All in All

24th. Best answer

 海原祭が無事に終了してしばらく経った頃のことだ。
 当たり前の日常が戻ってきて、常磐津千尋の毎日はテニスが中心になる。湘南の海を横目に走るロードワークの距離は少しずつ長くなった。潮風の匂いが変わった。少しずつ日の出が遅くなり、起床がつらくなる季節がもうすぐやってくるだろう。その予感が千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)の会話を少しずつ侵食していく。アメリカに渡った徳久脩(とくさ・しゅう)がいたらどんな感想をくれただろうか。不意にそんなことを口にして、半年しかいなかった千尋たちの仲間はそれでも確かに仲間だったのだと知る。
 新しい仲間であるジャッカル桑原は今も自宅から立海大学付属中学まで走って登校してきていた。特待寮の朝食に間に合う時間に、必ず食堂にいる。スタミナ勝負では負けないと正面切って宣戦布告を受けていた千尋にとって、それはちょうどいい奮発材になった。起床時刻と朝食の時間は変動しないから、千尋たちがロードワークの距離を延ばす為には走る速度を上げるしかない。その、やりくりが千尋の知性を刺激した。千代と二人、無理のないロードワークを相談して少しずつ試す。データテニスが武器の柳蓮二は数字に弱い二人の試行錯誤を見て、助言が必要ならば頼るようにと進言してくれたが現時点ではまだ世話になっていない。いつか、柳を頼る日が来るのだとしても、自分たちで考える姿勢を手放したくはなかった。
 今朝もロードワークを終えて整理体操をする。有酸素運動で温まった体を少しずつ休めてから特待寮の玄関に戻る。そこにはいつも通り桑原のシューズが並んでいて、自分たちが切磋琢磨する相手が音を上げる未来はまだやってこないことを受け止めた。
 特待生には専用の靴箱がある。運動部の特待寮だということもあって、靴だけでも三足は十分に収納出来るだけのスペースが確保されていたが、桑原がその靴箱を使ったことは一度もない。毎朝、玄関に置いてあるのはランニングシューズで、学校指定の革靴は他の荷物と一緒に桑原自身が食堂へ持ち込んでいる。食後に革靴とシューズを入れ替えて中学の敷地内にある部室棟へ向かうのが恒例行事だ。革靴で登下校しないのなら、桑原の靴箱にしまっておけ、と二年生の先輩たちからも助言を受けたが彼がそれを参考にする兆しはない。
 多分、シューズを玄関に置くのは桑原なりの挑発行為なのだろう。
 桑原はもうロードワークもウォームダウンも終わって食堂にいる、という宣戦布告なのだ。そのことを察したから千尋と千代は毎朝、ランニングシューズよりも先に食堂に入ることを目標にしたが、現在までその挑戦は達成されていない。

「ルック、今日は何頼んだんだ」
「今日はホッケにしたんだ。キワ、お前も好きだろ?」
「好きだけど、三日に一回は頼むお前ほどじゃねーよ」
「ま、キワの場合、三日に二回は紅鮭食べてるからそっちのがよっぽどだと思うけど?」
「ダーイーちゃーん。お前は豆腐の味噌汁以外を頼んでから喧嘩売れよな」
「おっ、今日も絶好調だな」

 千尋が朝食の献立を尋ねる文言から、千代が煽って桑原が笑うまでが一連の流れで毎朝こりもせず繰り返される。他の特待寮の生徒からはテニス部の一年連中は凸凹トリオで面白い、と評価されているが、不器用か愚直しかいない千尋たちにとっては面白み以前の問題だった。いがみ合うだけが競争ではない。隣でお互いの成長を認め合うのもまた競争だ。
 だから。
 先に朝食と向き合っている桑原に遅れて千尋たちもいただきますを唱和する。そして慣れた特待寮の味を頬張って、あっという間に食器の上から消えた。育ち盛りの千尋たちにとって、朝食は必要不可欠だが食べ過ぎると朝練に影響する。朝だけだったが、おかわりを禁止した寮母の采配は絶妙だと思いながら千尋の一日は今日も順調に始まっていく。

「ってことで、今日も朝練頑張りますか」

 食器を返却口に置いて、自分の部屋に戻って制服と鞄を持って降りてくる。段取りをしながら千尋は席を立った。
 千尋に続いて千代が立ち上がって言う。

「ルック、先行ってて。俺たち荷物取ってくるから」
「だったら、その食器、俺に任せてくれよ。片付けるの一人分も三人分も大して変わらないからさ」
「ルック、それ毎朝言ってる。いいって」
「先に行っても待ってるだけだろ。いいじゃないか、これも俺の担当ってことで」

 桑原が一度言い出したことは絶対に譲らない性格だということはこの一か月の間に十分理解していた。有言実行と言わんばかりに千尋たちの食器を桑原が手慣れた動作でまとめていく。千尋と千代は小さな溜息をこぼして視線でやり取りした。
 じゃあ任せる。言って嫌な顔ひとつせず片付けに取り掛かった桑原を食堂に残して千尋たちは階段を上った。二、三分後に玄関へ降りてくると革靴を履いた桑原が待っていて三人で部室棟へと向かう。二年生の三人は上級生の特権で準備を免除されているから、彼らが出発するのは十五分後だ。テニス部以外の部活でも概ねそれは変わらないらしく、バスケ部、サッカー部、野球部と一年生が次々に特待寮を出ていく。
 その波に乗れば部室棟まではすぐだった。
 部室のロッカーで手早く準備を整えてコートに出ると、他の一年生たちも少しずつ集まり始めている。テニス部の準備は原則的に三人一組だ。千尋たちは特待生という枠で自動的に一組にされた。ネット張り、コート掃き、ボール運びが主な仕事でそれぞれの組で分担している。今日の千尋たちはネット張りの担当で、六面あるコートに順にネットを張っていく。三人組の中でも当番がローテーションしており、右のポール、左のポール、張り具合の確認という役割を交代で行うから誰か一人が楽をすることはない。

キワ、右もうちょっと」
「これぐらい?」
「ああ、それぐらいでちょうどいい」
「ルック、左このままでいいの?」
「大丈夫だ。ダイ、先に結んでくれ」

 そんなやり取りを六回繰り返した頃、二年生がやって来る。朝練にレギュラーという概念はない。二年生部長の平福(ひらふく)がそう決めた。だから、朝練は一年生も二年生も関係なく、基礎練習をする。基礎練習しかない朝練なら楽勝だと思った時期もある。実際、一か月前はそう思っていた。なのに、平福の決めた朝練は先代部長の決めた朝練よりずっとつらい。
 ペアストレッチから始まって、素振り、ボレーボレーと続く。ボレーボレーのやり方が少し変わっていて、一球打つごとにポジションも動く。一つのコートに入るのは六人ずつで、ボレーを受けるのはそのうちのネットを挟んだ四人だけだ。二球打てば一回休み、その休みの中で前方の二人の弱点を観察する。十回休むまでが一セットで、五分の小休憩を挟んで三セットが終わるまでに自陣の二人の弱点を見つけられなかった場合、コートの外周を走らせられるとあって、千尋はこの知能を使う練習が苦手だった。
 コートの割り振りは溝を塗り分けられた専用のボールを使ってのくじ引きで決まる。今日、千尋と同じコートに入るのは丸井ブン太と二年生の先輩だった。
 青と白に塗られたボールをマネージャーに返して、千尋は第四コートの片方に入る。
 千尋が三人目だったようで、先に丸井と先輩がいる。先輩の方は年の功なのだろうか、一瞬だけ表情を固まらせたが、結局は「よろしく頼む」と言うに留まった。
 それとは対照的なのが丸井だ。
 
「げっ、キワかよぃ」
「『げっ』って何だよ。俺じゃいやなわけ?」
「嫌じゃねーけどよぃ、お前の弱点探すの大変なんだって」

 フォームは基本的に整っている。ラケットの面の使い方にも概ね問題はない。相手に応じてボレーの強弱を調節することも出来る。ポジショニングにも足運びにも欠点らしい欠点はない。だから、自分の順番が巡ってくるまでの、その短い時間で千尋の弱点を探すのは苦行だ、と丸井は嘆息する。
 
「俺で苦労してたら精市と当たったらお前、死んじまうんじゃねーの」
「あ、それはもう外周しかねーだろぃ」
「諦めてんのかよ! あるだろ! 弱点! 一個ぐらい!」
「朝っぱらからテンション高いなぃ、お前」
「誰のせいだと思ってんだよ、ルイ」

 丸井のものとは違う理由から溜息が漏れ出た。丸井は今、無意識的にだが線を引いた。自分と千尋と幸村。この三者の間に引かれた線にはそれぞれ別の名前が付いている。多分、幸村との間に引いた線は「超えられない壁」なのだろう。テニスを始めて半年と少しの丸井に、彼自身の弱点を自覚しつつ、より次元の高いものの弱点を探せ、というのがどれだけの苦行なのか。想像しただけでも十分に困難だと思える。
 それでも。
 諦めたらそこで終わりだ。目の前にあるものを否定して、罰則を前提に努力もしない。丸井はそういう、つまらないやつではないと思っていたのは千尋だけだったのだろうか。千尋の中で複雑な感情が渦を巻く。
 コートの外では直情径行。四月に柳をしてそう評価された千尋の性格はまだ改善されていない。ラケットを持っていても、ボールを持っていても、プレイ中でなければ千尋の感情の起伏を読み解くのは誰にでも出来る。寧ろ、それに気付けないやつがいるのなら、そいつは度を越した鈍感だ。
 そのぐらい、千尋の態度は感情を雄弁に語る。
 だから。

キワ、お前、もうちょっと隠すとかしろよなぃ」
「何の話だよ」
「わかってるだろぃ。まぁ、俺もわかってるんだけどなぃ」
「だから、何だって」
「努力が嫌なんじゃねぇよぃ。諦めてるけど、悔しくないわけじゃねぇし、弱点見つけるまでに見習いたいことの連続で、すげーって思うんだって」

 だから、弱点や欠点を探す余裕はまだない。丸井はそう語る。
 敵を知り、また自分を知れば百戦危うからず。誰が言ったのかという情報は忘れたが、昔からある言葉だと柳がいつか話していた。その言葉を聞いたとき、千尋はなるほどと思った。戦う相手の情報と自分自身の客観的な情報。その二つがあれば戦いは有利になる。相手の苦手なコースがわかっていても、千尋自身もまたそこを攻めるのが苦手なら話にもならない。
 多分、今、丸井は千尋が躓いたものと同じ壁の前で止まっている。
 そのことに気付いたから、千尋は必死に言葉を探した。
 敵――千尋の情報の取捨選択をしようとしている丸井に今、必要なのは丸井自身の情報だ。
 
「ルイ、難しく考えんなよ」
「何が」
「上手い場面が見つかるなら、弱点だって見つかるだろ」
「それが出来ねぇから困ってるんじゃねぇかよぃ」
「だから、発想の転換だって」

 得意なものは人の目に鮮やかに映る。自分自身もまたその有利さに依存してしまうこともあるだろう。自分のペースで試合をしている間はそれでいい。
 それでも。
 格上の相手、苦手なプレイスタイルの相手と出会ったときに、本当に自分のペースで試合が出来るのか。多分、千尋にはまだ叶わない。ということは千尋にも弱点がある。繰り返される基礎練習の中で、千尋自身では気付かない得意なスタイルに頼っている部分がある筈だ。

「大丈夫だって。お前にだからわかる弱点もあるだろ。それとも、俺は精市レベルで完璧なのかよ」

 絶対にあり得ないことを口にした。比べるにしても対象が高度すぎて月とすっぽんの領域を何重にも超越している。わかっている。わかっていて言った。否定されるのは想定の範囲内だ。
 それでも。

「いや、幸村君レベルとかキワ、お前自惚れすぎだろぃ」
「うん、即否定な! 即な! 一瞬ぐらい悩めよ!」

 即答で否定されると流石につらいものがある。
 敵わないことは知っている。千尋はまだ幸村と比較出来る次元ではない。
 わかっていても、即答で否定されると切ないような虚しいような複雑な感情が想起された。
 そのつらさを真正面から受け止めて、真摯に打ちのめされたくはなくて勢いで冗談を気取る。丸井が一瞬だけ瞬きをして、やや深刻そうな溜息を零した。

「だから、お前、朝っぱらからテンション高すぎだろぃ」
「いや! だから! 誰のせいだと思ってるんだよ、お前」
「よく考えたらそれって――」
「ルイ、ストップ」

 丸井が何かを言おうとした台詞の続きを遮る。多分、その言葉は丸井が持っている「今日の解」の一つだ。千尋の弱点を見つけた。それは練習の中ではなかったかもしれない。それでも、きっかけやヒントにはなる筈だ。その解の一端を持ったまま今日のボレーボレーに参加すれば解そのものになり得るだろう。
 だから。

「ルイ、これは受け売りなんだけど」
「何だぃ」
「『人生における最適解は存在しない』」
「柳らしい説教だなぃ」
「違うんだな、これは弦一郎の受け売り」
「次元が高すぎて俺にはわかんねぇよぃ」

 三強は何をさせても三強か。そんな弱弱しい反論が聞こえる。
 学業の成績、テニスの実力、人としての徳。何を取っても千尋もまた三強と並び立つことは難しい。
 それでも。

「いつかお前が超える壁だって」

 もちろん、千尋自身にとってもそうだ。だから、壁を見上げて首が痛いと拗ねるのはやめると決めた。目の前の壁と向き合って、ぶつかってびくともしなくて泣いて、無力感と戦って、時折手足を休めて、そしてまた何度でも何十回でもぶつかっていく。無限にも近いその戦いを千尋が続けるのは千尋が特別だからではない。三強が特別だからでもない。お互いに一人の人間として、仲間として認知した。その過程で生まれた信頼を反故にしたくはないから前を向いて顔を上げる。
 千尋は特別な人間ではない。
 どこにでもいるただの十三歳で、ただ人より少しテニスに対する思い入れが強いだけの少年だ。持っていない知識は山ほどあるし、理論を説かれても理解出来る範囲には限界がある。
 それでも。
 三強と向き合うと決めた。
 今は届かなくても、千尋は三強たちから望まれている。
 その、明日の為に研鑽を続けられる。千尋が特別なのだとしたら、その一点しかない。底抜けに前向き。挫折も失敗も、無力感も敬遠しないと決めた。何度叩き折られてもいい。その度に立ち上がってもう一度を繰り返す。

「頭ごなしに無理だって決めつけんなよ。お前だって才能あるだろ。才能のねーやつなんていねーよ」
「これだからA型男子は面倒臭いんだよぃ」
「えっ、何、俺もそのくくりかよ」
「自覚してなかったのかよぃ」
「いや、俺は三強には負ける」
「負けてねぇよぃ。お前、十分『特別な』才能持ってるからなぃ」
「とか言いながらだんだんやる気になってきただろ、ルイ」
「それがお前の才能だろぃ」

 いいぜ。見つけてやるよお前の弱点。
 言った丸井の顔からは先ほどまでの憂鬱さが消えて、難問に挑む勇気が輝いている。自分のことに手一杯で、目先の練習に必死で、他の誰かのプレーなんて見ている余裕がない。丸井は先刻そう言ったばかりなのに、今、彼の眼には希望が宿っている。
 それを宿したのは千尋だ。
 頑張ろうぜ、なんて正面から言っても鬱陶しがられるだけだ。頑張り続けられるのは一部の特別なやつだけだと知っている。それが真理だとしても、頑張り続けられなければ自動的にふるい落とされて消えていくだけだ。千尋は丸井と別離したいとは思わないし、丸井には自分と同じ側の才能があると確信している。でなければ、彼は今、千尋に挑んだりはしない。
 だから。

「俺、お前のその顔、結構格好いいと思うぜ」
「言ってろぃ」

 お互いにそんな言葉で締めくくった頃、練習開始の合図が聞こえる。
 人は万能ではない。超えられない壁もどこかにあるだろう。人生は星の数ほど分岐して、真実の姿を見るのは容易ではない。
 神という存在が本当にあるのだとして、決められた運命に諾々と従うだけが答えではないだろう。予定調和だ、なんて斜に構えるのは千尋の性分には合わない。
 既定路線を走ってなお、それでも輝きを追い求める。
 その先にある景色を丸井と一緒に見たいと思った。
 ただそれだけのことだ。
 それでも。
 その一連の感情は誰かから与えられるものではない。筆舌を尽くして語っても何の意味もない。自分で見出さなければ一生価値を持たないことだと今の千尋は知っている。知っているがそれを示すだけの力量はまだ千尋にはない。
 だから、千尋もまた不格好に悪戦苦闘する。
 その艱難辛苦を分かち合う相手がいる幸福を噛みしめながら、千尋は受け売りの言葉を反芻した。
 今日も立海大学付属中学テニス部は覇者たる重圧と戦っている。最適解のないその覇道の先は見えないけれど、それでもまだ千尋はこの仲間たちとなら戦い続けられる。そんな確信がまた色を濃くした朝だった。