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21st. 夕焼けのB案

 立海大学付属中学の特待寮には二部屋だけゲストルームがある。厳密に言うとただの空き部屋なのだが、いつの頃からかその部屋の二段ベッドが撤去され、シングルべッドが置かれるようになったことから、ゲストルームと呼ばれている。
 ゲストルームの使用には一定の規則があり、それを遵守するのであれば誰がいつ、何の目的で使用するかは特待生たちの善意に委ねられていた。
 柳蓮二がゲストルームの主賓としてやってきたのは、海原祭まで残り一週間になった日のことだ。
 日中、千尋たちに割り当てられた役割を果たしていたが、元副部長の大原徹(おおはら・とおる)が写真の現像を行う為、カメラマンである千尋と仁王雅治に休息を与えた。その、千尋の手を借りたいと申し出たのが柳で彼は私物である彼のノートパソコンのキーボードを叩いてる。手伝うことなどない、と文句を言おうとした頃、不意に柳が千尋の名を呼んだ。

キワ、少しいいか」
「何」
「大原先輩が発案した企画ページだ。二通りの画面構成を用意してみたが、キワ、お前はどちらがいいと思うか教えてくれないか」


 言って柳はノートパソコンを千尋の方へ向ける。ディスプレイには写真が何枚かと文章が載せられている。すっきりとして見やすい構成だ。マウスを手渡されて画面をスクロールすると千尋が撮った写真が出てきた。毎日更新される「日誌」では採用されなかった、所謂「没」の写真だ。NGの判断を受けたのにどうして、と思って隣に書かれた文章を少しだけ読む。千尋と同じ特待生である千代由紀人(せんだい・ゆきと)が書いたコメントで、テレビのバラエティ番組でよく見かける「NG集」のコーナーを模しているのだとわかった。

「NG集なぁ」
「最近は舞台裏を見せるのが流行っているだろう。本当に苦労したり、困ったりしたことは載せていないが、ちょっとしたアクシデントを取り上げるとアクセス数にも影響があることがわかった」
「野次馬根性ってやつ?」
「だろうな」

 人の失敗を見て気持ちが和むのがいいのか悪いのかは千尋にはよくわからない。それでも、完璧なやつよりちょっとぐらいは弱みのあるやつの方が親しく感じられるのもまた事実だ。だからこそ、大原はこの企画を提案したのだろうし、柳の言葉が本当なら結果も出ている。今更、千尋が無駄に正義感を振りかざす意味がある筈もないし、そんな偽善的な気持ちは持ち合わせていない。
 だから。

「で? これとどれとを見比べたらいいんだ」
「今、お前が見ているのが桑原が提案したA案だ」
「うん」
「これからお前に見せるのがダイが提案したB案だ」
「何? あいつらそんな提案出来んのかよ」
「お前と仁王がカメラに夢中になっている間に三好先輩が色々な説明をしていたからな」

 言って柳が不意に表情を緩める。俺たちはまだまだ学ぶべきことが多い。言った彼は充足を知っている顔で、柳は柳なりに海原祭を楽しんでいることを知る。
 柳が器用にパソコンを操作する。切り替わった画面は先ほどのものよりクールな印象を与えた。背景に用いられた画像はシンプルで無駄がない。それでいて品の良さを感じさせる。クールさを感じさせるのに、色遣いは不思議と親しみを覚える理由を求めてまじまじと観察した。そして。これは立海大学付属中学テニス部のウェアの配色だ。気付いて、無理なく自分たちの所属をアピールしていることに何となく千代の誇りのようなものを感じる。

「蓮二、俺、B案推す」

 気が付けば千尋の口がそう告げていて、柳もその答えに満更でもない様子だった。

「発案者の名前は伏せていた方がよかったか?」
「いや、別に考えたやつで選んだわけじゃないし、どっちでもいい」
「お前からみてこの両案はどうだった」
「うん、ルックのは一見地味なんだけど、よく見ると派手なんだよな。『ここ!』っていうところで自己主張が入ってるから、何回も見るにはつらいと思う」
「B案は違う、と言いたいわけだな」
「ダイのは一見取っ付きにくいんだけどさ、俺たちらしさ、ってのあると思うんだ。でも、多分、ここが一番だと思う」

 言って千尋は画面上で夕焼けの色をした部分を指す。柳がふっと雰囲気を緩めた。

「わかるだろ、蓮二。これ、俺たちの色だ。俺たちがずっと一緒に戦ってく夕焼けの色がちゃんと入ってる。多分、他のやつからしたらつまらないことなんだろうけどさ、お前もわかるだろ」
「ああ、そうだな」

 夕焼けの色は千尋たちが背負った覚悟の色だ。赤と呼ぶには複雑で、朝焼けと呼ぶには鮮烈。それでも、千尋たちに寄り添ってずっと一緒に戦っていく。コートの中でも外でも、立海の仲間は皆、夕焼けの仲間だ。千尋たちに預けられた信と、千尋たちが預けていく信の両方が矛盾なく混ざっている。一日の終わりを告げる夕焼けだが、終わりは始まりの始まりでもある。千尋はこの色が好きだ。
 だから。

「な? 夕焼けが入ってる方がいいって。俺たちらしいじゃねーか」
「と、キワが大絶賛しているが、構わないな、ダイ」

 妙に力んで熱弁を揮っている自分に気付いた頃には、呆れ顔の千代が千尋の背後に立っていた。

キワ、お前本当、馬鹿のくせに深読み大好きだよな」
「何だよ、違うのかよ」
「概ね違わないけど、俺はキワほど夕焼けに思い入れはない」
「じゃあどうして」
「三好先輩が好きな色、置けばいいって言ったから」

 馬鹿な俺には配色なんて難しいことわかるわけないだろ。
 言って、千代はふいと横を向く。千代の世界で一番整った配色のパターンがウェアの色だった。ただそれだけだと言ったが、その理屈で行けば制服の青でもよかったはずだ。それを指摘して、確かめて、論破する意味を考えて千尋は敢えて気が付かなかったことにした。正しさだけが美徳ではない。ときには正されないことにも意味がある。
 そう思えるようになったのは多分、仲間たちと過ごす時間が千尋に教えてくれたからだ。人の数だけ正答がある。万有の最適解を探すのは徒労に過ぎない。
 だから。

「いいんじゃね? 好きな色。馴染みのある色も好きな色には違いねーしな」
キワのくせに物分かりのいい顔するなよ。調子狂う」
「そうくさるな、ダイ。キワで全員の投票が終わった。結果を三好先輩に報告してこよう」

 キワにこの企画の趣旨を説明しておいてくれ、ダイ。言い残して柳は席を立ってしまう。二人顔を見合わせて、何とも言えない空気を散々噛みしめて、結局千代は溜息を吐きながら備品である椅子に座り、その隣の椅子に座るように千尋を促した。
 結局、柳が千尋たちのところへ戻ってきたのは作業時間が終わる十五分前で、そのときには既に特待寮のゲストルームに宿泊することが決まっている。食事はどうすればいい、と問われたのでゲストがいるときは外食するのが暗黙の了解だと答えた。その流れを周囲で聞いていた広報の一年生がわらわらと集まって、ホウレンソウを兼ねて大学前のラーメン屋に行くことが決まる。千尋と千代は特待寮へ、それ以外は家族へ外食を報告してゼミ室を出た。

「ルック、お前、後でいいから寮母さんに申告しろよ」
「何を?」
「外食の費用払ってもらうのも特待生の権利だから、お前の懐が痛まないって話」
「おーおー、特待生様はええご身分じゃのう」

 道中、そんな会話が続く。ほんの数か月前に感じた上流家庭への羨望が消えてなくなったわけではない。桑原という経済的に更に苦しい家庭に生まれた仲間がいることで驕っているわけでもない。ただ、自分と他人は違うのだ、ということが茫洋とわかってきた。言い訳や理屈だけの話ではなく、本質的に区別しようとしている。
 生れ落ちる条件など選べない。柳や真田弦一郎たちのような長身がほしいと思っても、彼らがそれを千尋に分け与えたいと思っても、それはどう頑張っても叶わない望みだ。
 わかっている。
 わかっているから、千尋は自分と自分以外という世界の線引きを覚えた。
 自分に出来ることをするしかない。対等な相手なんてどこにもいない。それでも、対等でありたいから努力をする。その命題が一生続くだろうというのは薄々千尋も気付いている。一生、走り続けるということの本当のつらさはまだわからない。それでも、立ち止まって、言い訳を並べている間にも周りは進んでいく。世界から取り残されるつらさなんてもう味わいたくない。
 だから。
 千尋は顔を上げて前を見る道を選んだ。
 それぞれが注文したラーメンをすすりながら、そんなことをぼんやりと思う。今の自分は大丈夫か。ちゃんと頑張れているか。大丈夫だ。隣に座る千代と柳との間でそんなことを一人、誰にも明かさずに判断した。

キワ、来年も広報をやるのなら現像のやり方も覚えたらどうだ」
「うん?」

 不意に柳がそんなことを言う。特待寮の設備について千代と会話していたはずなのに、どうして自分に話題が向けられるのかがわからない。一人で物思いにふけっていた間に何の方向転換があったのだろう。ぼんやりと回らない頭で考える。答えなど出ない。結論に達したから、千尋はコーンバターラーメンのコーンを探す手を止めて隣の柳と向き合った。

「何だよ、急に」
「機械音痴だとお前は言うが、人は誰しも最初から機械の扱いに長けるわけではない。仁王の話を聞くに、どちらかと言えばお前は筋がいい方だと認識した」

 その説明を聞いて、千尋の胸中には不安が湧いた。何か無理難題を押し付けられる予感、とでも言うのか。ただテニスが好きで、人より幾らか強いだけの千尋に柳が何を望んでいるのかはよくわからないが、あまりにも上ばかりを見ていると足元が覚束なくなって転んでしまう。そうなる前に、適当なラインで手を打たなければならないことは明白だろうに柳は一つクリアすると、次の一つを平然と提案するから油断ならない。

「ハル、お前、何か余計なこと言ったろ」
「俺は事実しか言うとらんぜよ」
「えっと、何だっけ。『後学の為に訊く』でいいんだっけか」
「少しは語彙力も増えたようだな。後学の為に何を知りたい、キワ

 細められた双眸の下で柳が充足を覚えている。千尋の小さな成長がそうさせた。そのことに手応えを感じないわけではない。何も知らなかった。何もしようとしなかった。そこから脱した自分を確かに知って、それで何も感じないほどには鈍感ではない。
 ただ。

「お前は俺がどこまで行けると思ってるんだ、蓮二」

 全力疾走は長くは続かない。細く長く早く走りたいのならペース配分をしなければならない。なのに人生のゴールがどこにあるかは死ぬまで誰にもわからない。その、プレッシャーと戦うのも意味がある。わかっているが、これ以上、色々なものを背負い込むとどこかで自分が潰れてしまう。そんな不安がある。潰れるのが怖くて前に進まないというのがどれだけ愚かな悩みなのかはもう知っている。知ってしまって、それでもなお、その不安は消えない。
 この不安に蓋をする意味を探しあぐねて、結局は自分以外の人間に問うた。それもまた愚であると今の千尋は知っている。それでも尋ねた。
 柳はそこまでを一拍で理解して「五十七点の質問だ、キワ」と穏やかに笑った。

「お前は時々忘れているようだが、俺もお前と同じ十三の小僧に過ぎない。十三年の内訳はお前とは少し違うが、所詮、十三年の重みしかない。その俺に全知を求めるのは無理がある、ということをひとまずは指摘しよう」
「でも、お前は見つけたんだろ。『常磐津千尋の可能性』とかいうやつ」
「無論だ。だが、それを一から十まで誰かに説明してもらわねばわからないような馬鹿は期待するに値しない。わかるだろう、キワ
「わかるけどさ、訊きたいときもあるだろ」

 食い下がる千尋に柳は曖昧な笑みを返すばかりで、結局は答えをくれなかった。要するに愚直なままで地を這って進めと言われたのだと理解する。その先に、千尋の望む未来があるかどうかは誰にもわからない。ただ、馬鹿は馬鹿なりに努力を続けるのなら、この明晰な頭脳は千尋に助言を与えてやってもいい、と言っていることも理解した。
 だから。

「蓮二、来年のことは来年考える。いいだろ、それで」
「お前がそう思うならそうなのだろう。俺は過剰に干渉するつもりはない」

 それよりも、現在の問題と向き合ってまだ続く海原祭の準備を優先したい。その意思を込めて返答すると、柳には無事伝わったらしい。許容が提示される。その態度にやはり柳は十三の小僧の域を逸脱している、と思ったがそれを指摘しなければ息が出来ないなどという筈もない。自分と自分以外の線引きをして、千尋は眼前にあるラーメン鉢を覗き込む。味噌コーンバターラーメンの濁ったスープに薄っすらとコーンの名残が見えた。完食したに近い。なのに千尋の腹はまだ減っている。千尋の正面に座った仁王のラーメン鉢を見ると煮卵が浮かんでいる。一瞬だけ悩んで、割り箸を仁王の鉢に向けて伸ばした。

「ハル、煮卵食わねーなら俺がもらうからな」

 替え玉を頼むほどでもない。頭の片隅で仁王は好きなものを後で食べるタイプだと自己申告されたのを思い出さなかったわけではないが、何となく、千尋の思っている雰囲気にするには仁王の煮卵を勝手にもらうのが一番手っ取り早いような気がした。

「何しゆうがじゃ、俺は好きなもんは後に残すタイプじゃちゅうとるじゃろ」
「お前が余計なこと言うから、俺はコーン拾いながら人生哲学とかいうクソ意味のねーこと考えさせられたんじゃねーか」
「そりゃ、お前さんが勝手にしたことじゃろ。ダイちゃん、相棒の不始末はお前さんの不始末じゃ。ちゅうことじゃけ、お前さんの煮卵もらうぜよ」
キワ、お前の所為で俺まで飛び火したんだけど? 大将、煮卵追加。支払いはそこの馬鹿が持つから」
「ダーイーちゃーん!」
「いいじゃないか、キワ。どのみち寮に帰れば戻ってくるんだろ?」
「いや、うん、その通りなんだけど、試合に負けて勝負にも負けた気分しかしねー」
 
 こんな手詰まり感しかない夜は十三歳の千尋には似合わない。そう思っているのは千尋一人かもしれない。それでも、自分で何も動かずに誰かが与えてくれるのを待っているだけなんて、千尋には出来ない。それを世間は勤勉と呼び、一部では称賛されるのだということを千尋はまだ知らないが、知っていたとしても評価の為に自己犠牲を望めるほど千尋は狡猾ではない。
 だから。

キワ、お前は本当に不思議だな」
「何が」
「煮卵一つでお前のホームだ。俺には到底真似出来ないやり方だ、と感心している」
「別に、そんなんじゃねーって」

 そんなに大した話ではない。ただ、煮卵一つに託した思いを拾ってくれた相手がいるという僥倖だけは理解している。一手二手三手。その先を見越して計算する。そんなことが出来るのは立海で言えば三強ぐらいだ。千尋にはそこまでの知性はない。
 ただ、何をすれば千尋の希望が叶うのか。そのきざはしだけが見える。
 それを言葉で説明出来るだけの弁舌は持っていないし、語ったところでただの屁理屈にしかならない。だから千尋は弁解をしない。
 柳がそこまでを一拍で理解して微笑む。

「ではもう一度言おう。『お前がそう思うのならそうなのだろう』」
「『お前の中ではな』だろ?」
「何だ、わかっているのか」

 言われなかった台詞を最後まで続ける。柳の細められた双眸はそのままに、驚きの表情に変わる。知っている。柳のこの表情は千尋を評価したということを意味している。何度も何度もこの表情に出会った。最初の頃は何の違いも判らなかったのだから、千尋は少しぐらい進歩したのだろう。
 でも、まだ到達点ではない。
 だから慢心は許されていない。驕るのならばもっと上に辿り着いてからだ。それぐらいのことはわかる。だから千尋は隣に座った柳の脇腹を肘で軽く小突いた。

「蓮二、お前もB案に投票したんだろ」
「何だ、それも知っていたのか」
「知ってたっつーか、どうせダイにアドバイスしたのお前だろうし、お前がお前好みの結論に辿り着く為に手を抜くかどうかぐらいならわかる」

 その為にどんな手段を使うか、それぐらいのことは柳を見ていればわかるようになってきた。柳は柳の理想を貫く為にならどんな打算もどんな誘導も出来る。だから、千代が出したはずのB案の方が丁寧に作りこまれていることもわかるし、それを意図したのが柳だということもわかる。
 そう言えば、柳が珍しく苦笑いを浮かべて居心地が悪そうにした。

「なるほど、俺も随分と過大評価されているようだな」
「違うだろ、蓮二」
「何がだ、キワ
「もっと素直に喜べよ。俺の進歩とお前が持ってる信頼が持ってきた結論じゃねーか」
「お前に説教をされる日が来るのはもっと先だと思っていた」

 お前の進化は本当に日進月歩だ。毎日前に進んでいる。
 その千尋に評価される照れ臭さを言外に含んで、柳が自分のラーメン鉢からチャーシューを二枚、千尋の鉢に乗せた。

「蓮二?」
「腹が減っては戦が出来ぬ、と言うだろう。特待寮に戻ったら、B案の手直しを気が済むまで手伝ってもらう。その為の賄賂とエネルギー源だ」

 わかるだろう。
 言って柳が悪戯に微笑む。千尋には芸術的なセンスなどない。理屈もわからない。それでも、世間という最大公約数の意見を出すには千尋ぐらいの平凡さが丁度いい。高尚さなど求めていない。ただ、一般論を聞きたい。その願いが叶えられるのが千尋であることを今は誇りたい。
 そんなことを思いながら頬張ったチャーシューはバターの味と混ざって、濃厚さをもたらす。チャーシュー二枚で満腹になるはずもなくて、結局は帰りにコンビニエンスストアで食べ物を調達して帰る未来が待っているのを何となく察しながら、それでも二枚の賄賂を味わって食べる。
 本気で挑む学校行事というのは存外悪くない。それを教えてくれる仲間たちがいる僥倖を咀嚼と共に受け止めながら、千尋はまだ前を向いていられると思った。