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All in All

34th. 物々交換の流儀

 学生の三学期は早い。
 一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。昭和の時代からそう言われてきた通り、あっという間に月日が過ぎ卒業式と終業式が一度に来たような錯覚を与えた。実際は二週間ほど前後していたのだけれど、常磐津千尋にその感覚はない。
 立海大学付属中学に特待生として入学してからの一年を振り返る。その中には卒業式を迎え、学び舎を出ていく三年生の先輩たちとの思い出があって、人から学び、得たものに対して感慨を覚えると同時にいつか自分もそういう存在になりたいと漠然と思った。引退試合でも勝てなかった三年生たちはこの後、高校の世界で活躍することだろう。次のステージで戦うときにがっかりさせたくない、というよりはリベンジを果たしたい。そんな気持ちの方が強かったから送辞を聞いても涙は出てこなかった。
 千尋が起居する特待寮でも慌ただしさが続く。三年生十五名が退寮の手続きを取って荷物が運び出された。と言っても、原則的に高校の特待寮へ入寮するだけだから業者などは来ない。大きなカバン一つ分程度の荷物しかないのも特待寮では普通のことで、本当に住む場所が変わるだけだから、こちらも別段感慨などはない。会いたければ徒歩十五分の場所にある高校の特待寮へ行けばいい。海外遠征だなんだで三年の特待生とはそれほど親しかった印象はないけれど、それでもいつか越える目標の一つには変わりない。頑張ってくださいと負けませんを伝えてそれで千尋の三学期は本当に終了した。
 千尋の所属する男子テニス部では三月三週から四週にかけて他校との合同合宿が行われる。というのを聞いたのが二月半ばで春休みの課題に取り組む時間が減ったのか、寧ろ強制的に勉強をする時間が増えたのか判断に困った。課題の内容自体は卒業式の翌日に開示されたので、迷うぐらいならと三月の前半を使って自分で出来る部分を探して一通り目を通した。一年前の千尋が見たら、きっと驚きを通り越して呆れかえるだろう。そのぐらい、小学生の千尋は勉強を倦厭していた。

キワ、お前、社会ならわかるだろ」

 現代社会の問題でわからない部分がある、と言って特待生仲間である千代由紀人(せんだい・ゆきと)が夕食後に千尋の部屋を訪ねてくるのもいつも通りの光景の一つだ。得手不得手で言えば勉強は全般的に不得手な千尋と千代だったが、敢えて分類するなら千尋が文系、千代が理系にあたる。国語、社会は教科書と参考書と辞書があれば何とかなる千尋と、そういう調べものが心底苦痛でしかない千代との間ではお互いの得意分野が被っていないのをいいことに、相互扶助が発生していた。
 千尋の現代社会の課題はもう終わっている。全問正解かどうかは保証出来ないけれど、質問に答えることぐらいは出来るだろう。その代わりに千代には数学の説明をしてもらおう、と思って部屋の中に招き入れる。千尋のルームメイトである堺町秀人(さかいまち・ひでと)もまた勉強には誰かの助力を必要としていたから、三人で額を突き合わせて悩むのには慣れていた。
 就寝時間までしばらく三人で利益共有をしつつ、課題と向き合う。一年生の四月から比べれば三人とも飛躍的に成績がよくなった。それでも、まだわからないことの方が多いし、順位も半分より前をどんぐりの背比べで争っている。立海で特待生であり続ける為に必要な条件だ、と割り切っている部分もあり、取り敢えず課題が終わるのが最優先で正答であるかどうかにはそれほどこだわりはなかった。
 二十時半を回った頃、不意に堺町が言う。

キワ、今度大阪の大学で合宿するって言ってたよね」
「ああ、うん。明後日から何とか大学の同窓会館借りて四天宝寺ってとこと合宿する、って聞いてる」
「目的地がそんなに曖昧で大丈夫なの?」
「ヒデ、立海には遠征バスがあるの忘れたのかよ」

 立海大学付属中学には保護者会が寄贈したバスが何台か置いてある。テニス部と野球部の都合が最優先される備品で、遠征の際に部員を乗せることはもちろん、試合の応援に保護者や在校生が乗ることもある。大阪の大学までは遠征バスを用いると聞いていたので、目的地がどこなのか千尋も千代も詳細には記憶していない。そう答えると堺町が少しだけ羨ましそうな顔をした。堺町の所属するバスケ部が近年遠征バスに乗れるような大会に出る機会を得ていない、ということを思い出して千尋は自分の無神経さを恥じたが、一度言葉にしたことは二度とは戻らない。後悔をしても始まらない。同じミスを繰り返さない、と自分の心に釘を刺して、前に進むことを選んだ。

「何、ヒデ、お前も来る?」
「大阪に行ってみたい気持ちはあるけど、今回は見送ろうかな」
「おっ、じゃあ次の全国大会、期待してるぜ?」

 堺町が前に行っていた言葉を必死に思い出す。確か、バスケ部の全国大会の次の開催地は大阪だった筈だ。だから、堺町の言う「今回」と「次回」の因果関係を紐解くと彼の気持ちも前を向いているということを意味している。来年度は全国大会に出る為に大阪に行くのだから今回は見送るということだ。転んでもただでは起きない。傷付いたぐらいで足を止めない。堺町は穏やかな性格をしているがスポーツ特待生に共通するストイックさとアグレッシブさを持ち合わせている。でなければ立海で生き残ることなんて出来ない。
 当然と言えば当然のその事実と向き合って、千尋は自然と笑った。
 それが棒引きの合図になって部屋にはいつもの空気が戻ってくる。

「テニス部はいいなぁ。毎年全国大会どこでやるか決まってて」
「有明以外行けないのって味気ないけどね」
「ダイ、お前は有明以外だと迷子なんだから文句言える立場かよ」

 そんなやり取りの後で、堺町が不意に真剣な表情をした。
 そして。

「明後日から合宿なら、ダイの荷造り、そろそろ始めないと間に合わないんじゃないかな、キワ
「あっ!」
「まぁ俺は気付いてたけど」
「気付いてたならせめて自己申告しろよ!」

 ヒデ、悪いけど俺、行ってくるわ。言って千尋は開いていた教材を閉じる。千尋自身の荷造りなら一時間あれば十分に出来るから、取り敢えずは千代の荷造りを優先させなければならない。一人で生きていると豪語していた四月の千代はどこに行ったのか、いつかの未来に尋ねたらきっと笑い話に出来るだろう。その日が来たときに恥じる自分ではいたくなかったからひとまずは目の前のことに集中する。就寝時間まで残り一時間半。その時間でどこまで進められるかはわからないが、何もしないで先送りにするよりずっと建設的だ。
 だから。
 千尋は課題を自分の机の上にまとめて置いて、千代を促す。
 そんな概ねいつも通りの夜が更けて、明ける。荷造りをしている筈なのに散らかす一方の千代を無理やりベッドに押し込んで、殆ど千尋一人が徹夜で荷造りをした。年末年始に帰省したときよりは幾らかましだったのだけが唯一の救いだろうか。
 起床時間を告げる千代のアラームが鳴って、千尋は時間の経過を知る。
 そして二人でいつも通りの朝の支度をして、自主トレまでを済ませて千尋は自分のベッドで泥のように眠った。遠征の前日で部活がなかったから無理が出来ただけで、次があるのならもう少し計画的にしようと誓う。
 そして、夜が明けた。

千尋、正直由紀人は間に合わないと思ってたよ」

 この季節ではまだ薄暗い午前六時。立海大学付属中学の正門前にテニス部員が鞄を抱えて揃っている。千尋と千代、それから二年の特待生の三人が顔を出すと、先に到着していた幸村精市が皮肉を投げてくる。彼のそれは既に挨拶の域にまで達しているから、一々腹を立てていたのでは神経が持たない。千代の煽りと幸村の皮肉という双璧が千尋の精神を否応なしに鍛えた。感覚が鈍化したのか、成長したのかは微妙な線だが千尋は以前ほど人の言葉に狼狽えることが減ったのは事実だ。曖昧に笑って「じゃあお前の予想外れたわけだし、サービスエリア停まったらジュース一本な」という悪辣な冗談を口にした。隣で千代が「俺の分も当然あるだろセイ」と更に煽る。幸村はどちらにも明確な返事をせずに、顧問に一年生が全員揃った旨を伝えた。
 二年生の最後の一人がそれと前後して到着する。
 そして遠征バスはつつがなく神奈川を出発した。
 神奈川から大阪へは遠い。高速道路を使っても四、五時間はゆうにかかる。
 朝練が始まる時刻よりも更に早い刻限に集合を強いられた車内は最初のサービスエリアに到着するより先にあちらこちらから寝息が聞こえていた。千尋と千代はいつも通りならまだ筋トレをしている時間だったから、当然のことながら眠気はない。車窓から射し込む朝日をカーテンで遮った後方とは隔絶された前方の座席で真田弦一郎と小声で会話が続いた。

千尋、この時間で朝食は取ったのか」
「寮母さんがサンドイッチ作ってくれたからもう少ししたら食べるけど」

 特待寮の朝食は午前七時だと決まっている。今日はその時刻より早くに集合したから食事を食べることは出来ない。その代わりに五つの包みが食堂に置かれていた。
 寮生以外は自宅で食事を取るか、バスの中へ持ち込むかの選択権がある。真田も朝食を取ってきていないのだろう。車内に持ちこんだ手荷物の中に、いつも真田の昼食が入っている巾着袋があった。
 その真田の隣で千尋は食堂に置かれていた常磐津の名札の付いた包みを抱えなおす。
 中身はサンドイッチだと昨晩、寮母から説明があった。ハムレタス、玉子、ツナの三種類六片が入っているらしいが外側から見ただけでも一かけらの大きさが大きいのだと想像出来る。既に片という単位ではなく、食パンの大きさそのものではないか。そんなことを考えながらフロントガラスの向こうであっという間に通り過ぎていく緑の看板を追った。間もなく、最初の休憩でサービスエリアに入る。そこに着いたら何か飲み物を買って車内で朝食にしようと思っている。そんなことを真田に告げると座席の後ろから聞きなれた声が飛んできた。
 
キワ、俺ハムレタス要らないからツナと交換してくれる?」

 するだろ。しない理由なんてないだろ。
 そこまで言いかねない勢いで千尋と真田の会話に千代が割って入ってくる。彼の隣に座った柳蓮二がハムレタスサンドのカロリー計算と栄養分析を口にしたそうな顔をしているだろうが、昨今の道路交通法改正で着用が義務付けられたシートベルトがそれを目視するのを阻む。まぁ見なくてもわかるのだから問題ない。結論をそこに置いて千尋は小声で千代に抗議する方向に全力を注いだ。

「ダーイーちゃーん。好き嫌いしてんじゃねーよ。ハムレタスぐらい食えって」
「いいだろ。別に。キワだってハムレタス好きなんだから一つ余分に食べられるの喜べよ」

 確かに千尋はハムレタスサンドは嫌いではない。寧ろ千代の指摘通り好きに分類されるだろう。それでも、ツナサンドを引き換えにするほどではないし、寮母は栄養バランスを考えてこのメニューにした筈だ。味の好悪でそれを裏切っていいかどうかなら千尋にだってわかる。だから、千代もわかっている。千代も献立の意味を理解して、それでも彼はハムレタスサンドと別離したがっている。
 溜息が漏れた。
 とほぼ同時に隣の座席からも嘆息が聞こえる。

「お前たちは本当に予想を裏切らんな」
「弦一郎、頼むからそこで納得すんなよ。蓮二、お前もさぁ正論とかどうでもいいからその馬鹿にハムレタス食わせる言い訳考えてくれって」

 いっそ清々しいほどに呆れかえった真田の反応に千尋はこの会話の終着点を察した。
 多分、真田はいつも通り千尋と千代がじゃれ合っているだけだと思っている。柳にしてもそうだ。いつも通り。わかっている。そんな言葉で一括りに出来るほど千尋と千代は同じ終着点を繰り返してきた。それでも、予定調和を打破したい。千尋の中で生まれた一縷の望みを口にしたけれど、その言葉すら通路を挟んで反対側の席に座った幸村が否定する。

「無理じゃないかな、千尋
「精市、お前もそっちかよ」
「だって千尋。そもそもお前が由紀人のわがまま聞いちゃうじゃないか」

 だから無理じゃないかな。
 死刑宣告にも近いその言葉が千尋の耳朶に届いたとき、脳裏に自業自得の四文字が明滅した。まさに自業自得だ。その言葉が表す意味の通り、千尋は何だかんだ言っても千代に対して甘い部分がある。長々と議論をするのが苦手だと言い訳して、千尋は概ね千代の煽りに乗るだけ乗って最後まで否定を貫くことは少ない。千代がそれを見越してわがままを言っているのも知っている。
 だから。

「一つだけだからな」

 諦めと共にその言葉を口にした。千尋の周囲が呆れと感心と苦笑の雰囲気になる。それもわかっていた。わかっていてそうしたのは、何も千尋の包容力を示したかったからではない。否定を貫いてまで守りたいこだわりなんて持っていないし、千尋が譲ることでこの場が丸く収まるのならそれでいいじゃないかと思う。それを主体性がないとなじられてもいっこうに構わない。千尋は真田ではないから不真面目と思われてもいいし、筋が通っていないと嗤われてもどうでもよかった。
 多分、千尋の周りはこうなるとわかっていたのだろう。
 予定調和などという高尚な言葉で括らなくても千尋と千代の関係が生み出す答えなど容易く予想出来る。その想像通りの結末は周囲に安堵をもたらした。

キワ、お前って本当にいいやつだな」

 幸村の後ろの座席にいるジャッカル桑原が呆れをにじませた笑顔でそう言う。彼の隣では丸井が穏やかな寝息を立てているから、自然と桑原は小声になった。「桑原、お前も大概甘いね」と溜息を吐いて幸村が脱力してシートにもたれかかる。

千尋は由紀人を甘やかしすぎてる、と俺は思うけど?」
「セイ、三人兄弟の末っ子を甘く見ない方がいい」
「ダーイーちゃーん。自信満々にそういうこと言うなって」
「じゃあ何。これからはキワが俺に人生の厳しさとかいうやつを教えてくれるわけ?」
「面倒臭いこと要求すんじゃねーよ。お前にそんな高度なこと教えるだけの器が俺にあるわけねーだろ」

 千尋は二人兄妹の兄の方だから、人に譲ることに対してそれほど抵抗はない。中流家庭でテニスをさせてもらっているだけでも十分、両親は千尋に配慮してくれているだろう。妹から全てを奪い、優位に立たなければ兄としての尊厳が保てない、というのならそれは千尋の傲慢が過ぎる。誰に諭されるでもなくそのことを理解していたから、千尋は妹の小さなわがままを頭ごなしに否定することはしなかった。
 その点で言えば、千代は実に末っ子の甘えっ子で人の好意を引き出すのが上手い。
 千代なら仕方がない。その感情の正体が呆れなのか諦めなのか、それともただの許容なのか。千尋は答えを知らないけれど、そのままでも千代と人間関係を構築するのに支障はない。
 だから。

「精市、お前、それ握り飯だろ? ダイのハムレタス一つとそれ一つ、交換しようぜ」

 立海大学付属中学の備品である遠征バスは観光バスの車体を用いている。座席はリクライニングも出来るし、簡易テーブルも備え付けられていた。幸村の座席の簡易テーブルの上に小奇麗な包みが載っている、というのは高速道路のインターチェンジに乗ったときから気付いている。形、大きさ、今までの昼食の経験から中身の見当を付けた。
 その答えを一足飛びで断定して、次の提案をする。
 幸村は一瞬、言葉を失ったようにゆっくりと瞬きをして、そして穏やかに微笑んだ。

千尋、どうやら俺も人のことをどうこう言える立場じゃないみたいだね」

 いいよ。鰹節の一つと交換してあげるよ。
 言った彼の言葉に皮肉さはもうない。ただ、慈しみが滲んでいた。
 この結末になると信じられることも、千尋にとって甘えていい相手がいるということも心地よくて破顔する。その顔を見ていると千尋に何かを譲るというのは満更悪い心地がしない。そういう評価が千尋の周りで異口同音に紡がれる。
 それを高尚な言葉で表現すると千尋の「人徳」と呼ぶのだというのは最近知った。
 人徳に全てを委ねてずぶずぶと甘えきってしまってはいけない、という自制が働くけれど、三強――特に幸村にはそれを許容するだけの器の大きさがあることを千尋は知っている。ただ、あくまでも対等でいたかったから、節度という認識を得た。
 三つに増えたハムレタスサンドの一つと握り飯の一つとを交換する約束が成立した頃、バスが本線を外れ左折する。ゆるゆると速度を落とし、サービスエリアの駐車場に入って行くのをフロントガラス越しに見ていると顧問が決して大きくはない声で、十五分後に集合する旨を伝えた。後方の座席は今も眠りの底にある。真ん中より前、特待生六人と三強だけが起きているのと大差ない状況だったから、顧問の指示はほぼ千尋たちの為の措置だったと言えるだろう。
 簡易テーブルを仕舞って席を立つ。神奈川から抱えてきた包みと網棚から下ろした水筒とを座席の上に置いて千尋たちは動かない地面の上に立つ。道程はまだ三分の一にも達していないことを思うと少し気が重かったけれど、休憩は十五分しかない。サービスエリアですべきことの段取りを考えていると少しぎこちない声が千尋を呼ぶ。

千尋
「何だ、弦一郎」

 真田の緊張で四角張った声など大会前でもなければ聞けやしない。今から出向く大阪の学校のことを思って気を張っているのかと暗に含ませて問うと真田は「いや、大したことではないのだが」と前置くばかりで本題が出てくる気配がない。

「弦一郎、自販機なら向こうだけど」
「ああ、わかっている」
「取り敢えず、俺、トイレ行くからその話は出てきてからでいいか」

 十五分しかない休憩時間ですべきことを考えるとここで立ち止まって話し込んでいる場合でないのは自明だ。話す気がないのなら用を済ませる旨を伝えると真田は今一度難しい顔をして「千尋」と名前を呼ぶ。

「だから、何だって」
「その、俺とも一つ、食事の交換をしてはくれんか」

 その思い詰めた表情から出た何でもない一言に千尋は自分の耳を疑った。何かの聞き間違いか。そう思ったから疑問の意を呈する。真田はそんな千尋の様子に彼の言葉の不足を知ったのか、説明の追撃をした。

「うん?」
「ツナをくれとは言わん。ハムレタスがお前の好物なら玉子でいい」
「いや、あの、弦一郎?」

 誰もサンドイッチを渡したくはないとは言っていないし、たかが玉子サンドの一つを渡すのにそんなに出し惜しみをするほど千尋は狭量ではない。
 ただ。

「お前ってさぁ、ときどきわかんねーところあるよな」

 真面目くさった顔で言うのが朝食の物々交換だというところに真田らしさと真田らしくなさがほどよく共存していて、千尋は真田の持つ新しい側面を見たような気がした。
 だから。千尋はおおらかに笑って答える。

「じゃあお前、ペットボトル日本茶な。俺、コーヒー牛乳買うから一口ずつ交換したらいいだろ」
「そんな見返りでいいのか」
「交換だからそれでいいんだよ」
「そういうものか」
「まぁお前が回し飲み嫌なら別に無理強いはしねーよ」

 それより、さっさとトイレに行かないと集合時間までにコンビニに寄る時間がなくなる。
 そう伝えると駐車場で止まっていた真田がようやく歩き出す。他の仲間たちはとっくに解散していて既に姿も見えない。建物の近くまで歩いたところで、千代が屋台でたこ焼きを買うかどうか並んでいるのを視界の端に捉えたが、多分、自由奔放に見えて気配りの出来る千代のことだ。車中の匂いを気にして持ち込んだりはしないだろう。彼一人で一皿を平らげるか、でなければ千尋の携帯電話にメールが届くかのどちらかだ。
 それがわかっていたから、女子のように手洗いに連れ立って行くのは不本意だったが、真田を促してトイレへと向かう。このサービスエリアのコンビニには千尋の好きな銘柄を置いているだろうか、とか、もし思うものがなければ紅茶でもいいか、とか考えて不本意であることを打ち消す。
 用を足して、少し急ぎ足でコンビニのコーナーに立ち寄ると自動ドア越しに幸村と柳とに出会った。人感センサーが作動して扉が開いて無事対面した彼らの手にはデザートの入ったレジ袋がぶら下がっている。

「精市、俺、握り飯のデザートがプリンなの、あり得ねーと思うわ」
千尋、そういう決めつけはよくないと思うけど」
キワ、人の買い物に文句を付けていて大丈夫なのか? 集合時刻は五分後だが」
「げっ、マジ? 弦一郎、お前、急いでお茶買って来いって!」

 千尋も急いでコーヒー牛乳を買う、と言おうとしたところでジャージの上着に突っ込んでいた携帯電話が着信を告げる。こんなときに誰だ、なんて確かめる必要はない。千代だ。たこ焼きは一人で食べきれなかったらしい。

「蓮二、適当に出ておいてくれ」

 ディスプレイの着信画面が「千代」になっているのだけを確かめて、受話せずに柳に預ける。彼の双眸が戸惑いで少し見開かれたが、千尋にはそれを考慮する時間がない。精市、お前でもいい。一方的に言い残して千尋はコンビニのドリンクコーナーへ急いだ。
 結果的には千尋の好きな銘柄があったので、それを迷わずに買って駐車場へと駆け出す。集合時間の二分前にバスの乗車口に間に合うとそこに四人が立っているのを目視した。

キワ、たこ焼きならまだあるぞ」
「お前の分、残しておいてやったんだから感謝しろよな」
「『やった』とか言うぐらいなら人にヘルプ求めんなよな、ダイ」
千尋、早く食べろ。ごみを捨ててから出た方が望ましいだろう」
「何なわけ! 今日、俺、何かしくじったのかよ! 俺の予定とか考えてくれるやついないわけ! 食べればいいんだろ、たこ焼き!」

 いただきます、を全力で唱えて六つあっただろう大玉のたこ焼きを頬張る。一人一つだ。そう気づいたとき、千代が自分の為にたこ焼き一皿を買ったわけではないことを知った。
 どうしてこいつはこんなに不器用なのだろう。心の底では優しさを持っているくせに、それをストレートに表すことをしない。千尋を含めて自主練を共に戦う残りの五人は千代の不器用な優しさを知っていて黙って受け取っている。それが千尋たちなりの優しさの形なのだけれど、それはそれで器用とは言い難いのは一応自覚している。
 無理やり一口で食べたたこ焼きは関東風の味付けで、どこまで進めば関西風になるのだろうか。そんな好奇心が湧いた。途中休憩はあと二回ある、と顧問から聞いている。だからあと二回もたこ焼きを買ってみるのも面白いかもしれない。
 無事全員を乗せたバスが発車して、少し遅い朝食タイムに突入したところでその提案をする。六人全員が話題に乗って、今から行く先が大阪――つまりはたこ焼きの本場だということを再認識して食の都への夢が膨らんだ。
 バスは穏やかに進む。次のサービスエリアでの休憩までは二時間を誰から提案するわけでもなく静かに眠りについた。千尋は眠っているときに夢を見ることは殆どない。
 初めて通る東名高速の向こう側に富士山が見える、ということを意識していたからだろうか。夢の中で日本最高峰の景色を見た。次に目が覚めたら今度は千尋の小遣いでたこ焼きを買おう。
 四天宝寺中学のテニス部員がどんなやつらかはわからない。
 それでも、たこ焼きの味付けというステレオタイプの話題なら一緒に盛り上がれるかもしれない。そうであってほしい、という気持ちとなれ合ってどうする、という気持ちとの間で揺れながら遠征バスは一路西を目指す。
 強いやつと上を目指す為の旅が楽しみで仕方がない。
 大阪なんて一度も行ったことがないから、千尋の中には既成概念で埋まっている。
 その、思い込みの常識と向き合うまで残り四時間。
 千尋はまだ夢の途中にいる。