来る、その日まで戦い続けることを望んだ。
 だから。

「別に好きとか嫌いとか考えたことないけど」
「幸村君たちとレギュラーの練習してろよぃ」
「ルックにさ、スコアブックの書き方伝えたかっただけだから、もうそろそろ戻るって」

 婉曲な遠慮の表現に気付かなかった体を通す。
 丸井はその婉曲な遠慮へのさらに婉曲な遠慮を理解して、呆れたように笑った。

「いや、それ、俺でも説明出来るんじゃねぃ?」
「誰でも出来ることだって人任せにすんの、最高に格好悪いだろ。それってお前もルックも馬鹿にしてる気がするから、俺はそんなに好きじゃない」
キワ、お前ってさ、最高の馬鹿だなぃ」

 苦笑いが返ってきて、千尋は定型句を返すべきなのかの判断に迷う。
 迷って、悩む時間が許された定型句でないことを察して、場つなぎに質問に質問で返した。

「えっと、それはどっちだ」
「わからない時点で本物の馬鹿。よって非難、決定」
「ダーイーちゃーん、お前のは明らかに煽りだろうが!」
「おーおー、キワちゃんは今日も絶好調じゃのう」
「ハル、お前まで話ややこしくすんのマジやめろ」

 反対側のエンドでラリーの練習をしていた千代と仁王雅治がいつの間にかやってきていて、千尋と丸井の会話に首を突っ込んでくる。お得意の煽り文句が聞こえて脊髄反射で反応を返す。千代の煽りならいつでもわかる。煽っている文句ほどには侮蔑していないこともわかる。だからこそ、千尋と千代の二人でダブルスが成立する。
 最近はそこに仁王が乗ってくるのが定番だ。
 二人とも煽りなのか本気なのかそれとも軽い冗談なのか。見極めの難しいコミュニケーションを好むから、一つ間違えると冷戦の始まりだ。気難しい二人だったが、彼らは彼らなりにお互いの煽りがわかるらしく、千代と仁王の間で言葉遊びをしくじったのは未だに見たことがない。
 溜息を吐く。

「ヤギ、お前、こいつらどうにかしてくれ」
キワ君のリアクションを見ているとダイ君や仁王君がからかいたくなるのもわかりますね。君に振れば言葉遊びが出来る、という信頼から来る煽りです。今後も是非、冴えたリアクションをお願いしましょう」
「ヤギ、お前が一番ツッコミどころ多いんだけど?」

 千尋が生きているのはテレビのバラエティ番組の中ではない。当たり前で普遍的で陳腐な日常だ。その中に、わざとらしい役割分担は必要ではない。
 そのことをどこから説明すれば通じるのか、悩んで、溜息を吐いて、そして答えなど端からないと知る。なるようになれ。投げやりな気持ちで「ルック、お前、頑張れよ」とバトンタッチの宣言をすると、その意味が通じたのだろう。桑原は整った顔立ちで闊達に笑った。

キワ、お前本当にいいやつだな」
「お前には負ける」
「俺? お前の方が断然いいやつだろ」

 スコアブックの書き方教えてくれたし、先輩たちがぎすぎす揉めてるの気にしなくていいようにこっちのコートで色々手伝ってくれるし、キワもダイも本当にいいやつじゃないか。
 そんなことを臆面もなく真正面から言われて、千尋は絶句した。
 日本人の美徳は遠慮と謙遜だ。恥という概念を重んじ、上辺を重視する。だから、煽られても馬鹿正直に煽り返すやつは芸が足りないし、褒められて額面通りに受け取って照れるだなんてあり得ない自意識過剰ぶりだ。
 それでも。
 千尋は桑原の称賛は真実、彼の気持ちだということを信じられる。それは彼が異国の血を引く存在だからかもしれないし、レギュラーを見守ることしか出来ない歯がゆさを千尋自身が知っているからかもしれない。苦境に立たされて、それでも下を向かない。その強かさがあれば、立海で特待生として戦っていくのは決して無理ではないだろう。
 だから。

「ルック、カラ先輩と部長の話し合い終わったっぽいから、明日から俺とダイ、来ねーけど何かあったら晩飯の時にでも相談してくれよ」
「カラ先輩もいるのに、か?」
「いないとき、に決まってるじゃねーか。あの人、飯最速だからいないときのが多いし」
「だな。了解了解。でも、多分、えっと、こういうとき日本語で何て言うんだったか」
「桑原君、『取り越し苦労』でしょう?」
「そうそう、それ。お前の心配してることにはならないさ」

 任せてくれよ。俺も特待生なんだからさ。
 一点の曇りもない桑原の笑顔を見ていると、本当に取り越し苦労なんじゃないかという気がする。出会って一週間しか経っていない、ということを忘れさせる桑原のコミュニケーション能力の高さに感心すると同時に、彼の爽やかな笑顔は徳久脩(とくさ・しゅう)を想起させた。監督はそこまでを計算して桑原を連れてきたのだろうか。そんなことを束の間考えて、答えなんてどっちでもいい、という結論に達する。千尋は思い出の中の徳久と戦っていくわけではない。今の戦友は桑原だ。その事実を見失ってしまいたくはなかった。
 笑みを受け取って笑みで返す。
 今日の練習が終われば、千尋と千代はレギュラーコートへ戻る。だから、せめて今日ぐらいはここにいることを実感したかった。感傷なのかもしれない。甘えなのかもしれない。それでも、二か月を一緒に過ごした一年生の仲間たちと一緒にいる時間にはきっと価値がある。河原のようにレギュラーであることを誇るのも、平福のように強者と弱者のバランスを取ろうとするのも、どちらかが一方的に間違っていることなどない。二人には二人の思想がある。ただそれだけのことだから、千尋はどちらか一方の肩を持つことはしない。それもまた一つの思想なのだろう。
 だから。

「ルック、お前、ダブルスやったことあるか?」

 そんな問いを投げかける。桑原は少し戸惑って、否定の言葉を紡いだ。

「いや、ないけど、どうかしたのか」
「お前、カウンターパンチャーだろ? サーブかボレー上手いやつと組んだら別の世界広がるぜ?」
「例えば?」

 新しい提案を一つ持ち掛ける。立海のレギュラーである為にはシングルスとダブルスの両方をこなさなければならない。シングルス一本で行きたい、というのは選抜戦全勝の幸村をしても通らなかった希望だ。
 特例措置がどこまで広がるのかはわからないが、平福が桑原だけをシングルス専門の選手として扱わないだろう、という予想は付く。だから、桑原がここで戦いたいのならダブルスを経験する必要がある。
 千尋が提示した新しい可能性について、桑原は少し吟味して一週間しか部活のことを知らないことに思い至ったらしい。例を挙げろと求められる。
 千尋と桑原はプレイスタイルが似ている。だから、この名前を挙げるのが一番無難だろう、という選択をした。

「ダイとか」
「俺、パス」

 その提案が間を置かず即否定される。
 千代はそこそこ身長があって、高速サーブを武器にしている。ネット際ではドロップショットを音もなく落とす。敵陣の具合を見る観察力にも長けていて、ドロップを落としそうなフェイントをかけてフラットショットを打つという駆け引きも出来る。
 千尋は千代の体力を温存させながら、千代の攻撃範囲ではない球を悉く拾う。時には千尋自身、攻撃に転じることもあるが、基本的には粘りの勝負だ。
 カウンターパンチャーとサーブ&ボレーヤーの試合の鉄板だと言える。
 だから、千尋は一番信頼しているサーブ&ボレーヤーの名前を挙げただけなのに、指された千代は不愉快を顔中で表していた。

「なんでだよ、ダイ」
「お前と組むのがやっとなのにルックとの連携まで考えるの面倒」
「お前なぁ」

 本当にテレビで見るツンデレ男かよ、言いそうになって言葉を飲み込んだ。千代は多分、「千尋の相棒」というポジションを手放すのが嫌なのだろう。でも、それをストレートには伝えられないから、面倒だというスタンスを取っている。千尋の五か月は決して無駄ではなかった。その証明である、新しい側面をまた一つ知って心の中が温かくなる。温かくなって、そのままそこに甘えてしまうのは嫌だったから、千尋は現実と対峙した。そして、千尋が今出来ることを考える。
 一番信頼出来るサーブ&ボレーヤーは千尋の申し出を辞退した。
 ならば、次に出来ることは決まっている。別の選手を挙げる、それしかない。
 千尋が一拍考えている間に、答えが勝手に紡がれる。
 音源を見れば仁王がさも当然のような顔をしていた。

「じゃったら、ブンちゃんか柳生じゃのう」
「ハル?」
「サーブが上手いやつが柳生、ボレーが上手いやつがブンちゃんじゃ」

 指された柳生比呂士と丸井は二人揃って突然の指名に驚いている。今、このコートにいる一年生の中で一番強いのが仁王だ。それを自身で言うのも大概傲慢だが、自らの名前を挙げる気配がないことに違和感を覚える。
 お前は、と端的に問うと仁王は悪戯に笑って「俺はオールラウンダーじゃけん、お前さんの考えには沿うとらんじゃろ」と一蹴した。

「あっそ」

 仁王が弁舌に長けていることは知っている。この、論破を終えた顔に何を言っても無意味なのももう知っている。
 だから、千尋は簡潔な同意を示して身を引いた。
 仁王の悪ふざけが続く。

「それとも、シュウの代わりを俺がやってもええんぜ?」

 のう、ダイちゃん。
 軽く、本当に悪意なく軽はずみな気持ちで仁王がこの言葉を口にしたのだろうということはわかる。同じプレイスタイル、という話題の中で仁王一人がその仲間を持たない。真田弦一郎。オールラウンダーの一年生はもう一人いるが、仁王が軽口を叩く相手としてはまだ遠いし、多分、仁王は彼とは一線を引いた付き合いを望んでいるということも簡単に想像出来る。
 でも、仁王の悪辣な冗談は千尋と千代の心を抉った。
 それもまた確かで、千尋はしばし言葉を失う。
 馬鹿なことを言うなよと言えばいい。お前はお前だろと仁王を肯定して終わるのが最上だ。わかっている。
 わかっているのに、その言葉が音にはならない。
 胸の奥を突いた仁王の言葉の受け止め方に困っていると、千代の方が先に口を開いた。

「ハルに出来るなら俺とキワはダブルス組まない」
「じゃろうな。何、怖い顔しなさんな。別に本気ちゅうわけじゃないき」
「大丈夫だし。俺もそこまで馬鹿じゃない。ただ」
「ただ?」
「ハルが本気だって言ったら、俺は二度とここにはこなかった。ただそれだけの話」

 千代の発言に場が凍る。
 出会って一週間しか経っていない桑原ですら、千代の怒りが本物だと察していた。そのぐらい、千代の双眸はぎらついていて心底傷ついている。
 千尋のルームメイトはバスケ部の特待生だ。だから、お互いのスポーツのことは客観的に受け入れられる。強弱を競うこともない。ただ、そうなんだ、と思うだけだ。
 でも、千代は違う。学生としての本分である学業の時間以外、徳久と一緒にいた。たった五か月の間だ。それでも多分、彼らは本当の意味で親友だった。一番近くにいて、一番信頼出来るのがお互いだった。
 その千代の心の傷を抉った仁王の言葉の重みなら千尋にも何となくわかる。
 ブラックジョークだ。その魔法の言葉で済ませていい案件かどうか、それもまたわかる。
 だから。

「キーワーちゃーん、お前さんの相棒、目が笑ろうとらんぜよ。ガチでマジの本気じゃちゅう顔しとるき、冗談ぐらい覚えさせたらどうなんじゃ」
「大丈夫だ、ハル。俺もダイと同じ意見だ」

 眠る虎の尾を踏んだのは仁王だ。千代の怒りも仁王の焦りもわかる。それでも、千尋はフォローする仲介者の役目を放棄した。千尋もまた、仁王の悪辣な冗談を許容しかねている。感傷を引きずっているのではない。喪失感に少しずつ慣れ始めたのに、その傷口に塩を塗りこまれて、笑って許せるほど寛容ではないし、優れた人徳も持っていない。
 頭の回る仁王にはその単純な事実ぐらいわかるだろう、と暗に含めた。
 千尋の怒りも受け取って、疲れ切った顔で仁王が溜息を吐く。

「お前さんら、いい加減にしとうせ。おらんようになったやつの背中しか見えんちゅうのはお互いええことないじゃろうが」
「うん、正論。実に正論。でも、正しいだけで何でも許されると思うなよ」

 人の感情というのは機械のプログラムよりもなお繊細だ。幾千幾万の分岐を繰り返して、ようやく答えが出る過程において小さな内部エラーは何重にも影響を及ぼす。仁王がそれを知らないとは思わない。知っていて、次に進むことの重要さを説きたいのだということもわかる。
 それでも。
 そうだとしても。
 千尋たちを置いて前に進んだ徳久を責められる筈などないし、彼の代わりにやってきた桑原に八つ当たりをしてもいいとも思わない。誰も悪くない。誰も、何も、悪くなどないのに千尋と千代は不必要に傷ついている。
 感情に絶対の答えはない。
 感情に安全地帯もない。
 それでも、いなくなった徳久程ではないにしても信じられると思ったから千尋たちはこのコートにいる。その信頼を一方的に反故にされるのなら、千尋も千代も応戦するだけの意地はある。
 だから。
 宣戦布告の文言を必死に考えた。
 その、無駄な努力が実を結ぶ前に温かい掌が千尋の肩を叩いた。

「仁王君、君が先にセンシティブな問題に踏み入ったのです。君が謝るべきだ、とワタシは思いますが?」
「そうだぜぃ。仁王、今のはお前が悪い」

 期待していなかった所から援護射撃が飛んできて、千尋は軽く目を見開いた。
 千尋と千代はつまらない冗談の行き違いで口論になることがしばしばある。
 そのとき、仲を取り持ってくれたのは徳久で、彼がいなくなってからはお互い神経質になっていた。その、役割を柳生と丸井が買って出る。
 そんな現実が待っているだなんて思ってもみなかった千尋は言葉を失って、結局は流れを見守ることに努めた。

「お前さん方まで過保護に感傷をよちよちするんかい」
「感傷は時間という薬が癒すものです。我々に出来ることは過去を清算するのではなく、新しい未来を生み出していく手助けをすることだけ。わかりませんか?」
「それにさ、いなくなったやつの代わりなんて一生出来ねーんだって。俺たちは俺たちで頑張るぐらいしかないだろぃ? シュウがいなくなって淋しいなら、素直にそう言えよなぃ。そうしたら、きっとダイとも分かり合えるのにさ」

 お前、不器用すぎんだろぃ。
 締め括られた言葉に、千尋の中に圧倒的「ツンデレ」感が去来した。
 感傷に浸っていたブルーな気持ちが少し薄れる。徳久の代わりなんて要らない。いなくてもいい。それでも、桑原を拒みたくないし、だからと言って全てを割り切ることなど到底出来ない。
 それでも。
 そういう、濁った気持ちを受け止めてくれるのは徳久だけではなかったことを知る。千尋たちの気持ちと仁王の気持ちの両方を受け止めて、そのうえで千尋の肩を持ってくれる。そういう仲間がいる幸福に気が付いた今の自分を見失いたくない。
 だから。
 千尋と千代は肩ひじ張って自分たちだけで全部背負おうと思っていた気持ちとやっと別離出来るような気がした。

「えっ? ハル、お前、そんなこと思ってたわけ?」
「仲間が減って淋しゅうて何が悪いんじゃ。シュウはお前さんだけの仲間じゃなかろうが」
「ハル、それは流石に言わないとわからねーだろ」
キワちゃんの読解力じゃとちと難しすぎたみたいじゃのう。折角参考になりそうな、そういう手近な見本が見つかったのにすぐ消えた俺の感傷は誰がよちよちしてくれるんぜ?」

 ダイ、お前さんが世界で一番悲しんどると思うのは自由じゃ。それでも、それを周りに押し付けるのはやめんしゃい。庇うてもろうて当たり前はもう終わったんじゃ。俺は絶対にお前さんらに追い付くし追い越す。その日まで、お前さんたちにはきっちり前走ってもらわんと俺が一番困るんじゃ。わかるじゃろ。
 捲し立てるように一気に言われた言葉を受け止めて、千代が不意に破顔する。千尋は知っている。この、千代の柔らかな笑みは相手を受け入れるときの顔だ。
 だから。

「悪かった、ハル」

 俺が大人気なかった。ハルがそんなにシュウのこと尊敬してるの知らなかったし、よちよちしてほしかったの、気が付かなくて本当にごめん。俺より救われたいやつがいるなんて思いもしなかった。俺、まだ国語苦手だし、お前が言いたいことわかんなくて本当に悪かったと思ってる。
 立て板に水を体現して、千代の流れるような謝罪が始まった。厳密に言うと、謝罪の体を成した傷口に塩を塗り込む作業だったが、普段あまり多くを語らない千代がこれだけの長広舌を持っていると知っているのは千尋一人だ。謝罪をされている筈の仁王、仲介をした筈の柳生、丸井、そして成り行きを見守っている桑原と言葉を失って呆然としているのを見ていると、不意に千代が千尋を見た。

キワ、俺、変なこと言ってる?」
「いや、割とナイス。何て言うんだっけ、『溜飲が下る』? いや、違うか。でも、すっきりした」
「うん、キワ見てるとそんな顔してる」
「ダイ、お前もすっきりしてるぞ」

 言って、千尋はすっと右手を高く掲げた。その高さを見誤ることなく千代の手が叩いて軽い破裂音が生まれる。世間で言うハイタッチだ。
 千尋は千代と何度となくこれを繰り返してきた。この感触を味わう度、千尋たちの感情はリセットされる。それをお互いで決めた。感傷はここに置いていく。
 だから。

「ってことだから、以降わだかまりなくどうぞ」
「いやいやいやいや、お前ら流石に自己完結しすぎだろぃ! もっと俺たちにもわかるように解決しろよぃ!」
「いや、解決したじゃねーか。あ、俺、謝ってない? ハル、喧嘩買って悪かった。今度からノリツッコミ返すからそれで棒引きな」
キワ君、それは煽りだと思うのはワタシだけですか?」
「だよなぃ。だって、当の仁王、一切謝ってないし」
「プリッ」
「お前なぁ、俺が謝る流れ作ったのになんでそこで逃げんだよぃ!」

 あーもー、やってらんね。丸井が天を仰いだのが多分最後の合図だった。
 誰からともなく苦笑が零れて伝播する。その苦笑いにつられてもれなく桑原までが表情を綻ばせて、当初の問題に戻る。

「で? 誰が俺とダブルス組んでくれるんだ?」

 その問題には二人の挙手がある。柳生と丸井がそれぞれ手を挙げて彼らの主張を告げた。

「ではこうしましょう」
「俺が桑原」
「ワタシがキワ君と組んで、ダブルスの可能性を追求する。如何ですか?」

 千尋と千代のダブルスでは圧倒的優位が最初から決まっている。桑原がダブルスをするのが本当に初めてなら、丸井、柳生、どちらと組んでもレギュラーのダブルスペアと格差がありすぎて勝負にもならない。
 そのことを察した丸井たちの提言を素直に面白いと思った。だから千尋は「いいだろ、ダイ」と相棒に確かめる。好きにすれば。ぶっきらぼうに答えが返って、千尋は仮の相棒に声をかける。

「ヤギ、俺の方でよかったのか?」
「寧ろキワ君の方がワタシでよかったのですか?」
「というと?」
「丸井君の成長速度が天才的なのは知っているでしょう? ワタシのような凡才で君のパートナーが務まるのか少し自信がありません」

 煽りではない、本当の意味での慎ましやかな反論が聞こえて千尋は破顔する。
 一般の一年生の中で丸井の上達ぶりは群を抜いている。誰よりも多くのことを誰よりも早く吸収していく。その成長の過程を見ていると、胸が躍るような、背中を不意に叩かれるような不思議な感覚を味わう。
 それでも。
 丸井は丸井だ。柳生は柳生で、千尋千尋でしかない。研鑽を止めたらそこで成長は終わる。いつかの未来で追い抜かれたくないと本当に思うのなら、千尋も前を見て走り続けなければならないだろう。
 負けたときの言い訳を最初から考えているやつは絶対に勝てない。
 だから。

「ヤギ、一つだけ言う」
「何ですか、キワ君」
「強いやつと組まないと負けるようなやつはダブルスをするべきじゃない」

 自分の力ではなく、組んだ相手の実力を頼りにして、勝利だけがほしいのならそんなやつは試合をする資格がない。自分の力だけで勝とうとするやつも同じだ。
 相手を信頼出来ると思った。その最初のとっかかりもなしにダブルスをするのは何の意味もない。コートをセンターラインで割って二人でシングルスをしたいのなら、最初からシングルスしか出来ないと申告するべきだ。一瞬でも、ダブルスをすると思ったのなら、一番最初に必要なのは相手を信じる気持ちだ。それさえ持っていれば、連携も技術も、戦術も戦略も全部後から付いてくる。
 だから。

「ヤギ、俺はつぶしでダブルスをやってるんじゃない。最初はそうだったかもしれない。でも、今はダブルスを好きでやってる。お前にもルイにもルックにもそれを伝えたいんだ」

 シングルスで頂点を目指すのが一番格好良くて、王道だと誰もが知っている。
 それでも。
 ダブルスという種目は確実に存在して、同じように多くのペアが頂点を競っている。それは一段劣る夢なのかもしれない。千尋もそのことは理解している。
 それでも。

「やりもしないで、勝手に失望されんのムカツくだろ。全部知って、楽しいこともつらいこともわかって、それでもダブルスなんて嫌だって言えるまで、俺は広報活動を続けるつもりだから、そこんとこよろしく」
「君は、不思議な人ですね」
「何が」
「仁王君の言う通りかもしれない。君は本当に、本当の本当に大馬鹿ものか、でなければ相当な器を持っている」
「何それ。俺、褒められてんの?」
「褒めたらいいのか、責めたらいいのかもワタシにはわからない」
「じゃあどっちでもいい。取り敢えず、俺とダブルス、すんだろ?」
「勿論。君の広報活動をもう少し聞いてみたい、と心の底から思っています」

 よし決定。もう決定。決定決定。
 言って千尋は桑原と組むことになった丸井ににっと笑みを投げかける。その突然の笑みに丸井は少しだけ目を見開いて、そして結局は彼も笑った。

「桑原、面白そうなことになってきたぜぃ」
「ああ、俺もそう思う」
キワ! お前の広報活動、俺たちにも頼んだからなぃ!」
「任せろ! この底なしのテニス愛、精市にも負けてねーからな!」

 それだけは、絶対に世界で一番だという自負がある。本当は違うのかもしれない。千尋の狭い世界の外側に、もっとテニスを好きなやつがいるのかもしれない。
 それでも、千尋は自分で決めた。世界で一番テニスを好きなやつ、というポジションを絶対に譲らないと決めた。
 今はそれでいい、という感覚を信じられる。
 柳生と二人コートに立った。ネットの向こうに丸井と桑原がいる。審判台に千代が座って、仁王がその隣に立っている。
 その状況を十五人の一年生が静観する中、千代の声が響く。

「ザ・ベストオブ・ワンセットマッチ、プレイ」

 まだ暑気の残る青空へボールが弧を描く。試されているのなら応える。疑われているのなら示す。それぐらいしか千尋に出来ることがない、といつの間にか知っていた。それもまた成長の一つだと受け止められるぐらいには知性が身についている。
 それを千尋に与えたのは三強で、彼らに同じものを返すことは不可能だ。だから、千尋は丸井たちに別のものを返すことでバランスを保とうと思った。
 ただ、それだけのことだが、その尊さを何となく知って立海に進学することを決めた自分を認められる気がした。桑原にもいつかそれが伝わればいい。
 そんなことを考えながら、千尋は熱球を追った。