. All in All => 37th.

All in All

37th. 冷戦の幕引き

 人の価値観は人の数だけある。
 その一つひとつに優劣を付けることは理論上可能だけれど、常磐津千尋にとっては無意味な行動にしか見えない。相手の価値観を否定して、自らの方が優れていると誇示することにどれだけの意味があるだろう。そんなことでしか自尊心を満たせないようなやつとは関わり合いになりたくない。それが、千尋の価値観だ。
 もちろん、それが万人に受け入れられるとは思っていない。
 千尋の価値観を肯定することを周囲に求めるのは、暗に自らの価値観が優れていると示すことに他ならない。つまりは価値観の押し付けだ。千尋の胸の中に描かれた理想からは程遠いその行為にはやり意味などない。
 だから、千尋は腹の底で自分の価値観を認識することがあっても、それを相手に強要するつもりは毛頭なかった。
 大阪・四天宝寺中学との合同合宿の一日目が間もなく終わる。
 顧問たちは大学生の合同コンパでもあるまいに立海と四天宝寺との生徒を全員向かい合わせになるように着席させた。当然、空気はギスギスしている。唯一、ギスギスしていないのが千尋たちの座るレギュラーテーブルで安全地帯に身を置いていることを僥倖に感じていた。
 レギュラー七人――両校合わせれば十四人だけがそこそこ親しげな雰囲気を作っている。そのことに他の生徒たちがお互いが受けた仕打ちを忘れたのかと言わんばかりに神経を尖らせていた。敵と親しくするお前たちには愛校心が足りない、ということなのだろう。
 そういう敵愾心があちこちで暴発しているのを知っていて、千尋たちレギュラーはその一切を無視することを選んだ。午後の練習で幸村精市が言っていたのを思い出す。千尋のパートナーになった四天宝寺の二年生はもう千尋を敵視していない。それどころか、お互いのプレーに有益な情報を共有出来る間柄にすらなった。それは千尋と幸村のもたらした功績で、今更意味もなくいがみ合っても何にもならない。
 ならないけれど、人には感情がある。
 無駄だとわかっていても気持ちは憤る。合理性を知っても感情論に完全に蓋をすることは出来ない。そんな中学生がいるのなら、そいつはさっさとアメリカの大学にでも飛び級進学して社会の為に研究していてほしい。
 言い方は悪いが、千尋が散々にいたぶって敗北させた忍足謙也の感情がたった五、六時間でニュートラルに戻るというのなら、それは多分、忍足にとって敗北の屈辱はそれほど大きくはなかったという推論を成立させるだろう。試合で相手に負ければ当然悔しい。平等な条件で戦っても十分悔しいのに、相手のいいように振り回されて道具として利用されていただけだと知って、自尊心を傷付けられないとかいう強靭なメンタルを持っているやつは、大器を通り越してただの馬鹿だ。
 だから。
 ギスギスした雰囲気の食堂の空気も満更でもない。
 千尋たちはお互いに暗黙裡にそう理解した。

「で? キワ、結論出たわけ?」

 合宿の食事の定番はカレーライスだと思っていた。漫画やドラマといったフィクションの世界ではそうなっている。実際、夏に開催された宿題合宿の夕食は三日連続カレーライスだった。多分、三日連続だったのは中学生であるテニス部員たちが作っても限りなく失敗の可能性が低いからなのだろうけれど、それでも流石に三日目には飽きて千尋たちはこっそりハンバーガーを買い食いした。
 その経験から千尋はこの合宿の夕食も当然カレーライスだと思っていたのになぜか今、目の前には特待寮の夕食に引けを取らない生姜焼き定食が並んでいる。寮の食事とは味付けが違う。生姜焼きというのは全国区の料理でレシピなんてそれほど変わらない、と思っていた千尋たちにとって目の前の料理は違和感を与えた。まず色が薄い。味の濃さはそれほど変わらないけれど、今食べている生姜焼きの方が若干アルコール分を感じさせた。
 生姜焼きに副えられたグリーンサラダのドレッシングもとにかく色が薄い。和風しょうゆだ。なのにほぼ透明でベーコンを揚げたものとオリーブの実がときどき混じっている。イタリアンじゃないのか。そう思ったけれど、食卓に並べられたドレッシングのボトルには確かに和風しょうゆと記されている。
 不思議な体験をしている。
 そのことが千尋たちに今朝のテンションを取り戻させた。
 コミュニケーション障害を自称し、四天宝寺の二年生とは必要最低限の会話しかしていなかった千代由紀人(せんだい・ゆきと)が会話の流れを遮って隣の千尋に話しかける。
 結論というのは何のことだ。一瞬、千代の言わんとしていることが理解出来なくて千尋は言葉に詰まった。
 頭の中で千代の話したいことを必死につなぎ合わせると、今朝のたこ焼きの話題だ、ということに帰着した。
 溜息を吐く。どうしてこいつはこう、不器用な話法しか選べないのだ。
 そう思ったけれど、千尋に話を振ってくるということは信頼されているというのと同義でどこかほっとした気もする。
 だから。

「まだだって。つーか、俺に全振りするなよ、ダイ。お前が始めた遊びじゃねーか」

 今朝、一番最初のサービスエリアでこの遊びを始めた張本人に申し立てをする。
 どうか、というのなら千代も合計三か所でたこ焼きを食べた筈だ。千代自身の味覚もあるだろう。千尋が世界の基準である筈もない。
 そう含ませて返答すると真田弦一郎を挟んで一つ向こうに座る幸村がおおらかに笑った。

「由紀人はいつも発想はいいんだけどね。まぁ、途中で飽きちゃうってのが由紀人らしいんだけど」
「飽きてない。俺より向いてるやつ見つけたのに、俺が無理しても意味ないだろ」
「だが、ダイ。俺のデータではお前が最後まで興味を持ったことがらは何らかの結果を生んでいる。その確率、87%と言ったところか」

 千代の反対隣りに座った柳蓮二が数字を持ち出して追い打ちをかける。
 何それ。そんなことまで数字取って、レンって本当に細かいよな。
 千代が満更軽蔑しているわけでもない顔で応じた。
 一年生五人が一見すると意味のないようにしか見えない遊びを始めたのを観察していた河原が不意に会話に乱入してくる。続けさまに佐用も苦笑いで口を挟んだ。

「毎回思うんだけどさー、お前たちって毎回面倒臭い遊びしてるよな。それこそ飽きない?」
「河原、空気読んであげなよ。まぁ、一年は四天宝寺の空気、読んであげた方がいいのも事実だけどね」

 君もそう思うよね、今井津君。
 佐用の無茶振りが突然四天宝寺の部長に向かう。
 今井津、というのは部長の名前だと夕食の最初の自己紹介で聞いた。
 その、今井津は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして「俺? 俺なん?」と周囲からのヘルプを求めつつ困惑している。関西人は会話なら何でもコントに出来る、と言ったのは誰だ。関東人の笑いはシュールだから理解出来ないのか。そんな一拍の間を置いて四天宝寺の副部長が「今井津アホやから、高度な笑いは理解出来ひんねん。堪忍したってや」とフォローの体をしたとどめを刺して笑う。

「で? 何の話なん?」
「何、っていうかたこ焼きの味付けの話ー? 神奈川と大阪は味違うのかってさ」
「一年生が六人で自由研究始めちゃったんだ。せっかくだから付き合ってやってくれないかな」
「おー! エエよ! たこ焼きの話やったら僕も興味あるわ」

 で、常磐津君やったっけ。君の今の仮定を聞いてもエエか?
 四天宝寺の副部長がこれ以上ないほどの笑顔で千尋に矛先を向ける。どうして俺だ。そう思ったけれど、ここで退いたら後々千代に馬鹿にされるような気がして瀬戸際で踏みとどまる。
 どこから話せばいい。
 和風しょうゆドレッシングの話題は関係があるだろうか。
 千尋の中の仮定なんてまだ何の形も成していない。それでも、向こうの副部長は千尋の話を聞きたがっている。多分、立海の六人も同じだろう。
 だから。

「海老名はいつも通りっす」

 仮定が姿を成していないのだから、せめて事実を列挙することぐらいしか出来ない。幸村たちのフォローも期待しながら、千尋は訥々と言葉を重ねていく。
 副部長はきらきらと両目を輝かせて千尋の話に食いついてきた。

「いつも通り、言うんは神奈川でいう普通言うこと?」
「まぁ、海老名、神奈川なんで」
「あっ、そうなん? 僕、関東の地名は疎くてごめんな」

 一番最初のサービスエリアで食べた一皿目のたこ焼きを思い出しながら答えると副部長がよくわからない、といった体で質問を挟んでくる。何か理解の齟齬が起こっているのを理解した千尋が不慣れなフォローを挟むと副部長はばつが悪そうに笑った。
 千尋も立海に進学するまで海老名という地名を知らなかった。だから、副部長が海老名を知らなくても仕方がないと思う。まぁ、最近ではテレビでもよくロケ地になっているから海老名自体は知っているかもしれないけれど、それが神奈川の地名の一つであるとは結び付かないのかもしれない。
 お互いの常識のすり合わせをするかのように会話は続く。
 常識は常に識ると表す。その字面の通り、常に知っているべき知識なのだけれど、その範囲が驚くほど狭いというのは千尋自身、神奈川にやってきて痛感した。千尋の郷里では常識だったことが神奈川では常識ではないし、神奈川の常識は千尋の常識ではない。
 だから。
 常識の定義や範囲はお互いが歩み寄れば無限大の可能性を持っていることも千尋は知っている。
 そのことは三強が粘り強く教えてくれた。
 今は、千尋が一歩踏みとどまるときだ。そう思ったから千尋は副部長に向けて言葉を続けた。

「で、次が養老なんすけど」

 東名高速道路が終わって名神高速道路に入る。それからしばらくしてバスは二度目の十五分休憩を挟んだ。そのサービスエリアが養老だ。千代は二皿目のたこ焼きを買った。たこ焼きの屋台の前で一年生六人、並んで一つずつ食べた。千代にばかりおごらせるのは何か不平等な気がして、千尋とジャッカル桑原は自分たちの財布から半分ずつ負担して買ったペットボトルを千代に押し付けた。銘柄は千代の好きなものを選んだ。嬉しそうな困っているような複雑な顔をした千代の表情を覚えている。
 その、養老のたこ焼きの味を何とか表現しようとした。
 なのに。

「今井津、鉄オタやろ。養老、何県や」

 副部長は千尋の説明を遮って隣の今井津に話題を振った。
 随分と忙しない人だ。そんな印象を受けたけれど、副部長のテニスに対するスタイルは千尋に近いものがある。どっしりと構えた基本に忠実なプレー。その彼が項垂れていた今井津に返答を迫る。人はコートの中と外でこれほど違う。千尋と接する相手も同じ思いだろうか。そんなことを思いながら千尋は今井津が受け答えするのを聞いていた。

「岐阜や。岐阜。綾川、鉄オタ=地理詳しいちゃうからな! 養老鉄道あるからやからな!」
「で? 養老、どうやったん?」
「無視か! 綾川、無視か!」

 多分。副部長――綾川にとって養老が何県なのかはそれほど重要ではなかったのだろう。それなのに敢えて訊いた。その話法というか、会話の組み立て方がどうしてだか幸村を連想させて、千尋は不意に温かい感情を胸の内に感じた。
 綾川に話題を振られて無理やり会話に参加させられた今井津が吠える。
 別に彼の趣味が何でも千尋には関係がない。ただ、綾川が今井津を信頼していなければ成り立たないやり取りで、まるでテレビの向こうのお笑いを見ているような気持になる。返答を期待していない聞き手と、話したのに報われない話し手。どこか既視感を覚えるこの二人も面白いダブルスをするのではないか。そんなことを感じたけれどそれは言葉にはしない。
 その代わりに。

「えっと、あの、綾川さん? 今井津さんがすごいアピールしてるんすけど」

 聞いてやってほしい。その思いを込めて綾川に声をかける。多分、綾川は今井津を無視するだろう。わかっていて聞いた。
 その期待というか、予測に近い思考を肯定するように綾川は表情一つ変えずに元の話題に乗る。会話の技術が高度すぎて千尋が流れの主導権を得るのは不可能だと察して、受け流すことを選んだ。

「無視でエエで、常磐津君。で? 養老、君の味やった?」

 養老のたこ焼きの味を思い出す。
 美味かった。それは間違いがない。でも、海老名のたこ焼きだって美味かった。
 たこ焼きを焼いている人間が違うのだから味が違う。店が違うのだから違う。そういうレベルの違和感だったから、千尋は返答に困ったけれど、結局は直感を優先させた。

「俺の知ってるたこ焼きって言えばそんな感じでした」
「ほな、君の中ではどこから違う、て思ったん?」

 名神高速道路を更に下って最後の休憩は滋賀県・大津だった。琵琶湖畔を見渡す高台で千尋たちは三皿目のたこ焼きを食べた。はっきりとした差を感じたのはここだ。
 だから。

「ダイ、やっぱ大津だよな」
「俺的には養老もあやしいけど、大津は堅い」
「そうだね、俺もその意見に賛成かな」

 確認の形をした確定の言葉を千代に向ける。隣の千代はいつも通り、素直にそれを肯定してはくれなかったけれど、一応は同意した。幸村が千代の意見を肯定して、立海一年生の自由研究の線引きは滋賀だという結論を導く。柳と真田も静かに頷いたから、これが答えでいいだろう。
 そんな千尋たちを見ていた綾川が「まぁ、滋賀は関西やからね」と呟く。関西の定義には諸説あるけれど、近畿より範囲の狭い言葉だ。柳がバスの中で垂れていた高説を思い出す。近畿は二府五県。三重県を含むけれど、関西に三重県は含まれない。その代わりに三重県は東海の一部になるらしいけれど、その東海という定義にも所説あり、東海三県と言った場合に三重県と静岡県のどちらが省かれるのかは当人たちの自己主張に依る。そんな説明をすらすらと口にしていたのを気が遠くなる思いで聞いた。
 それを思い出して、まさか本物の関西人の前で同じことを言いだしはしないだろうなと若干不安になったけれど、その心配より先に綾川が会話を前に進めた。

「参考に聞くけど、君ら何を根拠に『違う』言うん」

 僕らみたいに関の西と東で拘ってるわけやないやろ。
 その、言外の線引きを聞いて千尋は千代と顔を見合わせる。関の東と西ではない。西の方が上だ。綾川が無意識的に思っていることが言葉に出ている。東西、という言葉すら否定しそうな勢いで、関西人のプライドの高さとかいうやつを垣間見た気がした。
 その、プライドの高い関西人の前で彼らが生み出したジャンクフードの根幹の話題を出すのは礼を失しているのではないか。遅ればせながらそのことに気付いて、それでも会話はもう始まっている。引き返す地点などとっくに通り過ぎているのだから、と二人目配せして腹を括った。
 自分なりの解釈、というやつを思い切って口にする。

「生地」
「ソース」

 同時に言った単語が噛み合わない。
 頭は正気か。その露骨な侮蔑を隠すこともしないで、千尋と千代はお互いの意見を却下し合った。

「はぁ? 断然生地だろ」
キワこそ何言ってんの。ソースに決まってるだろ」

 生地とソースを交互に主張しても終着点などどこにもない。
 今井津が「二人とも、その辺で。な?」と取り成してくれたけれど、それすらも無視する勢いで千尋と千代はお互いの見解を否定し合う。
 その意味のない意地の張り合いを終結させたのはやはりというか、当然というか、幸村だった。

千尋、由紀人。俺は両方だと思うよ」

 両方とも俺の思うたこ焼きとは違う、と思う。
 はっきりと断言された答えに千尋と千代は矛先を収めるしかなくて、言葉を飲み下す。これ以上、千尋たちが争うのなら完全に論破して二度と立ち直れなくなるまで叩き潰す、と宣告されたも同然だ。そのぐらいのことは千尋たちがいくら馬鹿でももうわかっている。
 舌戦で幸村に勝つのは無理だ。
 それに、幸村は千尋たちの両方を肯定した。見解の相違。それでも、両方を肯定するのなら千尋たちに優劣がついたわけではない。潮時を察した。
 大人しく流れに乗ることを千尋たちが決断したのを見届けた柳が「精市の意見に加えて言うのなら」と会話の続きを引き取る。

「その二つの要素に加えて『出汁』の違いだ、と俺は見ている」

 その言葉に幸村、今井津、綾川――に加えて成り行きを見守っていた残りの四天宝寺レギュラーたちも納得の表情を見せる。
 これほど多くの人間を一瞬で納得させたたった二音の単語が理解出来なくて、千尋は自らの無知を恥じながら柳に問う。

「蓮二、だし、って何だ」
「家庭科の調理実習でやっただろう。鰹節だとか煮干しだとか昆布だとかを湯に通したものだ」

 お前が必死になって布巾を絞ったあの「出汁」だ。
 追い打ちをするように柳が言う。そこまで言われて、ようやく千尋は出汁の正体を知った。それでも、字面が分からないから千尋はひらがなで発音するしかない。それは隣の千代も同じだったようで、そのことに心のどこかで安堵した。

「ああ、なる。だし、な」
「レン、だしの違いって何だよ」
「所説あるが、俺たちが普段口にしているのが関東風。鰹節を使ったものだ」

 小麦粉を溶くときに出汁を使う。それが根本的な味の違いだ。
 そんな説明を始めた柳を丁度いい頃合いで遮って綾川が「なるほどなぁ」と口を挟んでくる。
 年長者である綾川を無下にするわけにもいかず、柳は一旦、口を閉じた。

「僕らは鰹節の後に昆布使うね。その違いて柳君は思とるん?」
「いえ、キワやダイが言った要素も確かにあるのでは? あとはそうだな。仕上げのやり方が少し違う」
「そうだね。こっちは『ふわふわ』で『とろとろ』だったけど、俺たちが普段食べてるのは『カリカリ』で『ふわっと』だから食感も違っていたと俺も思うよ」

 そう言う意味では由紀人の言ってた通り、養老は俺たちの味じゃなかったって思ってる。
 幸村がそう付け加えたことで、千尋と千代の小競り合いに再び火が灯りそうになったけれど、それは柳が再び解釈を述べ始めたことで待ったがかかる。

「この差が生まれたのは関東では最後に油をかけて鉄板の上で『揚げた』状態で仕上げるが、関西ではそれがない、というのが大きな理由だろう」

 そうですね? 綾川さん。
 まるで二時間ドラマのサスペンスのような口調で柳が綾川の言質を取ろうとした。お前はいつの間に刑事か探偵になったのだ。お互いが小さなツッコミを心の中で吐露したことは千代と顔を見合わせればわかった。だから、苦笑いで論争のドローを受け入れる。多分、柳はそこまで計算して口を挟んできたのだろう。そう思うと、千尋たちは一生柳の掌の上で踊っているしかないのだろうけれど、それはそれで満更悪くもない。釈迦の掌の上から出られなかった孫悟空は罰を受け入れたけれど、最後には評価される。千尋たちはそういう味のある馬鹿になりたかった。
 そんな千尋たちの終戦を知らない綾川がこの世のものでないものでも見たような素っ頓狂な声を上げたことで、二人ともが現実に帰ってきた。
 
「えっ、柳君、幸村君。君ら、揚げたこ焼きをたこ焼きやと思とる、言うこと?」
「何らかの線引きをするのなら、そういうことになる、と俺は思いますが」

 俺たちの結論では納得してもらえませんか。柳がそう締め括ると綾川は一瞬戸惑って、それでも彼の中に突然に与えられた食の東西の差の大きさに驚いているということを全力で伝えてくれた。

「今井津、聞いた? 関東、揚げたこらしいで」

 「揚げたこ」と「たこ焼き」というのは別の料理だとか、関東は粋ではないだとか、それはまがいものだとかそういう批判が来るのを立海の七人は無言で覚悟した。多分、それは千尋をはじめとする立海七人の中にあった「関西人のステレオタイプ」なのだろう。自分たちの文化に誇りを持っていて、独自性があることを何よりも重視する。だから、貶されるのは仕方がない。やっぱり関西人なんてそういう人種だ。
 諦めと負け犬根性のコンボで勝手に今井津や綾川の反応を決めてしまいそうになった頃、今井津が静かな声で言う。

「エエんちゃう。こっちにもあるやん。銀座たこ焼き。あれはあれで美味いから俺、エエと思う」
「まぁ、せやな。美味いな、あれ」
「せやろ。美味いもんに罪はないからな、綾川」

 な。君もそう思うやろ、常磐津君。
 名指しを受けて千尋は「えっ、あぁ、そうですね」と答えたけれど、多分今井津は千尋たちの先入観に気付いていたのだろう。それでも、和解、という答えを導き出したかったから舌戦では負けると示して見せた綾川の言葉の先を遮った。部長という肩書は伊達ではない。そんな器を見せられたようで、千尋は何となく四天宝寺という学校のことを嫌いにならなくてもいいのだと察した。
 レギュラーテーブル以外は黙々と食事を続けている。この一連の流れを受けて「お前ら、ほんまのたこ焼き食うたことないんか。明日、練習終わったら連れて行ったるわ」と提案するものや「俺らのおすすめの店あんねん。自由研究仲間外れされたん可哀想やから食わしたるわ」と同情するものや「揚げたこって美味いんか? 俺、食わず嫌いやったかもしれん」と美食の道を極めようとするものなど、四天宝寺の歩み寄りが見られる。急に敵愾心が薄くなって話しかけられたことに、立海生は戸惑いながらも食べ物の話をされて悪い気はしなかったのだろう。一年生レギュラーたちが勝手に徒党を組んで自分たちの知らない間に面白そうなことをしているのに疎外感を感じていたのも上手く作用して、「まぁそんな美味いんだったら連れってってくれよ」と和解の態度を示し始めていた。
 その結果の一つが向こうから歩いてやってくる。
 忍足謙也だ。
 ばつの悪そうな顔で「常磐津」と声がかかった。

「何だよ、おしたり」
「俺の名前やけどな、忍者の「忍」に手足の「足」書いて忍足や。これでもう覚えられるやろ」
「うん、まぁ覚えられる、と思う、けど?」

 それがどうした。暗に含ませてつっけんどんに返す。
 一方的に喧嘩を売られて買わないほど千尋は分別のある少年ではない。そんな英明さは幸村や柳か柳生比呂士に任せてある。千尋の役割は遊軍だ。いつか柳とそんな会話をした。突然に表れて、戦果を残す。だから、思い切りの良さと土壇場で尻込みしないだけの気概を持った。それを活かす為の自主練習をもう一年弱続けている。
 練習は自分を裏切らない。自分自身も自分を裏切らない。
 だから。
 それがどうした。強気の態度に出た。それでも、忍足の名前は必死で覚える。それが戦う為の最低条件だと無自覚的に気付いていた。
 そんな風に腹を括ったと知らない忍足は不安そうな、不愉快そうな複雑な表情で、それでも視線の強さだけは決して緩めないで千尋を見ている。
 そして。

「一つ聞いてエエか」
「まぁ、別に、いいけど」
「お前、本気でやったらどんぐらいなん」
「ニ十分かかんねーぐらい?」

 ウォーミングアップにもならない。言外にそう含ませる。二十分、と忍足が驚愕に瞠る。たった二十分で完封か。その事実を突きつけられてまた怒り心頭なのかと千尋は若干うんざりしたけれど、忍足はその憂鬱のまま終わりにはしなかった。

「そのお前、立海で何番目なん」
「一つじゃなかったのかよ。まぁいいけど。五番目だよ、ご、ば、ん、め!」

 半ば自虐だ。七人しかいないレギュラーの五番目。下から数えた方が早い。それでも、千尋がレギュラーであることは誰にも否定させない。
 その意気込みも込めて、一音一音をはっきりと区切って伝えた。
 五番目。まるで幽霊でも見たかのように呆然とした顔で忍足は千尋の言葉を受け止めた。
 その双眸から曇りが消えているのに気付く。立海五番手の千尋で二十分の試合。その結論が彼の中に浸透するとまた次の問いが来る。尽きないほど問いがあるのなら、最初に一つだけとか前置きをするな、と心の中でクレームを付けて、それでも満更不愉快だと思っていない自分に苦笑した。

「一番強いやつとどんぐらい差があるん」
「俺? 精市、俺、お前とやって最高何ゲームだったっけ」
「4ゲームだったんじゃないかな」
「だってさ。4ゲーム。まぁブレイクしたことねーけど」

 どうだよ、勝てそうか。忍足にその言葉を投げかけると「正直、今の俺には無理や」と思ってもみない言葉が返ってきた。昼間、あれほどまでにいきり立っていたやつが口にする言葉とは思えない。何の心境の変化だ。いっそ気持ちの悪さすら感じさせて、忍足は「でも」とまだ言葉を続けた。

「でも、俺は絶対お前より強なる。強なって、二十分でお前倒せるまで練習するから、そんときは本気でやろうや」
「合宿終わるまでに負かしてくれるんじゃなかったのかよ」
「俺、リアリストやねん。現実無視して、願望だけで生きてへんからそのぐらいはわかる」

 今のお前に、今の俺で何やっても勝てへん。
 その身を切るようにして紡がれた切実な言葉が千尋の胸を打つ。それでも、負けたまま終わらせたくない。その気持ちを千尋は痛いほど知っている。今は勝てない。だからといってそこで諦めたくはない。だから研鑽を続けて、いつか追い越す。
 現実主義者だと忍足は言った。
 自分の置かれた状況を客観視出来るこいつは大した器だ。素直にそう思う。
 そう思ったら、千尋の口角が少し上がった。
 それを見て、忍足の眉間に皺が生まれる。

「何や。笑うなや。俺、真剣なんや」

 真剣なのはわかる。わかるから千尋の表情は笑みを形どる。
 幸村に敵わない自分。それでも前を向き続けると決めた自分。4ゲームが最高成績でブレイクはなし。なのに幸村に「負けたまま終わらせない」と誓った自分。
 そんな自分が忍足の姿に重なって見える。
 だから、笑みを向けたのは忍足だけにではない。彼を通して見えた自分のことを認めたいと思った。勝ちたいと思う気持ちに理由は必要ではない。細々とした理由をあげつらわないと戦えないほど千尋は弱くない。勝ちたい。それ以上の何が勝負に必要だろう。
 敵愾心から生まれた向上心かもしれない。
 まだ憎しみや侮蔑の感情が残っているかもしれない。
 それでも、千尋の目に忍足は前を向いているように映る。
 前に向いているやつを嘲笑うほど千尋は悪趣味ではない。
 必ず同じ舞台まで上ってくると口にした。その決意が本物なら、分かり合えると思った。

「別にお前を笑ってんじゃねーよ」

 楽しみが出来た。
 その笑みだと伝えるのは不遜な気がして口にしない。
 難しい表情をしたままの忍足に、何を言えば分かり合えるだろう。千尋自身の語彙力や表現力の少なさがこんなところで不自由を感じさせる。一年間、必死に小学校の勉強をした。それでも、千尋の中にある言葉はまだ多くない。
 その一瞬の躊躇で忍足は千尋の言葉に一喜一憂しているのだということを伝える。

「ほな何やねん」

 何なのだろう。忍足を不必要に煽らなくて、安心させられる魔法の言葉があればいいのに、そんな便利なものはすぐには見つからない。
 だから。

「なんでまた急に折れてきたんだろうなーって」
「そら、決まっとるやろ」

 大阪に来る為に大阪のことを考えてくれるやつを無下にするのは大阪人のプライドに関わる。
 その言葉を聞いた瞬間、食堂の張り詰めていた空気が一瞬で霧散した。
 千尋だけではない。立海三十二人。四天宝寺三十一人。その全てが忍足の言葉で剣呑さを手放した。
 人を思いやるという気持ちに関の東西は関係がない。そう言われたも同然で、これ以上険悪さを持ち続けるのなら、そいつには思いやりがないのだと暗に示されてしまった。この状況で、それでもなお相手を憎み続けられるほど、立海も四天宝寺もお互いのことを知らない。
 多分、それだけのことだったのだろう。
 それでも、最後に背中を押したのは間違いなく忍足だ。

「お前、いいやつだな」
「なっ、人を馬鹿にしとるんか、常磐津
「だってそうだろ」

 険悪な雰囲気を作った張本人で、恥をかいたのも忍足本人だ。
 その忍足が恥をかかせた千尋を受け入れる。千代が始めたたこ焼き研究がこんなところで生きるだなんて思ってもみない展開に千尋は小さな感動を覚えた。
 謙也、と今井津が忍足に声をかける。

「何ですか、部長」
「お前、レギュラーやないけど最終日に常磐津君ともう一回試合させてもらおうや」
「部長、三日でこいつに勝てるほど、俺、天才やないです」
「二十分で負けて来たらエエやん。そんで、夏の全国大会で借り返そうやないか」

 三日では足りなくても三か月あれば何かが変わるかもしれない。変えてみせろ、と今井津は忍足に発破をかける。
 忍足はその無理難題にしか聞こえない目標を聞かされて、ひとしきり悩んだ挙句、強い輝きを宿した瞳で千尋を見た。

常磐津、俺、夏までにレギュラーなるわ」

 そして立海レギュラーである千尋と戦う。
 その一点の曇りもない宣戦布告に千尋の胸の内が輝いた。

「おう、じゃあ全国大会楽しみにしてる」
「白石! そういうことやから明日から特訓や!」
「謙也、その前に常磐津君に言うことあるんちゃう?」
「あ!」

 あ、と忍足は叫んだけれど、千尋には心当たりがなくて頭上に疑問符が並ぶ。
 そんな千尋にはお構いなしで、忍足は「常磐津!」とひと際大きな声で千尋を呼んだ。

「何だよ、別に俺は言うことねーけど」
「すまんかった、常磐津
「は?」

 最敬礼ではないかと思うほどほぼ直角に身を折って忍足が謝罪の言葉を口にする。
 そして。

「明日からお互い練習頑張ろや。あと、明日、練習終わったら俺らと道頓堀いこ。大阪でいっちゃん美味いたこ焼き、食べて帰ってや」
「まぁ、いいけど」

 それが俺らのおもてなしや。
 言って、この合宿が始まって以来最高の笑顔が千尋を見た。何だ、こいつ、やっぱりいいやつじゃないか。胸の中でその感想を転がして、千尋も明るい笑顔を返した。
 それを見守っていた周囲も和解ムードで、レギュラーテーブルに至ってはいつもの煽り合戦が始まっている。馬鹿の集まりか。不意にそう思って、千尋自身もテニス馬鹿という馬鹿だったことを思い出す。

「じゃあ、それ、キワと忍足のおごりってことで」
「いいね、由紀人。俺も乗るよ」
「俺も乗ろう。地元出身の忍足が言う『一番』を味わってみたいからな」
「そういうことならば俺もだ。千尋、明日は頼んだぞ」
キワ、サンキュー! たこ焼き研究の締め括り、最高じゃないか」

 立海一年生レギュラー全員が千代の煽りに乗っかかって悪ふざけの声を投げてくる。二年生である河原たちはニヤニヤと成り行きを見守っているけれど、止めてくれる雰囲気でもない。四天宝寺の今井津や綾川も「白石、謙也が羽目外しすぎひんように見張っといてな」というばかりで忍足を助ける雰囲気ではなかった。
 千尋は忍足と二人、目配せで展開の不利を打開する方法を探ったけれど、そんな都合のいい手段なんて思いつけるわけもなく、結局は二人してどちらからともなく溜息を吐いた。

常磐津、所持金今なんぼや」
「その前に、お前が言う『一番美味いたこ焼き』幾らなんだよ」
常磐津、俺、頭痛いわ」
「悪いな、悪ふざけでも立海、日本一みてーだわ」
「お前、意外と苦労しとるんやな」
「お前ほどじゃねー」

 大きな溜息をもう一つ零す。
 そして。

「一人一粒な! はい決定。今決定。それ以上食いたいやつ自腹。以上、晩飯終わったやつから解散!」
「四天宝寺も解散しぃや。三秒以内に十文字でおごらせる理由言えたやつだけおごるわ、さん、に、いち。誰も答えへんかったから俺おごらへんな。はい解散や」

 千尋は立海レギュラーにおごるのを容れたけれど、忍足はそれすらもシャットアウトした。
 性格の違いが出ている、と食堂に笑いが起きた。ほんの十五分前まで冷戦をしていたとは到底思えない空気に、今井津が苦笑いを浮かべている。立海の部長である平福がお互い苦労するな、という旨の激励を送って食堂を出ていった。それをきっかけに他の部員たちも徐々に食堂から去る。
 人の数だけある価値観に折り合いが付けられる瞬間。その瞬間、そいつの人生という道がいっとう輝くのだということを教えてくれた合宿一日目の夜がもうすぐ終わろうとしていた。