33rd. 一願成就
幸村精市が初詣の集合場所に指定したのは特待寮から走ってニ十分程度の商業施設の前だった。
駅だとかバス停だとか、いっそ目的地である神社だとかそういったわかりやすいランドマークではないところに幸村らしさが表れている。多分、目的地とそれぞれの出発地を考慮して誰かに移動の負担を強いることのない場所を選んだ結果なのだろう。一月も四日となると商業施設の殆どが通常通りの営業を始めている。
常磐津千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)が集合場所に着いたのが約束の十分前で、そのときにはまだ店は開いていなかったから、正面入り口の脇に立った。メールで到着した旨を伝え、ほんの少しだけ乱れた呼吸を整えていると、幸村が送ってきた初詣参加者一覧に名前のない顔が見えて偶然にしては出来すぎると訝った。
「ハル、ルイ、ヤギ。何、お前ら今更福袋って柄じゃねーだろ」
「
キワ、福袋はもう売り切れてるに決まってるだろ。もっと頭使ったら?」
「俺に気の利いた言い訳とか要求してる時点でお前ももっと頭使えよな、ダイ」
溜息を吐く。わかっている。この顔ぶれでこの場所にいる理由なんて一つしかない。今はまだここにいないが、ジャッカル桑原が三人を誘ったのだと考えるのが妥当だ。立海大学付属中学テニス部の一年生。三強と特待生が三人。その次に才能の片鱗を見せる三人が揃って初詣か。今年もまた熾烈な戦いが繰り広げられる予感しかしなくて、
千尋の闘争心が輝きを増す。レギュラーの座は七つだ。補欠を入れても八しかない。その八を二学年三十一人で奪い合って春の大会のレギュラーが決まる。その枠に入る為ならどんな相手でも全力で叩き潰す覚悟もある。
それでも。
「まぁ、何。いいんじゃねーの、団体行動でも」
「どうせ神様に祈ることなんて全員一緒だし?」
「おっと、ダイちゃん。詳しい内容は言わんときんしゃい」
「そうそう、口にすると叶わないらしいからな」
「だってさ、ダイちゃん」
ノーカンになる前に制止してくれる仲間がいてよかったな。の意味を込めて隣の千代を見る。その顔は言葉の辛辣さに反して穏やかさに彩られていた。神に祈らなければ手に入らない望みなんて
千尋たちにはない。本当にほしいものは誰かが与えてくれるのを待っているのではなく、手に入るまで足掻くだけだ。だから、初詣の参拝儀礼なんて知らないし、知っていたとしても神経質に固執することもない。それでも、
千尋も千代も一般常識を踏襲した。小学生の頃は重んじなかった集団におけるコミュニケーション能力の一つをようやく学ぼうとしているからかもしれないし、そんな御託がなくても信頼に値する仲間だと認めているからかもしれない。
雑談が続く。
七日ぶりに見る顔は懐かしさを薄っすらと帯びていた。七日会わないだけで仲間の顔がこんなに頼もしく見えるのだと知って、
千尋の世界が少し広くなる。
ここが
千尋の居場所だ。この場所で戦いたい。
そんな思いをしみじみと感じていると三強と桑原も刻限までには到着した。普段あまり目にしない私服姿だったが、そこにはそれぞれの個性が適度に表れている。同じ部活動に所属している同級生、と括るのが最適な一行の服装はてんでばらばらだったが、三強たちは一見すると平凡に見えるがその実上質な衣服を身に着けていた。柳生比呂士は三強寄りで、仁王雅治と丸井ブン太は
千尋たち寄り、南米の血が混じっている桑原は九人の中で一番防寒に重きを置いた格好をしている。多分、
千尋たちが思う一月の寒さより桑原が感じる寒さは一段と厳しいのだろう。
そんな人間観察紛いのことをしていると幸村が「じゃあ行こうか」と先頭に立って歩き出す。立海大学付属中学の通学範囲は実に広大だ。公共交通網の発達した首都圏の一部であり、県外であっても、生徒自身が通うことが出来ると判断すれば願書は受理される。だから東京都に住まう同級生もいるし、
千尋たちのように徒歩五分の距離で起居するものもいる。
学校まで徒歩五分の距離で起居する
千尋と千代は首都圏の文化には暗い。
買い物があれば遠出をすることもあるが、基本的にはスポーツ用品店に行くぐらいしか外出をしないから、もうすぐ一年が経過しようとしている今でも、商業施設についての知識と感覚は非常に薄い。学業に必要なものは特待寮を通じて
千尋たちに与えられる。私生活に必要なものは実家から仕送りとして供給される。空いた時間は一秒でも長く練習に費やされるから、外出してぶらぶらと時間を潰すようなやつは特待寮にいない。
だから、幸村がどの神社で初詣をしようと言ったのかも覚えていないし、それがどこにあるかも
千尋はわからない。ただ、幸村が選ぶのだから外れはない、と思ったぐらいだ。
目的地までは徒歩で移動する。その宣言通り、ものの十五分ほどでその神社が
千尋たちの視界に飛び込んでくる。都会の喧騒と神の鎮座する静寂とが隣り合わせになっているのに混濁していない不思議な場所だった。
鳥居の両側に賑やかな色遣いの屋台が幾つか並んでいる。参拝を終えたら何かを買おう。そんな口約束を交わして参道に踏み入れた。石畳の上を歩きながら、柳蓮二の講釈が始まる。祭神は誰で、縁起がどうで、現在の格式がこうで神社庁ではどんな扱いをされているか。知っていても現実の生活では全く意味がないそれらの説明を相槌を打ちながら聞き流す。
千尋が記憶したのは現在、何のご利益があるのか、という部分だけだった。一願成就。願いごとなんて一つしかない
千尋にとって興味をそそられたのはそこだけで、柳を挟んで反対側を歩いていた千代に至ってはそれすら聞き流している。柳が苦笑いで
千尋に同意を求めてきたのに気付かなかった体を通しているうちに気が付けば賽銭箱が目視出来る位置まで順番が進んでいた。
参道を歩きながら柳が参拝の作法について説明していたが、
千尋の前に並ぶ大人たちの誰一人、それを遵守していないのに気付く。この神社は一願成就だから、一つしか願いごとは出来ない。たった一つを願うのに形振りなど構わなくてもいいか。そんな言い訳をして、先頭に立った
千尋は適当な所作で賽銭箱に五円玉を放り投げて柏手を打つ。そして、一つしかない願いを瞑目して強く思い描いた。
神様が叶えてくれなくても、
千尋はこの願いを棄てる予定はない。それでも、誰にも明かさずに神に乞うのは、自分自身に誓うのと同じだと思ったから真摯に祈った。今年こそ必ず手に入れる。その為に必要な努力なら何でも出来る。
この仲間と、最高の場所で最高の勝利を手に入れる。
世間一般では全国二連覇という言葉で表されるその願いの立役者の一人になってこそ、
千尋の願いは叶う。叶えて見せる。そんな決意をして、中学一年の初詣は無事に終わった。
「で、何、この状態」
初詣を終えて再び道路に面した大鳥居の下まで戻ってきた
千尋たちはそれぞれの小遣いでめいめい好きなものを一つ二つ買って集合した。昼食の時間には少し早く、かと言って柳が見つけておいてくれたテニスコートへ行ってからでは食事が出来そうにない。加えてラケットバッグを抱えてあちこち動き回るのにも少し不自由さを感じていた。
そのことは今更否定しない。
千尋は体力には自信がある。荷物を持ったまま二時間動きっぱなしだったぐらいで音を上げるほど軟弱でもない。ただ、ほんの少し不自由さを感じていた。食事なら食事で一旦区切りをつけたかった。そのことは決して否定しない。
それでも。
「男子中学生が九人も揃ってスイーツ食べ放題はおかしいんじゃねーの」
折衷案として柳生が提案したのが集合場所である商業施設での食事だった。初詣に行った神社とテニスコートの間にあることから、そこを選んだことに文句を言うつもりもない。
ただ、制限時間内スイーツ食べ放題の店だけがどうしてだか空いていた。メニューには食事もある、という二つの理由から幸村が独断と偏見で店を決定して勝手に店員に案内を頼んだことに対しては抗議したいと思って当然ではないだろうか。
千尋のスイーツへの好悪はこの際関係がない。丸井は甘味がことのほか好きらしく、
千尋の隣のテーブルで食事そっちのけで運んできたスイーツを堪能しているが、それもこの際関係がない。幸村、真田、柳、
千尋、千代のテーブルには几帳面な柳が運んできた「適当な」食事が湯気を立てている。ピザもパスタもカレーも
千尋の好物だ。
それでも。
「こういうとこはもっと少人数で来るべきだろ」
「
キワ、問題点がおかしい」
「じゃあお前が正しい文句を言えよ、ダイ」
正しい文句が何になるのかは
千尋にもわからない。
ただ、漠然と居心地が悪いのだと主張したが、幸村はこのうえない笑みで
千尋に問う。
「
千尋。代金前払い。制限時間は90分。悩んでる暇なんてないと俺は思うけど?」
「じゃあせめて入店前に悩む暇くれよな、精市」
「じゃあお前は二時間並んで、テニスコートの使用権を棒に振りたかったっていうのかい?」
食堂街のフロアで九人分の座席の待ち時間がゼロだったのは、今、
千尋たちが入店しているこのスイーツ店だけだ。他の店舗は少なくとも一時間半ないし二時間の待ち時間が表示されていた。その時間を無為に過ごすのかと尋ねられれば即答で否が出るが、ならば最初から混雑が予想されたこの商業施設を選ぶのではなかったという意味のない否定が
千尋の胸中に浮かぶ。ファーストフード店で持ち帰りを選んで、テニスコートへ持っていく。そういう選択だってあった筈だ。
ただ、食事の問題を議論したときにその答えを口に出来なかった
千尋に今更反駁が許されているのかどうかなら言うまでもない。柳生の提案に乗った時点で
千尋も残りの七人も連帯責任だ。だからこそ、幸村はその中で最上の選択をした。
わかっている。わかっているから、
千尋も結局は財布を開いた。
だから。意味のない抵抗を続ける意義に固執する自分に虚しさを覚える。
目の前には料理が並んでいるのだ。こうしている間にも制限時間は過ぎていく。
わかっている。
だから。
「コーンポタージュ」
「うん?」
「コーンポタージュ持ってきてくれたらそれで許す」
千尋の中の妥協点を示す。本当にコーンポタージュが飲みたくて仕方がなかったわけではない。柳が最初に持ってきてくれたミネストローネでも十分だとわかっている。それでも、敢えて今、テーブルに並んでいないものを求めた。面倒臭いことをしている、という自覚はある。
それでも言った。
千尋の正面に座った幸村が駄々をこねる子どもを見るように苦笑いする。
「相変わらず、安いやつだね。お前は」
「いいだろ。女子ん中に混じってスープ注ぎに行くの嫌なんだって」
「その言い方だと、俺は好き好んで混ざってると思ってる?」
「違うのかよ」
「違わないけど、最初からそうだった、みたいに思われるのは不本意だな。俺だって好き好んで人の注目を浴びたいだなんて願望はないよ」
でもまぁ、有無を言わせない形でこの店を選んだのも事実だし、最初の一杯だけは持ってきてあげるよ。
言って幸村が席を立つ。彼の持つ傲慢さに似た自信とそれを裏打ちする努力、そして人の感情の機微を読む観察力の鋭さとそれらを包んで人の目から遠ざけている表向きの人の好さのことを忘れていたわけではない。幸村の下した判断が合理的だったことは
千尋にもわかる。一言ぐらい相談してくれてもよかった、と思うと同時に相談を持ち掛けられても
千尋には建設的な提案など出来ないこともわかっている。それでも、相談してほしかった、という我がままを押し通してしまったのだと、今更知って後悔の念が湧いた。
千尋の隣に座った千代がそのことを察して、カルボナーラを
千尋の取り皿に載せる。
「
キワ、三学期始まるまでにガット張り直しに行こう」
その言葉の裏には二人でこの都会を旅してみようという意図が含まれていて、
千尋は今、千代に気遣われているということを知った。
「何、俺、お前に慰められてんのかよ」
「だって、
キワ。俺が言いたいこと俺が言う前に全部言って、一人で後悔してるんだから器用だよな」
まぁ、
キワが代表して悪態ついてくれたから俺の印象悪くならなかったわけだし。多分、俺の分もコーンポタージュ来るし。
言って千代が複雑に笑う。
不本意ながら
千尋に助けられたのだから、次のフォローをするのは千代の番だ。
そんな意味合いのある言葉が続いて、
千尋は自分の相棒もまた少し成長したということを知る。
「そりゃ、どーも」
「
千尋。埋め合わせがしたいのなら、俺たちと戦ってもらおうか」
「弦一郎、お前までかよ」
「ではせっかくだ、普段組まない相手と変則ダブルスというのはどうだ、
キワ」
「普段俺が組まない相手なんていねーじゃねーか」
真田と柳の連携プレーで千代の成長によってもたらされた感動が即座に霧散する。多分、それも真田たちなりのフォローなのだろう。
そのことに自力で気付くことが出来た自分自身の成長も知って、
千尋は七日間の帰省も満更無意味ではないのだと感じる。たった七日離れただけで今まで見えなかったものが見える。特待寮が年中無休でないのはそういう目的もあるのだろうか、と考えたが答えが出ないことを察して曖昧に笑って終わらせた。
結局、幸村は両手にコーンポタージュを持って戻ってきたあと、更に二往復して
千尋たちのテーブルに不公平なく五つのスープカップを置いた。そのときの満面の笑みの意味なら誰かに聞かずともわかる。貸し一つ。
千尋が絶対に借りを作りたくない相手の一人である幸村は彼自身が折れることで
千尋に貸しを作った。
つまり、今日の二つめのメインイベントであるテニスで何らかの見返りを求められている。
何をさせられるのだろう。それほど難しい内容でなければいい、と思いながら食事を終えた
千尋たちを柳がテニスコートへと案内する。
そこはストリートコートではなく、どこかのクラブで柳とスタッフの会話が聞き違えでなければ事前に予約して借りている、ということがわかった。
「蓮二、三人増えても大丈夫なのかよ」
「問題ない。コート二面を時間単位で借りただけだ。人数の申請はしていない」
「その『借りただけ』の方が俺には気になるんだけど?」
「後で割り勘にするから問題ないだろう」
「いや、俺たち特待生は問題ねーけどハルたちには大問題じゃねーか」
千尋たち特待生は三年間の衣食住を保証されている。その間に発生した金銭的負担は全て学校側が持ってくれるから、幸村たちのような富裕層の子息でなくてもテニスコートの使用料を支払うことが出来る。
だが、一般生の仁王たちにとってはその負担は大きいのではないか。そんな不安が胸をよぎる。コートの外では百面相の
千尋はそれをすぐに吐露して、次の瞬間、しまった、と思った。
千尋の両親は友人との縁を切りたくなければ金銭に絡む話題は慎重にしろ、と繰り返し口を酸っぱくして言っていた。そのことを思い出し、これはセンシティブな話題だと気付いて後悔と自責の念に駆られている
千尋の背中を寒さに反して温かい手のひらが勢いよく叩く。
「問題ないぜ、
キワ」
「ルイ?」
「そうそう。事前にジャッカルから費用の相談受けちょったしのう」
「何、金に汚ねーのは俺たち特待生だけって話かよ」
「
キワ、それは流石にひねくれすぎ」
「そうだぜ、
キワ。このコート、中学生でも割り勘すればそんなに高くないらしいぞ」
この人数ならマック二回ぐらい我慢すれば十分だってさ。
その具体的なのに抽象的な額面の提示に
千尋は安堵する。マック一回の額面が持つ上下幅のことを無視して、
千尋が考え得る最低の金額を掛け算して、ああ何だそれほど高額でもないじゃないか、と思った。思ったが、中学生にとってマック二回というのはそれなりの出費であるのもまた間違いない。間違いないが、それをここで精査して時間を潰すのが愚である、というのは先の昼食のときに学んだ。だから、
千尋一人の不安を黙って飲み下して、今からすべきことを考える。
「取り敢えず、コート着いたらウォーミングアップするか」
「
千尋の割には建設的な提案だね」
でもその前に着替えなきゃだろ。幸村の指摘に、
千尋は今、自分が着ているのがウェアでないことを思い出す。そんなことも気付かないほど狼狽していた自分を知って、世界が広くなったと思ったが
千尋の成長ではまだ届かないものの方が多いことを自覚した。
更衣室のある建物に案内されて、そこで部活動を始める要領で着替えを終えるとウォーミングアップをしていない冷めた身体に寒風は少し寒さを感じさせる。部活動ではないから全員がユニフォームでないジャージを着ている。
千尋と千代は同じブランドの色違いだったが、意外とその選択は平凡だったらしく、柳生と丸井も少しデザインは違うが同じブランドのジャージだった。
それを見た幸村が悪戯に笑って「じゃあお前たちは寒色が向こうのコートで、暖色が手前のコートでいいよ」と勝手にコートを割り振る。寒色――青と紫が千代と柳生で、暖色――黄と赤が
千尋と丸井だ。残りの五人はどうするのだ、と思って見ていると、白の幸村とオレンジの桑原、それからグレーの仁王が手前のコート、黒の真田と緑の柳が向こうのコート、と勝手に分散した。
「色分けっつーか、何、このジャージ別性格診断的な?」
「俺は蓮二じゃないかからそういう理屈はよくわからないな」
統計学的な話が聞きたいのなら、帰り道に尋ねろと言われて
千尋は幸村に問いただすことを諦める。
「取り敢えず、変則ダブルスでもやるか?」
「二対三だと全員入れるよなぃ」
「じゃったら俺は幸村と対戦してみたいぜよ」
「おっ、いいな。俺も数の奇跡でいいから幸村に勝ってみたいし、仁王と組むぜ」
「
キワ、お前どーすんだよぃ」
このチーム分けは自己申告が尊重されるらしく、幸村が仁王と桑原の決定を否定する気配はない。カウンターパンチャーが三人いる状況だから、どちらかのコートに似たタイプの選手が二人被るのは確定事項だ。勝って新年を景気よく始めたいのなら幸村と組めばいい。立海五番手の
千尋と絶対無敗の幸村ならまず負けることはないだろう。丸井を誘って圧倒的勝利に酔うのもいいが、それでも、
千尋はゲームバランスを考える。
そして。
「ルイ、お前、ダブルスの前衛出来るだろ」
「まぁ、一応?」
「じゃあルック、俺がお前らの方でルイが精市とでいいか」
「ちょっ、待てよ
キワ! 俺一人で幸村君の前衛なんて出来るわけねーだろぃ!」
「何、ルイ、お前自信ないわけ?」
「それ以前の問題だって言ってんだよ!」
多分、丸井が言っているのは経験値の問題で、それはこれから積み重ねていくことでしか解決出来ないと本人もわかっているだろう。今すぐ幸村と組んで足手まといになることを危惧しているのは
千尋にもわかる。二の足を踏む気持ちも何となくは理解出来る。
それでも。
「ルイ、お前がどう思ってるか俺はわかんねーけど、お前、出来るよ」
「けど」
「やってみろよ。多分、お前が思ってるより精市の前衛、難しいことじゃねーから」
「そりゃお前にはそうだろぃ」
「じゃなくってさ」
丸井が
千尋のことを信頼してくれている、というのを
千尋は感覚的に理解していた。
千尋と千代と桑原の三人で一年生コートの練習をしていたとき。
千尋はダブルスというのが何なのか、身をもって丸井たちに伝えた。
相手を信頼している。前衛と後衛で最善を尽くすのがダブルスだ。シングルスでは無敗を誇る幸村でさえ、信頼関係が成り立たない相手とのダブルスでは敗北する。丸井が幸村と組むのは正真正銘初めてで、多分、幸村が知っている丸井はデータだけだろう。
丸井にしてもそれは同じだ。
信頼関係なんてない。
それでも、
千尋は信じている。
「後ろに精市がいるんだぜ? お前、俺と組むよりずっと自由に出来るに決まってるじゃねーか」
「まぁ、ダブルスに限って言えば『俺が後衛』より『
千尋が後衛』の方が心強いかもしれないけど、よかったら俺も丸井と組んでみたいな」
二人がかりで外堀を埋めていくと、丸井が苦虫を噛み潰したような顔で「あーもーわかったよぃ」と諸手を上げた。
「後は実践でな、なんだろ
キワ」
「おっ、わかってきたな、ルイ」
「そっちの後衛二人とも超面倒くせぇんだけど」
その点に関しては反駁するつもりもない。後衛――
千尋と桑原が組んで下手な試合展開になるわけがないし、数の奇跡、と桑原が言った通り勝利を得る為に全力を尽くすのだから二人しかいない丸井のコートは苦しい戦いを強いられるだろう。
それでも。
「ルイ、じゃあお前こっちの前衛やって、俺がそっちの前衛やっても別にいいんだぜ?」
「だーかーらー、それじゃ結局負け試合じゃねぇかよぃ!」
「当たり前だろ。負けてそれでいいやつなんてどこにいるんだよ」
「
千尋、じゃあ俺はお前たちの前衛を全力で潰すけどそれでいいんだね?」
「ハル、耐えろ。以上」
「はぁ?
キワちゃん、お前さんフォローとかないんかい」
「えっ、俺が前衛やるとお前がやることなくなるけど、それでいいわけ?」
「これじゃから特待生様は困るんじゃ」
いとも容易く最上の努力を強いる。
そんなニュアンスを含んだ嘆息が仁王の口から零れる。それを見ていた丸井は彼の立ち位置の方がまだましだと思ったのか、幸村と共にコートに入った。
最上の努力を強いられて尻込みをするようなやつはずっと
千尋たちの背中だけを見ていればいい。一緒に頂点へ駆け上がっていくことが出来ると信じているから
千尋は仁王を煽った。苦笑いの仁王が反対側のコートに入って、そして言う。
「
キワちゃん、そんなに最上がほしいんじゃったら、お前さんが自分で引き出してみんしゃい」
「当然。じゃあ行くか、ルック」
「ああ、後ろは俺に任せてくれ」
軽い破裂音を生んで桑原とハイタッチを交わす。仁王の待つコートに入ったところで幸村がサーブ権をもらうと一方的に通告して、
千尋たちがそれぞれのポジションに着いた頃合いを見計らいサービスの構えを取った。
往復十二時間の冬休みの課題のどこかに書いてあった言葉が不意に
千尋の脳裏に蘇る。
一年の計は元旦にあり。今日は既に元旦ではないけれど、本来の意味をくみ取るのなら、別段今日でも構わない筈だと勝手に言い訳する。
言い訳して、そして「気持ち上の元旦」にもう一度
千尋自身に誓う。
今年は
千尋自身の手で頂点の景色を掴み取る。必ず、その場所に並び立つ。
その為にもまずは、この不公平な勝負に勝って前に進みたい。数の奇跡だなんて自虐的に笑わなくていい未来の為に最上を尽くす。その道程にいる仲間たちのことをもう少し知る、この試合の結末は寒風だけが知っている。