27th. 絶体絶命の街路
この世界に絶対などない。
どれだけ盤石に見えても、どれだけ確信に近くても、絶対に覆らないことなんてどこにもない。
そのことを
常磐津千尋は氷帝学園中等部に向かう道中、痛いぐらいに実感した。
「で? ダイ。どの路線バスに乗れば氷帝に着くって言ったよ」
朝早い時間で空いたバスの車内。最後列に千代由紀人(せんだい・ゆきと)、ジャッカル桑原の三人で並んで座っている。料金表の電光掲示板は22番の枠まで増えた。「総合病院前行」と書かれた最上段が変わることないまま、既に三十五分はバスに揺られている。
データ分析に長けた柳蓮二の分析を求める必要などない。
千尋たちは明らかに乗るバスを間違えた。
立海大学付属中学の特待寮から東京方面へ直接向かう路線バスはない。
だから、一旦、鉄道の駅まで出た。この駅は割合大きな駅で、北と南にバスターミナルがある。バス会社の案内板によると路線番号は90番代まであり、田舎者の
千尋には到底把握出来ないのは自明だった。わからないのに適当なバスに乗るのは不安で、案内所で確認しよう、と言った
千尋に「大丈夫、俺、わかるから」と返したのが千代だ。
その、千代の案内でバスに乗った。
部長が言うには氷帝学園中等部は二十分ほどで到着するらしい。にも関わらず、現在、三十五分が経過してなお氷帝学園に辿り着く気配がない。
乗るバスを間違えた以外の結論があるのだとしたら、それはきっとこの世の理を超越している。そんな非科学的な結論は求めていなかったから、
千尋は千代を暗に責めた。
千代がいつも通りの冷静な顔を装って、それでも普段よりは幾分勢いのない声で答える。
「だから、氷帝なら北ターミナルから出るバスは全部通るんだって」
「俺たちはまさに、その北ターミナルからバスに乗ったんだけど?」
「だから、そのうち着くだろ」
自分の非を認めたくないのか、認めることによって課される責任から逃れたいのかはわからなかったが、千代はなおもこのバスに乗り続けることを肯定する。
千尋と桑原は顔を見合わせて大きな溜息を吐いた。
駄目だ。これは集合時間に間に合わないどころか、目的地に辿り着けない前兆だ。
もう既に何が正解か、という地点からは遠く離れている。ここから挽回するには運転手に正直に事情を説明して、どうすればいいのかを尋ねるしかない。
ただ。
「さっき『次は、終点。総合病院前です』って聞こえた気がしたんだけど。なぁ、ルック」
このバスは次の停留所で終点だ。
正しいバスに乗る為には、もう一度同じ道を戻るバスを待たなければならない。
どの停留所で乗り継ぎがあるか、とそれが何分後のことなのか、によって焦燥感の度合いは変わるが、それでも他に選択肢があるわけでもない。
取り敢えず、善後のことを考えよう。そんな提案をすると桑原が大きな溜息を吐いた。
「だから言ったじゃないか。俺たちもクラ先輩たちと一緒に出ようって」
二年の特待生の先輩たちが出るよりも先に出て、ウォーミングアップを前倒しする。そんなことを提案したのは千代だ。
千尋もそれに乗った。桑原はそのとき、迷うかもしれないから先輩たちと一緒に出よう、と言ったのだが二人揃って何とかなる、と答えたのは昨日のことだ。まだ忘れていないし、そのことについて反省がないわけでもない。
ただ。
「大丈夫だって。早めに出たし、ここからもう一回ちゃんとバスに乗ったら間に合うだろ」
倒れるまで前向きが信条の
千尋ですら溜息を吐くシーンで、千代がなおも悪びれずに言う。
千尋と桑原は本格的に頭が痛くなるのを感じた。
「ダイ、お前はもう少し責任感じたらどうよ」
集合時間まで残り三十分。総合病院というのがどこになるのか。今の
千尋たちは誰一人その答えを持たない。開き直るしかない、というのは
千尋にもわかる。責任の所在を明らかにするのは氷帝に着いてからでも十分間に合うから、今すべきなのはどうやって氷帝に辿り着くか。その議論に尽きる。
わかっている。
それでも、悪びれる風でもない千代を見ていると文句の一つも言いたくなる。
千代に向けて責めるような言葉を投げかけると、途端に彼は不機嫌で顔を彩った。
「じゃあ聞くけど、その俺に丸投げして適当に後ろくっ付いてきただけなの誰だよ」
「いやいやいやいや。お前、自信満々にこのバス乗ったじゃねーか」
「乗り口の横に主要停留所載ってるだろ。確認しなかったんだから連帯責任だと思うけど?」
その言い草に
千尋の頭の中で何かがカチンと音を立てる。
焦燥感から来る苛立ちが
千尋から余裕を奪っていた。感情が空回りして、結局は煽りを受け流せずに罵り合いに乗る。
千尋の隣で桑原が本当の本当に勘弁してくれ、という顔をしていた。
「ダーイーちゃーん、お前、わかってる? 今日は練習だけど試合なんだよ。俺とお前、レギュラーなの。わかる?」
「わからないわけないだろ、馬鹿にするのもいい加減にしろよな、
キワ。あ、馬鹿には難しいことわからないんだっけ。氷帝学園って書いてあっても読めないか」
「偏差値40舐めてんじゃねーよ。自分に都合のいい文字だけは読めるっつーの」
「読めなかったから終点まで乗ってたんだろ? いいよ、別に強がらなくて」
「はぁ? 順位がちょっと上だったからって調子乗ってんじゃねーよ。大体、お前さぁ――」
バスが主要道路を左折した。総合病院のエントランス横に設けられたロータリーに進入するために緩やかに速度を落とす。終点の停留所は降車ボタンを押さなくても必ず停車する。問答無用で総合病院前に放り出される未来は着実に近づいていた。
なのに
千尋にも千代にもその現実と向き合う余裕がなくて罵詈雑言の応酬を続ける。
気の長い桑原が堪えきれず、静かに激した。
「二人とも、責任を押し付け合うなら氷帝に着いてからにしてくれ!」
わかっている。わかっているけれど感情が追いつかない。
取り敢えず、桑原の叱責が聞こえていることを示そうとして「わかってる」を口にした。その声が重なって、
千尋は思わず反対隣りの千代を見た。一瞬だけ、驚いたあと、千代はばつが悪そうな顔をしたが、間を置かず窓の外へ視線を移す。桑原の大きな溜息がもう一つ聞こえて、そのときには
千尋も苦笑するだけの心のゆとりが戻ってきていた。
「わかってるなら、降りるぞ、二人とも」
「だってよ、ダイ」
「真ん中に座ってるんだから
キワから降りなきゃ無理だろ」
「ただの確認じゃねーか」
「いいから。降りろよ、話はそれからだろ」
「わかってるって言ってんだろ」
しょうがねーやつだな。
そんな悪態をつきながらも、
千尋の中でざわついていた気持ちが少しだけ平坦になったのを感じる。千代というのは不思議なやつだ。ほんの少し前まで本気で罵り合っていた。本当に、
千尋は千代に対して怒っていた。
なのに。
「
キワ、俺、受付で地図もらってくる。お前、地図得意だろ」
だから、現在地と目的地の把握をしてくれ、と言う。
千尋と千代と桑原の三人の中に首都圏の交通機関に詳しいものが誰一人としていない。その焦燥感から
千尋は千代に対して憤った。はっきりと、そう伝えたわけでもないのに
千尋の問題を解決する答えを千代が示す。
千尋が地図に強いことは毎朝のロードワークでの工夫が証明している。千代はそのことを知っていて、自分のミスを挽回する為の手段として選んだ。信頼がなければそんなことを口にするわけがない。罵り合ってなお、千代は
千尋の能力が必要だと示した。お互いにお互いのことを認め合っている。そのことを改めて知って、
千尋はどこかむず痒いような感触を覚える。
桑原は不器用なやり取りをしている
千尋たちを見て「お前たち、やっぱりダブルスの試合の方がいいんじゃないか」と苦笑した。
その指摘に「それはない」が唱和してもう一度ばつの悪い思いをしたところで、バスが完全に停車した。前方の乗客から順にバスを降りていき、
千尋たちは焦る気持ちを抑えながら最後列を後にする。
そして。
「ダイ、お前、地図任せる」
千尋はもう前を向いた。後ろに残してきたものを振り返るのは後で十分だ。桑原がそう言った通りだと
千尋も同意する。だから、今出来ることをしたい。
そんな思いを込めて千代に託す。
乗客が一人、二人とバスを降りていく。車椅子を乗車させる為のスペースで
千尋は留まって後ろの二人を先に通した。
すれ違いざま、千代が怪訝な顔をする。
「お前はどうするんだよ、
キワ」
「運転手さんに話聞いてから降りるわ。その方が話早えーだろ」
先週、テレビで路線バスを乗り継いで旅をするという番組を見た。それを真似ようだとか思ったわけではないが、今、ここにいる中で運転手ほどバスの路線に精通したものはいないだろう。聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥。二学期から始まったことわざ時点の複写課題にそういう言葉があった。無駄な言葉なんてない。言葉はみんな誰かの経験や教訓を持っている。このことわざも誰かが共感して連綿と受け継がれてきた言葉だ。だから、今、運転手にバスの乗り方を尋ねる恥の方が、氷帝に辿り着けずに迷子のまま終わるよりずっと有意義だと
千尋は確信した。
前を向いた
千尋の双眸と対峙して、千代が言葉を探しあぐねている。
桑原が千代よりも先に現実に帰還して、彼に出来る役割を自ら買って出る。
「じゃあ俺はバス停の時刻表見に行ってくればいいんだな、
キワ」
「おう、ルック。任せた」
役割分担が決まって、桑原は学校から支給されているICカードを取り出して降車する。その背中を見ながら、千代がぽつり「ずるい」と呟いた。
「ずるかねーだろ。お前が、一番最初に前向いたんじゃねーか」
「でも、
キワもルックもいい顔しててずるい」
「馬鹿じゃねーの。お前だって十分いい顔してるっつの」
ほら、早く降りろよ。精算機はもう桑原の料金を受け取って、千代が来るのを待っている。行けよ、と促すと「やっぱり
キワのくせにずるい」と言いながら彼は渋々バスを降りていった。
千尋もブレザーのポケットからカードを取り出して一番最後にバスを降りる。
千尋たちの会話が聞こえていたらしい運転手が微笑ましいものを見る目で「氷帝学園に行くの?」と尋ねてくれたので肯定する。どの方面のバスに乗ればいいのか、乗り継ぎはどこになるか。そんなことを手短に聞き取って
千尋もようやくバスを降りた。
ロータリーに三つあるバス停の時刻表を携帯電話のカメラで撮影した桑原と合流して、情報を共有しあっていると、千代が病院のエントランスから地図を持って走ってくる。
「
キワ、バス、どうだって?」
「ここからだと『市民センター行』に乗って、『中町交番前』で『氷帝学園行』に乗り継ぎらしい」
運転手に聞いた情報を書き留める媒体がなくて、左手の甲にボールペンで書き殴った。その、走り書きを見ながら答えた。
「時間、どのぐらいかかるかわかる?」
「運転手さんの話だと、『中町交番前』までが十八分、そこから『氷帝学園中等部正門前』までが十分。ただ、乗り継ぎの待ち時間がわかんねー」
「『市民センター行』は3番のバス停から十五分後だな。それを逃すと次は四十分後になるぜ」
二人分の情報を照らし合わせると目的地までの所要時間が見えてくる。
乗り継ぎの待ち時間と道路状況が見えないが、それでも最小の時間がわかる。
千代が話をまとめようと頭を回しているが、苦手科目の最上段に数学の名を記す彼には答えまでたどり着く道筋が見えていない。
「ちょっと待って。十八分と?」
「十分と十五分。で、えーっと、誰か電卓、電卓」
暗算が出来ない。二桁の数字を三つも同時に扱う、というのはたとえ一番簡単な足し算だとしても偏差値40の
千尋には不可能だ。
早々にギブアップして、携帯電話の電卓機能を立ち上げるように求めると桑原が苦笑いした。
「
キワ、ダイ。そのぐらい暗算出来るだろ」
「じゃあルック、計算してくれよ」
「十八分と?」
「十分と十五分!」
どうだ、お前にはわかるのか。そんな気持ちを込めて数字を並べる。数字三つを並べることはこんなに簡単なのに足し算をするのが、どうしてこれほど難解なのか。その論理的な答えを
千尋や千代に説き伏せることが出来るやつがいるとしたら、多分、そいつはとてつもなく変人なのだろう。
一般人の範疇から出ない桑原は数十秒の沈黙の後、自信なさげに足し算の答えを口にする。
「……三十三分?」
「ルック、俺の電卓は四十三分って出てるんだけど?」
携帯電話の電卓機能を起動して、さっさと数字を打ち込んだ千代が桑原の答えを一刀両断する。桑原が一瞬だけ両目を大きく見開いて、そして溜息を吐く。
格好を付けようとして付けそこなった。圧倒的ドベだった
千尋の仲間らしい、凡ミスに
千尋と千代は目配せして、そして不謹慎だがほんの少し安堵する。
「ルック、テニス部最底辺同士の仲じゃねーか。格好つけずに文明は利用しようぜ」
「おかしいな。俺は数学の成績は割とまともなんだが」
少なくとも、お前たちみたいに平均点を大きく下回ったことなどないのに。
顔中で不服を表す桑原の背中を軽く叩いて、
千尋は現状と向き合う。
「取り敢えず、ルックの言い訳は氷帝に着いてから聞くことにして、四十三分だっけ、ダイ」
「集合時間まであと三十五分しかない。バス乗ってたら遅刻するの確定、ってわけ」
「タクシーなら待ち時間がないが、後で精算出来たか?」
「多分、俺たちが勝手に乗る分には無理だと思う。っていうか、そもそも手持ちがない」
その声に
千尋も自分の財布の中身を思い出して軽く絶望した。多分、五百円ぐらいしか入っていない。中学一年生の財布の中身なんて所詮そんなものだ。福沢諭吉と親しいやつが必死で特待生という枠にしがみつくわけもない。
そんな
千尋たちに残されている選択肢は多くない。必死に今出来ることを考える。どうすれば四十三分を三十五分に出来るのか。魔法使いでも、未来のネコ型ロボットでもない
千尋たちが遅刻しないで済むにはどうすればいい。
必死に考えて、考えて、そして
千尋は腹を括った。
「ダイ、地図貸してくれ」
「
キワ?」
訝りながら地図を手渡す千代のことは一旦保留して、
千尋は受け取った紙面に必死で視線を走らせる。
「ルック、お前も地図強いだろ。氷帝探してくれ。確か大学、高校と隣接してるって言ってたからうちの学校ぐらい馬鹿でかい敷地の筈なんだ」
「わかった。『中町交番前』から幹線沿いで十分の距離だろ?」
その肝心の「中町交番」がどこにあるのかすら、
千尋たちにはわからない。総合病院はかろうじて見つけた。バスの路線は破線で示されている。それでも、総合病院から伸びている破線は一つではない。どれを辿ればいい。
千尋の瞬間の発想力はあの真田弦一郎ですら認めるほどだ。直感だけを信じて地図の上を飛ぶ。駅の位置と総合病院の位置を確かめて、その道中にあるだろう「中町交番」を必死で探す。
「
キワ! あった! 『中町交番前』ここだ!」
総合病院からは半分以上戻った場所に交番がある。交番の前からは三叉路になっていて、病院から続いているのは細い方の道だ。ということは、ここで乗り換えると広い方の道を進むことになる。
その推測が
千尋の指を進める。
桑原と二人、幹線道路を辿っていくと破線が分岐していた。視線で示し合わせて二人でそれぞれの道を追う。
千尋が追った方に大きな四角の塊が現れるのは時間の問題だった。
「そこから乗り換えるんだから、多分――あった、氷帝学園! ここだ」
「確かにでかいな。うちの学校より広いんじゃないのか?」
立海は中学からしかないが、氷帝は中等部の下もある。その差だろう。そんなことを適当に頷き合って、
千尋は必死に地図を睨みつけた。
千代が携帯電話を握りしめたまま問う。
「でも、
キワ、氷帝の場所がわかったところでどうしようって言うんだよ」
地図上では直線距離にして十キロ程度。信号や遠回りも含めて十数キロを走ると仮定したらどうなる。ウォーミングアップでもロードワークでもない。陸上部がするように本気で走らなければならないが、ここでバスを待っているより少しは可能性がある。
「十八分と十分だろ? しかも一旦、バスは駅の方へ戻る。そこを戻らないで、ここから、このまま、こう、真っすぐ突っ切れば大幅にショートカット出来るだろ?」
「
キワ、お前、もしかして」
走ろうって言うのか。
千代が本物の馬鹿を見たという顔をする。本物の馬鹿でも何でもいい。
諦めないで済む方法があるのなら、
千尋は誰の評価も気にしない。
それを言葉にして伝えると、千代はとうとう顔を掌で覆ってしまった。
「仕方ねーだろ。それ以外に何かいい方法あるんだったら、俺もそっち乗るけどルック、お前どうよ」
「俺はそれで問題ないが、ダイ、お前が一番心配だ」
「何だよ、二人して。悪かったな、体力なくてさ」
「ダイ、行けるだろ」
「俺、お前たちみたいにスタミナ勝負じゃないんだけど」
「行けるだろ、『千代由紀人』」
レギュラーが遅刻で不戦敗なんて最高に格好が悪い。
試合の順番を入れ替えて待っていてもらうのはその次ぐらいに格好が悪い。
氷帝学園に辿り着くまでに体力が尽きて、試合どころではなくなっても当然格好が悪い。
どの道を選んでも格好が悪いなら、あとは何を優先するかだ。
カウンターパンチャーの中でもスタミナ勝負の
千尋と桑原は自分の体力を顧みて、辿り着けると確信した。あとは道に迷わないかどうかだけが問題だ。
それでも。
「なぁ、ダイ。ちょっと本気でロードワークすると思ってさ。行こうぜ」
逃げたなんて思われるの嫌だろ。
勾配も道の状態も、何もわからない。初めて見る街並みを必死に走るだけの賭けに乗るか乗らないかは千代の自由だ。それでも、
千尋は千代も同じ方に乗れると信じた。
信じたから、真っすぐに彼を見据える。
千尋の視線の先で千代が三度瞬きして、諦観を浮かべる。
千尋は知っている。千代のこの表情は
千尋の馬鹿な提案を受け入れた顔だ。
だから。
「ルック、取り敢えず幹線道路出て、そっからだな」
総合病院の前を走っている幹線道路に出るのは確定事項だ。この道は中町交番を経て駅前に続いている。その道を路線通りに辿るのはタイムロスだ。どこかで氷帝学園方面へ向かな分ければならない。そのことを暗に問うと、桑原の指が幹線道路の上を滑ってある点で止まる。
「ああ、
キワ。一旦はこのカーディーラーを目指すのが無難だと俺は思う」
そこからならほぼ一本道だ。桑原の言葉に頷いて、
千尋は肩に背負っていた鞄を持ち直す。
そして。
「ダイ、お前、鞄よこせよ。俺とルックが交代で持ってくから」
体力が一番不安な千代の荷物を預かる。そう言うと千代は不機嫌を顔中で表して全力で否定した。
「そこまで面倒見てもらわなくていい」
「いいか、ダイ。俺とお前、レギュラーなの。試合するわけ。お前が間に合わないと何の意味もないのわかるだろ」
「
キワに面倒見てもらわなくても、俺だって走れる」
「じゃあここ。東図書館まで走って無理そうなら俺たちに鞄よこせ。いいだろ、決定。はい決定」
千尋たちに残されている時間は少ない。決定を一方的に通告して、
千尋は総合病院の歩道を駆け出す。その背を桑原と千代が追ってデスマーチが始まった。
赤信号に引っかかる間だけが休息の時間で、それ以外は全力疾走に近い。背負った鞄が邪魔で、どうしようもなく邪魔で、なのに中身が大切なラケットやシューズだと思うと無下に扱うことも出来なくてもどかしかった。制服のブレザーは動きにくくて、せめてもの救いが革靴ではなく、ランニングシューズを履いていることだけだというのが現実だ。
千代が一人、後方で遅れる度に
千尋と桑原は目配せして少しだけ足を緩める。一人だけが間に合ったのでは意味がない。今は三人一組で連帯責任だ。結局は千代の鞄を
千尋と桑原が交互に預かって駆ける。
三十分に少し足りないぐらい駆け続けて、そしてようやく氷帝学園の無駄に壮大な校地の端が見えた。
「ダイ、もう少しだ」
「わかってる」
集合場所は氷帝学園中等部の正門前だ。今、
千尋たちが目にしているのはその正門に続く街路で、少しずつ、正門前に集まっている他の部員たちの姿が見えてきていた。腕にはめた時計を見る。集合時間の二分前だ。立海大学付属中学では五分前行動が原則だ。当然、朝練も練習試合も遠征も同じことが求められている。二分前で間に合ったと主張するのは詭弁の類に入るが、それでも、間に合ったのだと心のどこかで安堵した。途端、両足が鉛でも括りつけられているかのように重くなる。スタミナ勝負には負けないと豪語する
千尋ですらそうなのだ。千代の疲労感がどれほどのものかは推し量ることすら出来ない。
あと少し。
もう少し。
目的地に辿り着けばあとのことはどうとでも申し開きが出来る。
多分、部長は申し開きを認めてはくれないが、それでも、辿り着かないことにはその土俵に上がることすら叶わない。だから。
「ルック、右任せた」
「オーケー」
「ちょっと、
キワ、ルック、いい。俺もまだ走れる」
「いいから、お前、ちょっとぶら下がってろ」
桑原と二人、千代を挟んで肩を組む格好でラストスパートに入る。喉の奥がひりひりと痛い。鈍い鉄の味が滲んでいるのを感じたが、
千尋は意図的に無視した。
試合に間に合って、勝負にならなくてぼろぼろに負ける未来が見えたがそれすらも無視をして、
千尋と桑原は集合時間の一分前に滑り込みで正門前に辿り着いた。
部長が怒り心頭を通り越して呆れた顔で
千尋たちに問う。
「お前たちは一体どこから来たんだ」
「いや、あの、ちょっと道に迷って」
「遅れるときは五分前までに携帯電話に連絡を入れろ、と言ってある筈だが?」
「すみません」
走りながら何パターンか考えていた筈の言い訳はいつの間にか霧散していて一つも意味を成さない。道に迷って、という曖昧で何の説明にもなっていない返答しか出来ない自分の馬鹿さ加減に呆れそうになって、それでも、そんな
千尋たちのことを見透かして、それ以上の追及を避けてくれる部長にどうしてだか優しさを感じた。
「それで? その散々な状態で試合が出来るのか、
常磐津」
「やれます! やります、絶対、やります」
「千代、お前はどうだ」
「十五分ください。絶対にやれます」
二人揃ってそれだけは勢いよく主張すると、部長が厳しい顔のまま、ふっと空気を緩める。十五分ください、と言った千代の言葉を婉曲に肯定するように部長は遅刻の罰を通告した。
「今年の特待生は本当に馬鹿が揃っているようだ。ウォーミングアップのあとで素振り千回出来たら試合に出るのを認めよう」
素振りを千回するうちに試合をする為のウォームダウンをしろ、と言われているのだと、一部のものには理解出来る発言を残して部長は腕時計に視線を落とし「時間だ」と言って氷帝学園の正門をくぐろうとする。その背中に、二年の特待生の先輩たちが茶々を入れた。
「とか言ってー、ヒラちゃん、そういう馬鹿が嫌いじゃないくせにー」
「そうそう。平福は救いようのないテニス馬鹿が大好きだものね」
「倉吉、佐用、お前たちも素振り千回、やりたいか」
睨みつける部長に特待生の先輩たちは口々に遠慮する旨を答える。
そして。
三人の先輩たちが何でもなかったかのように
千尋たちの周りにやってきて、彼らより少し低い位置にある
千尋たちの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「お前たち、ヒラちゃん、本気で心配してたんだから、試合でちゃんと答えろな」
「はい、それはわかってます」
「もう一分遅かったら、跡部君に捜索願出すところだったんだからね」
「げっ、マジすか。すいません」
「まーまー。立海は実力主義だから。君たちが勝てば俺たちもなーんも言わない!」
「だってさ、
キワ、ダイ」
倉吉、佐用、河原と言葉は違うが行方不明や事故に巻き込まれたのではなかったことに安堵した顔をしている。他の部員たちもきっと
千尋たちの心配をしていたのだろう。
自分たちだけ先に氷帝に着いて、さっさとウォーミングアップをして、試合には万全の態勢で臨む。その、利己的な願望の為に多くの人の気持ちを巻き添えにした。そのことを知って、
千尋たちは自分たちの浅慮を恥じる。
人と言うのは不思議なもので、これ以上ない、というほど恥を覚えるともう一つや二つ、恥をかいてもいい、と思える。
だから。
「クラ先輩、帰るとき、正しい帰り方教えてほしいっす」
「そういうのは、昨日のうちに言えよなー」
「そうそう。前乗りしたいのわかるけど、中学の世界は団体行動が基本だから。まぁ、三人とも身に染みてわかったみたいだけど、ね」
恥のついでで正しい帰り方を訊いた。
先輩たちは馬鹿にするでもなく、非難するでもなく、ただ事実の指摘だけをして、穏やかに笑う。佐用が「
キワ君、勝っても負けても、帰りは一緒にね。あと、今日の自主練も禁止だって平福が怒ってたよ」と言って
千尋が抱えていた鞄を預かってくれる。
前途多難な
千尋たち三人を置いて、先輩たちは「ほら、行くぞ」と氷帝学園の中へ入って行った。その背を見守りつつ、呼吸を整える
千尋たちに後方から声が飛んできたのはそのすぐあとのことだ。
「
キーワーちゃーん、あんまりひやひやさせるもんじゃないぜよ」
「ジャッカル君も一緒でしたから、本当に何かトラブルにでも巻き込まれたのかと思いましたよ」
「ヤギ、お前、何気なく俺とダイに暴言吐くのマジで勘弁しろ」
柳生比呂士は紳士的に見えて、その実、一番辛辣で現実的だ。それが紳士のあるべき姿なのかもしれないが、現代日本の中流家庭で育った
千尋には到底理解出来ない。ただ、
千尋の仲間たちは
千尋たちが集合場所に現れないことに相当気を揉んでいた。そのことだけがわかって、もう一度後悔と向き合う。
自らを省みることに必死だった
千尋の耳朶を小さな変化がすり抜けていったことにもまだ気付かない。丸井ブン太がその違和感を更に増幅したが、それでもまだ
千尋は正解に辿り着くまでに至らなかった。
「で? ジャッカル。誰が戦犯なんだよぃ」
「それは――」
俺だ。千代がそう名乗りを上げる雰囲気を遮って、言った
千尋の声にもう一つの声が重なる。「俺が悪い」が別方向から同時に聞こえて、言葉を遮られた千代はもちろん、声のあるじである
千尋と桑原も慌てて自分ではない方の音源に顔を向けた。
「は? 何言ってんだよ、ルック」
「
キワこそ何を言ってるんだ。ちゃんとお前たちを止めなかった俺が一番悪いだろ」
「馬鹿か。そういう、後先考えた行動せずにノリに任せた俺が一番悪いに決まってるじゃねーか」
「でも、あのとき、
キワが走るって決めなかったら、俺たちはここにいない」
「そのときはお前だって決断出来ただろ」
「俺には無理だ。地図でしか知らない場所を走る責任なんて、俺は絶対背負いたくないからな」
だから、何の責任も負わないし、決断もしない俺が一番悪い。
桑原がそう断言して爽やかに笑った。その、闊達とした態度に彼の周りにいる
千尋を含めた全員が諦観の態度を示す。
そして。
「
千尋、由紀人! 反省なら帰り道でしなよ」
「試合をするのだろう。いつまでそこにいるつもりだ」
「
キワ、後でどの道を走ったのか、教えてくれ。後学の為に参考にする」
正門の内側から三強が
千尋たちを呼んだ。今行く、言って
千尋は「じゃあ皆悪いってことで」と締め括って駆け出す。鞄は先輩たちに預けたから本当に身一つだ。軽々と身体が動く。桑原が「俺たちは後で行くから、ダイ、お前も先に行ってこい」と千代を送り出して、納得がいかない顔のまま千代も駆け出す。千代はまだ呼吸が乱れていたが、それでも、躊躇することもない。
ときに責任を押し付け合って、ときに責任を背負い合う。そうして少しずつ距離が近くなって、お互いを呼ぶ名前が変化していく。
氷帝学園の敷地の中をテニスコートへ向けて小走りで移動しながら、
千尋はふと気付いた。
「ダイ、あいつらいつからルックのこと名前で呼んでんだ?」
「今気付いたわけ? 本当に鈍感だな
キワ」
「じゃあ敏感なお前はいつ気付いたって言うんだよ」
「さあ? いつでもいいだろ」
まぁそうか。
千代から明確な答えは得られなかったが、だからと言って何かが変わるわけでもない。
千尋は曖昧な現状を受け入れて、そして先を行く三強の背中に追いつく。
初めて来る氷帝学園の新鮮さに心を躍らせながら、試合に向けて気持ちを整える。
まず今は。
試合に勝つことが仲間たちへの答えだと気持ちを引き締めて、
千尋の遠征がやっと始まろうとしていた。