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20th. 十年の約束

 常磐津千尋は電子機器の取り扱いが苦手だ。
 ボタンの名前や役割が外国語で書かれているのに馴染みがない。英単語の意味は幸村精市のスパルタ学習である程度なら理解出来るようになったが、それが日常生活で実感を伴うかどうかはまた別の話だ。
 特待寮で暮らすようになり、家庭用ゲーム機に初めて触った日のことは今もまだ鮮明に覚えている。十字キー、四種類のボタン、LとRがどちらがどちらでスタートとセレクトがどちらの意味なのか。今どき小学生でも知っている事実を千尋は中学生になるまで一つも知らなかった。ゲームによって違う表記になる体力や魔力。何でもかんでも外国語の表記で、何度このゲームは実は海外の作品を日本用に焼き直ししたものではないのかと疑ったのか、数えきれないほどだ。
 ゲームぐらいでこの有様なのだから、他の機器など推して知るべくもない。
 携帯電話の自分の番号も知らない。
 その、千尋の前に海原祭は大きな課題を伴ってやってきた。
 勢いと流れでテニス部喫茶の広報を買って出た千尋に、三年生の元副部長である大原がデジタルカメラという無理難題を手渡す。大学テニス部の備品だから丁寧に扱うように、と言われたが千尋はそれどころではない。携帯電話のカメラですら意識的に使ったことのない千尋にデジタルカメラの難易度は高すぎる。同じ広報でも文章の方に逃げよう、と思ったがそのときには既に大原の采配によって柳蓮二がwebサイトへのアップロード、千代由紀人(せんだい・ゆきと)とジャッカル桑原が一年生の記事の執筆を任されていた。つまり、千尋は仁王雅治と二人で写真を撮るしかない状況が出来上がっている。
 逃げる余地を失ったことを知って、千尋は一日前の自分を呪い殺したい衝動に駆られた。
 その肩を仁王が複雑な表情で叩く。

キワちゃん、お前さん、コンデジぐらい使ったことあるじゃろ」
「えっ、何? コン? コンパス? 出城?」
「コンデジ言うて出城言われたんは初めてじゃ。お前さん、なかなか渋い単語を知っちょるのう」

 質問に質問を返した千尋に仁王が感心したように笑って、そのあと結局、出城という単語の不釣り合いさに噴出した。出城という単語は真田弦一郎が貸してくれた戦国ものの漫画に出てきたから知っている。そう答弁すると仁王はやっと納得がいったらしく、平静を取り戻した。
 そして。

キワちゃん、コンデジ言うんは『コンパクトデジタルカメラ』の略称じゃ」

 お前さんが持っちょるやつが、コンデジじゃ。
 言われて千尋は大原に渡されたばかりのデジタルカメラに意識を落とす。記号とアルファベットだらけの小さな機械にそんな名前があるのか、と驚く。そうか、これがコンデジか。理解はしたが、納得には辿り着かない。
 千尋は「それはわかったけど」と前置いて仁王に小さな抗議をぶつける。

「サダじゃないけど、何でもかんでも略すなよ。一瞬、お前が何言ってるかわかんなかったじゃねーか」
「いや、コンデジちゅうて出城言うんは真田でもないじゃろ」
「いや、あるだろ」
「ないじゃろ」
「いや、あるって」

 ない、と、ある、とを無限に繰り返す。どちらも譲るつもりがない。自分から折れるという選択肢を受け入れたら世界が終わってしまう勢いの言い争いに、周囲が千尋たちに注目していることにすら気付かない。
 中学生に割り当てられたゼミ室にいる全員が、千尋と仁王の口論の結果がどうなるのか見守っている。見守っているというよりは野次馬を決め込んでいるのだが、それすらも度外視して千尋と仁王はお互いの主張を引っ込めなかった。
 そして、とうとう仁王の限界を超える。

「じゃったら確かめたらええんじゃ。真田呼んできんしゃい」

 本人に答えさせれば文句はないだろう、というのが仁王の主張だ。千尋もそれには同意した。この決着しない論争を終えるには当の本人に答えさせるのが一番だと察した。
 だから。


「おーい、サダ! 今世紀最高の出城の略称考えてくれ!」

 ゼミ室の反対側で一年生担当のチラシを作っている真田を呼んだ。瞬間、千尋の肩がぐっと掴まれる。力のあるじなど確かめるまでもない。仁王だ。仁王が珍しく慌てた顔で千尋に抗議した。

「お前さん、そりゃ誘導尋問のレベル超えちょるじゃろうが!」
「何だよ、いいじゃねーか。今世紀最高の出城」

 コンデジのフルネームを答えさせて珍回答が返ってくるより有意義だと思ったから尋ねた。それだけのことだと仁王に答えると、彼は大きな溜息を吐く。

「お前さん、思ったより曲者じゃのう。恥とかないんぜ?」
「ハル、知ってる? 『聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥』って言うだろ」
「多分、それはお前さんの思うちょる意味とは違うき、後で柳に説明してもらいんしゃい」

 千尋の相手は疲れる。実のところ、千代というのは偉大な存在だったのではないか。そんなコメントを吐露しながら仁王は脱力した。
 仁王の精神的疲労など知らない真田が、呼ばれたのに反応を示してやってくる。そして彼は眉間に皺を寄せて嘆息した。

「お前たち、さっきから何を騒いでいる。お前たちの役割をきちんと果たさんか」
「サダ、それには準備が必要だろ」

 言って、千尋は首からぶら下げたデジタルカメラを指さす。それだけでも、真田には千尋の意図が伝わる。現代中学生にあるまじき機械音痴。そのことは真田もよく知っていた。

キワ、お前の機械音痴はまだ健在、というわけか」
「お前にだけは言われたくねーな」

 真田もまた機械音痴の代名詞であり、千尋とはどんぐりの背比べと言うのが実情だ。その、真田に溜息を吐かれるのは筋が通らない。お前もだろうと反論すると、俺は分不相応な役割を志願したりはせん、と一刀両断される。

「広報がどんな仕事をするのか、わからずに志願したのはお前の落ち度だ。今更、大原先輩の采配に口を挟むのは道理に合わん。自分から言い出したことなのだから、苦手だろうが何だろうが最後まで責任を果たせ。それが男というものだろう」

 それから、と真田が厳しい眼差しを少しも緩めることなく続ける。千尋は冗談の延長とは言え、真田に話を振ったことを後悔し始めていた。そんな心境の変化など知らない真田は厳粛な顔のまま言う。

「俺は言葉を省略すること自体が好きではない。部の長である智頭先輩がお前をキワと呼ぶから受け入れたが、本来であればそのような名前を用いるのは本意ではない、ということも伝えておこう」
「じゃあお前、好きなように呼べよ。常磐津でも、何でも呼び方あるだろ」
「うむ。言質は取れたな。では俺は幸村に倣い、お前のことを千尋と呼ぼう」

 その代わり、俺のことも略さずに呼べ。いいな、千尋
 充足した顔で真田が宣言する。千尋の後ろにいた仁王が、コートの外では初めて見る満ち足りた真田に驚いているのが雰囲気で伝わる。キワちゃん、これ、なんぜ。耳元でぼそぼそと問われる。これが真田弦一郎が本質的に持つ人徳だ、と同じく小声で返すと仁王は長い長い息を吐きだした。

「わかったよ、わかりましたよ。わかればいいんだろ、真田弦一郎なんだから、弦一郎って呼べばいいんだろ」
「捨て鉢のように名前を呼ばれて喜ぶやつがいると思うのか、千尋
「仕方ねーだろ、弦ちゃんはシュウの特権だし、今更、真田なんて素っ気ないし、略して呼ばねーなら弦一郎しかねーじゃねーか!」

 それとも、お前をずっと真田弦一郎って呼ばなきゃなんねーのかよ。
 本当はそれほどくさった気持ちはなかったが、ぶすっとした表情を作る。真田が手のかかる子どもを相手にするように穏やかな表情を浮かべて、不意に千尋の前髪を撫でた。そして、そのまま真田の掌が前頭部を二度、軽く押さえて離れる。

千尋、名前というのは記号だがときにそれ以上の意味も持つ。お前たちのように新しい記号を生み出す感性を否定するつもりはない。ただ、覚えておくといい。親愛と軽薄は紙一重だ」

 そのことを忘れるなよ。
 言って真田が踵を返して千尋たちから離れていく。
 知っている。名前が特別な単語だということぐらい、千尋でも知っている。知っているから、千尋や千代は勝手にあだ名を付けた。本当の名前を呼べるほど近くもなく、それでも苗字よりも近い距離を望んだ。だから、真田が今、残していった波紋が雄弁に語る。真田が名前を呼ぶのは柳一人だ。その、特別な相手に千尋を加えてもいい、と思った。だから、真田は略称の論議に格好つけて千尋の名前を呼んで去っていった。
 なんだ、立海テニス部というのは万事不器用なやつしかいないのか。
 そんなことを思って、千尋自身もまた不器用であることを思い出す。

「ハル、お前も雅治の方がいいのか?」

 否定されるのがわかっていて尋ねた。仁王がハルという呼び名を気に入っているのは知っている。千尋と千代だけがそう呼ぶ。そのことに仁王が小さな優越感を持っているのも知っている。
 知っていて、敢えて訊いた。多分、真田との距離が近くなったことで図に乗っていた。
 そこまでを一拍で理解して、千尋よりずっと頭の回転が速い仁王が千尋の後頭部を平手で叩いた。

キワちゃん、俺はお前さんたちの遊びが嫌いじゃないき、このままでええぜ」

 小難しい感情の機微に頭を悩ませるのは千尋には似合わない。直感で付けた名前を誇れ、と言外に含んでいて千尋は後頭部を撫でながら、そういう距離感の取り方もあるのだということを知った。
 十三歳の千尋の世界はまだまだ狭い。その狭い世界で接した仲間が、千尋の世界を広げていく。苦手なことに挑戦する意味も教えてもらった。
 だから。

「じゃあ、ハル。今世紀最高の出城の使い方、教えてくれよ」
「お前さん、その呼び方気に入ったんじゃろ」

 馬鹿の癖に妙に言葉遊びが好きだと呆れられて、馬鹿だから言葉遊びが好きなんだと答えると仁王は意味が分からないという顔をした。

「俺、馬鹿だから言葉遊びとかいう高尚な遊び、知らなかったんだ。つーか出来なかった? のに、ここにいると皆普通にやってるから、俺、ちょっと進歩したかなって思えて楽しいぜ?」
「それならそれでええき、正式名称だけは忘れなさんな。あと」
「あと?」
「今世紀最高の出城のネタが分かるんは俺だけじゃ。他のやつの前で使うたらお前さんが馬鹿を見るき、自重しんしゃい」

 それぐらいはわかるし、出来るだろうと言われる。幸村たちなら笑ったりせずに意味を聞いてくれるだろう。でも、世間の全てがそうではない。そのことを忘れずに指摘して、千尋に注意を促す。千代もそうだが、仁王も口調に反して大概親切だ。
 彼と巡り会えたのは千尋にとって幸運の一つだ。
 そんなことを思うと不意に言葉が口から零れた。

「お前、本当にいいやつだな」
「馬鹿正直の代名詞よりはええやつじゃなかろ」
「よく言う」

 よく言うようになったんはお前さんじゃ。言って、仁王が言葉遊びの終了を暗黙裡に示した。
 そして。

キワちゃん、コンデジの使い方教えちゃる」

 ただし、それは最初の一回だけだからメモを取るようにと指示された。メモの内容についての質問は各項目十回まで返答するが、それ以降は千尋が自力で調べるか、それでもわからなければ仁王以外のやつに尋ねろと言われる。
 それが仁王のなりの優しさなのだと、今の千尋にはわかる。答えを全部教えるだけが優しさではない。自らの足で立つのを見守るのもまた優しさだ。
 緊張感と真剣さを伴って、千尋はカバンの中からメモ帳を取り出す。
 仁王がそれを満足げな表情で確かめて、そして、彼は一つひとつの操作を丁寧に教えてくれた。デジタルカメラのパーツの説明から始まって、画面の表示の意味やそれがどうなったら変化するか。フラッシュの設定にズームのやり方。シャッターの押し方にピントの合わせ方。今日はここまで、と言われた頃には千尋のメモ帳は何ページも走り書きで埋まっていた。

「日本語にはええ言葉があってのう。習うより慣れろちゅうんじゃ」

 じゃけえ、何か撮ってみるんがええじゃろ。
 言って仁王がデジカメを首からぶら下げる。そのカメラが千尋に与えられたものとは違う、と気付くのにそれほど時間は必要ではない。大きさ、形状、荘厳な存在感。どれ一つを取っても千尋の今世紀最高の出城ではなかった。

「ハル、それ、俺のと違うけど」
「よう気付いたのう。これはデジイチじゃ」
「出城一番館?」
「出城からはもう離れんしゃい」

 デジタル一眼レフカメラの略でデジイチ。苦笑いを浮かべながら仁王が答える。その名前も聞いたことがない。それでも千尋は茫洋と理解した。千尋が致命的な機械音痴だったのは否定しようもない。デジタルカメラの使い方がわからない現代人なんていない、だから仁王が説明出来るのは当たり前のことだと思っていた。それが誤りだ、と気付く。多分、仁王は千尋が認識していた以上にカメラのことを好いている。
 その証拠が目の前にあるのに、これ以上疑うことに何の意味があるだろう。
 
「何かよくわかんねーけど、それ、格好いいな」
「そうじゃろそうじゃろ」
「それって使うの難しいんじゃねーの?」
「今のお前さんには無理じゃ。けど」
「けど?」
「お前さんが本当に使いたい、ち思うならコンデジに慣れた頃、また教えてもええぜ」

 その返答の中には未来がある。明日も明後日も、来年も再来年もずっとこのイベントに参加することを暗黙の了解的にお互いが肯定した。そんな約束を交わす相手が出来たことに胸の内が温かくなる。
 なんだ、学校行事も満更悪いばかりではないじゃないか。認識を上書きして、千尋は破顔する。

「お、言ったな? 約束、忘れんなよ」
「まぁ十年あればお前さんでも使えるようになるじゃろ」

 前置きはもう十分じゃろ。
 言って仁王がゼミ室のドアに向かって歩き出す。その背を追って千尋も外へ向かう。どこに行くのかなんて尋ねるまでもない。高校、大学の先輩たちの作業風景を写真におさめに行く。それが広報のカメラマンの役割だ。
 シャッターボタンを押すコツがつかめなくて、ピンボケの写真を何枚も量産して、何度もやり直す。説明は一度しかしないと言った仁王は本当に何も手助けしてくれなくて、でも、それは信頼されているからだとわかるから千尋は仁王の説明を何度も思い出してシャッターボタンを押し続ける。
 そして。

「ハル! 出来た! 半押し出来た!」

 歓喜の声を響かせると隣でデジイチと遊んでいる仁王はもちろん、被写体だった筈の先輩たちがわらわらと寄ってくる。どんな写真になったか、見せてくれ。代わる代わる声をかけられて、千尋はコンデジを名前も知らない先輩たちに手渡した。ディスプレイの中を覗き込んで、誰が映っているかで盛り上がって、そして先輩たちはそれぞれの言葉で頑張れよ、というようなことを千尋に向ける。一通りその行事が終わって、先輩たちは各自の作業に戻り、千尋と仁王は小一時間、写真を撮ることに集中した。
 仁王に教えてもらった画面表示がメディアの記憶容量がもう残り少ないことを告げている。そのことを仁王に知らせると、元の中学生のゼミ室へ帰ることになった。

キワちゃん、帰ったらデータの取り込みを教えるき、またメモの準備しんしゃい」
「ハル、俺のスペックわかってる? そんなの一度に覚えられるわけないだろ」
「じゃけん、メモ取れちゅうとるじゃろ。何、回数こなしたら慣れるき、身構えんでもええぜ」
「十回まではフォローもあるし?」
「そうじゃそうじゃ」

 十回で手順を覚えられるかどうかはわからない。わからないが、心を砕いて仁王が教えてくれることを無駄にはしたくない。現に、何回、何十回の試行の末に千尋はシャッターの半押しを身に着けた。苦手意識に負けて、何もしないで否定する愚ぐらい判別出来る。仁王は千尋でも可能だと思うから時間を割いて教えてくれる。
 その信頼に応えないで何が仲間だ。
 煩雑な手順を覚えるのは確かに苦痛だ。その根源は否定しない。千尋は努力の天才ではない。それでも、天才でなければ努力をしてはいけないという理屈もない。どれだけ無様でも、地を這っていても、足掻いていても、努力には価値があることを千尋の仲間たちは体現している。
 だから、千尋も腹を括った。
 機械音痴を言い訳に逃げ出して、自分だけが安寧を得る方がずっと苦痛だ。自ら倦厭したくせに、敬遠されているだとか、仲間外れにされているだとか、自意識過剰に悲劇の主人公を演じるのは愚の骨頂だとわかる。
 不安のないやつなんていない。初めての経験がないやつなんていない。
 みんな、初めてのことに向き合って、不安と戦って、それでも乗り越えたから晴れやかな表情で笑う。その、最後の笑顔の価値なら千尋はよく知っている。
 だから、千尋もまた不安と戦いながら仁王に自分の状況を説明した。

「でも、ハル、一つだけ言っておく。俺、パソコン使ったことない」
「何じゃ、そんなことかい。そのぐらい想定の範囲内じゃ。携帯も通話しか使う気のないお前さんじゃき、過剰な期待はしちょらんぜ」
「あ、そ。それならいい」

 大丈夫じゃ。仁王が闊達に笑う。

「お前さんならすぐ慣れるじゃろ」
「根拠は?」
「俺の勘、に決まっちょる」

 その根拠以上に信じられるものを提示しろ、というのがどれだけの傲慢なのか。考えるまでもない。柳に聞いてもきっと違う言葉で同じことを言うだろう。統計が生み出した数字しか信じない柳でも仁王の勘は信じられる。
 だから。

「なるほど、じゃあ大丈夫だな」
「内心ビビっちょるくせに、ええ顔するんは卑怯ぜ」

 まぁ、でもそれも満更でもないのう。笑って仁王が中学生に割り振られた文学部のゼミ室へ向けて歩き出す。到着した部屋で、柳、大原、仁王の三人がかりでパソコンの操作を叩き込まれる、という苦行が待ち構えているのはまだ千尋の知るところではないが、多分、今知っていても怖じたりしなくて済むだろう。
 データをパソコンに取り込めたら、大学生協へ新しいメモ帳を買いに行こう。そして走り書きを整理して、仁王が許した十回の範囲を戦う。
 そんな決意を込めて、千尋は立海大学の構内を歩いた。