. All in All => 30th.

All in All

30th. 視界深度

 小さな異変が常磐津千尋の身を襲ったのは初雪がちらついた十二月の頭の頃だ。
 新人戦を圧勝で収めた千尋たちは二学期の期末考査を迎える。十一教科にも及ぶ試験がようやく終わった頃には寒さが本格的に浸透してきていた。教員たちが採点する時間をつぶすための球技大会も二度目の経験になり、上級生相手に本気で勝ちを狙いに行くぐらいの気迫もある。一年生と侮った相手に負ける屈辱を味わってもらおう、と一年B組の運動委員長が啖呵を切ったのにも驚いたが、クラスメイトたちがそれに応じたのにはもっと驚いた。運動部の生徒が二十一人。文化部の生徒が十九人。球技大会を敬遠する声はもっと大きいだろうと勝手に思っていた。なのにどうしてか教室の中は前向きな姿勢を見せている。そのことに驚いて立ち止まっていると、教室の熱気から置いていかれたような感覚が芽生えた。
 千尋はテニス部員だから学校行事でテニスをすることはない。柳蓮二もジャッカル桑原もその点では同じだ。テニス部員だけではない。野球部員は野球の種目に出場出来ないし、サッカー部員はサッカーの種目に出場することはないから条件的には一応平等なのだろう。
 じゃあまぁそれでいいか。そんな風に自分の中で結論を出して、千尋は教室の中の勢いに遅れて合流した。卓球やドッヂボールといった誰にでも親しみのある種目は文化系の生徒に譲り、勝負をしない、という方向になっている。球技大会は全ての種目に出場する必要はなく、一部の種目には参加しない、という選択も許されていた。一年B組の運動部員はサッカーとバレーボールの二種目に絞って勝負をする。千尋はどちらに参加するのを希望するか、と問われたので余った方でいいと答えた。それを受けて桑原が「じゃあ俺と一緒にサッカー行こうぜ」と言うので首肯すると黒板のサッカーの欄に千尋と桑原の名前が書かれる。千尋たちの上には七つ名前が並んでいるから、補欠の選手を除けばあと二人で足りる。バレーの方もそれは似たようなものだったが、柳がそちらに加わることを宣言したので一応はメンバーが揃ったらしい。補欠なら、という条件で残りの生徒が名前を書いて球技大会の申請書が完成する。運動委員がそれを手に球技大会の本部へと出ていった。時間割で言えば一時限目の終わりまでが申請締め切りで、球技大会自体は二時限目から始まる。教員たちは職員室で必死に採点を続けているが、その中でも非常勤講師などは採点の仕事がないため、球技大会の立ち合いをすることになっていた。教員の役割はあくまでも立ち合いで、運営は運動委員に委ねられている。今頃、会議室では必死のペースで対戦表が作成されているのだろう。
 千尋たちはその待ち時間を使って運動着に着替えてそれぞれの会場へと向かう。立海大学付属中学の校地は広大で、対戦カードが通知されてから会場へ向かったのでは間に合わない。男子が参加する種目のうち、グラウンドを使うのは野球とサッカーの二つだ。バックネットの設置されたグラウンドの手前には既に野球に参加する生徒たちが集まろうとしていた。その横を通って第二グラウンドへと向かう。
 サッカーの種目に出場出来ないのはサッカー部員だけだ。
 スポーツ特待生の暮らす寮の仲間たちの顔もどこかでは見るだろうと思ったが、よりにもよってテニス部の先輩である倉吉と河原の二人がいるのは想定外だ。ただ、それは向こうにとっても同じだったようで「出たー、体力馬鹿二人!」と苦笑される。

「クラ先輩とカラ先輩はクラス違うっすよね」
「そ。何なに。一年生は下剋上でも考えるわけ? その布陣はちょっと本気すぎて笑えねぇなぁ」

 倉吉と河原はお互いにお前には負けない、と睨み合いながら敵対心を千尋たちにも向ける。この布陣が本気かどうかなら誰かに問われるまでもない。本気だ。本気の本気で勝つ為に一年B組はスタミナ勝負に強い二人を守備選手として配置している。千尋はサッカーのことはあまりよくわかっていない。ただ、コート――サッカーで言うピッチの中で相手にゴールさせない為に何をすればいいのかなら本能的にわかる。どんなシュートもカットしなければならないし、そう出来ないのならシュートコースを潰さなくてはならない。その、ゴールキーパーの手前の鉄壁のディフェンスを望まれた。そのぐらいなら十分自覚していた。

「ま、粘んのだけは得意なんで、俺たち」

 簡単に勝てるとは思わないでもらいたい。その闘争心を先輩二人にぶつける。倉吉と河原はお互いに視線を交わして、そうして「そういうの、他の面子見てから言えよ」と肩を竦めた。
 どういう意味か、と問う前に不敵な声が千尋の耳朶に届く。

「その自信を散々に打ち砕いてゴールネットを揺らすのはとても楽しそうだね、千尋
「精市、マジかよ」

 男子テニス全国大会の覇者立海。その頂点で全戦無敗を誇る名実ともに頂点に立つ幸村精市の姿がそこにある。眉目秀麗にして文武両道。柔らかな外見を裏切る辛辣な言葉とそれを裏付ける圧倒的な才能と実力。目下、千尋の目標にして最大の標的たる彼がここにいる、ということは一年J組も一年生ながら優勝の二文字を掲げているということに他ならない。

千尋、対戦表が発表されるよ。俺に当たる前に勝手に負けるなよ?」

 せっかく千尋と同じ種目に出場するのだから直接対決をしてみたい。顔中に貼り付けた笑顔が雄弁にそれを物語って踵を返す。倉吉、河原も「ま、精々頑張んな、キワ」と意気消沈気味の千尋の肩を叩いて掲示される対戦表の前へと歩いて行った。

「ルック、俺たち種目選び、間違えたっぽい?」
「ま、あとは楽しんだもの勝ち、ってことだろキワ
「俺、お前のそういう割り切ったとこ嫌いじゃないぜ」
キワには負ける」

 もしかしたら幸村にも不得手があるかもしれない。テニスでは敵わなくても、サッカーでならいい勝負が出来るかもしれない。リーグ戦ではないから、トーナメントの途中で一年J組が敗退して直接対決にはならないかもしれない。
 未来が持つ無限の可能性を反芻して、そうしてようやく千尋は腹を括った。

「よし、ルック。俺たちは俺たちの仕事をしようぜ」
「お、いい顔になったじゃないか、キワ。俺もお前のそういう顔、嫌いじゃないぜ」
「当たり前だろ」

 俺たちは上を目指して走っているんだ。言って千尋は桑原の背中をばし、と叩く。それとほぼ同じタイミングで千尋の背中にも手のひらの感触がある。大丈夫だ。千尋は桑原のことを信じられる。一人でなら幸村に敵わなくても、二人なら敵うかもしれない。その為には千尋と桑原は同じ方向を見ていなければならないが、その条件が既に整っていることは今再確認した。
 だから。

「誰が相手でも関係ねー」
「そうだな。てっぺん取るまで絶対止まらないぞ、キワ

 対戦表を見るのはクラスメイトたちに任せて、千尋と桑原はウォーミングアップを始める。一人ではない。二人でもない。十一人で戦う。たかが球技大会に何をむきになっているのか、と問うやつがいたら千尋はそいつを嘲笑うだろう。勝負ごとにむきになれないやつが誰かに勝つだなんて夢想を抱く方が馬鹿げている。千尋は勝つ為にここにいる。それがたとえテニスでなくても、学校行事でも関係がない。
 勝てと言われたから勝つのではない。千尋が勝ちたいと思っているから勝つ。
 それ以上の理由が必要だというのなら、そいつはそこまでだ。努力をしない言い訳を探している。そんなやつが勝てるわけがない。
 てっぺんに辿り着いたやつだけに見える景色を見たい。
 だから、千尋は誰が相手でも道を譲らない。先輩でも未だに勝ち一つくれない幸村でも、戦う前から諦めたりなど出来ない。
 そんなことを自分の中で消化しているうちに第一試合が始まった。サッカーに登録したクラスは三学年で十一。運動委員の方でくじ引きが行われ、シードが一クラスだけ決まる。それ以外は十五分ハーフの一回戦を戦う格好だ。千尋の所属する一年B組は幸村のJ組とは反対のグループだから、戦う可能性があるのは決勝戦だけだ。
 目指すものが明確になった千尋たちの快進撃が始まる。
 一回戦はお互いの呼吸が合わずに苦戦したが、2-0で勝利した。その次の二回戦は倉吉の所属する二年C組との対戦で、一度は味方のネットが揺らされたがオフサイドの判定で九死に一生を得る。その危機感から一年B組の結束が強まり、結果的には1-0で何とか勝利して三回戦に駒を進める。そうなると当然相手が気になるもので、敗退したクラスが他の種目の応援に出ていき、人気の少なくなったグラウンドで残りの試合を目を皿にして観察した。
 二回戦の最後の試合は、幸村の所属する一年J組と三年生の対戦だった。倉吉は二回戦で敗退した後、何のわだかまりもなかったかのように千尋たちの応援をしている。倉吉というのはそういう先輩だ。強きをくじき弱きを助けるとかそういうわけではない。ただ、本気で頑張っているやつを見ると自然と応援してしまう。二学期も間もなく終わる。なのに未だに幸村から勝利をもぎ取ったことはない。そこに確執を持ち、敗者の側である千尋に感情移入しているだとか、馬鹿げた倒錯をする余地を与えないぐらい、倉吉というのは竹を割ったような先輩だった。
 ピッチから少し離れた場所に座っていた千尋と桑原の隣に座って、倉吉が言う。

「なぁキワ、お前、何もないよな」
「何がっすかクラ先輩」
「いや、何もないならいいんだ。ちょっと聞いておきたかっただけだから」
「どうしたんすか先輩。らしくないっすよ」

 言いたいことがあるとき、はっきりと言ってしまって後で悔いるまでが倉吉の様式美だ。なのに今、彼は奥歯にものが挟まったように曖昧に言葉を濁すばかりで本質を隠そうとしている。これは何かある。千尋はそのことを愚昧ながら察したが、核心を突くような推察が出来るわけでもない。結局は「何か」があるなら倉吉の口から答えが得られるだろうと勝手に結論付けて意識をピッチの中の幸村に向けた。サッカーをさせても天才は天才か。そんな感想が芽生えて消える。天才の鼻を明かすのはいつの日だろう。試合終了のホイッスルが響くのが聞こえて、千尋は腰を上げる。
 倉吉も思い描いているだろうその日に思いを馳せながら、千尋と桑原の三回戦が始まった。
 結果から言えば千尋たちは鉄壁のディフェンスを最後まで貫き通し、無失点記録を伸ばす。ただ、三年生を相手に点を取るというのもまた難しく、結局はPK戦を制したことで決勝戦に進出することになった。決勝戦の対戦カードが一年生同士というのは非常に珍しい展開らしい。普段であれば三年生同士が順当なカードで、たまに番狂わせの二年生がいるぐらいだそうだ。
 その、珍しい試合だが観衆は少ない。だから、別段、千尋たちも緊張感に襲われるでもない。じゃんけんでどちらがキックオフをするかが決まる。一年B組は学級委員長を代表に出したが、彼はめっぽうじゃんけんに強い。当然のように先攻の権利を得て戻ってきた彼を迎え入れて円陣を組む。絶対に負けない。各種目で優勝したクラスには全員分のジュースが配られる。中学生である千尋たちにとってその報酬は十分にモチベーションになるから、ここまで来たのなら勝とう。それしかなかった。
 中盤に配置された幸村と、守備に配置された千尋とがお互いにお互いをマークする形になって潰し合う。一年J組は幸村を司令塔としていたらしく、千尋のマンマークの結果、今までのような快進撃が止まった。ゴール前は桑原が守備しているから、この試合も0-0でPK戦か。後半に突入した頃、そんな風に思っていた千尋の視界に異変が訪れる。千尋の視力は両目とも2.0で矯正の必要などないのが数少ない自慢だった。その、千尋の視界で不意に輪郭がぼやける。ごみでも入ったのかと何度か目を瞬かせる。それでも何も変わらない。正面に向き合った幸村の表情が見えない。これではマンマークなど不可能だ。視線の動き、足の運び、重心の位置。その一つ一つの情報から幸村を留めおいていたのに、情報がなくなったのでは何も出来ない。自然、千尋のマークを抜いて幸村がフリーになる。焦って追いかけようとしたが、その背も遠い。「キワ!」と不意に名前が呼ばれたのと前後してホイッスルの音が響く。ゴールだ。でもどちらが得点したのかがわからない。運動着は学年ごとに色分けされている。盛り上がっているのは緑の塊だが、千尋の着ている運動着も当然緑だ。
 わけがわからない。
 千尋の両目に一体何が起きているのか。困惑している千尋の周囲に緑がばらばらと集まってくる。役に立たない視覚の代わりに聴覚が答えを与えた。

キワ、どうしたんだ」
「そうそう、常磐津らしくねーっていうか」
「お前、なんかおかしくね?」

 あんなに簡単に幸村をフリーにしてさ。こうなったら二点入れて勝つしかねーよな。
 そうだそうだ、と盛り上がっている様子を聞くにゴールを決めたのは千尋たちではないらしい。球技大会が始まって以来の失点だ。もっと非難されても仕方がない、と思ったのにクラスメイトたちはミスの押し付け合いではなく、千尋の心配をしている。気のいいやつらだ。そういうやつらだから千尋と桑原は惜しみなく守備に力を入れた。そのことが伝わっていた、という喜びも今の千尋の状況が圧し潰していく。

「なぁルック」

 球技大会を戦う相棒の姿を探したが見つからない。仕方なく適当な方向を向いて桑原の名前を呼んだ。その答えは見当違いの方向から聞こえて、溜息を吐きそうになる。

「どうしたんだ、キワ。俺はこっちだが」
「ルック、まずい。俺、今、ちょっと変だ」
「それは見てればわかるけど、何があったんだ」
「理由も原因もわかんねーけど、あんま目が見えてねーわ」

 そう表現する以外の手段が見当たらない。仕方なしに率直に告げると桑原の声に焦りが載った。

「はぁ?」
「いや、だから」
「見えないってどのぐらい見えてないんだ」
「そりゃ、お前がどこにいるのかわかんねーぐらいだって」

 しかもどんどんひどくなってる。
 付け加えた千尋の両肩に誰かが触れた感触がある。目の前で何かがひらひらと揺れたが、その正体は既に判別出来なかった。
 そして。

「委員長、ちょっといいか。選手交代だ」

 俺はキワを保健室に連れていく。言って手のひらの持ち主――桑原が千尋の二の腕を掴んでゆっくりと歩き出した。保健室に行って治るのか。また大学病院で精密検査か。今年に入ってもう三回目だ。千尋の人生はどうなっているのだ。そんなことが一瞬で千尋の胸中に湧いて溜息が零れる。目が見えないのがこれほど不便だとは思わなかった。そう零すと「キワ、お前本当、腹座ってるよな」と桑原が呆れながら言う。
 保健室は第二グラウンドを抜けて、第一グラウンドを通って、教室棟の中でも一番正門に近い特別教室棟の一階にある。一人でそこまでたどり着くのは概ね不可能だろう。だから、付き添いを申し出てくれた桑原の存在はありがたかったが、主力を二人も欠いて決勝戦――しかも一失点を追いかける格好だ――を戦えるとはとても思えない。桑原はここに残る方がいいのではないか、と進言しようと思ったところで、馴染みのある声が聞こえる。

「ルック、俺が連れてくから、お前戻んな」
「クラ先輩?」
「後輩の面倒見るのは先輩の役目だろ。俺はもう試合終わってるし、お前はそっちに集中しろよ。な?」
「クラ先輩の言う通りだろ、ルック。俺は保健室行けりゃ誰でもいいし、クラ先輩なら最悪、寮まで送ってもらえるし、問題ねーよ」

 だから勝ってこい。言外にそう含めて見えていない桑原を相手に拳を掲げた。握りしめた拳にこつんと温かい感触がある。桑原は「オレンジジュースでいいんだろ?」と答えた。ジュースは優勝したクラスへの粗品だ。それを確保する、という旨の発言はつまりここから逆転優勝をするという宣言に他ならない。相変わらず、思ってもみないところで大胆不敵なやつだ。いつもの謙虚さはどこに行ったのか。苦笑しながら、それでも「頼んだ」と答えたのは千尋もまた桑原のことを信頼しているからだ。
 そう言えば、と不意に千尋は思い出す。桑原はブラジル人と日本人とのハーフだ。ブラジルと言えばサッカーが強いお国柄で、では桑原もまたサッカーには馴染みがあるのだろうか。確証はない。それでも、桑原の言葉には信念を感じたから、千尋は拳を開いてひらひらと揺らす。
 信じている。桑原は決して約束を違えたりしない。だから千尋の球技大会はここで終わっても問題がない。そう結論付けて千尋の腕をゆっくりと引く青色――倉吉に身を任せた。
 見慣れている筈の風景なのに輪郭を失うだけで、これほどにも心もとない。まるでどこか別の世界に来てしまったかのような錯覚に戸惑う。足元も見えない千尋の視界で唯一、信じられる青の塊が振り返らないでぽつり呟く。千尋に問うているというよりは、倉吉自身が何かを確かめたいといった風情だった。

キワ、俺、言ったよな。『何もないか』って」
「あ、はい、言われたっす」
「お前、今自覚してるのは『見えない』だけか」

 完全に見えないわけではない。多分、裸眼視力0.1未満の世界はこんな感じなのだろう、とぼんやり思うぐらいには適当な世界が映っている。相手の表情はとても読み取れたものではないし、足元に段差があってもわからない。それでも、光は感じるし、色も見えている。
 ただ。
 倉吉が言いたいのはそういったことではないのだろう。
 切羽詰まったような雰囲気に千尋は違和を感じる。いつもの竹を割った倉吉はどこへ行ってしまったのか。自分の置かれた状況を棚上げして、倉吉の動揺に動揺した。

「クラ先輩、何が言いたいんすか」
「カラが『音がしない』って言ってんだよ」
「えっ?」

 倉吉の言った言葉に千尋は更に動揺した。そういえば河原の姿を見ていない。一回戦で幸村の一年J組と当たっているのを見たのは覚えている。その後はどうだったか。一年B組の応援をしていたのは倉吉一人だった。倉吉の性格からすれば、河原を引き止めない理由などない。にもかかわらずここに河原はいない。
 そのことに今更気付いて、千尋は混乱を極める。
 顔色をなくした千尋に構うことなく、倉吉は言葉を続けた。

「今、カラも保健室にいる」
「何言ってんすか、クラ先輩。音がしないってどーいうことなんすか」
「俺にだってわかるかよ。お前だってわけわかんねぇだろ。ただ」
「ただ?」
「保健室にいかなきゃなんねーほど体調がおかしくなってんの、全員テニス部なんだよ」
「何なんすか、それ」

 性質の悪い冗談だとネタばらしをしてほしい。ちょっとした悪戯だと言ってほしい。
 共通点なんて後付けで適当に何とでも言えるじゃないか。偶然、本当に偶然の偶然でテニス部員が身体の不調を訴えているだけかもしれない。そんなことを主張するのがどれだけ虚しいことなのかは、確率の計算を覚えた今の千尋には誰かに説かれるまでもなく理解出来ている。
 それでも。

「サッカーに登録したテニス部員って何人でしたっけ」
「俺やお前も含めて十五人だ」
「そのうち何人が保健室送りなんすか」
「お前とカラを含めて七人」

 七人とも目が見えないとか耳が聞こえないとか言ってる。
 こんなことは今までに一度だってなかった。そう言った倉吉の口調には戸惑いを通り越して恐怖が混じっている。千尋だって具体的な数字を聞けば怖じた。七人。テニス部員でサッカーに登録した以外の共通点がどこかにある。八人は何の異常もきたしていない。ということは何らかの分岐点があった筈だ。
 ただ、それを見出すには千尋の頭では役者不足だ。分析には柳蓮二と相場が決まっている。倉吉の方もそれは理解しているのだろう。千尋から答えを引き出そうとはせずに、保健室まで付き添ってくれた。
 保健室に来るのは四月の健康診断のとき以来だ。千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)が負傷し、名誉の欠場を被ったときには救急車の中に直行だったし、真田のラケットを額で受け止めたときには氷帝学園の大学付属病院に直行だったから保健室は経由していない。
 だから、千尋は普段の保健室がどうだ、という認識を持っていないが、千尋も合わせて七人もいれば当然のことながら息が詰まりそうになる。保険医の「今度は誰かな」という疲れ切った声が聞こえて倉吉が答える。問診票を書けない千尋に代わって倉吉がペンを走らせる。
 さらさらという音を聞いていると不意に肩を叩かれる感触があった。「キワ、お前も?」という声が届いて河原だとわかる。

「カラ先輩っすよね、俺、今見えてないんで」
「ああ、お前、見えない方か」

 どこにいるかもわからない相手には適当に答えるしかない。そう思って返答を紡いだが、倉吉の言葉を思い出して失態を悟る。河原は音が聞こえない筈だ。唇の動きで音を察する技術、というのを以前、テレビ番組で見た気もしたが、少し前に唐突に音が聞こえなくなった河原にその技術がある筈がない。
 なのに、河原は適切な返答を寄越した。

「あれ? 先輩、音しないって聞いたんすけど」
「お前とクラが来るちょっとぐらい前からか。ぼちぼち聞こえるようになったわけ。他のやつらもじわじわ戻ってるからキワもそんなに心配することないらしい」
「あ、そうなんすか」

 その、割とあっさりとした事態の解消を知って千尋もまた安堵する。
 突然の出来ごとに動揺していたが、出口のようなものが見えて少しだけ希望が持てた。時間が経てば治る。だとしたら不便なのも今少しの辛抱だ。
 ほっと胸を撫で下ろした。
 その、千尋の耳に疲れ切った河原の声が聞こえて、問題は解明されていないことを知らされる。

「一応、球技大会が終わり次第、症状出たやつまとめて大学病院だってよ」
「結局そうなるんすね」
「原因がわからん以上、そうなるだろ」

 まぁそうなのだろう。保健室で解決出来る問題なのだとしたら、こんなところで七人も待機している筈がない。三回目の精密検査が確定事項だということを知って、千尋は小さな疲労感を味わったが拒否する権利はないし、原因が明らかにならなければ特待生としての立場を失うかもしれないこともわかっている。
 溜息を吐いて「カラ先輩、俺、どこに座ればいいっすか」と尋ねると保険医がソファは満員だからベッドの一つにでも腰かけるようにと指示した。河原の誘導で無事座る場所を確保した千尋の頭上から倉吉の声が聞こえる。

キワ、カラ。問診票埋まったし、俺は戻る」
「クラ先輩、あざっす」

 ま、よくわかんねぇけどお大事にな。
 言って足音が少しずつ遠ざかり、保健室のドアを開く音がして、その後はしんとした静寂だけが保健室に残った。
 千尋の視界も少しずつ鮮明さを取り戻しつつあったが、未だ復調したとは言い切れない。だからだろうか。時間の経過が酷く長く感じる。時計を見ることもままならないし、グラウンドに残してきた仲間たちの勝敗も気になる。永遠にも等しい時間が過ぎ去って、千尋の目がまともに映像を映すようになった頃、ようやく運動委員が球技大会の試合が全て終了したことを告げる放送が流れた。
 本来の予定なら、この後部活動に参加するはずだったが、千尋たちを待っているのは大学病院での精密検査だ。またMRIだのCTだのといった面倒な検査が待っているのかと思うと憂鬱だったが、身体に異変があるのだ。ここで検査を蹴って後々選手として致命的な後遺症が残る方が面倒臭い。千尋の後には同じ状態になったものはおらず、結局七人で打ち止めになった。千尋の視界が戻った頃には他の生徒たちもそこそこ復調しており、教室に戻るのに差支えないと判断されたので、着替える為に教室へ戻る。
 数時間ぶりに見る何の変哲もない学校の風景にありがたみを感じている。そのことに一抹の感傷を覚えながら教室に入ると、クラスメイトの柳と桑原がオレンジジュースの缶の載った千尋の机の隣で待っていた。

「蓮二、ルック」

 待っていてくれたのか。そう思い声をかけると桑原が酷く安堵した顔を見せる。
 柳の方は「体調はどうだ」と淡々と尋ねてきたので「まぁまぁじゃね?」と答えた。まぁまぁ。見えてはいるし、焦点もぼやけていない。柳の表情も捉えられるし、一直線に切り揃えられた前髪の下で憂慮している眉も見えている。だから、それは多分まぁまぁの事態だろう。
 そう答えると柳は溜息を一つ吐いて「どうせ大学病院で聞かされることだ」と勝手に一人で前置きをして語る。

千尋、イップスという現象を知っているか」
「何だよ、急に。ポテトチップスなら俺でも知ってるに決まってるだろ」
「お前は本当に期待を裏切らないな」

 千尋は深刻そうな顔をして語られることになど興味がない。
 本当にその顔をしなければならないとき、があるとしたら多分、それは千尋がテニスを辞めるときだ。だから、未だその予定のない千尋には鬱屈とした顔で語られる真実の暴露などどうでもいい。話したいのなら勝手に話せばいい。そう言外に含めると、柳は薄っすらを目を見開いて困ったように笑った。

「結論しか聞く気のないお前に前置きなど不要だったな」

 イップスというのは精神的な問題が原因で引き起こされる身体的な異常のことだ。本来は故障などを無意識に庇い、思う通りのプレーが出来なくなるようなパターンを指すが、今回、テニス部員の間で起きた身体の異常は、このイップスであると考える他ないだろう。
 そんな説明が聞こえてきて、千尋は柳の演説を殴ってでも止めるべきかどうか、瞬間悩んだ。悩んで、殴ったところで柳が持論を覆さないことを確信して、どうしたって現実が思い通りにはならないことを知る。

「いや、だから、なんで俺の目がおかしくなったのがイップスとかいうやつなんだよ」
「お前も薄々感づいているだろう。引退した先輩も含めて、テニス部員は五十五名。そのうち今回、症状が出たものが七名。その全てがサッカーの種目に出場している」
「だから」
千尋、わかっているんじゃないか? この七名に共通するのは――」

 幸村精市と敵対したポジションにいる。つまり、お前たちは普段から精市の隙の無さに精神的負担を感じており、それが球技大会の場を借りて発露した。違うか。
 違う。違う筈だ。幸村がどれだけ完璧でも、どれだけ強くても千尋と同じ中学一年生で、絶対に彼に勝つ方法がどこかにある筈なのだ。この壁を越えると決めた。いつか越えてそのときには晴れ晴れとした顔で勝利宣言を下してやるのだ。
 だから。
 だから。

「蓮二、お前、それ、本気で言ってんの?」
千尋、俺はあくまで科学的な――」
「あっそ、科学ってそんなつまんねー言い訳の為にあんのかよ」
千尋
「だってそうだろ! 精市は確かにすげーよ! あいつにどうやって勝てばいいのか、まだ全然わかんねーよ! そりゃサッカーしてても負けそうだなって思ったよ! 思ったけど、それは俺の問題だろ! 俺の問題でどうしてあいつのつらさを増やさなきゃなんねーんだよ!」

 天才の偶像を演じる幸村が周囲の期待に反して寂寥感を覚えている。そのことを柳が知らないとは思わない。千尋ですら知っているのだ。幼い頃からの友人である柳は、幸村の苦悩をずっと一緒に見てきた筈だ。誰にでも勝ててしまう。誰にでも勝ててしまうという人生がどれほどつまらないのか、千尋にはとても想像することもままならない。
 それでも幸村は千尋にその苦しみを見せてもいいと思った。思ったから、千尋と幸村は肩を並べて戦っている。なのに。今更千尋が怖気づいて、一方的に勝手に劣等感を爆発させている、などと言われて幸村が何も感じない道理がない。
 頭のいい柳にその道理が見えていないとは思わない。
 思わないが、千尋も幸村もどちらも友人として認識している柳はどちらか一方だけを庇護するという選択をしなかった。そのことに誠実さを感じるより先に、千尋は自分自身の不甲斐なさを痛感した。善意の第三者である柳に辛辣に当たってしまう。それは柳の感情を無視していると気付けないぐらいには千尋は幼い。

「俺は! 絶対勝つんだよ! 勝って、あいつと同じ景色を見んだよ! だから!」

 だから。
 どうすればそのイップスを克服出来るのか。仕組みがわかっているのなら教えてほしい。医学的に立証出来ているのなら答えがほしい。イップスによる視覚欠落ではなく、眦から溢れる涙で視界がぼやけた。その滲みを手の甲で乱暴に拭って、拭って、何度拭っても解決に至らないことにすら無力感を覚えて、悔しさを噛み締めるように泣いた。
 泣いても何も変わらない。答えがわかっているのなら、柳はそれとなく忠告をくれる筈だ。ひりひりと痛む目頭を、更に繰り返し擦って痛めて、涙に含まれた塩分が文字通り傷口に塩になってそれでも、千尋は前を向こうとした。
 そんな千尋を見て、柳は軽く目を見開いている。その隣の桑原に至っては穏やかに微笑みながら、こちらに近づいてきた。

キワ、お前、本当に大したやつだぜ」
「んだよ、ルック」
「何だっけ。『All in All』? それだけ懸けられるお前なら、いつか届くだろ」
「いつかっていつだよ」
「それなんじゃないのか、キワ
「何が」
「お前、焦ってるんだよ。カウンターパンチャーならわかるだろ? 焦ったら負けるんだ」

 桑原のその単純明快な喩えが千尋の中に響く。小難しい理論ではない。ただ、いつも通り、千尋のメンタルの弱さを指摘される。それだけのことだったのに、千尋の涙はすっと止まった。桑原がにっ、と笑う。

「いいじゃないか。イップスだっていつかは越えられるさ。お前はそこで止まるような選手じゃないだろ? それとも、お前が言う『幸村を越える』はその程度の覚悟なのか?」

 その程度の覚悟で、傷つくことに臆したままで本当に頂点を目指そうとしていたのか。そう問われて、千尋は今度は狼狽した。違う。そんなつもりはない。
 だから。

「ルック、俺、検査受けに行ってくるわ」

 そこで身体的な異常が認められなければ戻ってくる。戻ってきたら、千尋自身が無意識的に恐れていたものと意識的に向き合えるだろう。メンタルを鍛える、というのは多分そういうことだ。等身大の自分自身と向き合う。向き合って、それでも逃げ出さなかったやつだけが壁を越えていける。
 桑原がどこまでそれを理解しているのか、千尋にはわからなかったが、それでも勝負の世界を戦っていくと決めたのは千尋自身だ。だから、現実逃避で悔し涙を流すのはこれで最後にしよう。腹を括った千尋にダメ押しの一発が叩き込まれるのはその次の瞬間の出来ごとだ。

「その前にすることがあるだろ、キワ
「えっ?」
キワ

 桑原は何も言わない。自分で気付けと促すばかりで答えのヒントなんてくれない。
 人徳で人生を生きてきた千尋は真剣に悩んで、結局は全部自業自得という四文字の熟語に帰結することを知った。
 千尋のことを慮ったからこそ現実を提示した仲間のことを忘れていないか。
 千尋の一方的な罵倒を身に受けたやつがいたことを忘れていないか。
 桑原の穏やかな双眸が言っているのはそういうことだ。
 溜息を吐いて、真っ赤に腫れてしまった両目をもう一度擦って、千尋はその現実と対峙した。

「その、蓮二、八つ当たりして悪かったな」
「いや、俺ももう少し言い回しを考えるべきだった」
「蓮二、それ以上言い回しを考えられたら、多分、俺の頭じゃわかんねーよ」

 だから、柳に非はない。
 そう告げると柳もまた穏やかに微笑んで言う。

キワ
「何だ、蓮二」
「お前が勝手に抱いたイップスは今後俺たちの身に降りかかってくるかもしれない。言うなら『どこに返しても必ず返されるイメージ』とでも言うのか。それがお前の脆さだから、お前がイップスを克服することは俺たちにとっても有益だろう」

 今後はそのことも織り込んだ練習メニューを提案する、という旨の発言の後で柳は不意に双眸を伏せた。いつ見ても細い、その双眸がいっそう重なって見える。
 ああ、こいつも傷付いていたのか、と今更思って自分のしたことの罪深さを知った。
 それでも、一度放った言葉は二度と千尋の唇には帰ってこないし、取り消すことも出来ない。千尋に許されているのは全力の贖罪で、それは多分、柳の心の中にしか答えがない。
 だから。
 テニス部員が知らず知らずのうちに抱えていた精神的負荷に打ち勝つことで、罪滅ぼしをしようと思った。
 傷付かない道はない。走りやすい道を選ぶのは割合簡単な選択だと言える。
 それでも、千尋は悪路を選んだ。選んだのは千尋自身なのだから、逃げるのも、道を逸れるのも千尋の自由だ。逆に言えば、その道を走り続けるのもまた千尋の自由なのだから、壁にぶつかる度に傷付いて、全力で絶望して、そしてまた同じ道に帰ってこようと決意する。
 傷付くのが怖くないなんて強がりはもうやめよう。
 失敗する度に後悔して、それでも自分と向き合おう。
 だから。

「蓮二、さんきゅーな」
「その言葉はお前が壁を越えたときに聞かせてくれ」
「蓮二、知ってる? 『ありがとう』って何回言ってもいいんだぜ? だってそうだろ。『ありがとう』って言われて不幸になるやつなんていないだろ?」

 千尋自身、ありがとうという言葉で不快な思いをしたことはない。だから、感謝の気持ちは抱いたのならその場で伝える。繰り返し用いることで軽くなる謝罪の言葉とは違う。
 そのことを柳に伝えると、彼は伏せていた双眸に驚きを宿して千尋を見た。

「お前は本当に器が大きいのかそれとも底抜けの馬鹿なのか判断に困る」
「お褒めに預かり光栄の極み」

 その語法的には何の問題もない日本語でも相当丁寧な「ありがとう」を告げると柳は花が開いたようにふわりと微笑んで、「俺たちはコートで待っている。精市にはお前から宣戦布告をするといい」と言って教室を出ていった。
 残された桑原と二人、顔を見合わせて微苦笑を交わす。
 
「ルック、結局このオレンジは蓮二か?」

 桑原が千尋にオレンジジュースの缶を手渡す。それを受け取って、上下に軽く振る。中身が程よく混ざったところでプルタブを開けると、充填されていた気体が小さな音を立てて漏れ出た。それを確かめて、千尋はタブを全部開ける。
 千尋が好物であるオレンジジュースを少しずつ飲んでいるのを横目で見ながら、桑原は綺麗に剃り上げられた後頭部を気恥ずかしそうに触る。

「なんだ、俺たちが負けたのお見通しか」
「だって、お前たちが勝ってたら今頃精市が黙ってねーだろ?」
「言えてる」
「ダイには上手く言っといてくれよ。検査、二時間で終わるらしいし」
「任された」
「じゃあな、ルック。またコートで会おうぜ」

 残りのジュースを一気に煽って千尋は着替えを鞄の中に放り込んだ。結局、運動着のまま着替えずに教室を出る。検査を受けるのなら検査着が待っている。どうせ帰るときにはもう一度着替えるのだから問題がない。
 そう判断して、千尋は保健室へと向かった。
 戦い続けることの難しさを知って、自分自身の弱さを知って、それでもまだ戦い続けたいと思う自分の強さも知って、そうして千尋の新しい戦いが幕を開けた。