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22nd. 妥協点

 海原祭が明日から始まる。立海大学の構内に所狭しと並んだ屋台。学科棟はどこも展示や企画が催される。テニス部の喫茶店は文学部棟の大講義室で全ての準備を終えた。二週間にわたり取り組んできたことが明日、ようやく実を結ぶ。その達成感に大学生はもちろん、高校生、中学生も高揚していた。
 大学の海原祭実行委員会の音頭で前夜祭が行われている。
 常磐津千尋たち中学生は午後八時には帰宅するようにという指示が出ている。三年生の智頭昭也(ちず・あきなり)が時折腕時計に視線を落としては時間を確かめていた。その間隔が少しずつ短くなる。解散を命じられるのは間もなくだろう。生まれて初めての前夜祭が終わってしまう、という寂寥感を感じる千尋の耳には、グラウンドに設営されたステージから落語研究会の小咄が聞こえてくる。千尋のいる第三学生食堂の前からでは全てを正確に聞くことは出来ないし、そんなことをするつもりもなかったが、途切れとぎれの言い回しから前夜祭の為の小咄をしているのだということを察する。落語研究会とは言っても、野球部の部員に強制的に兼部することを強いることで成り立っている部活だ。だから、野球部単独の催しはない。前夜祭も含めて四日間。ステージから笑いを提供する為だけに彼らは準備を進めてきた。
 それぞれの参加者にそれぞれの艱難辛苦と達成感がある。
 そのことを噛みしめていると、不意に千尋の左頬に冷たさを感じた。多分、氷の入っているコップかペットボトルを当てられたのだろう。そんなことをして楽しむのは仁王雅治以外、考えられない。またか。慣れた感想を胸に左を振り向くと、そこにいたのは仁王ではなかった。

「弦一郎、お前かよ」
「何だ、疲れているようだったからそこの屋台で缶ジュースを買ってきたのだが、不要だったか」

 真田弦一郎の言葉通り、彼の手の中にはオレンジジュースの缶がある。その光景が、真田の誠実さを雄弁に語った。あの日、千尋が言った些細な一言を真田はきちんと覚えてくれている。オレンジジュース、100%より薄いやつでいい。その希望通りのものが、今、真田の手の中にある。
 先ほど頬に触れた冷たさの正体はこれだ。

「いや、もらう。さんきゅ」

 代金は明日にでも払おう。そんなことを考えながらオレンジジュースを受け取る。暑気の残る蒸した夜に、ひやりとした缶ジュースは触れるだけで清涼感を与えた。
 缶を受け取って、それでも開ける様子もなくただ持っているだけの千尋の耳にビニール袋がこすれる音が届く。真田が何かを取り出そうとしているのだと気付いて、そちらに注意を向ける。

千尋、腹も減っていないか? からあげがあるのだが」

 遠慮がちにからあげが入ったカップが提示される。ホットスナックとしてのからあげを提供する屋台は全部で六つある。第三食堂の付近には二つ。男子バスケ部とボランティア部だ。カップの大きさを見るに、一番大きなサイズだろう。食欲旺盛な男子中学生ならば二人もいれば十分に完食出来る。
 そんなことを考えて打ち消して、千尋は真田に問い返した。

「からあげ? それ、お前が食うやつだろ」
千尋、俺たちはあと十五分で帰宅せねばならん。それまでに食べきれる量かどうか、お前にもわかるだろう」
「うん、だから、持って帰るんだろ?」

 真田が真実、千尋と二人で食べる為に買ったのかぐらいなら、もう彼に問わなくても自分で判断出来る。真田は恩を売るために次から次へと献身的な言動を取るタイプではない。だから、真田が持っているからあげは千尋の為のものではないだろう。持って帰って食べればいい、と言えば真田の溜息が重たくなる。

「からあげを持ってバスに乗ったり電車に乗ったりするのはマナー違反だと思わんか?」

 立海大学付属中学の生徒がこの後、一斉に帰宅する。バスも電車も中学生で満員御礼だ。その中でなら、今夜を含めた四日間ならば、食べ物を持って公共交通機関を利用してもそれほど罪深いことではない、と千尋は思った。
 ただ、それは千尋の価値観であり、真田はそうすることに罪悪感を覚えている。
 今度は千尋の溜息が深くなった。

「じゃあなんでそんなでかいの買ってきたんだよ」
「……お前がほしそうなジュースを探していたら、なかなか見つからなくてな」
「そのカップ、バスケ部のだろ。買わされたのかよ」

 真田が持っているカップは赤と黒のストライプで、代々男子バスケ部がホットスナックの屋台をするときに使うカップだ、と判断する。千尋のルームメイトであるバスケ部の堺町秀人(さかいまち・ひでと)が感慨深げに語っていたから間違いないだろう。
 その、バスケ部の屋台は第三食堂の裏側にある。千尋が好きだと言ったオレンジジュースを探すために旅をしたのだとしたら、この借りは千尋が思っていた以上に大きかったということになる。溜息がもう一つ漏れた。

「すまん、千尋。やはり迷惑だったな、同じ方面に帰るものと合流してから――」
「いいよ。別に、腹減ってるし、ちょうどからあげ食いたかったし、塩辛いもの食ったらオレンジジュースももっと美味いし、食おうぜ」

 千尋の溜息を拒絶と受け取ったらしい真田が口早に言葉を撤回しようとする。厳格で厳粛で、荘厳にして頑固。気配りなどしないし、傲慢で不遜。常に我が道を歩き続ける存在として認知されている真田が、真実その評価の通りでないことなら千尋はよく知っている。どちらの評価が真田の本質なのかはわからない。
 ただ。

「弦一郎、お前さ、今度から俺も一緒に連れて行けよ」

 千尋はどちらの真田も嫌いではない。三強と呼ばれ、厳めしい顔をする真田も、千尋たちと昼食をとる短い時間の合間に見せる少し天然地味た優しさのある真田も、どちらも真田だ。その、どちらか一方だけを選ぶことは出来ないし、その意味もない。
 人間と言うのは複雑な側面を持つ。
 だから、世間の評判に千尋は興味がない。目に見えるものだけが真実だ、などとうそぶくつもりもない。それでも、千尋は知っている。真田は友人として信じられる。彼と行動を共にして、失う何かになど興味がない。
 だから。
 からあげのカップを持って途方に暮れている真田の左胸に拳を当てた。真田がふいと横を向く。

「疲れているものを無理やりに連れまわすほど俺は愚昧ではない」
「お前だってわかってるだろ。俺は、疲れててこれ以上無理だって思ったら寮に帰る。ダイがいなくても、一人で帰る。それに」
「どうした、千尋
「緊張と期待の間にいるの、俺一人じゃないだろ」

 お前もそうだ。初めての海原祭。緊張の二週間だった。試合とも試験とも違う。千尋たちよりずっと年上の先輩たちの指示を受けながら、足手まといにならないように必死に動いてきた。その、緊張感とはもう別離した。そのことに安堵を覚えないほど千尋たちは成熟していないし、そんなやつがいたら千尋は知り合いになりたいとも思わない。
 千尋と同じ、等身大の中学一年生。真田はその範疇にいる。人は生まれながらに平等ではない。それでも、本当に望むのなら、対等の関係を築くことが出来るのだと真田たちが教えてくれた。
 だから。

「弦一郎、帰りに特待寮寄って帰れよ」
「俺には門限があるのだが?」
「別に引き止めやしねーよ。書類、出して帰るだけだ」

 そのからあげ、俺も食ったんだから俺の飯代にしてもらえばいいだろ。
 何でもないことのように言う。多分、真田が逆の立場なら同じことを言っただろう。その確信がある。そのぐらい、千尋と真田の距離は近くなった。
 それでも、真田には自立心がある。

「俺が買ったのだ。俺の小遣いで賄うのが道理ではないか」
「そんなことしたらお前の明日の小遣い減るじゃねーか」
千尋、小遣いというのはそういうものだぞ」

 使えば減る。増えるのは月に一度だ。その中でやりくりをしていく工夫を自分で見出す為に世間の親は子どもに小遣いを与える。無限に与えられる小遣いでは意味がない。だから、押し売りに負けてからあげを買ってしまった真田の落ち度は真田が被るべきだ、という彼の言い分はわかるがそもそもの遠因は千尋だ。
 だから。

「弦一郎、選べよ。そのからあげ、俺の飯代にするのと明日のお前の出費、全部俺が持つのとどっちがいい」
千尋、その選択は脅迫だと俺は思うのだが」
「よし、じゃあ精市呼んでどっちの言い分が正しいか決めてもらおうぜ。それならお前も文句ないだろ」
「そういう問題ではない」
「じゃあ、バド部のフライドポテト買ってくるからお前、それ持って帰れよ」
「そういう問題でもない」
「本当、お前っていいやつだな」

 他人に厳しく、自分にはそれ以上に厳しい。
 道理を通すことを好み、人として正しくあろうとする。ゆえに世間は彼を真面目な優等生として評価する。その、模範的な生き方は千尋には到底真似など出来ない。千尋は世俗的で流動的な人生を望んだ。
 自分とは違う。それだけを理由に排除しようとするやつが少なくないことは千尋もよく知っている。でなければ敬遠などという言葉は決して生まれなかっただろう。
 真田弦一郎という個人は概ね周囲から敬遠されてしまう。
 強情で、義を重んじ、利ではなく理を求める。
 そんなやつ、千尋の人生の中には真田しかいない。それでも、千尋は知っている。真田にも感情があり、当然、後悔をしたこともあるし、多分真田は毎日が終わる瞬間にいつも反省をしている。その教訓を糧に真田は前に進む。
 普通の神経ではその眩さに耐えきれないから、敬遠する。持ち上げる顔をして、密かに遠ざける。遠ざけて、言い訳をして、関わらないようにして自分の心の安寧を保つことに意味がないことを千尋は知っている。
 どうしようもない馬鹿で、世間の常識に馴染みのない千尋でもわかるのだ。
 真田を敬遠しているやつだって、本当はそのことに気付いているのに知らないふりで通す。馬鹿なのはどっちだ。自分の心に嘘を吐いて、手にした平穏にどれだけの価値がある。正面から向き合えない弱さを相手に押し付けて逃げて、それで何を得られる。
 一度や二度、折れたぐらいで道を曲げるなら、結局はその程度の心構えでしかない。
 何度折られても、何度否定されても、本当に大切なら貫けるはずだ。少なくとも、千尋はそうする。
 だから。

「弦一郎、じゃあ割り勘な。これ以上は絶対譲んねーし、お前も諦めろ」
「お前も大概、頑固者だな」
「お前には負ける」

 妥協点を見つけて千尋と真田は笑みを浮かべる。千尋がまだ「キワ」だったころ、真田の中の千尋の立ち位置は徳久脩(とくさ・しゅう)のおまけだった。海原祭の準備を通して、千尋千尋になった。今は、多分、真田の中に常磐津千尋という唯一無二の場所がある。
 そのことは真田の言葉が肯定した。

千尋、明日の予定はあるのか」
「内覧日のうちに好きなとこ行っておけって大原先輩に言われたからな。適当にぶらぶら」

 初日の金曜は学内の関係者だけしか立ち入ることが許されていない。土日は一般公開されるから来場者が桁違いに増える。初めての海原祭を十分に満喫するのなら内覧日しかない、と先輩たちから十分に聞かされていた。
 その旨を伝えると、そこは真田も承知していたのだろう。

「ダイと一緒でなくてもいいのなら、俺と一緒に回ってみんか?」
「ああ、うん。ダイはルックとかハルと回るらしいからな。あいつら、何だかんだで結構気が合うみたいだし」
「お前も十分気が合うように見受けるが?」
「弦一郎、知ってる? 誰とでも仲いいのは、実際誰とも仲よくないのと大差ない」

 真田から何かを誘われるのは真田家で行われた外泊の時以来だ。徳久がいたら、千尋は誘われなかっただろうか。そんなつまらないことを考えて打ち消す。その仮定には意味がない。今、真田は千尋を誘った。それ以上の何かを求めるのは強欲だろう。
 千尋は千代由紀人(せんだい・ゆきと)とは違う。誰と話すときも適切な緊張感は持っているが、不必要な焦燥感や恐怖は持っていない。それを客観的に判じれば誰とでも上手く話せる、という結論になる。それでも、千尋はもう一つ知っている。本当に親しい友人という範囲は決して広くはない。個人差があるにしても、親友が五人も六人もいるというやつは軽薄だ。千尋の親友が誰なのかはまだ自分ではわからない。多分、十年、二十年先になってわかることだ。それでも、千代が特別な一人なのは間違いがないし、こうして千尋を気遣ってくれる真田もまた特別な一人の内訳に入るだろう。
 人は生まれながらに平等ではない。人に対する好意だけが特別なわけもないから、平等ではない。優先順位の付かないものなどこの世にない、と知ったとき、千尋は自分の生理的な感覚を否定することをやめた。
 誰かと親しくすることに罪悪感や背徳感を覚える必要などない。
 だから。
 千尋の人生は千尋のものだ。他の誰も、千尋にはなれない。
 千代とべったり一緒でなければ生きていけないほどには弱くはないし、人間関係が希薄なわけでもない。真田が同行者を希望してくれるのなら、その誘いを受けるのもまた巡り合わせの一つなのだろう。

「弦一郎、俺でよければ一緒に回ろうぜ。俺、剣道部のお化け屋敷行きてーんだけど、お前、そういうの大丈夫なタイプ?」
「笑止。作り物の脅かしなどで動揺するなど実にたるんどる」
「言ったな。じゃあ、朝一で武道館前集合ってことで」
「途中で腰を抜かすなよ。俺はお前の介護をするなどごめんだ」
「じじいじゃねーんだからそこまでビビんねーよ! まぁ、ビビってた方が楽しめるような気もするけどな」

 そんな他愛もない会話を交わしながらカップの中のからあげが二人分の胃袋に消える。ちょうどその頃合いを見計らったかのように構内にくまなく設置されたスピーカーから中学生の帰宅を促すアナウンスが流れた。
 赤と黒のカップを近くにあった燃えるゴミの袋に捨てて、千尋と真田は中学の特待寮へと向けて歩き出す。
 割り勘のからあげで若干の胸やけを感じながら、二人夜道を進む。からあげのカップはもう持っていないはずなのに、お互いからはからあげの匂いがする。これではどの道公共交通機関の中で迷惑な存在だと苦笑しながら、初めての海原祭の前夜祭が終わろうとしていた。