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All in All

38th. 契約更新

 約束を交わす、というのはその当事者の間で信頼関係が成り立っているということを意味する。
 それが最上の信頼なのか、その場限りの利害が一致しただけの信頼なのかは場合によって異なるけれど、それでも形だけでも信頼が成り立たないと約束は成立しない。
 常磐津千尋は天性の機械音痴だ。携帯電話の使い方は最低限の基本操作しか知らないし、テレビ番組を録画することも一人では出来ない。それどころか、レコーダーをどう操作すれば録画した番組を再生出来るのか、ということもおぼろげにしか理解していない。パソコンの操作などもっての外で、今後科学技術が世間に広く浸透していき、情報機器の操作が日常の一部になったときに千尋が一人で生きていけるのか、仲間たちは胃が痛い思いをしているだろう。
 そんな千尋だったけれど、毎日使う携帯電話よりずっと上手く使える機械が一つだけある。
 今世紀最高の出城――ではなくコンパクトデジタルカメラ、コンデジだ。
 適性があったとしか言いようがない。仁王雅治がそう言って複雑に笑いながら千尋の才能を評価したとき、千尋はどこか誇らしい気持ちになった。
 仁王と写真についての会話をするとき。そのときだけ千尋はテニスのことを忘れている。そう気付いた千尋は自分の中の優先順位の二位を写真に与えた。一位のテニスとはダブルスコア以上の思い入れの差はあったけれど、それでも二位は二位だ。生れて初めて二番目に好きなこと、というのが出来て千尋は少し自分が成長したようなそんな充足を覚えた。
 その、コンデジが突然に千尋と再会したのは大阪・四天宝寺中学との合同合宿二日目のことだ。

キワ、部長がこれお前にって」
「コンデジ? 誰の?」
「さぁ。よくわからないけど、朝の自主練終わってキワがトイレ行ってる間に部長が持ってきた」
「そのタイミングだとルックも一緒だったろ。何か聞いてねーのかよ」
「俺? 何も聞いてないぞ」

 寧ろコンデジがこの場にあるのすら初めて知る情報だとジャッカル桑原が言う。
 千尋にコンデジを手渡した千代由紀人(せんだい・ゆきと)は「確かに渡したから」と言って、頭の上に幾つも疑問符を浮かべている千尋を放置して食堂に消えた。食堂の中には立海部長である平福もいるだろう。どういう意味なのかはそこで聞けばいい。そう思いながら千代から受け取ったコンデジを上着のポケットに突っ込んだところで別の集団に捕まった。

キワちゃん、今、ええもん隠したじゃろ」
「お前、また広報かよ。飽きねーなぃ」
「それはそうでしょう。何せ、キワ君の腕前は折り紙付きですから」
「ああ、あれな。俺も見たぜぃ」

 昨年の海原祭が閉幕して一週間経った頃のことだ。立海全校に二十枚の写真が掲示され、気に入った一枚への投票が行われた。その、中学生部門で千尋の写真が優秀賞を得たことを丸井ブン太たちは言っている。何がどう良くて優秀賞だったのかは千尋自身理解していない。ただ、テニス以外のことで褒められるのは生まれて初めてで、全校集会で表彰される段になってようやく千尋は「一番」を得たのだと実感したのだけれど、今の今までそのことを忘れていた。
 丸井たちもコンデジの存在によってそのことを思い出したらしく、またいい写真を頼む、と言いながら食堂に入る。
 いい写真の定義というのが何なのか千尋にはわからない。
 たった二週間、写真に向き合っただけの千尋の一枚がどうして一番になったのか。その理由や根拠を仲間たちに尋ねるとてんでばらばらな答えが返ってくるばかりで、核心に触れる気配は少しもない。
 あの幸村精市ですら千尋の写真の何が優れているのかを明文化することが出来ないのだから当然と言えば当然だ。だから、千尋は自分の心を満たす言葉を求めることをやめた。そんな便利な言葉なんてこの世のどこにもない。答えが知りたいのなら、同じ評価を得られるまで繰り返すしかない。茫洋とそのことを理解して、千尋もまた食堂の中へ入った。
 二日目の朝食からは座席指定がなくなり、自由意志で座ってもいい、と両校の部長が告げたので見慣れた顔ぶれが揃っている場所へ足を向ける。屋上庭園の昼食メンバーが一堂に会している中に入ると慣れない筈の大阪の大学がホームグラウンドに感じた。
 朝食として配られているのは千尋が持ってきた鮭定食と千代が既に頬張っているトーストとサラダのセットで、気心の知れたメンバーがそれぞれを選んだ割合は半々といったところだ。同じく鮭定食を美しい所作で食べている真田弦一郎の隣に座る。
 真田の箸の使い方はいつもきちんとしていて、彼の育ちのよさを感じさせた。それに比べて千尋はそれほど箸の扱いが上手くない。第一印象から言えば礼儀作法について細やかそうな真田だったけれど、鬼の首を取ったように責められたことは未だかつて一度もなかった。ただ、千尋が勝手に見本としているのに気付いた真田が彼の家に泊まる度、一緒に悩んでくれるようにはなったから、本当に気にしていないのではなく真田が彼の価値観を千尋に押し付けるようなつまらないやつではなかったと知っている。
 その、真田の隣で真田と同じ定食を選ぶと当然のように幸村がダメ出しをしてくる。柔和そうに見える幸村の印象から言えば意外で、それでも彼と一年の間一緒にいると別段不思議でも何でもないのだとわかるようになった。

千尋、また重ね箸してるけど、香の物も挟みなよ」
「わかってるって」
「わかってないだろ。ほら、今も移り箸が出た」
「お前、本当に俺の母親かよ」

 溜息とともに感想を吐露する。幸村の注意は全ての相手に向けられるものではない。彼が認めて、彼の中で意味のある存在にしか幸村は注意をしない。それ以外の相手には愛嬌をもって柔らかく振る舞い、決して否定などしない。そのことを知ったとき、千尋は煩わしさと充足とを交換した。口やかましく幸村が注意をするのは彼にとって常磐津千尋というのが対等な存在であるという意味に他ならないのなら、その立ち位置と向き合いたいと思わない筈がない。
 愚痴をこぼしたけれど、それでも本当に心の底からうんざりしているわけではなかったから幸村の注意を受け止める。
 それを千尋の向かいで見ていた仁王がにやにやとした顔つきをしていた。

キワちゃんには母親が三人もおってええのう」
「そういう仁王も探り箸してないで、ちゃんと豆腐の味噌汁を飲んだら?」
「ハル、三人目の母親はお前の母親でもあるからちゃんとしろよ」

 怒られろ。怒られろと軽口を叩くと千尋の三人目の母親――幸村が食事中の会話の是非について論議を始めそうな雰囲気になり、仁王と二人顔を見合わせて目の前の定食を慌ただしく食べ終えた。それを見ていた周囲がそれぞれの表情で笑みを形どったのにも気付いたけれど、それを指摘すれば説教が始まるのは想像に難くない。
 そこまで馬鹿ではない千尋と仁王は無言で朝食を全部平らげてほぼ同時に箸を置いた。

千尋、仁王」
「ごちそうさまです!」
「ごちそうさん!」

 食後の挨拶がまだだ。その催促を受けて二人揃って両手を合わせる。三人目の母親が一番厳しい。そんな愚痴を眼差しに込めて仁王を見ると似たような表情をした瞳と視線が交わったから、多分彼も今同じ感想を抱いたのだろう。
 こんな朝食があと二回残っているのか、と想像した千尋を疲労感が襲う。箸のマナーについて咎められるのがわかっているなら、明日からは千代のようにトーストの方を選ぼうか。そんな解決策になるようでならないことを考えていると不意に千尋の名前が呼ばれる。

キワ、ちょっといいか」

 声がした方を振り返ると両校の部長が並んで立っている。何を言われるのだろう。身構える千尋を平福が手招く。仁王が千尋の向かいで「キワちゃん、身構えなさんな」と小さな声で言った。何かを咎められるほど千尋の人生に非などないだろう。その響きを含ませた仁王の声に励まされて千尋は席を立った。

「何すか、部長」
「カメラ、ダイから受け取っただろう」
「ああ、これすか」

 上着のポケットに仕舞ったカメラのことを思い出す。既視感を抱かせたコンデジで出来ることなんて一つしかない。写真を撮る。カメラをそれ以外の用途に使えると思うほど千尋の思考は柔軟ではないし、奇をてらった発想が出来る筈もない。
 だから、カメラを渡された以上、写真を撮ることを求められたのだということは一応理解していた。
 ただ。
 被写体が何か、とか、どの時間を使うのか、などの細かな条件が明示されていなくて不安が胸の内に湧く。朝食ならもう終わった。二十分後には朝練前のミーティングが始まる。千尋は今日も練習に次ぐ練習を重ねる予定だ。一体、いつ写真を撮れ、というのだ。
 表情を曇らせた千尋を慮るように爽やかに笑って平福は決定打の一言を放つ。

「お前の休憩のタイミングでいい。時々写真を撮っておいてくれ」
「撮って、どうするんすか」
「お前も見覚えのあるカメラだっただろ。次の海原祭のときにフォトブックを作りたいんだそうだ」

 だから、キワ、そのカメラはしばらくお前に預ける。
 その言葉は千尋にとっては死刑宣告と同じぐらい残酷な響きを持っていた。
 千尋は成績がいい方ではない。頭の回転がそれほど早くはないのだから、順当な結果だ。だから、立海の部員ならみんな知っている。千尋に二つ以上のことを並行して進めさせるのは殆ど不可能だ。コンピュータで言えばマルチタスクの出来ない平凡で性能の悪いCPUを積んでいる、としか表現出来ない。
 シングルタスクの千尋にカメラを預けたらどうなるか。平福が本当に考慮しなかったのだと言うのなら、それはもう平福の采配ミスだ。去年の海原祭のときは部活も授業も全部ストップしていた。ひたすら写真を撮るのが千尋の仕事で、だからこそ成り立っていた。平福がそれを理解していない筈がない。なのに彼は千尋に写真を撮れと言う。

「俺じゃなくても、広報他にもいたじゃないすか」

 ようやくのこと絞り出した反論に平福はからりと笑って流した。

「仁王にもコンデジを渡してある。お前たち二人で好きな写真、撮ってくれればいい」

 俺もお前たちの写真が一番いいと思う。平福はそう言うが千尋の頭はオーバーフロー寸前だ。テニスに全部を注いでいたいのに別のことにも注意を払えと言う。それが出来るなら今頃千尋は全能だ。一点突破しか出来ない。だから、千尋のテニスの技術は向上した。
 ちょっとだけ、たまたま、偶然に奇跡的に千尋の写真の一枚が評価を受けた。ただそれだけのことなのに周囲が過大評価をしているとしか思えない。
 せっかく針の筵から解放されたと思ったのにもう次の筵が待っている。どんな苦行だ。
 部長で先輩の平福を詰るという選択肢は流石に生まれず、困惑の矛先は仁王に向かった。

「ハル! お前知ってたな! 知ってて黙ってただろ!」
「ええじゃろうが。別に誰から聞いてもお前さんの役割は変わらんし、お前さんに拒否権はないんじゃ。結果も変わらん」
「いや、俺、レギュラーなんだけど?」

 立海レギュラーで五番手。残りの六人だって必死に研鑽して強くなる。誰よりも質のいい練習をしなければ上を目指すどころか現状維持だって難しい。五番手の千尋の後ろには二人しかいないのに他のことに集中力を分散している場合でないのは自明だ。
 平福は千尋にレギュラーを降りろと言っているのだろうか。そうでなくても、相応しくないと告げられていると感じてしまうぐらいには千尋に余裕がない。
 息が詰まりそうだ。
 どうして、と、なんで、を数えきれないぐらい胸の内で繰り返した。
 練習態度が悪かったのか。上から目線で忍足健也を負かしたのがよくなかったのか。王者立海の名に恥じる行いがあったのか。
 何度も、何度も自分を振り返って、自省するべき点が星の数ほど浮かんでは消える。
 顔色を失くして、必死に自分の望む結果を手にしようと足掻いている千尋を見ても、平福は結論を一つも譲ってはくれなかった。

「だから言ってるんじゃないか、キワ
「何がすか」
「一つの結果を手に入れる為に、それ以外の全てを投げ打ってもいい、というのは理想論だ。美しい考え方だと俺も思う。でも、キワ、知っておくことだな。多くの中から一つの特別を選べるのと、それしか選びようがないのとの間には海よりも深い隔たりがある」

 お前はきっと、結果が同じなら過程なんてどうでもいい。そう言うだろう。
 平福の真っ直ぐな声に千尋の感情が逆撫でされる。その通りだ。結果が同じなら過程なんてどうでもいい。多くの中から一つを選んでも、一つしかないものを大事に守っても、一つ残るのならそこに違いなんてない筈だ。
 そう、はっきりと思うのに千尋の考えを易々と見透かした平福は千尋の答えを許してはくれなかった。

キワ、写真を撮りながらテニスをするか、テニスをしないで神奈川へ帰るか。お前が選んだらいい。俺はその二つの選択肢しかお前に与えない」
「そんなことして何の意味があるんすか。俺はテニスがしたいんです。俺は、写真で褒められたいわけじゃない」
「褒められるためにしか頑張れないやつは遅かれ早かれ潰れる。そういう答えの選び方しか出来ないなら、お前はやっぱり神奈川に帰れ」

 ここにいて学ぶべきことを見出せないやつはレギュラーに相応しくないし、王者立海のジャージを着るに値しない。
 そこまで言われて、じゃあ帰ります、と言わないぐらいの分別はある。ここで帰ったら千尋の居場所は未来永劫失われる。わかっている。わかっているのだ。千尋がここにいたいならカメラを受け取って写真を撮るしかない。それが一体何の練習になるのか、千尋の理解力ではほんの少しも咀嚼することは出来なかったけれど、平福の性格なら知っている。平福は意味のないことを指図したりしないし、ましてこんな強権を振りかざすような真似をして威圧したりするような部長ではない。
 だから。

「――いいんでしょ」
キワ、もっとはっきりと言え」
「撮ればいいんでしょ! 撮れば!」

 練習と練習の合間。ドリンクを飲む時間や他の仲間たちの練習を観察する時間を写真に充てればいい。その時間がなくなれば、千尋は一体いつ、休憩をするのかという問題が目の前に立ちふさがっていたけれど、意図的に無視した。
 吐き捨てるように承諾した語気の通り、適当に写真を撮ってお茶を濁すという選択肢も残っている。それでも、千尋は海原祭のときと同じだけの気持ちでシャッターを切るという覚悟を込めた。中途半端が一番嫌いだ。テニスと写真を両立する方法、というのがこの世界のどこかにあると平福は暗に含めている。平福は決して無駄なことは言わない。
 だから。
 最高の写真を撮って、最高の練習をしてからでないと神奈川には帰らない。
 決意を込めて平福を睨む。何もしないで最初から諦めて、現状維持だなんて一番格好が悪い。それは王者の戦いではない。傷を負ってでも、膝を折ることがあっても、前を向いてひたむきに進む。それが王者立海ではないか。そんな挑発的な眼差しが返ってきて、千尋は自分が少し自惚れていたことを知った。

「ハル! 打ち合わせしながら自主トレ行くぞ! ニ十分しかない!」

 自惚れていた自分と向き合うだけの余裕はまだ千尋にはない。
 ただ、悲嘆の声を食堂に響かせていた自分のことは理解している。両校の部員が一堂に会する食堂で恥を晒した。そのことに苦痛を感じない筈もない。
 昨日、忍足に高説を垂れておいてこのざまだ。
 行いはいずれ自分の身に返ってくる。柳蓮二はそのことを表す「自業自得」という言葉を教えてくれた。紙の上の知識を体験している。それはまだ千尋には成長の余地があり、千尋の周囲が期待しているということをも意味している。
 期待されて、応えられなくて潰れた。なんて言うのは今でなくても言える。本当に失敗をしたなら、最後の最後にそう言って泣けばいい。今はまだ途上だ。だから、千尋は平福の挑戦を受けることにした。
 それを自分と周囲に宣言する為に今すべきことを言葉にした。
 呼ばれた仁王が苦く笑いながら立ち上がる。

キワちゃん、それは人を誘う態度とは程遠いんじゃが」
「るっせ! 俺は! お前みたいに! 余裕ねーんだよ!」

 開き直って笑う。笑うと、千尋の悩みなんて全然大したことではなかったかのような気持ちになる。いつも余裕ぶっている仁王が本当に悩みを持っていないとは思っていない。それでも、そんな風に表現しても笑って許してくれるだろう、という甘えがあった。その懐の広さを余裕だと表現した。自分にそう言い訳しながら、それでも千尋が前を向いているからこそ仁王が許してくれているのだという事実も再認識する。
 不得手なことなんてない。そんな強がりを言えたらいい。そう思うけれど、千尋はその理想からは程遠い。多分、千尋がその枠に当てはめている幸村ですら苦しんでいる場面がある。
 だから。
 不得手なことだらけの千尋だったけれど、その弱さから目を逸らしたりしなければ、仲間たちも結果という答えも千尋を裏切らないと知っている。
 仁王が悲嘆の底から千尋が立ち上がったと認識して、複雑に微笑んだ。

「ダイちゃん、この滅茶苦茶な相棒と付き合えるとか今、お前さんのこと真剣に見直したぜよ」
「そう? でも、譲ってほしいとか言うなよ。ほしかったら実力で上回ってからにしたら?」

 まぁ、俺以上にキワのこと使えるやついないと思うけど。
 千代のその言葉が千尋の胸を叩く。
 知っている。千代は決して正面から千尋を認めてくれることはない。そんなことをするぐらいなら死んだほうがましだと思っているのも知っている。
 それでも、千尋も知っているのだ。
 千代の不器用な肯定が聞けたなら、それは千尋に勝ち目のある戦いだということを。
 そして千代は、その戦いを遠巻きにだけれどずっと見届けてくれるということも。
 それを立海の仲間は概ね理解しているから、千代の返答を聞き届けた食堂の中には穏やかな空気が流れている。

「お前さんら、似たものコンビじゃのう。それだけ大口叩けるんじゃったら、今年の全国大会も安心安心」
「ハル、お前、ナチュラルに全方位的に喧嘩売るのやめろよ」
キワちゃんには言われとうないんじゃが」
「ま、いいんじゃね。取り敢えず善処しましょうってことで」

 行くだろ、自主トレ。
 わだかまりも論争もなかったかのように振舞えば仁王もそれを容れる。
 知っている。千代だけではない。仁王だって千尋のことを応援しているし、隙あれば千尋を負かして上へ行こうとしている。
 それでも。

「ハル、十年の約束、まだ有効だろ」
「お前さんの器に免じて、二十年の約束に契約更新してもええぜ」
「そりゃいい。じゃあ契約更新だ。ラッキーラッキー」

 言葉遊びを重ねるのも信頼関係が成り立っているからこそだと知っている。
 今、この場所でその信頼を受け取れる幸福を噛みしめながら、千尋は食堂を後にした。仁王がその背に続く。いつもなら一緒に自主トレに行くはずの千代と桑原が黙って二人を見送った。
 全てを懸ける、というのが理想だと平福が言った。その言葉が千尋の胸の中で何度も響いている。理想を追えないやつに未来なんてない。だから、千尋は仁王と二人でその命題の証明をしたいと思った。理想を現実に変える。その為に何が出来るかがわからない。わからないから悩みたい。悩んで、自分で考えて、実践して、その後でなければ泣く資格すらない。
 立海三十一の期待を背負うのはそれなりに重くて、胸の奥ではもう半泣きだ。
 それでも。
 千尋は一人ではない。約束を交わす仲間がいる。仲間のことを信じられる。本当にそう思うのなら、まだここは終着点でも何でもない。ただの始発点だ。
 昨晩の忍足も多分、こんな気持ちだったのだろう。そう思うと勝手に親近感が湧いて、最終日に忍足と勝負を出来るその瞬間が楽しみになった。今度は本当に全力でやろう。その為にもまず、千尋はマルチタスクという難題と戦わなければならないけれど、どうしてだか今なら、不格好でもどうにか出来るような気がした。