32nd. 四日遅れの初日の出
六時間の大移動を終えてようやく辿り着いた
常磐津千尋の郷里の風景は記憶の中より数段色あせて見えた。これでも県庁所在地で最寄駅には特急も停車する。江戸時代までは城下町だったし、幕末には時流を読み違えず、勝ち組に乗った。だから、県の名前と県庁所在地の名前は同じだ。そんな過去しか誇ることがない。それでも、
千尋にとっては自慢の郷里だった。
立海大学付属中学に進学してもう九か月の時間が経った。
神奈川県の県庁所在地は横浜市だから、歴史で言えば敗者に当たる。重箱の隅をつつくようにその一点だけで軽んじていた場所がどれだけ栄えているのか、というのを対比効果でより鮮烈に感じて、本当の敗者は
千尋なのではないか、と茫洋と考える。横浜駅は何社もの鉄道が乗り入れていて非常に文化に明るい。乗降する客数が何桁違うのか、なんて考えることすら無駄だ。圧倒的に横浜駅の方が多いに決まっている。林立する高層ビル群。動く歩道に吹き抜けのあるプロムナード。まるで空想科学都市かと思うぐらいの都会に馴染んでしまえば
千尋の郷里などただの田舎町なのだと認識せざるを得ない。
おそらくそうなるだろう、という予想はしていた。
九か月の時間が
千尋の価値観を都会の喧騒に寄り添わせた。
父親が車で迎えに来るのを待つ間にそのことを痛感する。夏休みに帰省しておけばこんな気持ちにはならなかったのだろうか。そんな取り留めのないことを考える。多分。何も変わらなかっただろう。立海は神奈川にあるし、六時間の移動時間は短くならないし、この街が突然都会になる筈もない。格差社会だ。そんなことをぼんやりと思う。ぼんやりと思って、その感傷を引きずらない程度には
千尋も成長した。生れ落ちる場所は誰にも選べない。格差があって心を折るようなやつはどこに行っても心を折るだけなのだろう。
千尋は上を目指すと決めた。その道程で郷里と別離する必要があるのだとしても、前に進むしかない。むしろ、と思う。
千尋は格差を埋める機会を与えられたのだ。この郷里を飛び出して頂点に一番近い位置で研鑽することが許されている。柳蓮二が教えてくれた単語が頭の中で明滅する。故郷へ錦を飾る。未来のどこかで
千尋が頂点を手に入れたのなら、この郷里にも幾ばくかの華が咲くだろう。
だから。
まぁ仕方がないか。そんな感想で締め括って郷里の風景を双眸に映す。
そんなことをしているうちに迎えの車が到着して九か月ぶりの自宅へと向かった。
大きな変化のない自宅で年末を過ごす。途中で気が付いたが、年末年始の休みで帰省したのだから地元だって休みに突入している。小学生から中学生になったばかりなのに同窓会なんてあるわけもない。小学校の同級生たちと会うわけでもなく、昔通っていたテニススクールに顔を出すわけでもなく、
千尋は家族と一緒に過ごした。年が明けてもそれは変わらず、結局、場所が違っても、ロードワークと筋トレと素振りを続けただけだ。四日には予定がある、と両親に伝えると松の内が明けないうちにも関わらず、
千尋を駅まで送り届けてくれたので六時間の旅に戻る。
そして。
新横浜駅で新幹線を下車して、バスを乗り継いで立海の特待寮に辿り着いてみればそこはもう先客がいた。午後五時から解放、と書かれた貼り紙のある扉を開けて食堂に入る。見慣れた顔ぶれにどこか安堵しながら声をかけると彼はいつも通りの穏やかな笑顔で答えた。
「サヨ先輩、早いっすね」
「五番目の
キワも十分早い、と僕は思うよ」
おかえり、地元はどうだった。そんな声が聞こえてまあまあと答える。まあまあと言うよりは不満があるからさっさと戻ってきたのだが、それをストレートに伝えるのは郷土愛に傷が付くようで明言を避けた。その代わりに佐用(さよう)の話題に乗る。
「一番乗り、誰だったんすか」
「野球部の主将。その次が君の相棒。僕が三番目で倉吉(くらよし)、
キワの順番」
「テニス部が馬鹿しかいないみたいなんすけど」
「立海の顔なんだからそのぐらいでいいんじゃない?」
「そういうもんすか」
そういうものかな。佐用が一週間ぶりだということを感じさせない笑みで答える。二年生の彼にとっては立海に入ってから二度目の年末年始だ。佐用が言うのなら、と思ったが三番目と四番目にテニス部の二年生が名を連ねていることに気付き苦笑する。多分、テニス部には馬鹿しかいないのだろう。テニス部とはそういう集まりだ。
そういう集まりだから、
千尋もまた五番目に寮へ帰ってきた。人のことは言えない。そう気づいて
千尋もまた笑顔に変わる。地元にいたときには感じなかった充足がここにある。
「あの馬鹿、無事に荷造り出来てました?」
「今、必死に荷解きしてるんじゃないかな。僕もまだ会ってないけど、そろそろ夕食の時間なのに降りてこない、ってことはそういうことだと思うよ」
「じゃあ俺手伝ってきます。サヨ先輩、明日初詣行くんすけど一緒に行きます?」
「遠慮しておくよ。幸村たちと行くのなら、僕たちがいたら気を遣うだろうし。それに」
「それに?」
「僕たちは二年目だから、穴場でいいかな」
キワたちは初めての神奈川なんだから有名どころを押さえておいた方が後悔がなくていいと思うよ。その含みのある言葉に何かが引っかかったが、単純明快に出来ている
千尋はそれもそうかと納得して食堂を後にした。階段を上って三階へ。廊下の突き当りが
千尋の部屋で、その向かいが千代の部屋だ。四十五人いるスポーツ特待生の中で五番目の到着ということもあり、
千尋のルームメイトはまだ戻っていなかった。荷物を放り込んで、それだけを確認したら向かいの部屋の扉を叩く。
「ダイ、お前、生きてるか」
「その聞き方だと答えを強要されてると思うんだけど?」
「憎まれ口が叩けるなら問題ねーな」
開けるぞ、と一方的に断ってドアノブを回す。電気の点いた部屋中に荷物を散らかした千代が途方に暮れた顔をして座っていた。それを見て、なるほど「そういうこと」だと認識する。
そして。
「ダイ、取り敢えず飯食わねー?」
その問いかけに疲労困憊の声が返ってきた。
キワのくせにまともな提案が出来るなんてずるい。いつもよりキレのない煽りに彼の憔悴を察して苦笑いする。荷物を踏まないように出てこいと促せば、足元を少しずつかき分けて千代が
千尋の目の前までやってきた。お互いを無駄に疑うことのないように、空室にするときには施錠することになっている。千代がジャージの上着から鍵を取り出して錠を回す。シリンダーのかちりという音がして、それを合図に階下へと向かって歩き出した。
「
キワ、お前、地元どうだった?」
「まあまあだろ。別に何も変わらないし、することもないし」
「何か期待でもしてたわけ?」
英雄扱いでちやほやされるとか、騒ぎ立てられるとか。そういったことを望んでいたのか、と問われると
千尋自身、その答えを上手くまとめることが出来ない。井の中の蛙で狭い世間の頂点にいた。それが今では大勢の中の一人だ。その事実を受け止めているのか、と問われるとよくわからない。ただ、幸村精市たちと約束したからではなく、かと言ってはっきりとした理由もないが、自分がいるべき場所だという感覚はなかった。
訥々とそれを語ると千代の口角がほんの少しだけ持ち上がる。
何だ、一緒か。千代の表情がそう言っているように見えて
千尋もまた安堵する。
結局は
千尋も千代も馬鹿なのだ。正真正銘のテニス馬鹿だから、テニスをすることしか考えられない。強いやつと切磋琢磨出来る今の場所より自分に向いている場所なんてどこにもない。二学期が始まる前にアメリカへ旅立った徳久脩(とくさ・しゅう)のように次の世界を与えられるのなら望んでそこへ行く。今はまだ立海の中でも十把一絡げだ。まずはその状況に勝たなければならない。
だから。
「ダイ、明日、楽しみだな」
「そう思うなら、真剣に荷解き手伝ってくれる? 今日の着替えも見つからなくて本当、困ってる」
「ダーイーちゃーん。ちゃんとしろよ、それぐらい」
「シュウがいた頃はよかったよな、あいつ、面倒見よかったから」
「本当、二人部屋を一人で使う失敗事例だよな、お前」
「
キワだって同じ状況になれば同じことするだろ」
「お前ほどじゃねーと思うぜ」
階段を降りながらそんな会話をしていると食堂の方からにぎやかな声が聞こえてきた。この声は河原(かわはら)だ。現役テニス部の特待生はこれで全部揃ったことになる。佐用が言った通り、特待寮の中で一番大きな比重を占めているのがテニス部で、各学年三人の枠がある。それ以外の部活は年度にもよるが、概ね一人か二人だから特例と言えば特例なのだろう。
千尋のルームメイトである堺町秀人(さかいまち・ひでと)の声も聞こえるが彼が部屋に立ち寄っていないことは千代の部屋の前にいた
千尋が一番よく知っている。多分、荷物を持ったまま食事を優先したのだろう。特待寮において、部活という枠組みはそれほど大きな意味を持たない。同じ施設を共有する仲間として、部活に関係なく交流があった。堺町もその精神を持っており、特定の誰かではなく寮で暮らすものであれば殆ど誰とでも気さくに話をする。
おかえり、というべきなのか迷って結局その挨拶を口にすると彼は明朗な声でただいまと答えた。
「
千尋、千代はどうにかなりそう?」
「大丈夫だろ。いくら
キワがポンコツでもそれぐらい出来るんじゃない?」
「ダーイーちゃーん! それは! お前が! 頑張んだよ!」
千尋と千代のやり取りに食堂の中がどっと湧いた。安定とか、流石とか、一週間もこれが聞けなかったのが違和感あったとかそんな声があちらこちらから飛んでくる。いつの間にか寮全体に浸透していた
千尋と千代の関係性が居心地のよさを物語った。
その和やかな雰囲気の中、
千尋と千代は夕食を取り、そして明日の準備に奔走した。
午前四時四十八分。
千尋と堺町のアラームが起床時刻になったことを告げる。まだ朝が来る気配からはほど遠い。空調のおかげで寒さを感じることはないが、窓の向こうは冷たくて重い空気で満たされている。アラームを止めて布団から飛び出す。洗面所に向かうと三分前に起床した千代がコップの水で口をすすいでいるところに出くわす。ここまでがいつも通りで、
千尋は一週間、自分が怠けていたような錯覚を味わった。
「ダイ、今日、ちょっと短めな」
「別に
キワに気を遣ってもらわなくてもいい。『いつも通り』でいいだろ」
都合四十分のロードワークの距離を短くする提案をすると寝起きから一歩踏み出しただけの千代が不服そうに口を尖らせる。それを受けて、
千尋は同じ提案をもう一度重ねた。
「じゃあ言い方変える。『集合場所まで走るから今から走る距離は減らそうぜ』」
「ああ、なる。じゃあそれでいい」
いつもの場所にいるから。言い残して千代が洗面所の外へ消える。三分で洗顔を終えた
千尋もそれに続けば午前五時ちょうど、
千尋たちの日常が始まった。真っ暗に等しい街並みを二人、潮風のする方角へ向かって走る。秋ごろからテニス部レギュラーには重りを何枚か入れたリストバンドとアンクルが支給されていた。重りの枚数は柳や顧問が都度、調整するので無理なく無駄なくトレーニングが出来る。実家に帰っている間も、重りを外さなかった
千尋は妹から奇異なものを見るような目で見られたが、関係がない。休息の取り方なら最近ようやくわかってきた。そのバランスを踏まえて、
千尋は今日もロードワークに出る。千代のアンクルより二枚多い、三枚―――750gの負荷に最初のうちはたじろいだ。それでも、今はすんなりと足が出る。海岸線まで出るときは緩やかな下り坂だが、折り返して戻るときは上り坂になるから、今日はいつもの地点より少し手前で折り返した。
春、特待生が三人とも寮住まいでロードワークの距離もそれほど長くなかった頃、潮風を堪能した徳久を置いて帰ろうとした地点よりも遠い場所だ。そこまで走っても、
千尋も千代もまだ呼吸を乱していない。その進歩に感傷的な思いがこみ上げてきたが、それよりも今日の予定に胸が焦がれる。
いつもの距離を走るなら、海岸線に光源が現れるのをそれとなく見られるが今日はまだ暗いまま背を向けた。
千尋は海の向こうに初日の出を見たことがない。生まれ育った郷里では地理上、山に登って日の出を見るのが普通だ。今年も、父親と二人で山に登って初日の出を見たが、どうしてか千代と日の出を見たい、と衝動的に思う。
「なぁ、ダイ」
「何、
キワ」
そろそろ戻るんじゃないのか。そんな声音が
千尋の言葉を押し留める。ただ、今、この願望を口にしなければ何か大切なものを失ってしまうような焦燥感が背筋を駆け上がった。その衝動に任せて、勢いだけで言葉を紡ぐ。
「ダイ、もうちょっとだけここにいていいか」
「
キワのくせに疲れたわけ? そんなにつらいなら一枚抜けばいいだろ」
「いや、そうじゃなくて」
「取り敢えず言いたいことあるなら帰りながら言えばいいだろ。ほら」
帰ろう。言って千代は踵を返した。その
千尋のものと色違いのジャージの袖を反射的に掴む。
「日の出! 見たいんだ」
「そんなのいつも見てるだろ」
「それでも、見たいんだ」
「変なやつ。別に初日の出、ってわけじゃないだろ」
「お前と見るのは初めてだろ。俺、無宗教だから別に元旦じゃなくてもいいし」
だったらそもそも初日の出に意味なんてないだろ。千代の反駁に
千尋は上手く言葉を選べないもどかしさを噛み締める。
ただ。
どうしても、今、千代と日の出が見たい。そこに意味などないのかもしれない。それでも、どうしても千代と日の出が見たかった。
「いいだろ、初日の出。お前と初めて見るんだから初日の出だって」
初夢でさえ印象が悪かったり、希望通りでなければカウントから外すことが許される現代日本で、元旦以外に見る初日の出が成立しない筈がない。同じ場所で同じ相手でなければ何でも初めてが成り立つ、と主張をすると暗闇の中、千代の眦がそっと細められた。
「何それ。どんな理論だよ」
「まぁ、お前が絶対嫌だ、ってなら仕方ないけど」
「
キワのくせに遠慮なんかするなよ。調子狂う」
いいよ、見ていけば。どうせ今日の待ち合わせ、十時だし。
言って千代はジャージの袖を必死に掴んでいる
千尋の指を一本ずつ丁寧に剥がす。その、柔らかさが千代の優しさを表しているようで、
千尋はこいつと組んでよかったと思った。ここに徳久がいれば満面の笑みで言うだろう。「
キワ、よかったらー。初日の出、ドラマみたいで綺麗しょ」辺りが妥当な線か。
ドラマの世界でしか見られなかった海岸線に浮かぶ初日の出が上がるまで、千代とは他愛のない世間話をしながら待った。ゆっくりと空の端に色が付く。その変化を眺めながら
千尋は思う。来年も再来年も同じ景色を見たい。その為に必要な努力なら、きっと耐えられるだろう。
潮風が
千尋の頬を撫でて消える。防波堤の上に並んで座った千代が薄暗闇の中「
キワ」と
千尋を促す。
白光がもうすぐ、
千尋の視界に浮かび上がろうとしていた。