All in All

25th. 弁当箱と涙

 人には必ず欠点がある。
 まずもって眉目秀麗、文武両道で家柄もよく風格が違う。人として圧倒的優位に立つ幸村精市ですら欠点がある。人として優位すぎて他人から必要以上に距離を取られる。そのことを若干十二にして悟り、諦めきった幸村は「仕方がないよ」と言うがその話題に触れるとき、彼の双眸には憂いが宿っている。人としての弱みを晒せない。それが幸村の欠点だ。
 幸村本人も認識しているこの欠点も、残りの三強――真田弦一郎、柳蓮二や特待生の常磐津千尋、千代由紀人(せんだい・ゆきと)と切磋琢磨するうちに少しずつ打ち解けられるようになった。通算四人目の特待生であるジャッカル桑原とも、もうしばらくときが経てば親しめるだろう、というのは千尋の希望的観測だがそうなる兆しが全く見えないわけでもない。現に、桑原もテニス部懇親会である屋上庭園の昼休みに参加しているのだから、そのうちに幸村と相互理解を深めることが出来るだろう。
 今日もまた屋上庭園に集い、他愛のない雑談を交わしながら昼休みが始まる。
 特待生は購買で買った総菜パンを、それ以外のものは弁当を広げて適当な間隔で適当に座った。適当と言いつつも、暗黙の了解的に座る場所が決まっていて、概ねいつも左側のテーブルに三強と特待生、右側のテーブルに一般性の三人と桑原、という配分になる。
 千尋の右隣が千代で、左隣が柳。焼きたてのピザトーストという購買部の商品でも異色な総菜を買った千尋を柳が呆れた顔で保温の弁当箱を順番に広げていく。

「蓮二さぁ、それ、毎日重くねーのかよ」

 毎日繰り返されるその光景に毎日思っていたことを尋ねてみる。柳が表情一つ変えず「そうだな」と話を受け取った。

「鞄の中に毎日3リットル分のペットボトルを入れているお前には言われたくない台詞だ」

 千尋の鞄の中には毎日、ミネラルウォーター、スポーツドリンク、それから無糖茶のペットボトルがそれぞれ二本ずつ、合計3リットル分が入っている。これは六時限までの学校生活を送る間に消費し終えて空のボトルは分別してゴミ箱行きだ。部活中はマネージャーが用意してくれるドリンクを飲むが、千尋の分だけは他の部員より二本多く準備されている。というのはもうテニス部では一般常識のようなものだ。
 人の三倍以上の水分を摂取してなお、トイレへ行く頻度が特に多いわけでもなく、千尋の持つ不思議の一つとして認識されている。
 それを持ち出して、柳が反論してきたのが意外で何とはなしに居心地の悪さを感じた。

「いや、俺の場合減るじゃねーか。飲み終わったら捨てるし。でも、お前の軽くならねーだろ?」

 真空保存容器の中身がなくなっても、容器自体の重さが残る。それはやはり重い荷物の分類で合っているのではないか。そんなことを茫洋と考えながら、反論に反論を重ねると柳が不敵に笑う。この顔は勝算のある顔だ。七か月の付き合いでそれぐらいはわかるようになった。ということは必然的に千尋に勝ち目はない、ということなのだが十三歳で全てを割り切れるほど人生に飽いてはいない。
 言葉遊びが始まる予感に気を引き締めて臨む。
 千尋の座っているテーブルの顔ぶれが揃って参戦の意思を表明しているが、それに気付くだけの余裕はない。
 柳の反論への反論への反論が来た。

「筋力トレーニングの一環だと思えばそれほど苦痛でもない、と答えれば納得するのか?」

 柳からの問いの形をしたただの確認が言葉遊びの開戦を告げる。納得しないだろう。紡がれなかった言葉を受け取って反語だ、と思うぐらいには千尋にも学がある。
 聞いてみなければわからない。言葉を受け取ってみなければ、どんな感触になるかもわからない。だから、頭ごなしに決めつけるのではなく、問うてみろ。言おうとした矢先に柳とは反対側から煽りが飛ぶ。

「無理じゃない? 千尋ぐらい馬鹿だと論破されてても気付かないから」
「ダーイーちゃーん」
「事実だろ? 最初の段階で論破されてるのに屁理屈重ねる時点で馬鹿決定。そんな馬鹿に懇切丁寧に解説してあげる俺の優しさに感謝したら?」

 千代の煽りは今日も絶好調だ。
 よくもまぁ、これだけ煽り文句が次から次へと出てくるものだ。一応は相棒を自称している千尋をもってしても、千代が寡黙なのか饒舌なのか断言しかねる部分がある。
 時と場合による。そんな便利な言葉で一括りにしそうになって、それはただのレッテル貼りと何ら変わりがないことを知る。
 だから、千尋は千代の望む千尋には勝ち目のない戦いへと身を投じた。

「事実でも言っていいことと悪いことがあるんですー! それに、お前が優しかったら蓮二は仏レベルだっつーの!」
キワ、俺はまだ生きているが」
「いや、だから! 例えだろ! っていうか仏の解釈違いだろ! 生き仏っているだろ! 誰も即身成仏しろとか言ってないだろ!」

 比喩表現を額面通りに受け取って揚げ足を取られる。完全に言葉遊びだ。合理的を追い求め、無駄を嫌う。その柳をして揚げ足取りを食らうなら、ここから先は完全なる泥仕合だ。勢いとタイミングが重要で、何があっても退かないだけのメンタルが求められる。
 千尋はツッコミという名の反論を放り投げるのに渾身の力を使った。
 その、限りある教養が新たなる参戦者を増やすことになるとは予想もしていなかったが、今、沈黙で返すのは即時、敗北を意味する。A型男子で負けず嫌い。千尋もまた譲れない矜持がある。

千尋が仏教を割と正しく認識してる時点で、俺としては神レベルの驚きだよ」

 誰がお前にそんな高尚な知識を教えたんだい。
 不敵に笑いながら会話に参加した幸村が会話のレベルを広げる。
 仏だの神だのを引き合いに出したのは千尋だが、そんないるともいないとも知れないものの話がしたいのではない。ただの比喩表現だ。わかっていて全員が真剣にとぼけている。王者立海に死角はない。どの瞬間でも全力が求められる。今は全力での息抜きを強要されている、とわかっているから千尋の声のトーンが上がる。

「違う宗教ぶっこんでくるのやめろよ精市。っていうか俺は何も宗教の話がしたいんじゃねーよ!」

 話の本筋からどんどん逸脱している。誰か軌道修正を図ってくれないか。他力本願でそんなことを思う。隣のテーブルでは笑い声を抑えている気配があって、余計にいたたまれない気持ちになった。
 そんな折、唯一の傍観者だった真田が静かに言う。

千尋、ここは共有スペースだ。もう少し周囲に配慮せんか」

 正論中の正論が返ってきて、千尋は脱力する。
 わかっている。最初に声を荒げたのは千尋だ。テンションが高いというキャラクターを演じているつもりが、いつの間にか板について千尋から離れない。
 もっと地に足をつけて歩け、と言われているのだということはわかるが、それでも千尋の中には反論がある。

「弦一郎、お前、ここまでの流れ見てたのかよ。不可抗力だろ、不可抗力」

 それに、悪ふざけをしていたのは千尋一人ではない。名指しで説教をされるほどのことはしていないだろう、と含ませると真田は眉一つ動かさずに静かに言葉を重ねる。手本通りの美しい所作で食事を続けながら、それでも真田は淡々と説教を続けた。

「言い訳など見苦しい真似はよせ。お前一人が騒いでいる。それが現実だ」
「お前さぁ」
「弁当箱の重さごときで一々騒ぎ立てる必要などあるまい。違うか、千尋
「いや、そうなんだけどさ」
「では何が問題なのだ。それとも、お前は蓮二の弁当箱が羨ましいのか」

 諭すような正論の後に思ってもみない問いが聞こえる。真田にしてみればそれは小さな疑問で、多分他意などないのだろう。それもそうだ。千代と桑原を除いた六人がそれぞれの弁当箱を持っている。大きさも色も形もそれぞれだったが一つだけ共通していることがある。成長期の男子中学生の弁当箱はある程度以上の大きさを持っている。鞄の中で一番大きな荷物が弁当箱だろう。
 その、一番大きな荷物の中でも柳一人に絡む理由、というやつを千尋自身で自覚していなかったが多分、そこに至る筋道というやつもあるのだろう。真田はそれを「羨ましいのか」と表現した。
 違う、と言いたい。
 羨ましいなんて思う理由がない。千尋は自分の食べたいものを毎日食べている。好きなものを好きなだけ食べる権利を行使しているのだから、羨ましいと思われることはあっても、羨ましいなんて思う理由がない。
 だから。

「はぁ? なんでそうなんだよ」

 不本意である、ということを言葉に込める。真田が更に反論を重ねるより早く、隣のテーブルから笑い声が飛んできた。

キワちゃん、その辺で諦めんしゃい」
「そうそう。負けるが勝ちって言うだろぃ」
「ハル、ルイ、何だよそれ」
キワ君、ワタシが思うに真田君の指摘は正鵠を射ているのでは?」
「ヤギ、お前もかよ」
キワ、ホームシックならそう言えばいいじゃないか」
「ルック、お前までかよ」

 何なのだ。一体、彼らは何を言わんとしているのだ。
 そんな戸惑いを持て余していると、千尋の隣でフルーツ牛乳を飲んでいた千代が不意に真剣な顔をする。

キワ、お前が羨ましいの弁当箱じゃなくて『手作りの弁当』そのものだろ」

 ま、俺も羨ましくないって言えば嘘になるけど。
 ほんの少しの感傷を身にまとった千代の言葉に千尋は後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。千代が言ってるのは「慣れ親しんだ母親の料理」のことだ。わかってしまったのに無視することが出来なくて「別にうちの親、料理下手だし」と負け惜しみのような台詞が口をついて出た。
 それでも、千尋は自分の中にあるこの感情の正体を知った。
 夏休みは全国大会と宿題合宿に追われて終わった。二学期が始まってからは当然、授業があるのだから実家に帰る機会なんてない。
 生まれ育った故郷を離れて、もう半年以上思い出すことを自らに禁じてきた。
 帰ったところで何もない。親しい友人と呼べる間柄の相手なんていないし、千尋はテニスさえ出来ればどこでもいい。そう思って立海へ来た。
 なのに。

キワ、無理するなよ。帰りたいって思うの、別に恥ずかしいことじゃないだろ」
「そうだよ、千尋。家族と会えないって俺たちにはわからないけど、きっとつらいことだろ」
「つらくなんかねーよ」

 自分で選んだ道だ。自分で、テニスを最優先する道を選んだ。
 家族や、郷里の友人たちより自分のやりたいことを優先した。その結果として、ときとして思いもよらない副産物を生むことがあることもぼんやりとは想像していたはずだ。望郷の念。今、千尋が抱いたこの感情もその一つで、一生逃げ続けることは出来ないと知っていたはずだ。
 なのに。
 不意に胸の奥が詰まったような感覚に襲われる。
 さっきまでの勢いが消えて、その代わりに喉元を締め付けられる。思いが言葉にならない。それでも、千尋の困惑をよそに目元がじわりと熱を持った。
 つらくなんかない。後悔もしていない。
 千尋には千代という同じ境遇の仲間がいる。
 千代がつらいと言わないのに、千尋一人が弱気になるのは格好がつかない。
 そう思うのに。

千尋、泣きたいときにまで無理をして笑おうとするな」

 見ているこちらの胸がつぶれそうだ。
 言って真田が綺麗にアイロンをかけられたハンカチを差し出す。使え、ということだ。わかっている。でもそれを見て、千尋の感情は更に荒ぶる。今どきハンカチなんて時代錯誤だ。タオルハンカチならアイロンをかけなくてもいいし、ハンカチよりずっと使いやすい。それでも。真田の母親の手によって綺麗に整えられたハンカチは千尋の感傷を後押しする。真田には母親がいる。真田の面倒を見てくれる母親がいる。
 羨ましい、と今純粋に思った。
 千尋の帰る場所なら特待寮がある。寮には寮母がいて、千尋たちの面倒を見てくれる。でも、寮母は結局寮母でしかなくて、母親ではない。
 家事全般が苦手なのに毎日、頑張っていた千尋の母親のことを思い出す。
 父親と二人して千尋の進路について悩んでくれた。
 十二年間、ずっと近くにいた。千尋の大切な家族だ。
 なのに。

「弦一郎、なんでかわからねーんだけど、俺、母さんの顔が思い出せねー」
「今は感情が昂っているからだろう。落ち着けば思い出せる」
「このまま、思い出せなかったらどーしよう」
千尋、そうなったら帰ればいいじゃないか。会えば、間違いなく思い出せるよ」
「帰って、俺の居場所がなくなってたらとか思うのが怖い」
キワ、馬鹿? なくなってるわけないだろ」
  
 だって、キワの母さん、毎月手紙送ってくるじゃないか。うちの母親よりずっとまめな人なんだから、キワが帰ったらきっと喜んでくれるに決まってるだろ。
 千代の言葉が千尋の中で響く。
 目尻から雫がこぼれ出しているのに気付いたから真田のハンカチを受け取って目元に当てる。真田のハンカチは桐箪笥とい草の匂いがして、ああやっぱり真田のハンカチだな、と納得した。

キワ、自分の気持ちを抑えつけるのは褒められないな」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ蓮二」
「冗談でも軽口でもい。今のように弁当箱に難癖をつけるのでもいい。少しずつ俺たちに話してくれ」

 そうすれば、致命的な傷になる前に癒える。
 言って柳が千尋の後頭部に軽く触れた。

「王者立海に負けは許されていない。それでも、上ばかり向いて走っていると足元をすくわれる。時々、立ち位置を確認する為に足を止めることぐらいは俺たちにも許されている。そうは思わないか、キワ

 だから、そんなに自分を責めることはない。
 柳の言葉が千尋の胸の中に染み込んできて涙がまた溢れる。
 特待生だの王者だのと言っても千尋はまだ十三歳の中学生で、完璧からは程遠い。そのことを知って、不甲斐なさと向き合うのが怖くて蓋をした。蓋をしても現実が変わるわけがなくて、結局は無理をしていた。
 つらい思いをしない人生はない。
 迷わない人生もない。
 だから。

キワ、テニスではお前も叩きのめす相手だが、コートの外ではただの友人だ。俺だけではない。精市も弦一郎も、皆お前の友人だ。だから、一人で全部解決しなくていいんだ」

 だってそうだろう。
 目元に押し当てていたハンカチをそっと離す。焦点の合わない視界で柳が今まで見た中で一番優しい顔で笑った。

「お前が今、完璧なら俺はもうお前には興味などない」
「ひっで。何それ」
「完璧ではない、成長の余地のあるお前だから俺はお前のデータを分析する。お前が俺のデータを超える度、俺はわくわくするが、お前は何も感じないのか?」
「はぁ? 馬鹿にしてんのかよ。ちょっとした達成感ぐらいあるっつーの」
「ならば、俺たちは同じ方向を向いている。お前が俺たちに不必要な遠慮をする理由などどこにもない」

 そうだろう、常磐津千尋
 言われて、ひりひりと痛む目元をもう一度だけ最後にハンカチで押さえて、そして千尋もまた自然と笑みになる。
 それを見た幸村が穏やかに微笑む。

千尋、お前の家の味じゃないのはわかってるけど、よかったら俺の家に来なよ」

 晩ご飯を食べて帰るだけなら、特待寮の門限に間に合うはずだ、と言外にある。
 幸村の自宅と立海大学付属中学とが割合近い、というのは何となく理解していた。バスもそれなりの本数が出ている。何より、幸村が前後のことを考えずに提案するわけがない。彼の提案に不備がないのは明白で、千尋にとっては何らかのメリットがあるのだろう、とぼんやり理解する。
 ただ。

「何だ、急に」
「俺はお前のその弱点を仲間内に晒せる自然さを欠点だとは思ってない、ってことかな」
「意味わかんねー」

 人生哲学の賛否は千尋にはまだわからない。
 何が美徳で、何が醜悪か。その答えは千尋の中にはないし、あったとしてもまだ未完全だ。
 だから、幸村の言っていることは半分ぐらいしかわからない。わからないが、それでも千尋は薄っすらと本質が見えたような気がした。理屈はわからない。何が道理かも知らない。なのに、こうしてときどき、小さいが確固たる納得と出会うことがある。
 それも、全部、幸村たちが教えてくれた感覚だ。

「俺ですらお前たちの前では完璧な偶像を演じられないんだから、お前が泣いたり笑ったりするのは当然、って言ってる」
「喧嘩売られてんの、俺」
「わからないやつだな。千尋、一回しか言わないからちゃんと聞いて」
「だから、何」
「俺も由紀人もお前の家族の代わりにはなれないけど、でも、その次ぐらいにはなれるだろ。慣れ合うつもりはないけど、馬鹿なくせに生真面目なお前でもときどきは俺たちに甘えてもいいんじゃない?」

 一回しか言わないと前置きされた幸村の最大限の譲歩を受け取って、千尋は微笑む。慣れ合うつもりはない。千尋もそうだ。それでも、同じ方向を見て同じ未来を探している仲間がいることまで否定しなければ進めない道など欲していない。
 テニスという競技は基本的には一人で戦う。
 それでも。
 高め合う仲間がいれば、もっとずっと先まで行ける。
 だから。
 千尋はい草の匂いをそっと指先で握りしめた。

「の結論がお前んちかよ」
「もちろん、お前が心底迷惑だって言うなら聞き流したらいい」
「お前も大概馬鹿だよ、精市」
「失礼なやつだな。お前にだけは言われたくない」
「誰が、いつ、お前のこと迷惑だなんて言ったよ。俺は、お前のそういう上から目線で施す感じのスタイルも割合嫌ってねーんだよ」

 幸村だから仕方がない。幸村だから許せる。
 そういうレベルで千尋は幸村のことを受け入れてきた。
 ともすれば傲慢にしか思えない幸村の言動も彼なりの愛嬌だと知っている。A型男子は真面目で、真面目すぎるがゆえに不器用だ。血液型性格診断なんてあてにならない。それでも、レッテルを貼ることでお互いの理解が深まるのなら、心もとない判断の一つでも都合よく信じていいのではないか。
 少なくとも、千尋は幸村の態度を嫌ってはいないし、他の仲間たちにしてもそうだろう。実力という裏打ちのあるものにだけ許される。そちらの側に立ちたいのなら、千尋がいっそう努力をして同じ次元で戦うしかない。
 その日はまだ遠いが、千尋は今もまだ諦めていない。
 そして。

「まぁ実際キワのがかなり格下だから、仕方ないと言えば仕方ないんだけど?」

 千代もまた幸村の傲慢を愛嬌と受け取る。
 千代の煽りは半分本気で半分は冗談だ。わかっている。それでも、煽られれば心の中にはさざ波立つし、何か反論をしなければいけないような心境になる。
 ただ。

「ダーイーちゃーん! お前も俺と同レベルのくせして一丁前に品定めしてくれちゃってんじゃねーよ」

 感傷に浸りそうなとき。自分の殻に閉じこもりそうなとき。
 悲劇の主人公が千尋一人だと演じてしまいそうなとき。
 千代の煽りは、千尋が前を向く為に届く。
 知っている。ここにいるやつは皆本気で、本気の本気の仲間だけを求めている。
 だから、千尋は不必要なことを考えて疑ったりすることはないのだ。弱さを晒して、欠点と向き合って、そして前を向けばいい。
 煽りへの必要最低限のリアクションを返す。何となく隣を見ると千代が不敵に笑っていた。

キワ、ホームシックで泣きたくなるほど思い詰めてるくせに一切自覚のないやつと誰を比較したら同レベルになるって?」
「そんなの、決まってるじゃねーか」

 千尋と同じレベルで戦っているのは千代だ。特待生としてだけではない。一緒に勉強で難儀して、一緒に望郷の念と戦って、一緒に未来の為に努力をしている。
 千代のサーブを受けるのは無理だと四月初旬の千尋は思っていた。
 その、高速サーブも今ではそれなりにレシーブ出来る。千代のサーブのスピードが上がっても、千尋はその都度体に馴染ませてきた。
 幼馴染でつるんでいる三強ほどの歴史があるわけではない。たった半年。それでも、千尋の一番の仲間は千代だ。
 だから。

「俺、とか言ったらセイの家、俺も付いてくから」

 千代の言論封殺の言葉を聞いて、千尋は破顔する。
 これ以上ないほどのツンデレの台詞だ。その台詞を待っていた。
 千代ならきっとそう言うだろうと思っていた。その信頼を裏切らない千代に千尋の胸中にもやっとホーム感が戻ってきた。
 ここが、立海が千尋の帰るべき場所だ。
 望郷の念を否定したりはしない。それでも、ここで戦い続けることを千尋自身が選らんだ。そのことを仲間たちに示さなければならない。
 一等輝いた笑みで、千尋は千代の向こうにいる幸村に確認する。

「精市、ダイも行きたいらしいけど、どーよ」
「由紀人、お前も千尋と同じレベルで馬鹿だと思うよ、俺も」
「全く。一人で特待寮に残るのが心細いなら素直にそう言ったらどうなのだ」
「セイ、サダ、俺そんなこと言ってないだろ」

 調子が狂って、ほんの少し慌てている千代の声音が心地いい。
 全てを明示されなければ受け入れられないほど千尋は馬鹿ではない。暗示したものまで推し量る術を柳が教えてくれた。目の前にあるものは真実かもしれない。それでも、見る角度を変えれば別の表情を見せるかもしれない。
 その、何千、何万、何億の可能性と戦って、勝利を収めていくと千尋は決めた。
 人には欠点がある。千尋は圧倒的に頭が悪い。千代は自分の気持ちに素直ではない。
 それでも。
 その欠点から逃げずに立ち向かう機会が許されているのなら、どれほど困難でも怖じて背を見せたりはしたくない。ときには立ち止まることを肯定して、そうして千尋たちは少しずつ前に進んでいく。

「もういい。俺もセイの家、行くから」
「はいはい、じゃあ母さんに二人が来るって連絡しておくからね」

 弁当箱につけた難癖が意味のあることに変わる奇跡を感慨深く認識しながら、千尋はすっかり冷えたピザトーストの残りを頬張る。い草の匂いのするハンカチは後日、寮母に洗濯をしてもらって、自分でアイロンをかけてから返そう。
 そんな段取りをして、コーヒー牛乳を飲む。
 午後の授業が始まるまであと十分。今はまだこの穏やかな秋空を眺めていたい。小さな願いごとを受け入れた青空が天高く晴れ渡っていた。