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26th. 不言実行

 立海大学付属中学では定期的に他校との練習試合が行われる。
 神奈川県内の強豪校はもちろん、首都圏の学校なら都県を問わず練習相手に名が挙がった。原則的に現地集合現地解散で行われるので、この半年と少しで常磐津千尋も少しずつ関東の交通事情に明るくなりつつある。立海に他校が来る場合と、立海が他校に行く場合は五分五分で、所謂ホームとアウェイを交互に繰り返す形だった。
 次の練習試合が東京、氷帝学園中等部で行われる。と聞いた千尋の脳裏には夏に出会った少年の姿が想起された。空色の瞳の少年――跡部景吾の試合は結局一度しか見たことはない。それも負け試合だ。若干十二歳で立海の不動のトップに君臨する幸村精市と対戦して、自分の思う通りの試合が出来る選手がいるのなら、千尋や千代由紀人(せんだい・ゆきと)は特待生の立場を辞さなければならないだろう。だから、跡部の負け試合も「割と粘ったな」という感想しか生み出さなかった。ただ、反撃の切り口の意外さだけは今も鮮やかに覚えている。幸村の得意コースを知りつくしている千尋たちでは考えられない。馬鹿だな、と思うと同時に凄いな、と思った。そんな攻め方もあるのか、とも思う。
 そんな跡部と試合がしてみたい。
 幸村ほどの圧勝は得られないだろう。千尋と幸村は同じプレイスタイルの一年生、という括りに入る。その括りには更に柳蓮二とジャッカル桑原の二人の選手が入り、千尋の序列は柳とどんぐりの背比べの二位争いだ。千尋が望んでも跡部と試合を出来るかどうかはわからない。それでも、久しぶりにシングルスの選手として戦いたいと思った。
 練習試合の前日は集合場所と集合時間を告げられていつもよりも少し早く練習が終わる。二年生部長の平福(ひらふく)が自主練も控えるように、と言うものだから千尋と千代は顔を見合わせて溜息を吐いた。休むのも練習。わかっていたが、心躍る練習試合を前に何もしない、という選択を強要されたことが心底不服だった。
 強い相手と戦うのは楽しい。勝てるか、勝てないかぎりぎりの相手を越える度、千尋は少しずつ進歩しているのを感じるからだ。幸村との勝てない試合も嫌だと思ったことはない。負けるとわかっている。今の千尋の実力では何をしても届かないと知っている。それでも、前回よりも少しでも肉薄する試合が出来たのなら、それは千尋の成長を意味している。
 ただ、成長するのは千尋一人ではないから、スコアが劇的に向上することはない。
 そのことを痛感しながら、千尋はベンチに座る。次は千代と真田弦一郎がコートに入っているから、自然と柳と話す格好になった。

「なぁ、蓮二」
「どうした、キワ。精市の苦手コースなら俺も目下調査中だが」
「俺、絶対その調査、無意味だと思う」
「どうした、お前らしくなく後ろ向きだな」
「お前だってわかってるだろ。精市の苦手コースがわかる、俺たちが練習してそこに返せるようになる、精市が対応してる、の無限ループ」

 千尋らしいだとか千尋らしくないだとか、そういう先入観を押し付けられるのは正直なところ、苦手だ。それでも、千尋は千代とは違って愛嬌で生きている。相手の思う常磐津千尋を演じるのに疲れただなんて憂鬱を気取る気もない。
 それでも、柳には少しぐらい弱音を吐いてもいいと思えた。
 走っても走っても追いつけない背中があるだなんて、小学生の千尋は知らなかった。自分が成長した頃には相手はもっと先に進んでいて、結局のところ背中しか見えない。幸村と出会って、千尋は自分の努力なんてたかが知れていることを知った。
 それでも。
 まだ諦めたつもりはない。この先もずっと続いていくと確信をもって言える無限ループを前に、膝を折ったつもりもない。ただ、十三の千尋が弱音も吐かずに全部を背負えるほど、無限ループの重みは軽くない。それだけのことだ。柳も気付いているだろう。集めたデータを解析する度、彼の胸中にも同じ思いが芽生えたはずだ。
 幸村はどんどん前に行く。置いて行かれたくないのなら必死に走り続けるしかない。
 多分、千尋一人ならもうとっくに諦めていただろう。
 なのに、あごが上がっても、心に数えきれないほどの鈍痛を患っても、千尋はまだ走り続けている。幸村の背を追うのが千尋一人ではないと知っているから出来た。
 いつか必ず越える。
 それは明日かもしれないし、一年後かもしれない。十年後かもしれないし、一生越えられないまま終わるのかもしれない。
 そんなことを茫洋と考えると誰でも不安になるというものだ。
 だから、千尋はそっと柳に弱音を吐いた。
 柳なら受け止めてくれる。嘲笑うことも馬鹿にすることもなく聞いてくれる。その信頼が、千尋を少しだけ軟弱にさせた。

「全く、らしくない発言だな。平生のお前なら『二歩先に進めば勝てる』と言うだろう」
「俺たちが二歩先に進んだときに精市が五歩先に進んでるの、気付かないほど俺も馬鹿じゃない」
「だが、その背中を追うのも満更ではないのだろう?」

 そういう、馬鹿の顔をしている。言って柳が柔らかく笑った。
 何だそこまでお見通しか。その手の返答が来るのはわかっていたが、千尋が思ったより幾つか柔らかい言葉が返ってきて、今度は千尋が笑う番だった。

「取り敢えずさ、精市に勝つのは現状無理としてだな」
「『氷帝の誰なら勝てるか』か?」

 千尋が聞きたかったことが柳の口から紡がれる。その質問をしようと思っていた。練習試合は月に二回しかない。九月、十月。都合四回の練習試合で、千尋は千代とダブルスの試合をした。もちろん負けなしだし、千代とならもっと高い場所まで行けるだろう。二年の特待生の先輩たちとでも今なら互角かそれ以上の戦績を収めている。
 それでも。
 それは千尋一人の戦績ではない。
 シングルスでどのぐらいの位置にいるか。
 その序列を知りたいと思った。柳に聞けば最短距離で答えが得られる。信頼していたから彼に声をかけた。

「何だよ、お前。そこまでわかってんなら最初からそう言えよ」
「いや、お前が下を向いているのなら捨て置こうと思っただけのことだ」
「で? どうよ」
「下を向いているくせに眼光だけは鋭い。お前はまだ何も諦めてなどいないさ」

 そうだろう、常磐津千尋
 問われてぐっと胸を張る。その通りだ。慢性的に続く敗北は千尋を少し臆病にした。負け試合の味を知った。どれだけ努力しても、敵わない相手がいることは少しだけ怖くて、同時に千尋の気持ちを高揚させる。いつか越える。その為には今の立ち位置を客観的に知ることも必要だ。
 それが、氷帝学園との練習試合で誰と対戦するか、にかかっていると千尋が思っていることまでが見透かされている。テニスの腕前だけなら千尋と柳とは似たようなレベルだ。それでも、千尋には柳ほどの知性がない。ただ、「感覚」だけで戦っている。論理的な根拠よりも自分の体験から来る感性を優先する。
 だから、千尋には今の立ち位置などという客観的な事実はわからない。

「で? どうなわけ」
「跡部と戦ってみたい、と顔中に書いてあるぞ、キワ
「俺じゃ無理か」
「精市から4ゲーム取れる相手なのはわかっているな?」
「俺だって3ゲーム取れるだろ」
キワ、お前と精市の試合では比較にならない。せめて同じタイプの選手――弦一郎と比べなければ意味がないだろう」

 カウンターパンチャー同士の試合はどうしたって長丁場になる。相手のミスを誘うスタイルだから、お互いが手堅いプレイを続けることになるからだ。千尋も幸村もプレイ自体は丁寧で、攻めに走ることもない。スタミナだけの勝負なら、千尋は桑原といい勝負だから幸村に唯一勝ると言えるが、心理戦では負ける。体力に余裕があっても精神的な余裕がないからゲームの組み立てで判断を誤る。千尋がいつまで経っても幸村に勝てない最大の理由だ。
 その点、跡部はプレイスタイルが違う。不得意らしい不得意を持たないオールラウンダーで、速攻も長期戦も対応出来る。というのを千尋は夏の大会で見届けた。
 千尋が敵う相手なのかどうか。若干の不安はあるが戦ってみたい。純粋にそう思っている。千尋のその気持ちには柳にも伝わっているだろう。だから、彼は彼の分析を語り始めた。

「弦一郎と跡部で概ね五分五分だろう。キワ、お前と弦一郎の勝率はわかっているな?」
「一番マシな試合でタイブレーク負け」

 練習試合で何度か真田と戦った。未だに彼は千尋に勝ち星をくれたことがない。最近はタイブレークに持ち込むことが出来るようになっただけ進歩した、と千尋は思っている。

「では跡部もそのぐらいだと考えるのが妥当だ」
「けど、戦ってみたいんだ」

 跡部と真田は同じタイプの選手だが、戦い方は似ても似つかない。
 立海の選手は柳のデータをもとに、合理的な戦い方をするのが身についている。駆け引きにしてもそうだ。このぐらいの確率があるから、と無意識的にコースを選ぶ。
 跡部にはそういう打算的なところがない。
 そうするのが当然だからそうする。そういう、泰然とした戦い方をする、という印象を千尋は抱いていた。
 だから、千尋と当たってどんな試合になるのか。楽しみに思うことこそあれど、臆することもない。わくわくする。そう言えば柳は微苦笑を浮かべた。

「それだけの熱意があるなら、俺に愚痴をこぼしているのではなく、部長に直談判したらどうだ」
「向こうの返事次第、らしい」
「気が早いな。もう言っていたか」
「うん。ダイも戦いたい相手いるとかで、二人ともシングルスにしてほしいって言った」
「そういうところまで気が合うのだな、お前たちは」
「ま、俺もダイも立海来るまではシングルスだったわけだし」
「レギュラー選抜戦もシングルスの試合だし、か」
「そ。ダイと一緒に戦うとさ、シングルスの1.5倍ぐらい戦える気がするし楽しいんだけどさ、でもやっぱ基本はシングルスだろ? どのぐらい今の俺が戦えるのか確かめたいんだ」

 そう言うと柳は広げていたノートをぱたんと閉じる。
 そして。

キワ、お前は相手の弱点を攻める戦いをどう思う」
「当然のことだろ? 弱点なんて晒してるやつが悪い」
「ではお前が未だにスマッシュの後に大きな隙が出来るのもお前の自己責任だな?」
「仕方ねーだろ。そこ攻められたくなきゃ、万全の状態以外でスマッシュ打たなきゃいい話だ」
「それがどれだけ難しいことか、お前はわかっているのか」
「わかってるけど、わかんねーかな」
「ならば、キワ。今からお前の弱点を一つずつ教えてやろう」

 お前も気付いていると思うが、跡部は洞察力に長ける。どんな弱点でもあっという間に見抜かれて終わりだ。
 だから、跡部と戦うのなら少しでも多くの弱点を克服する必要がある。ただ、それは一朝一夕で出来ることではなく、今の千尋に残されている猶予で出来るのは自分の弱点をいかに隠すか、ということだけだ。
 柳がそう言っているのだと気付けない次元からは脱出したと自負している。
 だから。

「いいぜ。そういうの待ってたんだ」

 千尋は破顔して柳の提案を受け入れる。
 明日、千尋が跡部と対戦するかどうかもわからない。それでも、柳は千尋に手を貸すことを拒まなかった。
 ベンチの上で柳の指摘が始まる。フォームの癖、ショットの角度、足運び、パターンと化した駆け引き。その一つひとつが言葉になって指摘される。千尋が直すべき点とどう対処すればいいか。
 具体的な言葉の応酬をしていると、不意に千尋に影がかかる。
 誰かがベンチに近づいてきた、と気付いたときには声が聞えていた。

千尋、何ならその弱点、全部俺が実践で教えてあげようか」

 凶悪極まりない宣戦布告が聞こえて、弾かれたように顔を上げる。
 そこには不敵な笑みをたたえた幸村が立っていて、彼の提案が受け入れられないことなど微塵も想定していない。

「精市、俺、お前とさっき当たったばっかなんだけど?」
「いいじゃないか。跡部と対戦したいんだろ?」
「いや、お前、全力でぶっ潰しにくるだろ」
「跡部がそうじゃない、とでも言うのかい?」

 公式戦じゃないから、なんて甘えてるなら跡部と戦う資格もないと思うけど。
 あっさりと突きつけられた言葉に千尋は心の中で溜息を吐いた。わかっている。わかっていた。格上の相手と戦うのに微塵の油断も許されない。勝ちたいのならどんなに無様でも戦い続けなければならない。
 だから。

「何? まずお前倒さねーと跡部まで辿り着けねーの、俺」
「本末転倒だって顔してるね、千尋
「いや、最終的にはお前もぶっ潰すんだからまぁいいか」
「そうそう、その調子じゃないと。じゃあ蓮二、千尋の弱点、俺も一緒に聞くよ」

 千代と真田のゲームが終わろうとしている。
 今日の部活が終わるまでまだ十分に時間はある。千尋の弱点を知って、そこを重点的に攻撃されたらどれほど無様な負けになるだろう。想像すると苦いものが胸中に湧く。
 それでも。
 千尋は立海を選んだ。戦って、上に行く道を選んだ。
 だから。

「精市、最後までちゃんと付き合えよ」
「それは俺の台詞。千尋こそ、途中で泣き出したってやめてあげないからね」

 憎まれ口を叩き合って、お互いにお互いを潰すつもりで試合をして生まれる友情があることを千尋は知っている。そこまでしても、お互いへの信頼関係が消えない。そう信じているから出来る。
 千尋が幸村にとってどれだけの価値のある相手なのかは多分一生わかることがないだろう。多分、それは千尋にとっての幸村もそうだ。
 それでも。

「精市、キワ。お前たちの新しいデータ、期待している」

 千代と真田がゲームを終えてコートを出てくる。千代が苦虫を噛み潰しているような顔をしているから、負けたのだ。今日の終わりにコートを出る千尋も多分似たような顔をしているのだろう、という予感がある。
 負けることに怯えていたら何も出来ない。そのことを教えてくれた仲間たちに恥じない千尋である為に、未来への不安を胸の中で無理やりかき消す。
 数字の上では勝敗が見えているだろうに、柳は千尋の背を押した。その信頼に応えたい、と思う。
 だから。
 千尋はタオルをベンチの背もたれに戻して、ラケットを握る。闘争心だけは幸村にも負けていないつもりだから、挑まれた勝負からは決して逃げない。
 今はそれぐらいしか出来ないけれど、いつかはもっともっと上の世界が見たい。言わなくても幸村たちにその覚悟は伝わっているだろう。だから、言葉にはしないでただ前を向く。不言実行の重みを知った千尋の世界はまだまだ発展途上だ。