. All in All => 35th.

All in All

35th. 専売特許お借りします

 常磐津千尋は大阪についての知識が少ない。テレビ番組でときどき見る「上方芸人」が主なイメージで土日になれば吉本新喜劇を家族で見ているのだと信じて疑わなかった。日常会話ですら話に起承転結を求め、ボケかツッコミが出来ないやつは人として認識されない。
 本気でそう思っていた。
 千尋の仲間たちはそこまでステレオタイプの関西人像を思い描いていたわけではなかったようだけれど、既成概念は多少あったようで、実際の関西人と話してみた結果、普通の人間だと認識して若干がっかりしていた。
 立海大学付属中学を出立して六時間バスに揺られて、大阪府のとある大学に辿り着いたときにはエコノミー症候群になるかどうか、という悪辣な冗談を交わしふざけあっていたが、合同合宿の相手校である四天宝寺中学のテニス部員が到着したことで雰囲気が変わる。立海の顧問と四天宝寺の顧問が打ち合わせ事項の確認をしている間に千尋たちはウォーミングアップだ。大学の外周を走るように指示が出て、何となく立海大学よりは手狭なキャンパスだなと思いながらそれなりの速度で走る。
 四天宝寺中学は夏の大会の決勝戦で当たった。
 決勝戦も三タテで軽くいなすつもりだった立海だったけれど、思いのほか苦戦して一つ黒星だった。そのときの三年生は両校とももういない。一年生レギュラーが半数以上を占める立海に対して、二年生が戦力の中心である四天宝寺の一年生はウォーミングアップでも後方に固まっている。
 初めて大阪の地を踏む立海勢が先頭を走っても道を間違うだけだ。四天宝寺の二年レギュラーたちに先導を任せ、千尋たち六人は先頭第二集団にいる。前を走る黄緑色のジャージを適当に観察しながら隣を走る幸村精市に声をかけると彼は呼吸一つ乱さずに答えた。

「なぁ精市、お前どうよ」
「今年の夏の大会も安泰、かな」
「弦一郎、お前は」
「一年は話にならん。二年を徹底的に潰すべきだ」
「取り敢えず合宿なんだけど? 蓮二、お前もなんか言えって」
「戦力差は歴然。だがデータは十分に取らせてもらおう」
「ルック、こいつら話になんねー」
「いいんじゃないか。慣れ合う為に来たわけじゃないだろ」
「ダーイーちゃーん! お前だけが頼りだ。まっとうな感想! はいどうぞ!」
キワ、うるさい」

 幸村に続いて真田弦一郎、柳蓮二、ジャッカル桑原、そして千代由紀人(せんだい・ゆきと)と順にコメントを求めたけれど個性的すぎて話にならない。ではどんな感想なら満足なのかと問われると、その答えには千尋も困窮するのは明らかで、藪をつついて蛇を出すという表現が適切だろう。
 千代がぴしゃりとはねつけたことを受けて幸村たちが息を漏らす。立海一年生はどこにいても万事この調子だ。ここがアウェイだということを忘れそうになる。
 この六人でいればどこまでも行けそうな気がした。
 見慣れなかった外周も三周目辺りからは道を覚える。四天宝寺二年生のペースでは千尋たちには遅く、先頭第三集団だった立海二年生がペースを上げたのを追いかけていつも通りになった。ペースが上がり、身体的負担は増しただろうに景色が鮮明になる。大阪の街も神奈川の街もそれほど違いはない。大学を取り囲む外壁とその少し上から頭を覗かせている常緑樹。歩道のアスファルトに敷設された汚水栓の模様が違っているが逆に言えばそれ以外は似たようなものだ。
 何百キロも遠くの街に来た、という感慨はあまりない。
 逆に言えば、敵地でありながらも千尋は自然体でいる、ということだからそれは寧ろ評価すべきことだ。
 そんなことを考えながら三周目を走り終わって正門から中へ入る。大学入試の合格発表も終わった構内はまばらに学生の姿を残しているばかりで、駐輪場に自転車や二輪車が停まっているのも僅かだ。往路の車中で聞いた説明通りなら、千尋たちの合宿が終わる頃に入学手続きが行われ、そこから後は華々しいキャンパスライフが描かれていくのだろう。
 構内の一番北の隅に設けられたテニスコートは全部で八面あり、大阪府内の大学の設備としてはかなり整っているらしい。緑色のフェンスを目印に戻ってくると両校の顧問はまだ話し込んでいた。早く練習がしたい、と思いながら千尋たちは学校単位で固まったままストレッチに入る。
 ここでまず一つ目の誤算が飛んできた。

「立海さん、バラバラで練習しても何にもならんでしょ。ストレッチのペアうちと立海さんで組ませたらどないです?」

 四天宝寺の顧問が突然にそう提案した。立海の顧問が一拍の沈黙ののちに四天宝寺の部員数を尋ね、概ね同数だということを確かめてから先方の提案に乗った。初めて会う相手とストレッチが出来るか。内心ではそう思ったけれど、そもそもの話をすれば千尋とストレッチをしようとしている千代とも一年前は知らない相手だった筈だ。
 立海は選手の自主性を重んじる。千尋たちの判断で練習の様々な暗黙のルールを作ってきた。顧問がそれに口を挟むのは明らかに誤っている場合や、より良い解決策のある場合だけで、上から指示を押し付けることはしない。その、顧問がやれと言っている。だから、何か意味のあることなのだと二学年三十二人が一様に微妙な顔をしながらも受け入れた。
 千代の代わりに千尋のペアとしてやってきたのは四天宝寺の一年生で、校則がゆるいのだろうか、明るめのブリーチを施したやつだった。

「俺は忍足謙也言うねん。一年で一応カウンターパンチャーや。お前は?」

 そう尋ねてきた忍足の名前を漢字変換出来るほど千尋の知性は鍛えられていない。どんな字面になるのだろう。ひらがなで「おしたり」と認識して、人懐こい笑みに応える。

常磐津千尋。俺もカウンターパンチャーだ」
「おっ、そうなんか! ほな、得意パターンどんぐらいある?」

 期待に満ちた顔が千尋を見た。忍足には距離感という概念がないのだろうか。そんな印象を与えながら、それでも不快感はない。テレビ番組の中で見るステレオタイプの関西人だ。本当にこんなやつがいるのだな、と思ってほんの少し感動する。
 ただ。

「得意パターンっていうか、俺スタミナ型だから基本粘るだけだけど」
「得意技とかないん? それってオールラウンダーと何が違うん?」
「技、って何だよ。そんなのなくても勝てるじゃねーか」

 見た目の派手さは相手のメンタルを挫く為には効果的だろう。こいつには敵わない。そう思わせるのが一番勝利に近いのはわかっている。
 それでも、千尋はその近道を選ばなかった。急がば回れという言葉がある。勝負の世界でもそれは適用されるだろう。相手を暴威で圧し潰すのではなく、自ら破綻するのを待つ。千尋はそういう勝ち方が好きだ。地味で一見すれば千尋の不利にも映る試合展開。それでも、勝つのは千尋だ。そういう美学を持っていないやつはいざというときに弱い。千尋はそのことを立海に入って嫌というほど思い知った。立海でレギュラーになれる選手は人一倍自分の美学に固執している。
 だから、忍足の疑問には平坦な否定で答える。彼はその答えを聞いて感心した顔になった。

「流石王者立海やな! 一年でも言うことでかいわー」
「いや、おしたり、俺、レギュラーな。レギュラー」
「一年でレギュラーなんはあっちの三人やろ? 常磐津、わかっとる? 立海は全国大会常連校やで。その中で一年でレギュラーなるんは至難の業や」
「当たり前じゃねーか。必死で入ったんだよ、レギュラー」

 三年の先輩が引退して枠が四つ空いた。三強はどいつも枠を譲ってくれそうになかったから、二年の特待生の先輩と六人で四つを争った。残ったのは千尋と千代と二年の先輩が二人。枠の争いに漏れた先輩――倉吉と桑原が控えに回る。千尋と千代にとっては県大会以来の公式戦だったが、危うげなく勝利をおさめて帰ってきた。
 そのことに誇りを感じないほど、千尋は成熟していないし、試合に出られなかったやつが千尋の背中に託したものの重みぐらいわかる。スコアを記録するだけの夏。仲間を信じて待つしか出来なかった夏。柳は言った。負けは人を強くする。千尋はそのときに勝利はそれ以上に人を強くする、と返したけれど、多分、勝ちも負けも相対評価なのだろう。勝って慢心するやつ、負けて心を折るやつ。そんなやつらにとっては結果は何の効力も持たない。
 ただ、千尋は違う。
 上に行く為に前を向いている。勝ちも負けも全部受け止めて、それで先へ進もうとしている。
 だから。
 自信を込めて言った。七人しかいない立海のレギュラー。まぎれもないその肩書に恥じないだけの自分でありたい。言葉に込めた熱量に気付いた忍足が一歩引く。そして彼はやっと千尋の言葉の意味を理解した。

常磐津、お前、もしかして冗談やないんか」
「話のわかんねーやつだな。いいぜ、ストレッチ終わったら軽く勝負するか」

 部長、いいっすよね。平福にそう尋ねると彼は苦笑いをしながら「だったらまずはストレッチをしろ、キワ」と正論を放る。言外の許可を得て、千尋は破顔した。

「っす」
「なぁ、お前、ホンマのホンマにレギュラーなん?」
「勝負したらわかるだろ。ストレッチ、しようぜ」

 話はそれからだ。そう言って会話を打ち切る旨を伝えると忍足の顔色が青くなったり白くなったり、興奮から赤くなったりしている。器用なやつだ。そう思いながら、ストレッチが始まる。先ほどまでの騒がしさが嘘のように必要最低限の声しか出ない。なんだ、こいつも黙れるんじゃないか。大阪の人間は黙ったら死ぬ、と思っていたわけではないけれど、騒がしい印象を抱いていた。時と場合による、という認識を上書きしているうちに一通りのストレッチが終わる。
 その頃には。他の部員たちもめいめい準備運動を終えたようで、次の指示を待っている。
 
「何、キワ。早速試合するわけ?」

 キワのくせに生意気だ。声をかけてきた千代の顔にはそう書かれていて、複雑な思いが胸中に浮かぶ。千尋が先に試合をすることへの羨ましさと、シングルスの選手としてコートに入る権利を得たことへの嫉妬、それから、千尋の世界で千代が蚊帳の外になっている悔しさ。そういう色々な感情が浮かんだ煽りを聞いて、千代の相変わらずの不器用さに苦笑するとともに、親しみを覚えた。多分、千代の言葉の向こうには激励も含められている。
 そうでないのなら。

「部長がいいって言ったんだから当然だろ」
「相手一年だろ。まだウォーミングアップ足りてなかったんならあと十周ぐらい走ってきたら?」
「お前さぁ、本当いい性格してんのな」

 間もなく練習が始まって千尋はコートに入る。
 対戦相手である忍足に声が届く範囲にいるのに千尋だけではなく、忍足も同時に煽る、だなんて行為をするわけがない。練習にもならない。それどころかロードワークの方がまだ意味がある。そんな意味にしか聞こえない。千尋は千代の煽りに慣れているけれど、忍足の方は初対面の相手から唐突に煽られる、だなんて経験がある筈もない。激昂でもしていなければいいけれど、と横目で様子を観察すると意外なことに忍足はからっと笑っていた。

「なんや、常磐津。もしかせんでもそいつもレギュラーやとか言わへんやんな」
「その冗談あんまり笑えないんだけど」
「せやな! 一年生レギュラーがそう何人もおったら立海バケモンやで」
キワ、俺たち『バケモン』だって。ツッコミで輝く常磐津千尋君から何か素敵なコメントでも返してやったら?」
「会話のキャッチボール成立してねーのにツッコめるやつが神奈川にいるかよ」

 がっくりと肩を落としながら千尋は脱力する。前向きで空気を読めないのか読まないのかの判別に困る忍足と、相変わらずの辛辣さで相手の発言を一刀両断する千代との会話は既に成立していない。二人ともがお互いのステージから下りてくるつもりがないのだから正論を振りかざすのは無意味でしかないだろう。誤りを指摘するにしても、誤りしかない状態で一体何を指摘しろと言うのだ。リアクションを拒否した千尋を千代が鼻で笑う。
 その一連の流れを見ていた忍足がまた百面相を始めるのにそれほど時間は必要ではなかった。

「えっ? 常磐津、そいつもレギュラーなん?」
「『バケモン』なんだろ。俺はキワと違って優しくないからお前みたいなその他大勢と試合する趣味ない」

 後悔の二文字が忍足の顔面に浮かんでいる。でなければあそこまで蒼白にならないだろう。それぐらいのことは千尋にもわかる。忍足は多分、一年生同士だからという単純な理由で親しもうとしているだけだ。千尋と千代は夏の大会に出ていない。本当に有力ならそこにいた筈だ。それが一般的な回答で、忍足が千尋たちのことを知らないのは罪でも何でもない。
 それでも、千代が王者立海の誇りを踏みにじられたような気持ちになっているのもわかる。
 だから。

「ダイ、やめとけ」
「レッテル貼り始めたのそっちだろ。貼り返されて嫌なら最初からそんなことするなよ」
「ダイ」
「大体、キワは甘いんだよ! 馬鹿にされてるのに相手の言い分受けるとか馬鹿のすることだろ。立海レギュラーがそんなに簡単に草試合引き受けるなんて前例作るなよ」
「いいじゃねーか。実力差どのぐらいあるか、やってみなきゃわかんねーやつもいるだろ」
「やってみなきゃわかんないような馬鹿を相手にしてるほど俺たちは暇じゃないだろ」
「暇じゃねーけど、挑まれて逃げんのは王者立海の誇りに関わるだろ」

 千代の言い分はわかる。一年生だから親しくなれる、という気持ちの一番下には対等だという意識があるだろう。甘く見られた。そのことは千尋にもわかる。それでも、と千尋は思うのだ。

「お前が煽んなくても、俺は勝つし、どういう勝ち方をしたいかぐらい俺にだってあるんだから任せろよ。それとも、お前は俺が負けるとか思ってんのかよ」
「違う!」
「違うなら見てろ。俺が王者立海の試合するから、ちゃんと見てろ。なぁ、そうだろ、精市」

 対等ではない。それを表して見せたいのならそういう試合をするしかない。ここで千尋が理想の勝ち方をすれば、四天宝寺の選手は否応なく立海の強さを認識するだろう。
 その、大切な役目を千尋が請け負った。
 一年生だから、だとか、レギュラーになって日が浅い、だとかそう言った理由付けを一切しないで部長は千尋に任せてくれた。だから、千尋千尋の勝ち方をするだけだ。草試合かもしれない。手応えなんてないかもしれない。
 それでも、千尋はこの役目に恥じない働きをしたい。
 それが立海の総意だろうと幸村を引き合いに出してまで千代に伝える。頭に血が上っている千代が弾かれたように後ろを振り向いた。そこにはいつの間に来たのか幸村が立っていて、千代がばつの悪そうな顔になる。

「由紀人、千尋に任せてみない? きっと、お前が見ても意味のある試合をしてくれるよ。そうだろ、千尋
「そりゃ、勿論」
「そう。じゃあ、俺はお前の『王者の試合』楽しませてもらうから、精々、頑張って」
「よし、任された。ってことで、おしたり、さっさと始めるか」
「……何や、俺、虎の尾でも踏んだような気持ちなってきたで。ははは、お前ら東京もん、みんなこわすぎやろ」

 俺、今から何されるんやろ。
 忍足がぽつりと呟いた言葉には答えを返さなかった。
 今から、千尋がそれを現実にするのだから、言葉で脅したり怖がらせたり、安心させたりするのはまるで意味がない。
 だから何も言わずにコートに入る。ネットの向こうで緊張している忍足を捉えて、千尋は大きく深呼吸した。

「おしたり、サービスやるよ」
「もらえるもんは何でももらうで! ほな、遠慮なくいかせてもらうわ」

 言って忍足のファーストサービスが中空から放たれた。フォーム、打点、速度。関西の強豪校の選手だけあって、どの一つも不足はない。一年生でここまで出来るのなら十分に強いと自負していいだろう。
 それでも。
 千尋は正確に追いついてリターンする。忍足の弱点を一つ見つけた。自分のプランを思い描いているのだろうが、ポジショニングで彼が待っている軌道が丸わかりだ。駆け引きはそれほどでもない。そんな評価を下しながら、千尋は敢えて忍足の待っている場所に返球した。当然、忍足はそれに反応する。自分の判断は間違っていない。その確信を抱かせて彼のペースに乗った。
 カウンターパンチャーだとお互い名乗りあったのだから、駆け引きの勝負になることは当然覚悟しなければならない。主導権を握っているのがどちらか、ということを見誤った時点で勝負に負ける。それを理解しているから、千尋は敢えて忍足のペースに乗った。その判断が下せるのはまだ千尋に余裕がある証拠だ。
 完全なワンサイドゲームでポイントを与えもせず、叩きのめす案も考えた。
 一切の反撃を許さず、圧倒的に勝つ。それは確かに王者の草試合だろう。
 でも、と千尋は思う。
 その圧倒的な勝ち方には「カウンターパンチャー」として不足がある。戦意のない相手を滅多打ちにして勝っても千尋には何も得るものがない。
 だから。

「何や、言うた割に大したことないな、常磐津!」
「まぁ、いつまでそれ言えるか知らねーけど」

 忍足のペースで、千尋が思う王者の草試合をしてやろう。そう決めた。
 ラリーが続く。不自然にならない程度に手を緩めて忍足の戦意を削がないように気を配る。ときにはポイントも与えた。正確にはときには、ではなくデュースになるまで、ポイントも与えた。でもゲームは落とさない。デュースアゲインのコールも何度も響かせた。試合運びを見守っている四天宝寺からは歓喜と応援、立海からは失望の声が漏れるのも千尋の耳で聞いた。
 それでも。
 ゲームは一つも落とさずに4-0まで来た。そろそろ、誰かが気付くころだ。忍足のポイントが勝ち得たものではなく、与えられたものにすぎないことと、全身汗だくで呼吸が乱れているのは忍足一人だということに。
 カウンターパンチャーでも、速戦を選ぶ選手がいる。忍足はそちらのタイプだろう。短期決戦型。だから、試合が長引けばその分、体力を奪われて正常な判断が出来なくなる。5ゲーム目、七度目のデュースアゲインのコール。アドバンテージサーバーを三度聞かせた。その度に千尋はポイントを奪い返した。千尋は長期決戦型だ。真田とタイブレークに突入してもそれなりに戦うことが出来るだけのスタミナとメンタルがある。
 忍足の望む場所にボールは返る。ここ、と思う場所にボールが来るのに返球しないだけの理由は忍足にないだろう。その度に体力が奪われて、思考停止しているのもネットのこちら側から手に取るように見える。
 策は成った。
 あとは、千尋が全力を出せばいい。
 八度目のデュースアゲインを響かせて、そしてそのままゲームポイント。
 四天宝寺の空気は淀みきって動揺でざわついている。
 わざとなん、とか卑怯やろ、とかそういった意味合いの声が聞こえた。卑怯でもいい。相手を完膚なきまでに叩きのめす。それが立海の美学だ。
 カウンターパンチャー同士の試合で気を抜いた忍足が100%悪い。勝てる、だなんて夢を見て決着を急いだ忍足が100%悪い。千尋は最初からスタミナ勝負の粘るプレイヤーだと名乗った。なのに、自分のペースと千尋のペースを図り損ねたのだから、忍足が100%悪い。
 だから。

「おしたり、いいウォーミングアップだったぜ?」
「はぁ?」
「まぁ、最後だし本物のサービスエース、見せてやるよ」
「何ふざけたこと言うてるん、まだ、これからやろ」
「大丈夫。反応すら出来ないから、お前もうゆっくりしろよ」

 第6ゲーム。サービス権は千尋にある。
 相手との力量差を何となく察した忍足の心はもう折れる寸前だ。その心を手抜かりなく、完全に折る。その為にどうすればいいのか、千尋は立海で鍛えられて十分に知っている。
 ボールを中空に放り上げる。そして、今までより高い打点へジャンプして強打。インパクト音と同時に強い球威で忍足の足元目がけてボールが飛ぶ。文句も、非難も、悲鳴も全部飲み込んで静寂がコートを支配した。
 これが王者立海のサービスエースだ。見せつけられて、反応出来ずに見送った忍足が思わず天を仰ぐ。

「ははっ、まだ、こんな球打てるん。反則、やわ」
「残念だけど、そのサーブ、もう三段階ぐらい速くなるから」
「あ、そ」

 まぁ、最後まで見ていけよ。言って千尋は残りのサービスを遠慮なく打ちきる。
 ウォンバイ常磐津、6-0。そのコールを受け取って、ラケットを高く掲げた。これが、千尋の思う王者立海の美学だ。スコア上の美しさは幸村のものより少し劣るだろう。それでも、千尋は胸を張って言える。圧勝した。立海の為に貢献した。
 だから。

「ダイ、どうよ。すっきりしただろ」

 満足そうな、それでいてつまらなそうな顔をしている千尋の相棒に声をかけた。
 千代はそれを受けてお得意の煽りを返す。たまには素直に首肯しろ。そう思ったけれど、言わなくても伝わるものがあることを今の千尋は知っている。

「馬鹿みたいに試合長引かせて、お前、俺よりよっぽどえぐいんじゃない?」
「仕方ないだろ。得意技の話されたんだから、得意技見せてやるしかねーじゃねーか」
「デュース八回とか、流石にやりすぎだと思うけど」
「別に俺、二十回ぐらいまで続けてもよかったんだけど」
「疑問形やめた。お前、俺よりよっぽどえぐい」

 セイだってそう思うだろ。話題に上った幸村が「俺はいいと思うよ」と返したことで千代は二の句を告げない状態になる。しばらく唇を上下させて、何か言葉を探しているようだったけれど、結局はお得意の挑発で返すしかなかったらしい。

「カウンターパンチャーってみんな頭おかしい」
「ならば俺もその頭のおかしい一人だが、言わせてもらおう」
「何、レンまで入ってくるわけ」
「ダイ、十把一絡げにしたお前の自己責任だ」

 頭がおかしくなるまで先を読むのがカウンターパンチャーの仕事だ。言って柳はどこから持ってきたのか、千尋にタオルを被せる。
 そして。

キワ、敢えて言おう。『いい試合だった』」

 細められた眦は緩やかに弧を描き、表情、そして言葉で千尋の健闘を称える。柳がこんな風に千尋を直接的に褒めることは珍しく、同時にどこかくすぐったい感覚を与えた。

「いい試合に意味なんてない、って言われるかと思ってた」
「いや、実にお前らしく、同時に立海らしい『いい試合』だった」
「そうかよ」
「同じことを言いたいやつが他にもいるようだ。お前の新しいデータ、確かに受け取った」

 だから、今日の練習からそれを活かす。言外に含められた彼の挑戦を受け取って千尋もまた破顔する。そして、柳が言い残した「他のやつ」の声が聞こえたかと思ったら、千尋の両肩に二人分の重みがあった。

キワちゃん、ようやったぜよ」
「快勝じゃねぇか、キワ!」
「ハル、ルイ、何だよお前ら」

 右肩に仁王雅治、左肩に丸井ブン太。一年生の中でも割合親しい二人が顔中をくしゃくしゃにして喜んでいる。そのあまりの喜びぶりに、勝ったのが自分だということを忘れそうになった。そのぐらい、仁王と丸井は興奮している。秋の新人戦を優勝で飾ったときでも、彼らはこんなに喜んでいなかったのは千尋の記憶違いか。そんな小さな疑問を胸中で転がして、言葉にすると仁王たちは一瞬だけ真顔に戻って、そしてまた笑顔に戻った。

「何、ちゅうか、のうブンちゃん」
「四天宝寺の一年に『一年のレギュラーが五人もおるとか、立海は二連覇する気ないんやろ』って何回言われたと思ってんだよぃ」
「同じ一年じゃったら、白石、忍足が勝てる、ちゅうやつもおっての」
「その『忍足』とお前が一発目の試合だろ。すっきりした!」

 ありがとう。
 たった五音の言葉が千尋の胸の中に響く。その言葉を聞く為に試合をしているわけではないのだけれど、レギュラーというのが部員たちの思いを背負っている存在だというのを改めて認識するきっかけになった。誇りをかけて対戦して、自分の思う試合が出来た。千尋はそれだけでも十分満たされていると思ったけれど、仲間たちの言葉は千尋を肯定する。人の期待に応えられた達成感。柳に訳知り顔で講釈を垂れた去年の春、千尋自身が言った台詞を不意に思い出した。勝ちは選手を強くする。
 千尋はまだ発展途上だ。完成なんて遠すぎて尻尾の先すら見えない。それでも、この長い戦いを続けるだけの力を仲間たちからもらった。そんな手ごたえを感じていると不意に怒号が飛んできた。

「何が『すっきりした』やねん! こっちは全然すっきりせんわ!」
「謙也、落ち着き」
「白石、お前は黙っといてくれるか! 俺、ここまで人にコケにされたん初めてや」

 何や、今の試合。馬鹿にするんもたいがいにせえや。忍足が矢継ぎ早に罵声を投げつけてくる。その一つひとつの語気の荒さが彼の激高を伝えて、千尋は怯みそうになる。試合に負けて場外乱闘か。関西人というのは本当に品のない人種だ。そんな印象を抱いて、それは忍足がしたレッテル貼りと何ら変わらないことに気付く。
 試合で勝ったのは千尋だ。負けたのは忍足で、彼からすれば人生で初めて人に愚弄されたのだろう。自分の実力では敵わない相手だ。それを受け入れるだけの余裕がない。ただ、千尋の思惑によって傷つけられたことに怒っている。
 それでも。
 吠えたてられるのが怖くて王者の椅子に座っていられるか。千尋はその答えに辿り着いて両肩の隣で状況を固唾をのんで見守っている仲間からそっと離れる。
 そして、言った。

「負けたやつがぎゃーぎゃー騒いでんじゃねーよ。恥ずかしいだろうが」
「恥ずかしい? そらお前のことやろ! テニスは紳士のスポーツや! 対戦相手には礼節を以って応じる。お前がしたんは何や! 人を小馬鹿にしてそらオモロかったやろ」
「悪いけど、俺、大阪生まれじゃねーから、人を馬鹿にしてオモロいっつー概念がわかんねー」
「なっ」
「大体さぁ、紳士のスポーツって言うけど、手加減してもらって『いい感じの試合』が出来てたらお前満足なわけ? 俺、言ったよな。カウンターパンチャーでスタミナ型だって」
「それが何やねん」
「手加減されて満足するならどっかもっと他所の学校行けよ。俺は、立海は上目指してんだよ。全力出して勝負して惨敗したからって礼節とか紳士とか引き合いに出して恥ずかしくねーのかよ。知ってる? そういうの『負け犬の遠吠え』って言うんだぜ」

 全力の勝負を望んで負けて言い訳をする。圧倒的に千尋の方が強い、と実感したのは他ならない忍足だろうに吠えるだけの威勢のよさはある。その闘争心は認める。負けに対しては敏感を通り越して過敏だ。勝つ為に必要な素養を忍足は持ち合わせている。
 ただ。

「勝負の世界は結果が全てなんじゃねーの? 文句があるなら勝てばいいだろ。合宿、残り三日以上あるんだから、お前が本当に悔しかったなら俺に勝てばいいだろ」
「はぁ? 逃げるんか」
「耳悪いのか、お前。負けて悔しいなら、俺に勝てっつってんだよ。その為の努力も何もしないで『自分に都合のいい試合』してくれなかったとか喚くなよ。負けるのがそんなに怖いならテニスなんか辞めちまえ。お前、向いてねーよ」

 一度負けたぐらいで諦めるようなやつに千尋は興味などない。
 一年間、千尋は千代と一緒にいた。相手の煽り方なら漠然とわかってきた。どう言えば、どんな言葉を使えば相手の感情を逆撫でするか。千尋自身が体験してきたことを行動に移す。
 多分。
 這い上がってくることが出来れば、忍足はもっと魅力的な選手になる。だから、敢えて突き放した。対戦相手のことは試合をすれば何となくわかる。ポジショニングの向こうに見える作戦。心理的な駆け引きを映した一挙手一投足。その思惑を実行する為に返した打球。その一つひとつが雄弁に忍足がどんな選手かを物語る。
 だから、千尋は知っている。
 忍足は選手としての魅力を持ち合わせている。彼に必要なのはよりいっそうの練習と、目標点だ。具体的で明確な到達点が見えていない。理想がないわけではない。彼のプレイスタイルから言えば、あのプロ選手を思い描いているのだろうな、ということもわかる。
 それでも。
 それだけで勝負をするには弱い。
 そのことをどれだけ優しく、柔らかい言葉で説いても伝わらないことがあるのを今の千尋は知っている。幸村が、柳が、千代が千尋にそれを教えてくれた。強くなった忍足と対等の勝負がしたい。その願望を込めて千尋は慣れない煽りを締め括る。

「で? 帰るわけ?」

 切実な思いなど一切見せずに千尋が言う。コートの外では百面相。それでも、千尋はテニスの前で狼狽することはない。今はまだコートの中にいるのと同じだ。これはテニスの駆け引きの一つ。そう思ったから、千尋はすらすらと言葉を紡げた。
 千尋の願望など知る筈もない忍足が、最後の煽りを受けて激昂する。それを聞いて千尋は口元をそっと緩めた。

「誰が帰るか! 言うたな、常磐津。絶対、俺はお前に勝ったるさかい、逃げんなや!」
「まぁ、頑張ってくれ」
「白石! 練習や! 練習!」

 勝負の美学もわからへんやつに負けたままで終われるか。
 語気荒く吐き出した忍足は彼を制止しようとしていた白石という名の少年を連れてコートを出ていく。四天宝寺の部員の半分は忍足同様に怒り心頭と言った顔をしている。残りの半分は四天宝寺と立海の実力差を知って尻込みしているようだったけれど、半分残ったなら千尋の仕事はそれなりの結果を生んだだろう。
 両校の顧問と部長が目配せして、集合の声がかかる。
 千尋の役目はここまでだ。そう思った瞬間、全身から力が抜けて崩れ落ちそうになったのを後ろで様子を窺っていた仁王と丸井に支えられる。

「悪い、さんきゅな、二人とも」
キワちゃん、慣れんことはせんことじゃ。お前さんにああいうんは向かん」
「そうそう。お前は真っ直ぐテニスやってりゃ響くんだろぃ」
「いやー、やっぱダイじゃねーから切れ味悪かっただろ。俺、もうこういうのごめんだな」

 こんな悪役を買って出る経験は後にも先にもこの一度で十分だ。そう弱音を吐き出すと二人とも異口同音に肯定する。

「ダイちゃんのありがたみがわかってよかったのう」
キワ、立てるか」
「おう、もう大丈夫だ」

 行くか。短く返事をすると二人の腕から力が抜けて自立を促す。その成り行きを受け入れて両足で地面に立つと、勢いのまま背中を押される。

キワちゃん、行きんしゃい。お前さんの場所は後ろじゃなかろ」
「俺たちも全速力で追いかけるから、そんときはシクヨロ」

 立海のレギュラーとして矢面に立つ千尋を激励して二人は後方に留まった。後ろ髪を引かれるような気持ちが一瞬湧いてすぐに消える。千尋は立海レギュラーだ。最前列にいなくてはならない。部員の思いを代弁するものとして、追いかける目標として、勝利の象徴として、常に前にいなければならない。
 そのことを改めて知ったような気がして千尋はすっと気持ちを引き締めた。

キワ、早く」
「わーってるよ」

 そんなやり取りを千代と交わしながら、千尋は最前列に並ぶ。
 誇りの為に戦った千尋を称える瞳と、侮蔑と受け取った敵意の瞳に見つめられている。
 あまりの空気の悪さに苦笑しながら、それでも千尋は帰りたいとは思わなかった。多分、それは千尋の精神が少しは成長した、ということなのだろう。この後の練習できっと、最悪の印象を持たれ続けるのだろうな、と今更気付いて少しだけ失敗したなと思ったけれど後悔はない。
 波乱の合同合宿はまだ今からが本番だ。友情を育みに大阪まで来たのではない。わかっているけれど、三十二の敵意の標的になるのは想定外だったから、幾らかは困っている。
 それでも、たこ焼きの味付け談義をしてから帰ろう、だなんて思っている千尋自身の呑気さに気付いて結局は常磐津千尋というのは馬鹿なのだと知る。
 今は、それでいいじゃないか。勝手に締め括って合宿の段取りを聞いた。
 大阪の空は神奈川の空と変わらず、青く晴れ渡っている。長袖のジャージを脱がせてくれる相手がいるだろうか。そんな期待を転がしていると知ったら四天宝寺はまた激昂だろうか。そうだとしても、これが王者立海なのだから悔しかったら勝って文句を聞かせてほしい。
 それが傲慢なのかただの矜持なのかはまだ誰も知らない。