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All in All

29th. ああ言えばこう言う

 夕暮れがすっかり早まった道を真田弦一郎と二人で歩く。
 常磐津千尋の額には打撲を緩和する為の湿布が貼られているが、相変わらずひりひりとした痛みが残っていた。ただ、良くも悪くもそれだけで部活中にラケットと正面衝突した記憶すらない千尋にとっては湿布を貼っていることの方に違和感を覚える。
 道中、何度か端の部分が剥がれてきたのを不快に思い、いっそ全部取ってしまいたいと思ったが、その度に真田が「千尋」と咎めてくるので何度も断念した。その結果、真田家に到着するまで千尋の額に湿布が残っている。門扉をくぐって、玄関を開けた向こうには二人分のスリッパが待っていた。非現実を味わいたい、と言った千尋の為に用意された来客スリッパを見ると真田も真田の母親も厳しさと同じぐらい労りを持っていることを再確認出来た。
 そんな優しさの代名詞であるスリッパに足を通して廊下とその向こうに続く縁側を歩いていく。客間は南を向いた日当たりのいい場所にあり、今は闇の向こうに溶けて消えているが、日が昇れば美しい庭を見せる。
 二間続きの客間に荷物を置くと、真田が言う。

千尋、今日の夕食は台所で構わんな?」
「寧ろ、そこに入っていいのかが疑問なんだけど?」

 今まで、千尋が一人きりで真田家を訪れたことはない。同じ特待生の千代由紀人(せんだい・ゆきと)や三強の二人のどちらかが一緒だった。だから、千尋たちの食事は客間に運ばれてそこで食べていたから、今日の泊まりもそうなるのだと勝手に思っていた。その、思い込みを真田の言葉が否定する。
 真田家の台所というのがどんなところなのかもわからない。旧家の趣を持っているから座卓があるのだろうか。それとも、普通に千尋の実家のように椅子とテーブルなのだろうか。対面キッチンではないだろう。そんなことを幾つか茫洋と巡らせて、結局、答えが千尋の中にないことを知って疑問の一つを口にした。
 台所というのは家の中でもデリケートな場所の一つだろう。風呂場には劣るかもしれないが、それでも客として招かれて、台所に通されることはまずない。その交流が成り立つのは台所を預かる者同士――主婦友だちの間だけだ、ということを千尋も何とはなしに理解している。
 だから、何度目かの宿泊で真田家の構造にも少し慣れてきた程度の千尋が立ち入っていい場所なのか判断に困った。
 その、疑問に真田は表情一つ変えずに首肯する。

「無論だ」
「何、俺、何に格上げされたわけ? それとも格下げ?」
「何も変わらん。お前が何になりたいのかはわからんが、それほど驚くことでもあるまい」

 台所がいづらいのであれば今まで通り客間に運ぶように母に頼むがどうする。そんな声が聞えてきて千尋は苦笑いを浮かべる。
 それをお前が尋ねるのか。それを問う意味がわかっているのか。
 瞬間、音にしてしまいそうになってぐっと喉もとで堪える。真田の動かない表情は彼の信念を表している。それを理解したのは一体いつのことだっただろう。もうはっきりと思い出せないぐらい千尋は真田と時間を共有してきた。その、共有された時間が千尋に教える。
 真田の中に海原祭のときより、もっとずっとはっきりとした形で千尋の居場所がある。
 それは、多分、家族の団欒をするべき台所に招いても大丈夫だと思えるぐらいの力を持っている。
 いつの間にだろう。そんなことを遡って手繰ろうとして、結局、やっぱり千尋の中には答えなんてなくて不意に笑みがこぼれた。答えがないぐらい、千尋の中にも真田の居場所がある。お互い様だ。そう思えることが嬉しくて、同時に誇らしかった。
 だから。

「弦一郎、晩飯食ったら風呂入るぞ、風呂」
「風呂ぐらい一人で入らんか。俺は長風呂は好かん」
「いいじゃねーか、普段ニ十分しか風呂に入れねー俺の小さな我がままぐらい聞けって」
「たまにゆっくり入るのなら、なおさら俺など邪魔だろう。一人で好きなだけ満喫しろ」
「集団生活に慣れすぎて一人で入ると落ち着かねーんだって」
「お前は、本当にああ言えばこう言うやつだな」

 どちらの主張も折れることがない。それでも、お互いを本気で否定していないから妥協点を探り合っている。多分、お互いの主張を半分ずつ受け入れるような気がするがそれは今すぐに辿り着く答えではない。
 だから。

「弦一郎、飯食ってから考えようぜ」
「うむ。そうだな」
「ってことでだ」

 夕食の時間にはまだ早い。その空き時間でするべきことならもう習慣になった。勉強だ。勉強合宿ではないからみっちりと絞られるわけではない。ただ、今日こなすべき課題と向き合う。その為に千尋は特待寮に寄ったとき、宿泊の荷物と一緒に勉強道具も持ってきている。
 その一式を取り出すと、真田も自分の部屋から教科書を持ってくると言って部屋を出ていった。柳に課された漢字書き取り、幸村精市に課された英単語の書き取り、そして真田に課された計算ドリル。何度も何度も途中で投げ出したくなった。実際、一日や二日、さぼろうと思ったこともある。それでも、千代に置いていかれるのが嫌で結局はやった。今では国語の教科書も詰まりながらでよければ音読出来る部分の方が多くなったし、筆算でよければ四桁ぐらいまでの計算も出来る。小学三年生からスタートした勉強も半年以上が経過して、最近ではやっと四年生の勉強が終わろうとしていた。
 そんな千尋の隣で、真田は中学一年生の勉強の予習復習をしている。その現実と向き合って格差社会だ、なんて嘆かなくてもいいぐらいには千尋の人生も充実し始めていた。

「なぁ弦一郎。算数って不合理だよな」
「何だ、藪から棒に」
「だってさ、中学入ったら数学の授業で方程式とかやるだろ? 頭ひねって、ない知恵しぼらなくても数学なら公式にばーんって入れたら終わりじゃねーか」

 その肝心の公式を使う為には日本語の読解力が必要だ、と気付いた日に千尋は絶望を味わった。数学の試験も一学期の間は計算問題が中心だったから何とかなったようなもので、二学期に入ってからというもの、長文読解の応用問題が出てきてからというもの、千尋の中でハードルが上がっている。耳にタコが出来るほど真田が口にした「数学の問題に意味のない単語はない」という言葉を信じていたから、今もまだかろうじて戦っているが多分、一人きりならとっくの昔に諦めていただろう。
 合理を追い求める数学ですらその有様なのに、発想力勝負の算数の問題は難易度が高すぎる。算数ドリルの一ページに二問しか載っていない現状で、既に音を上げそうになっていることを婉曲に伝えると真田が呆れたような顔で溜息を吐く。

「つるかめ算が出来ないなら素直にそう言えばいいだろう」
「いや、まぁ、そうなんだけど」
「仕方のないやつだ。その様子では勉強にならんだろう。他の二つを先に進めておけ」

 書き取りなら躓くこともない。書いているものを意識せずに書き写すだけでは何の意味もないが、何の意味もないと思いながら算数の問題を解くよりは幾らか実がある。そんな含みがあって、千尋は真田の器の大きさを改めて見せつけられたような気がした。
 どうしてだろう。同じ十三歳なのに真田の目にはずっと先まで見えている。真田だけが特別なのだろうか。三強だけが特別なのだろうか。その答えを千尋は知らないし、真田に問う内容でもない。そのぐらいの分別は付いたから自分の中でぐるぐると巡らせるに留める。
 それでも。

「お前ってさぁ、無理とか言いたくなるときないわけ」

 真田は何に対しても真面目で一本気で堅実だ。人には誠意をもって臨み、手を抜くことがない。無理と言うものには諦め悪さを説き、自身でそれを体現して見せる。
 そんな真田が「無理」という場面はいつ来るのだ。
 そう思ったのを問う。これぐらいなら別に礼を失していないと思った。
 それだけのことだったのに、真田は厳格さを表した双眸を見開き、一瞬言葉に詰まる。
 そして。

「お前がそれを言うのか、千尋
「何が」
「自覚がないのが一番ひどい、というが真実だな」
「だから、何がだよ」
「お前とて無理などと言わんだろう」

 真田は確信を持ってそう言う。今度は千尋が両目を見開く番だ。何を言っているのだこいつは。本物の馬鹿か。刹那、そう思ったが唇は音を紡がない。
 千尋の人生には数多の「無理」がある。十三の千尋に無理のない人生を求める方が無理だというものだ。だから、千尋は今に至るまで何回も何十回も真田にそれを申告してきたはずだ。
 なのに。真田は今、心の底から呆れた顔をしている。
 どうしてその表情になるのだ。呆れたいのは千尋の方だ。
 そう、反駁したいと思うのにどう言えばいいのかが千尋にはわからない。ほら、また今も無理が生じた。千尋の人生は無理と隣り合わせなのだから、こんなことは日常茶飯事で、対処もまた心得ていると思っていた。
 なのに。

千尋、お前は容易く無理などと言う相手を信じることが出来るのか」
「そりゃ、まぁ、諦めてるやつに興味なんてねーけど」
「確かに、お前はどうしようもない馬鹿だが諦めてなどいないだろう」

 そのお前を見ていると励まされる。幾つもの困難と向き合ってなお、無理と言わんお前に向かって先に無理などと言うのは実にたるんどる。
 そうだろう、常磐津千尋。言われた千尋は大きな衝撃と共に、確かな安堵を覚えた。
 千尋はもう知っている。真田のことを試したりしなくても、最初から知っていたのだ。
 A型男子は生真面目で、真面目すぎるがゆえにときに圧倒的な不器用さを露呈する。それは真田にも幸村にも柳にも共通する内容で、同時に千尋自身もその枠の中にいた。自ら望んで努力することに労苦を覚えたりしない。「自ら望んで」の範囲は人それぞれだが、千尋の人生においてはテニスとそれにまつわる全てが対象だ。テニスをする為に必要なことなら人道的に悖らない範囲で何でも出来る。千尋はそれを半年かけて仲間たちに証明してしまった。
 その、姿勢は真田のものと大差ない。信じるに値する。そう言われているのだと理解して、やっぱり日本語の読解力というのは必要な教養なのだと知った。

「弦一郎。お前ってさ、すげーよ」
「何がだ」
「俺みたいな馬鹿に理解出来るように頭使えるとことか、自分がかけたものと同じだけのものを相手に求められるとことか」

 それを求めても拒絶されないと心の底から思っているところとか。千尋がそのレベルに達するまで進み続けられると信じられるところとか。
 千尋には一歩先までしか見えていない。日にちで言えば今日しかわからない。
 真田が見ているのはもっとずっと未来のどこかで、その景色の一部として「成長した千尋」も存在する。同じ視線の高さでものを見られると信じた。信じたから、真田は千尋の為に時間を割くことを厭わない。多分、千尋にとっての広報活動と同じなのだろう。学力の足りないものには勉強の手ほどきを、テニスに慣れないものにはテニスの手ほどきをする。その根底にあるものは何も違わない。同じ方向を見ている。夏の間、千尋は千代と二人何度も繰り返し自分たちに言い聞かせてきた。基礎練習は無駄にならない。それは真田たちにとっても同じなのだ。
 丸井ブン太たちが一年生のコートで必死に這い上がろうとしている。千尋は千代と二人、学力考査でふるい落とされないようにもがいている。その努力を笑うやつなんて無視すればいい。それは、自分が努力出来ないやつの言い訳だ。
 だから。

千尋、覚えておけ。俺は前を見ている馬鹿は嫌いではない」
「じゃ、後ろ向いたら殴ってでも前向かせてくれよ」

 真田は繰り返し馬鹿と言う単語を用いるがそこに侮蔑の意味はない。立海の仲間たちが千尋を馬鹿と称するとき、そこには慈しみが込められている。それを知っているから、千尋は言葉尻を無視して冗談の上乗せをした。
 真田が無論、と静かに瞼を伏せて不敵に笑う。

「その為にはまず、つるかめ算を解けるようになってもらわねばならん」
「結局そこに戻るのかよ!」
「当然だ。苦手要素は一つずつ確実に潰す。テニスと同じだ」

 テニスと同じと言われて反論をする意味があるかどうかなら考えるまでもない。だから、敢えて否定の言葉は紡がず、千尋がどれだけ途方に暮れているかだけを伝えることにした。

「弦一郎、つるかめ算のページあと三日分ぐらいあるんだけど」
「問題ない。お前は、今日つるかめ算を理解するのだから、あとは自分で出来るだろう」
「お前と話してると本当に出来そうな気がするからやっぱすげーわ」

 飯食ったらゆっくり教えてくれ。
 そう締め括ると真田が置時計を見た。真田家の夕食は七時きっかりに始まる。頃合いだ。言って真田が立ち上がった。何度目かに泊まる真田家だったが、台所の場所は知らない。真田に先導されて後ろを付いていく。廊下に出るとどこからともなく、いい匂いが漂ってきていた。その、匂いの濃くなる方へと真田が迷いなく歩いていく。
 今日の夕食は何だろう。匂いが食欲を刺激する。特待寮の食事は不味くはないが、良くも悪くも寮の食事然としていた。一回の食事につき三つのメニュー。その中から一つを選べる自由も半年味わえば慣れてしまう。生姜焼きが四度巡ると月が変わる。それを感覚として理解した今となっては珍しさなどどこにも残っていなかった。
 一番最初に真田家を訪れたときの夕食は懐石料理を思わせた。一汁三菜どころではない。メインの料理に小鉢が三つ。汁物とデザートもちゃんと揃って出てくる。ここはやはり非日常の世界だ。その思いが千尋の記憶に鮮明に焼き付いた。
 それ以降の訪問でも基本的には和食の料理が出てくる辺りが武家屋敷だ、と勝手に思っていたが、真田が今、引き戸を開けた向こうに見えているのはどこをどう見ても和食ではない。

「弦一郎、お前んち洋食もあるのかよ」

 反則だ。思わずそう呟くと前を行く真田が振り向く。その顔中で不安を伝えている真田に千尋はとても貴重なものを見た、という感慨を覚える。

「幸村が『千尋はデミグラスソースが好きみたいだよ』と言っていたのを母に伝えただけだが、問題あったか」
「いや、俺、実際デミグラスソース好きだし」

 問題なんてどこにもない。もし、万に一つ、問題を挙げろと言うのなら「本物のビーフシチュー」を見るのは生まれて初めてのことぐらいだろう。鼻腔に広がる匂いが千尋の知っているものとは全く違う。違うのにこれが本物のビーフシチューだと本能が断言する。レトルトのルウを使ったものではない。幸村の家で食べた煮込みハンバーグ、それに近い印象だ。勿論、幸村の母親もルウなど使っていない。ソースを一から作っている。それがどれだけの労力を必要とすることなのか、千尋にはとても想像しつくすことが出来ない。
 出来ないが、それゆえにわかる。
 この「本物のビーフシチュー」は千尋の為に手間暇かけて作られた、手抜きなんて微塵もない家庭料理の最上位にある一品だ。
 千尋の母親は料理が好きではない。好きではないがパートタイムの時間に追われながら、それでも彼女なりに努力して毎日食事を用意してくれた。
 その、母親を否定しようとは思わないが、千尋の食生活はどちらかと言えば貧しかったと言えるだろう。千尋常磐津家の家庭料理しか知らない。外食もファミリーレストランやファーストフードが中心で「本物のビーフシチュー」を出してくれるような店には行ったことがない。
 非日常だ。その言葉で締め括って千尋の胸の中で生まれようとしている黒い感情に蓋をする。食べたことのないものを食べるのは楽しい。それでいいじゃないか。真田を羨んだところで、千尋の人生の根底が書き換わるわけではない。もし、万に一つ千尋に出来ることがあるのだとすれば、未来のいつかに「本物のビーフシチュー」を出してくれるような店に母親を連れて行ってやることぐらいだろう。
 だから。

「いただきます!」

 二人分の洋食が並んだ食卓の前に座る。千尋の席と真田の席が向かい合わせになっていて、結局は二人で食べるのだな、とぼんやり思った。本物のデミグラスソースがこの上なく美味い、ということを今の千尋は知っている。それはつまり千尋の世界が広がったことを意味しているのだから、喜ぶべきことだ。嘆いて、悔やんで、自分の持っていないものをほしがって何かを失う無意味さもいつの間にか知った。
 世界は千尋の地元よりもっとずっと広い。
 だから、いつか千尋の望むものが手に入ったら、そのときには真田にも何かを返せたらいい。そう締め括って千尋は幸村が教えてくれたマナーを思い出しながら真田家の夕食を楽しむ。何も持たない不幸なら、自分の努力で変えていける。本当にほしいと願うなら、いつかこの手で掴めばいい。そうしない怠惰を棚に上げて、不幸だなんて悲劇の主人公を気取るのは千尋には性に合わない。
 その為の勇気なら目の前に座った真田が教えてくれた。
 自分と同じだけのものを懸けることを暗黙的に強要する。そのことに嫌悪するものもいるだろう。それでも、千尋は真田の強欲を受け入れた。競い合う仲間だと認められる。
 だから。
 千尋も同じだけのものを真田に求めてもいい。それが千尋と真田の間に芽生えた信頼関係だ。そう信じられるのだから、千尋は決して不幸ではない。

「弦一郎、お前んちほんと何回来ても最高だわ」
「抜かせ。檜風呂に一人で浸かるのが不安なくせに強がるな」
「えっ、何その斬新な解釈。俺、そんなビビりだと思ってたわけ?」
「何だ、違ったのか」

 広すぎる檜風呂に一人で浸かるのを怖い、と思ったことはない。
 そう反論すると「ではどうして俺も風呂に誘うのだ」と別の問いが返ってくる。
 明確な理由なんてない。一人で風呂に入ればゆっくりとくつろげるのは理解している。特待寮の風呂は入浴時間が決まってて毎日慌ただしい。慌ただしい中に千尋なりの価値観を見出している、というのをどう表現すればいいのかがわからない。
 ただ。

「別に今更、お互い素っ裸になるのが恥ずかしいもくそもねーだろ」
「まぁ、それはそうだが」
「理由がなければ誘ってはならんのか、ってお前が言い出したんじゃねーか」
「本当に。お前はああ言えばこう言うやつだ」
「お前らが無理やり押し付けたんだろ。今更小賢しいとか言い出すなよ」

 千尋に小難しい議論をするだけの知恵があるのは三強のおかげだ。彼らが、何度も何度も繰り返し噛み砕いて分け与えてくれた。多分、彼らの求めている水準にはまだ遠く及ばない。それでも、努力をする姿勢は評価された。
 だから。

「三十分だ」
「うん?」
「三十分で上がると約束出来るならお前の提案に乗ろう」
「その根拠は?」
「検査結果上、問題がなくともお前の額に俺のラケットがぶつかったのもまた事実。怪我が悪化せん程度に留めるのも選手としての務めだろう」

 それともそんな自己管理も出来ないのか。言外に含まれた挑発に心の中で何かが灯る。
 この七か月で千尋の身に着いたものの一つだ。煽られたのなら乗る。乗ったのなら最上の着地点を見つける。
 それが千尋たちの間にある暗黙の了解だ。

「いいぜ、それで。三十分でお前がつるかめ算の説明、思いつくか楽しみにしてるからな」
「説明を受ける側が自慢気に言うことか。まったく、お前は本当にどうしようもないやつだ」

 その挑戦も受けよう。言って真田が破顔する。真田のこの慈しみに満ちた顔を知っているのはほんの少ししかいない。その少しの内訳であることを誇りに思いながら、千尋は残っていたビーフシチューを口に運ぶ。柔らかいのにどこか切なさも帯びていると思うのは千尋の感傷だということはまだ知らない。
 檜風呂の中で真田が妙案を思いつくまで二十五分。今日も非日常は順調に過ぎ去っていく。