. All in All => 28th.

All in All

28th. 大義名分

 立海の仲間は大体口が悪い。悪辣というか、辛辣というか、とにかく容赦がない。的を射ない言動に対して、馬鹿と言われることは日常茶飯事だし、ミスプレーは躊躇なく罵倒される。
 信頼関係の上で成り立っている、所謂叱咤激励だと思っていたからそんなことぐらいで圧倒的優位な立場に立っていた地元へ帰りたいだとか、思ったことは一度もない。
 罵倒されるのは常磐津千尋に落ち度があるからだ。
 侮蔑の意味を込めて馬鹿と言われたのなら、千尋も激怒する。
 親しくもないやつに馬鹿と言われて、憤慨する程度には千尋にも自尊心がある。
 なのに。

常磐津千尋、てめぇ、本物の馬鹿か」

 あらゆる意味で氷帝学園テニス部の頂点に君臨する王様のその発言を受けて、千尋は曖昧に笑った。馬鹿なのは間違いがないし、多分、王様――跡部景吾の声音に千尋を評価する意味合いが含まれていたからだろう。
 ことの発端は練習試合の対戦組み合わせが一通り終わり、自由時間に入った頃のことだ。千尋は午前中、シングルスのレギュラー選手として戦った。相手は二年生の選手でアグレッシブベースライナー。朝からロードワークの域を超えて走ってきた、ということは相手選手にも当然伝わっている。スタミナが尽きているだろう、と長期戦の構えを取られて、それに応じた。真田弦一郎との終わらないタイブレークよりは数段楽な試合だった、と勝った後で柳蓮二に報告すると「そのようだな」と満足げな笑みが返ってくる。危なげなく勝利を収めたのは千尋だけではなく、控えのレギュラーまで含めても、立海に敗者はいなかった。
 千尋が対戦を熱望した跡部は順当に幸村精市と戦って敗北。しかも、夏に対戦したときより苦戦したようで、タオルを被ったままベンチで繰り返し、反省をしているようだった。
 昼食を取った後は自由時間になっていて、それぞれのコートでそれぞれに練習をするように、との伝達がある。氷帝学園のテニスコートはサブコートまで含めると立海のコートの倍以上あり、千尋たちはどこのコートを使えばいいのか、正直なところ判断に困っていた。
 ジャッカル桑原は丸井ブン太たちとサブコートで練習をしている。
 そこに混ぜてもらうか、先ほど戦った氷帝の二年生と対策と傾向の確認を兼ねて一緒に練習をするか、悩んでいた。練習試合の戦績が辛勝だった千代由紀人(せんだい・ゆきと)は、顧問からスタミナ不足を指摘されて、往路ダッシュがなければもう少しましな試合が出来た、と顔中で後悔を表現したまま外周を走っている。
 誰に声をかけるでもなく、一人ベンチに座って流れていく風景を眺めていた。足音が近づいてきた、と思ったら不意に名前を呼ばれる。

千尋、どうしたのだ」

 体力自慢でそれぐらいしか幸村に勝るところのない千尋でも、疲労困憊という概念があるのか。言外にそう含まれた問いが聞こえる。声のあるじは姿を見なくてもわかる。真田だ。

「馬鹿言え。今日と明日の自主練全面的に禁止されたのに、これ以上休んでられるか」

 立ち止まったらそこで何かが終わってしまうような気がしていた。三強はどんどん前に行く。二か月ぶりに見た跡部の試合も彼の成長を伝えた。二の足を踏んでいる余裕などない。一歩でも半歩でも前に進まなければ千尋の未来が黒く塗りつぶされてしまう。そんな恐怖と焦燥感に追われていた。
 わかっている。
 幸村に言われた言葉をまだ忘れたわけではない。
 敗北よりもっと怖いもの。無理を通して故障でもしたら千尋の未来はもっとひどい形で失われるだろう。わかっている。それでも、千尋は立ち止まることに本当に恐怖していた。
 コートの外の千尋に体面を繕うだけの技量がないことはもうとっくの昔に看破されている。真田が声をかけてきたということは、つまり、今、千尋はひどい顔をしているのだろうな、とぼんやり思った。思っても、何も変えることは出来ない。
 険しい顔をして、眉間に皺を寄せている真田の表情をなぜだかわからなかったが優しい顔だとも思う。千尋が疲れているのだろう。でなければそんな頓珍漢な感想はきっと生まれなかった。
 溜息を吐き出した「優しい」真田が幼い子供に説くように言う。

「休息もときに練習の一つだ、と何度言わせるのだ、お前は」
「テニスコートが目の前にあるのに練習が出来ないとかどんな苦行よ。お前、もしかしなくても休息の時間で勉強合宿する、とか言い出さねーよな? な?」
「お前が望むのなら俺の家に泊まりに来ても構わんが?」
「檜風呂は確かに捨てがてーけど、勉強はなぁ」
「では、檜風呂だけでも浸かりに来ればいいだろう。それとも、勉強の大義名分がなければ俺の家に来れんのか」
「別に、そういうんじゃねーけどさ」
「では何なのだ」

 何なのだろう。真田の住む武家屋敷に畏怖を抱いている。それは半年経っても少しも薄れない。温泉旅館でしか知らない和の風情に非現実を見出している。だから、真田の家に招かれると非日常を体験したようで高揚する。洋館である幸村の家に招かれるのとは一線を画した体験だ、と千尋は勝手に思っていた。
 真田家も幸村家も上流家庭であることには変わらない。なのに、真田家に招かれる度に千尋は要らぬ緊張感を覚える。それでいて特待寮に戻ると丁度いい具合に力みが抜けていた。だから、真田家に行きたくないのだとか、幸村家ならいいのだとかそんなことはない。
 ないのに。

「二桁の足し算の暗算、出来ねーんだけどいいか」

 真田の気持ちを試そうとした。半年前から比べれば、筆算が出来るようになっただけでも相当な進歩だ。三強がそれぞれに課す英語数学国語の課題で、真田が数学を担当している。厳密には小学校の基礎からやっているから算数だ。紙とペンがあれば二桁の計算が出来るようになって、やっと基礎の基礎を卒業した、と思っている。
 勿論、そこに至るまでには千尋も努力した。それは当然のことだ。学力が足りなければ除籍すると言われて、必死に勉強したが、千尋自身の問題なのだ。そこで必死になれないのならさっさと郷里に帰るのが筋だろう。そこに、真田たちが善意で助力してくれた。彼らはまるで自分の問題のように真剣に勉強を教えてくれた。
 多分。
 テニスが強いやつと戦いたい。
 根底はそれなのだろう。千尋は現時点では真田よりも弱い。それでも、場面場面の駆け引きを楽しむことが出来るだけの選手だと認められている。その、千尋が学力のふるいにかけられて消えていくことを真田はよしとしなかった。
 だから。
 千尋も真田もお互いをつなぐ大義名分として勉強を選んだ。
 その、大義名分がなくても真田家に来ればいい、と彼は言う。そんな言い訳など必要ないぐらい、千尋と真田の距離はもう遠くないはずだという含みがあって、千尋は胸の中で何かがぽっと灯ったのを感じた。

「何だ、藪から棒に。それは今に始まったことではないだろう」
「いや、今朝、暗算出来たらいいのにって本当に思ってさ」
「遅刻の言い訳は見苦しいぞ」
「その件については反省してるじゃねーか」

 反省はしているが、後悔はしていない。千代の悪巧みに乗ろうとした自分も、その結果、遅刻をする羽目になった自分も、スタミナ不足と判じられて不本意な試合をすることになった自分も、全部常磐津千尋だ。そのことは誰にも否定出来ないし、千尋も拒絶したいとは思っていない。
 全てを受け入れる、というのは全てを諦める、というのと紙一重だ。
 千尋にはそれだけの器量はないし、ゼロと一の境界では生きていない。
 ゼロと一の間にある無限に未来を見出した。だから、千尋は前を向いて走ることが出来る。
 だから。

「お前んち行くとき、毎回唐突すぎんだろ。迷惑じゃねーのか」
「迷惑だと思うことを俺が甘んじて受け入れるとでも?」

 真田家を訪れるときはいつでも突然に話が成立する。と思っているの千尋だけで、真田の方は用意が出来ているとき以外、提案していない、と言外にあって彼の中で千尋の居場所がもう少し大きくなったのを知った。
 
「ダイはどーすんだよ。あいつ、外周走ってるけど意地だから、役に立たねーぞ」
「お前たちは常に一緒でないと行動出来んのか。俺が今日、声をかけたのは千尋、お前だけだが?」
「あ、そ。ま、いいけど?」

 千尋と千代は同じ特待寮の住人だが、起居する部屋は違う。だから洗面所の割り当ても風呂の後始末の当番も同じになったことはない。
 それでも、ロードワークも筋トレも自主練もずっと一緒だった。
 だから、何とはなしに彼とセットで取り扱われることに慣れていたが、本来は別の個人であり人間関係もまた個別にある、というのを真田が指摘する。常に一緒でないと行動出来ないわけがない。一人で真田家を訪れる、ということに怖じているわけでもない。
 だから、千尋は虚勢を張ってどうということもない、そういう態度を取った。
 真田が「では帰りはお前たちと一緒に特待寮に立ち寄ろう」と交渉が成立したことを念押しして、ドリンクのボトルを千尋に向けて放り投げる。条件反射でそれを受け取って「あぶねーだろ」と一応は抗議のポーズを取るのと前後して、その不遜な声が聞こえた。

常磐津千尋、データよりはメンタルも多少マシになったみたいじゃねーの」
「跡部か」

 タオルを首にかけて汗を拭う。その姿は、彼が今し方まで誰かと対戦していたことを意味するが、呼吸に大きな乱れはない。空色の瞳は今日も美しく輝いて千尋を睨みつけていた。
 その眼光の鋭さとは裏腹に声色は千尋の健闘を認める。千尋が上級生たちと対等以上の勝負が出来るのはスタミナだ。その、スタミナ勝負で今日はハンデを負っている。一学期の千尋のなら自暴自棄に攻める試合をして負けていただろう。それでも、今日はゆとりある勝利を得た。それはつまり、カウンターパンチャーに必要なメンタルの強さで相手選手を上回ったということだ。跡部はそれを評価している。
 多分、真田にしても元々はそのことを告げる為にここに来たのだ、と遅ればせながら理解して、何だ最初から真田の思惑に乗っていたのか、とぼんやり思った。
 そんな、千尋の再確認になど興味のない跡部は不敵に笑う。

「それで? いつまでもベンチで休憩って柄でもねぇだろ? 俺様が遊んでやるよ」

 それは願ってもない申し出だ。千尋は「いいぜ、乗った」と答えて、そしてすぐに先に声をかけた真田のことを思い出した。シングルスで真田に勝ったことはない。それでも、ダブルスなら真田と、今はここにいない徳久脩(とくさ・しゅう)のペアにでも引けを取らない勝負が出来る。だから「遊ぶ」のなら、ハンデの分を見込んで千尋の土俵に乗ってもらうのもまた一興なのではないか。そんなことが千尋の頭の中に浮かんだ。
 だから。

「弦一郎、お前、この後の予定は?」
「特には」
「なら、ダブルスやろうぜ。いいだろ、跡部」

 それとも、シングルスじゃなきゃ怖くて勝負出来ねーか。
 煽り方は千代を見ていると自然に理解出来る。煽るのだが、相手を侮辱しないギリギリのライン、というのもいつの間にか覚えた。その、千代は躍起になって外周を走っている。顎が上がって、あれでは何のトレーニングにもなっていない。わかっていたが、顧問も、柳も好きにさせている。千尋が止めたところで千代が走るのをやめないこともまた自明で、結局のところ千尋もまた黙認の姿勢を選らんだ。千代が後悔を振り切るのに今、言葉では何の効力も持たない。
 だから、というわけではないが真田と組んでのダブルスを跡部に提案した。真田の了解などもちろん得ていない。二人に対して何の前触れもなく、千尋のプランを示す。当然、二人とも一瞬だけ反応が止まって、そして、そこは流石に両校のレギュラー選手なのだろう。次の瞬間にはそれぞれ許容と諦観の姿勢を示す。

「自分の土俵じゃねぇと勝負出来ねぇやつが吠えるんじゃねぇよ」
千尋、俺は乗ろう。跡部、お前は誰と組むのだ」

 二年生のレギュラーなら誰々か、と真田が一方的に話を前に進めていく。当然、真田には跡部の嫌味など微塵も通じていない。水掛け論になるのを嫌った跡部が大きな溜息を吐いて、そして「ちょっと待ってろ」と言ってサブコートの方へ向かう。多分、跡部が思うダブルスの相手を呼びに行くのだろう。王様だの俺様だのと憮然としていても、律儀な面も持ち合わせている。だからこそ、氷帝は跡部に率いられることをよしとした。そんなことを漠然と理解して、千尋は二百人の信を預かる重さ、というやつを想像しようとして結局は諦めた。
 そんなことをしてもしなくても、跡部景吾という人間の器は変わらないのだから、あるがままに受け止める方が馬鹿な千尋には向いている。
 結局、それから二分後に跡部は一人の長髪の少年を連れてメインコートへ戻ってきた。
 宍戸亮、と名乗った少年は千尋と同じ一年生だという。割合小柄で、勝気そうな双眸が千尋を睨みつけていた。遊びと言えど勝負をするのだから、敵、という認識なのだろう。立海三強と特待生のペアを相手に選ぶパートナーなのか、と一瞬思ったが口には出さない。宍戸の実力も知らないのに勝手に決めつけるのは失礼だし、何より、当の千尋と真田のペアが急造だ。シングルスでは怖いものなしでも、ペアを組むのは単純な足し算ではない。ときに相性の悪さはマイナスにすらなる。
 だから。

「3ゲームマッチだ。いいな?」
「最初から全力で来いって? いい根性してるよ、お前」

 跡部が提示した条件を暗黙的に了承する。彼の提案には色々な側面があるだろう。
 まずは、お互いが急造ダブルスだから、どちらがより早く連携することが出来るかの勝負だ。もしかしたら、3ゲームぐらいなら、ダブルスとして致命的な欠陥を抱えていても逃げ切れる、と思っているかもしれない。
 それでも、千尋は跡部の提案に気配りを感じた。
 氷帝学園に辿り着くまでに体力を摩耗し、そのうえで更にスタミナ勝負の試合をした千尋でも3ゲームぐらいならベストな勝負が出来るだろう。宍戸がどのぐらいの実力の持ち主か、千尋は知らないが突然に格上の相手と対戦する緊張感に馴染んで、それでいてプレッシャーに潰されないギリギリの時間配分だとも言える。
 このぐらいのことを一瞬で決められるのだから、やっぱりこいつは大したやつだ。
 そんなことを思いながら、受け入れてやる、という体を繕うと跡部は「当然だろ、アーン?」と挑発で返してくる。
 
「じゃあ、そういうことだから。弦一郎、勝ちに行くか」
「フン、当然だ。王者立海に負けは許されん」
「アーン? 俺様の辞書に敗北の文字はねぇんだよ」

 それは全員同じだ。そう返すと全員が満更でもない顔をする。
 そして、氷帝ペアのサービスゲームから俄か勝負が始まった。
 真田の得手不得手なら千尋はよく知っている。今更説明されるまでもない。跡部の返球のうち、千尋でも狙うコースは先回りして潰した。宍戸の実力がわからないから、その辺りは探り探りになったが、それでも千尋のポジショニングで潰せるコースは概ね潰した。
 跡部のデータは昨日、柳と幸村の二人がかりで教えてもらった。
 その通りのボールが来ることもあるし、思ってもみないコースに慌てて対応することもしばしばあった。その度、千尋は自分の中のデータを更新して対応する。
 真田も跡部もオールラウンダーだから、大抵の返球は二人だけで成立した。
 あとは千尋がコースを潰すことで真田の負担を軽くする。打ち損じ以外のミスや、想定外のコースでの返球を千尋が拾ってくれる、ということを真田が実感し始めて、立海コートの空気が穏やかになった。
 千尋は真田のフォローに徹しているから、あとは真田が要所要所でポイントを決めるだけで勝利出来る。そんな確信にも近い感触を得た頃、焦れたのは宍戸だった。

「跡部、お前一人で勝負してんじゃねーよ」

 言って、真田と跡部のストロークをカットする。その、想定外の俊敏さに千尋の反応が一瞬遅れる。「千尋!」真田の声が聞えて、千尋は全力でボールに向けてダッシュする。ダブルスコートのギリギリ内側で追いついてラケットを当てる。本当に当てるだけになったボールはガットの面を弾いて大きな弧を描いた。ホームランではないから、氷帝コートの中に返るだろう。それでも、千尋は焦った。跡部の得意な攻撃パターンなら耳にタコが出来るぐらい聞いた。ロブが上がればスマッシュが来る。まずい。本能的に体勢を整え直してもう一度ダッシュする準備をする。
 それでも。

常磐津千尋、間に合わねぇよ。くらえ! 『破滅への輪舞曲』」

 跡部がラケットでロブ球を強かに叩きつける。柳のデータに間違いがないのなら、あのスマッシュの狙いはコートではない。真田だ。真田本人の身体――ラケットを握る手自体を狙って放たれる。痛みを感じれば生物学的にそこを守ろうとする。ラケットより、ボールより自らの身体を優先する反射神経はラケットを握る手指の力を失わせる。その、攻撃の出来ない真田を目がけて二度目のスマッシュが来る。これはシングルスではないから、千尋が二段目のスマッシュを受ければいい。
 そんなことを一瞬で判断して瞬発力に任せて真田のフォローに回ろうとした。
 フォローをしようとしたはずの千尋に「千尋、避けろ!」という切迫した真田の声が届くのと「何か」が千尋の視界を一瞬で奪うのは殆ど同時のことだった。
 大きな衝撃があった筈だが、千尋の意識は暗転して何が起きたのかを理解出来ない。
 意識を失っているのだ、と気付いたのはコートの外にいた筈の千代の声が何度も繰り返し千尋の名を呼んでいるのが遠くから聞えてきたからだ。必死に千尋に呼び掛けている。切羽詰まっているとすら言える焦った声音に千尋は朦朧とした意識のまま、千代の名を呼んだ。

「ダイ」
キワキワってば! しっかりしろよ!」

 しっかりしている。意識もあるし、千代に呼ばれるのも聞こえている。だから、大丈夫だと言おうとして声が出ていないことに気付く。痛みと呼ぶほどの痛みはない。ただ、額がひりひりと痛む。それだけなのだから、問題はない筈だ。二度、三度と千代の名を呼んだ。そうするうちに声が音になって周囲に届く。よく見ると、千尋の周りを立海の仲間と顧問が取り囲んでいるのがわかった。

常磐津、意識はあるのか」
「あ、はい」
「目立った外傷はないが、打ち所が悪い。念の為に検査だけ受けてくるように」

 幸い、氷帝学園の敷地内には大学付属病院がある。ありとあらゆる権力を使って、本来の待ち時間の一切を無視した。今からすぐにでも検査が行われるから行ってこい、と顧問が言う。彼の更に後ろに氷帝学園の顧問がいて「私が付き添おう」と言った。
 言ったが、何が起きたのか千尋は理解していない。
 どうして周りが悲壮感を纏っているのだ、という疑問を解決しようとして顧問に問う。

「打ち所が悪いって、俺、どうなったんですか」
「真田の手から抜けたラケットがお前の額を直撃だ」
「すまん、千尋。俺の不注意だ」
「バァーカ、てめぇがラケット放り出すように狙ったんだから当然だろうが。常磐津千尋、てめぇが怪我するのは流石に誤算だが俺様は謝らねぇぞ」

 謝らないと言った跡部の表情には幾ばくかの後悔が滲んでいて、千尋はそれだけで十分謝罪されたと思った。相手が返せないコースを狙うのは卑怯でも何でもない。千尋の額を跡部が直接強打したなら絶対に許せないが、今回のことはそうではないのだから、跡部を責めるのは筋違いというものだ。
 それでも。

「何かあったらお前が責任取ってくれりゃ、俺も何も言わねーよ」

 何も質さないのは逆に貸しを作ってしまうようで面倒臭かった千尋は皮肉を送ることで棒引きにすると示す。跡部は呆れた顔で「常磐津千尋、てめぇ、本物の馬鹿か」と曖昧に笑った。
 その笑みに、千尋もまた曖昧な笑みを浮かべて「お互い様だろ」と言うと氷帝の顧問が「談笑は後でしなさい」と言って千尋を促す。

「弦一郎、言っとくけどさ」
「何だ、千尋
「お前、責任感じるなら約束通り泊めろよな」
「全く、お前というやつはどこまで底抜けの馬鹿なのだ。無論、約束は守ろう。検査の結果に異常がなければ、だがな」
「忘れんなよ、絶対だからな」

 言って、千尋はゆっくりと立ち上がり氷帝の顧問に連れられて大学病院へ向かう。
 検査結果上、千尋には何の異常もないことが証明され、二時間弱で解放された。氷帝の生徒と、立海の大半の生徒が既に帰宅した後だったが、跡部と宍戸、それから立海の部長とレギュラー陣が千尋を待っている。
 検査結果を伝えると一同が安堵し、そしてようやく帰宅するに至る。
 次の練習試合でまた会おう、と約して別れる間際、跡部が一枚の紙片を千尋に握らせた。

「跡部、何だこれ」
「先に言ったのはてめぇだろうが。『何かあったら』俺様に連絡しろ。責任は取ってやる」

 携帯電話の番号とメールアドレスだと思われる文字列が小奇麗に整った文字で綴られている。責任を取れ、と先に言ったのは確かに千尋だが真に受けて真剣に検討してもらえるとは微塵も思っていなかったから、若干呆れにも似た感情を抱いた。

「お前、割と律儀だな」
「バァーカ、こんな形で潰さねぇとてめぇに勝てねぇと思われるとか冗談じゃねぇんだよ」
「何だっけ、破滅への何とか? 次やるまでに俺たち全員が攻略してやるから覚悟しろよ」
「ハッ、俺様の進化は止まらねぇんだよ。返り討ちにしてやる」
「じゃあ、まぁ、これは保険ってことで一応受け取っとくわ」

 じゃあな。言って千尋たちは止めていた足を再び動かし、氷帝学園中等部前のバス停へと向かう。初めて訪れた氷帝学園中等部は思ってもみない経験を幾つも千尋に植え付けて、そして送り出していた。
 バスの車中で、改めて今日と明日の自主練を禁止する旨が通達されて、千尋は真田家の檜風呂に浸かるのを心底楽しみにしたまま、ゆっくりと微睡の中に沈む。隣の千代は完全に船を漕いでいて、立海の仲間たちがそんな二人の邪魔をしないようにとそっと見守っていたことを千尋は未来永劫知らない。