. All in All => 39th.

All in All

39th. 才能の分岐

 人生という概念において、道中枝分かれが一つもない、などということはおおよそあり得ない。
 天才も凡人も等しく選択を迫られ、決定を繰り返す。当然、人が通ってきた後には軌跡が残るけれど、常にそれを意識しているものは少ない。無数にも与えられる選択の一つひとつに拘泥しているようでは前を向ける筈もないし、人というのはそれほど万能でもない、というのが大きな理由だろう。
 常磐津千尋の人生はまだ十三年と少ししか綴られていないけれど、それでも千尋が歩いてきた結果は残っている。
 ときどき、そのことを思い出して振り返る。そうする意味を教えてくれた仲間たちのことをファインダーの向こうに見ていると、千尋の人生にはそれなりに彩りがあることを何とはなしに理解した。
 理解して、そうして部長である平福が千尋に何を与えたいのか、という問題と対面する。
 テニスさえあればいい、と思っていた。もちろん、今でもそう思っている。千尋にとって一番大切なのはテニスで、それ以外のことはテニスをする為に必要だから取り組んでいる、という現状も変わらない。
 それでも。

千尋、区切りのいいところになったら俺に声をかけろ。今井津さんがダブルスをやってみたいそうだ」
キワ、ベンチ戻るんだったら俺のドリンク持ってきてくれない? 向こうがうちのドリンク飲んでみたいんだってさ」
千尋、真田の写真だけじゃなくて、俺たちのコートにも来てくれてもいいだろ」
キワ、予備のSDカードだ。好きなだけ撮ってもいいぞ」

 千尋がデジタルカメラを持ってコートサイドを移動しているとあちらこちらから声がかかる。前を向いて自分のするべきことと戦っている。そう評価されたからだ、と今の千尋には理解出来たから充足を覚えた。
 千尋に与えられたカメラはそれほど性能がいいわけではない。平福は仁王雅治にも同じようにカメラを与えた、と言っていたが、実際に仁王が持っているのは彼の所有物であるデジタル一眼レフで、この条件で勝負するのは今の忍足健也が千尋に勝利するのと同じぐらいの無謀さになるだろう。
 写真にはセンスの他に道具の良し悪しという要素もある。無理やりテニスに当てはめるのなら、大学生と小学生が同じルールで試合をするぐらいのハンディキャップだと思うのが妥当だ。
 そのハンデを背負ってもいい勝負が出来る。
 平福の見込みを言葉にするのなら、そういうことなのだろう。
 人は相手の中に希望を見出したときに初めて「期待」を抱く。そうして、その「期待」が現実のものになれば、人は次の期待を抱く。その積み重ねが信頼関係を生み、人はそうして人と人の間で生きていく。
 だから。
 望まれたということは、その相手の中に千尋がいる、ということだ。その事実を否定して、期待から逃げて得られるものよりもっとずっと尊いものを今の千尋は知っている。
 千尋に向けられた相手の表情を画像として映す。シャッターを切る瞬間、千尋の仲間は千尋の好きな輝いた顔をしていた。
 それらを幾つも記録として残しながら、千尋はなおもコートサイドを歩く。
 千尋の相棒である千代由紀人(せんだい・ゆきと)がドリンクを持ってきてほしい、と言っていたからベンチまで歩いて回収した。それを届ける為に千代のコートへと向かう。道中、柳蓮二が置いて行った記録媒体を回収して、ディスプレイに注意を向けるとメディアの残量が残り十枚を切っていた。柳はどこまで計算しているのだろう。答えはわからないけれど、流石の塩梅だ。柳の掌の上にいる、という事実とそこに至るまでに千尋が積み上げてきたものを知っている今の自分は決して嫌いではない。
 人はそれを成長と呼ぶのだということも千尋は知っている。
 立海で過ごした一年間は千尋をこんなにも育てた。
 千尋の自身の努力があったのは当然のことだけれど、そこに至るまで仲間たちが少しも助力を惜しまなかったことを思い出して、人は決して一人では強くなれないのだということを知る。
 だから。
 多分、同じことなのだろう。
 テニスをする為にテニスだけをやっても成長しない。テニスとは関係のないことも真剣に取り組んで、そうして初めて千尋は成長する。
 壁にぶつかる日もあるだろう。同じミスを何度も繰り返して悲嘆に暮れる日もあるだろう。無力感に打ちのめされて人生を棄てたくなる日もあるだろう。
 それでも、千尋は今日まで歩いてきた。絶望を知らないなどと気取るつもりはない。涙を流した日もあった。
 それでも。
 千尋はここにいる。

「ダイ、ボトル置いてくからな」

 コートの中の千代に声をかけて、ボトルを置いたまま次のコートへ向かおうとした。
 キワ、と不意に千代が千尋を呼ぶ。
 何の用だ、と立ち止まって千代を見ると彼はいつも通り、不遜な顔をしたまま言った。

「ついでだから、俺とこの人の写真、撮っていけば?」
「えっと、小野寺さんでしたっけ。うちの馬鹿がこんなこと言ってますけど、撮らせてもらってもいいすか」
「エエけど、俺、どないしたらエエかな。並んだ方がエエ? それとも、普通に練習しといたらエエん?」

 写真を撮られるのには不慣れで、どうするべきなのか困っている、と四天宝寺の二年生レギュラーの一人である小野寺が苦笑する。小野寺の提案を両方受け入れたい、と千尋が答えると彼は笑顔で「ほな先に千代君と並ぶわ」とネットの向こうから手前へとやってきた。千代はそれを不本意な展開だ、と顔中で主張していたけれど、いざ小野寺がやってくるといつも通りの澄ました顔になる。
 不器用なやつだ。
 その不器用に何度救われてきたか、思い出しただけでも両手の指ではとても足りない。
 だから。

「はい、じゃあこっち向いてもらえます? ダイ、お前はそこでじっとしてろって」

 千代は人とコミュニケーションを取ることを苦手としている。人の感情の機微に意識を向けるだとか、相手の心情を慮るだとか、そういう精緻なことをするのは面倒で、それと向き合うぐらいなら孤独を選ぶと言った。
 千代のその言葉が本心だったかどうかは千尋には知りようもない。
 それでも、立海の一年間は千代をも変えた。
 入学した頃のままの千代なら、小野寺と一緒の写真に納まるという選択肢はなかった筈だ。テニスを楽しんでいる。テニス「だけ」を楽しんでいる。それでいいと、思っていた。
 千尋と同じだ、と思う。
 千尋に次の課題を与えることで、平福は自動的に千代にも課題を与えた。
 一人で乗り越えなくてもいい。助けが必要なら周囲を頼ってもいい。それは決して弱さではないし、欠点でもない。
 そのことを理解出来るだけの土壌を持っている今の自分、というのがそれほど嫌いではないと思う。
 だから、千尋は千代と小野寺に向けてシャッターを切った。軽い電子音が鳴ってディスプレイが切り替わる。連写モードに設定した一番最後の画像が表示されて、まぁまぁの絵面だと評価して、二人に解散を告げた。
 コートの手前と向こうに立って、練習が再開される。千代と小野寺、それぞれの写真を撮って次のコートへ向かった。その背中に小野寺の声が聞こえる。

常磐津君、後で俺の相棒との写真、撮ってな!」

 たった一日。たった一日しか行動を共にしていない千尋のことを小野寺は認めてくれた。
 それは多分、千尋の功績だとか人徳だとか、そういう類のものではなくて、立海三十一の信頼を四天宝寺が認めた、ということに他ならないだろう。千尋一人ではどれだけ筆舌を尽くしても叶わない。その理想を千尋の仲間は現実にしてくれた。
 千尋は一人ではない。
 そのことを改めて知って、胸の奥が詰まる思いがしたけれど、感涙にはまだ遠い。
 感涙に至るだけの功績を千尋はまだ残していない。
 レギュラー選抜戦に残ることも出来ない平福に、優勝の二文字を届けられたら。
 そのときはきっと彼も一緒に泣いてくれるだろう。
 だから。

「弦一郎、ダブルスやんのかよ。面白そうだから、そういうことはどんどん言えよな」

 真田弦一郎の待っているレギュラーコートまで行って、汗をタオルで拭っている彼の写真を撮った。それを最後に、一旦カメラの電源を落とす。精密機械だから丁寧な扱いを、と仁王には口を酸っぱくして注意された。ストラップを首から外して、画面の暗転したカメラをベンチの上に置く。
 それと交換するように、フェンスに立てかけていた千尋のラケットを握った。
 そして言う。
 真田が千尋の到来に気付いて「もういいのか」と問うてきたので首肯した。

「今井津さんと綾川さんが、どうしてもお前とやってみたいそうだ」
「そうなんすか?」
常磐津君、本職はダブルスやって聞いてんけど、やっぱり強いん?」

 今井津が大らかに笑いながら問う。
 強いんやろうなぁ。なぁ綾川。
 続けられた言葉に、条件反射的に謙遜の文句が頭に浮かんだ。千尋はそれを口に出すべきだ、と思ったのに思考回路の処理速度で、千尋は真田に数段劣る。千尋の言葉など待たずに頑固一徹馬鹿正直を地で行く真田は今井津の言葉を自信満々の笑みで肯定してしまった。

「今井津さん。千尋はシングルスでは立海五番手ですが、ダブルスでは俺たちの追随を許さない。本物の選手ですよ」

 そうだろう、千尋
 真田の最終確認が聞こえて、千尋は一度こいつを手加減なしの完全なる本気で殴ってやろうかとすら思った。
 何が本物の選手だ。真田が言った台詞を千尋はまだ覚えている。シングルスの選手として焦っている。そう言ったのは誰だ。その評価を下しておいて、どうして我がことのように嬉しそうに千尋を評価するのだ。
 その、多岐にわたった抗議の言葉を拳に載せることすら今の千尋には許されていない。
 握りしめた拳を持ち上げる前に、綾川が千尋に言う。

「な? 真田君がこない言うて譲らへんから僕ら、いっぺん君とやってみたいんや」

 エエかな。
 ここまで来てノーと言うだけの理由が一つもない。
 今井津と綾川がダブルスをしてみたいと言ったから千尋はここに来た。
 その前提条件に気付かなかったわけでもあるまいに、綾川は千尋に問う。関西人の「エエかな」には「エエ筈やろ」という意味が含まれているのだと受け取る。上げられたハードルの高さを鑑みると少し臆したのは事実だ。
 ただ。

「でも、今井津さんと綾川さんってダブルスの選手じゃないでしょ?」 

 今井津と綾川の二人がダブルスの選手だという説明は受けていない。だから、千尋は彼らのことをシングルスの選手だと認識した。それでも、同時に思う。昨日の夕食の場でこの二人の間には信頼関係と連携プレーをする為の最低限の意思疎通が出来るだけの下地があるということを千尋は察した。面白いダブルスをしそうだ。そう思った自分の直感を信じてもいい。それはわかっている。
 だから。
 千尋から敢えて問うことで二人の態度を確かめたいと思った。
 綾川が今日、一番の笑顔で千尋に応える。

「せやから、君に教えてほしいんや」

 ダブルスの面白さと、君のほんまの強さを僕らに見せてくれへん?
 その答えが聞けたのなら、これ以上、躊躇するべき余地はない。
 シングルスの選手としては立海で五番目。それでも、真田が自分のことのように吹聴した通り、ダブルスで千尋と千代の組に勝てるやつは事実上存在しない。
 だから、本気で四天宝寺を潰しておきたいと思うのなら、千代を呼んでくればいい。
 そうすれば、立海のダブルスの強さを示すことが出来る。
 なのに真田は彼と千尋とで今井津たちの相手をすることを選んだ。その意味には相手を潰したいという意図が含まれていない。
 ただ、ダブルスの面白さを伝えたい。
 テニスには色んな形の楽しみ方がある。
 圧倒的な強さを追い求めるのも、絶対的な勝利を欲するのも自由だ。今まで体験したことがない新しい側面を見出し、自分の価値観を更新するのもまたテニスの楽しみ方の一つだから、千尋にその白羽の矢が立ったのならそれはそれで光栄だと思う。
 千尋がそう思うことまで見越して、真田は千尋を呼んだ。
 その信頼にも応えたいと思う。千尋にとって真田弦一郎というのはそれだけの価値のある相手だ。

「弦一郎、サーブ権、俺の分は今井津さんに譲っていいだろ」
「では俺の分は綾川さんに譲ろう」
「待って待って。待って、二人とも」
「そうやで、そこまでハンデ貰わんでも俺らやって四天宝寺のレギュラーやねんで」

 立海二人で段取りを確認する。隠し立てすることではないと判断したから、普通の音量で喋った。当然、今井津たちにも声は聞こえているだろう。
 それでも敢えて言った。
 真田が千尋の言葉に乗ってきたところを見ると、彼も千尋と同じ意見なのだろう。
 それが確かめられたのなら、千尋がすべきことは一つしかない。
 自然と穏やに頬が緩む。真田がそれを確かめて、彼もまた穏やかに笑った。
 そんな立海の二人のやり取りに今井津たちは微苦笑を浮かべながら、バラエティー番組で時折見かける「関西人のツッコミ」を見せてくれる。それもまた今井津たちの優しさなのだと気付ける自分に気付いて、千尋は「今井津さん、大人の余裕見せて、サーブ権もらってくれてもいいんすよ?」と挑発的な言葉を放った。
 今井津が顔を掌で覆う。

「怖い。怖いわ、立海レギュラーって全員そういう感じなん?」

 顔を覆ったまま天を仰いで、今井津が特大の溜息を零した。

「まぁ世間で言うプレッシャーとかに負けるやつは基本、心折れるんで」
常磐津君もさっきまで心折れとったようにしか見えへんのやけど?」

 図星を指されて、赤面するだとか返答に詰まるだとかそういった高尚な反応を出来るほど千尋はまだ大人ではない。事実だ。事実を指摘されただけだ。
 だから。

「折れっぱなしだとレギュラー落ちるじゃないすか。立ち直りの速さも重要っす」

 からりと笑った。恥じるという概念にすら到達しない千尋の稚拙さを今井津は笑うだろうか。少し不安に思ったけれど、それでも千尋の中には笑う以外の答えがない。無学や浅学は努力で埋められる。事実を指摘されて言い訳をしたのでは伸びるものも伸びない。
 その気持ちを込めて正直を貫いた。
 今井津の掌が彼の顔面を離れる。再び千尋と向き合った彼の表情の中には幾ばくかの気恥ずかしさが残っていたけれど、千尋を侮る類の感情は込められていなかった。

「綾川、立海ってほんまに俺らの常識越えとるな」

 その心の奥から吐露されただろう言葉に千尋の胸の奥で小さな火が灯った。
 知っている。彼のこの言葉は単なる感想だ。単なる感想だけれど、千尋を評価した。評価して今井津にないものと千尋が持っているものを比べた。
 だから、千尋は胸を張る権利がある。
 体の奥から自然に湧いて出た笑みを顔面に浮かべて、千尋は真田と軽く手のひらを叩き合わせた。

「逃げたいんやったら僕、止めへんから一人でどうぞ。僕は真田君からありがたーくサーブ権もらうわ」
「綾川! 俺やって常磐津君の分もらうわ! 今更ビビったとか言うん格好悪すぎてようせんわ」

 そうやろ、常磐津君。
 そのぐらいでなければ、王者立海と張り合うことも出来ないのだろう。そういう含みがあって、千尋は今井津たちが改めて千尋を評価したことを知る。

「で? やるんすか」
「当然や!」
常磐津君、真田君。君ら、コート選んでや」

 その声に千尋は真田と顔を見合わせて、今いる方のコートを選ぶ。その判断に深い意味はない。ただ、どちらのコートを選んでも勝利の結果は変わらないのだから無駄に悩む手間を省き、コートチェンジを面倒臭がった。ただそれだけの行為にも今井津たちは溜息を吐いて顔を見合わせる。
 どうだ、これが王者立海だ。
 千尋の手の中にずっとあったのに、いつの間にか見えなくなってしまっっていた手応えが戻ってくる。
 この感触を手放したくなくて、千尋は気が付いたら反射的に叫んでいた。

「ハル! ちょっと頼む!」

 立海三十一人の総意では千尋の写真が一番好きだと言う。
 一眼レフで撮った品質のいい仁王の写真より、コンパクトカメラの千尋の写真の方がいい、と言う。
 その理由は何となく理解出来た。
 それでも、一つだけ確かなことがある。
 千尋千尋自身の写真を撮ることは出来ない。だから、千尋は今の気持ちを残す為に仁王の写真を望んだ。その願望を満たす声が思っていたより近くで聞こえたとき、千尋は仁王もまた千尋の心配をしてくれていたのだということを知る。

キワちゃん、お前さん、そっちの顔の方がよう似合うとるぜよ」

 声が聞こえるのと前後してシャッター音が響く。かしゃり。その機械音は仁王が千尋の写真を撮ったことを間接的に表現していて、千尋の願いなんて一々口にしなくても叶えてくれる相手がいるのだということを教えた。
 言葉で願うのはその響きを自他ともに認めたいからだ。
 心の奥で願うのは必ずその答えを得たいからだ。
 その、願望が現実になるとき、の定義の広さを知って千尋は自分が走ってきた道、という抽象的な答えを知った。

「えっ、なんでハル、ここにいるんだよ」
「何じゃ。知っちょって呼んだんじゃないんかい」
「知るか。てっきりお前、反対側にいるかなって思ってた」

 そうかい。で、お前さんの今日一番のええ顔は俺のカメラに納まったんじゃけど、お前さん、他に何か言い残すことはあるんかい。
 ないのなら、本調子に戻って、そうして四天宝寺を散々に打ち負かして来い。その様も何枚もの写真に納めてやる。そんな言外の通達を聞いて千尋は真田の顔を見た。

「弦一郎、作戦は?」
「全力で行く。それだけだ」
「遠慮しなくていいんだな?」
「ほざけ。相手のペースに合わせるように装って、その実相手をいたぶるのが趣味のお前のどこに遠慮などある」
「弦一郎、流石にそこまで言われると俺が悪趣味みたいなんだけど?」
「事実だろう」
「ひっで。まぁ、負けは許されてないし?」
「お前の悪趣味もときには役に立つ。思うようにしろ。俺はお前に任せる」

 それは真田の背中の向こうを千尋に託す言葉だ。
 立海でジャッカル桑原と二人、スタミナの勝負を譲らない千尋の体力を信じている。真田はオールラウンダーだから、千尋が後衛として何をしているのかもちゃんと理解している。そのうえで、真田は前衛に徹すると言っている。
 これ以上の信頼など望むべくもない。
 だから、千尋は握っていたラケットのグリップから少しだけ力を抜いた。その反動を使ってくるりとラケット自体を回転させる。
 そして。

「ハル、写真頼んだ」
キワちゃん、馬鹿のお前さんに一つええことを教えちゃる」
「何だよ」
「ええ写真の定義には諸説あるのは否定せんよ。けど、俺は俺の写真よりお前さんの安い写真の方がずっと好いちょる。お前さんのテニスもそうじゃ。じゃけ、お前さんには人のええとこを引き出す力があるんじゃないかい?」

 その思ってもみない問いかけに千尋は瞠目した。
 仁王はそんな風に思っていたのか、とか、その理屈には納得の出来る部分がある、とか色んな感情と結論が千尋の中に湧いたけれど、その全てを理路整然と問い質すことは出来ない。
 だから。
 千尋は仁王の評価を受け止めて、その期待に恥じない自分でありたいと思った。
 人の長所を引き出すのが千尋の才能なら、その使い道はきっとずっと失われないだろう。
 千代がそうであったように、真田がそうであったように、仁王がそうであるように、今井津や綾川も今、千尋の才能に懸けようとしている。
 未知の世界を歩くのは誰だって不安だ。どれだけ平気だと嘯いても完全に不安を消し去れるやつなんて一握りしかいない。だからそういうやつは天才と呼ばれる。
 千尋が天才のレッテルを貼った幸村精市ですら、完全に不安と別離した人生を送っているわけではない、と今の千尋は知っている。
 ただ、不安に押しつぶされて、逃げ場がなくて、進退窮まるまでに見切りを付ける。その才能を持ち合わせているやつは人生を歩んでいける。千尋にそれが備わっているのかどうか、答えはまだ知らない。
 一人で戦えるのは強さだろう。人の中にあって、それでもなお、自分の道を譲らない強さがあれば人は望む道を歩いていける。
 ただ、それが幸せな人生なのかどうかは誰も保証しない。人の中にあってなお一人で生きるというのなら、それは人である所以を失っているということと等号で結ばれる。人は一人では生きられない生き物だ。大勢の中の一人として生きる。
 それが人生だ。
 人生の中で人を磨く為の才能が重宝されない筈がない。
 それをもって驕るのか、それとも自らを高めるのかは千尋の自由だ。仁王はその指針となるものを示した。結論は千尋に委ねる。千尋の人生を決めるのは千尋だ。
 だから。

「ハル、じゃあ、お前見届けろよ」
「お前さんが今更嫌じゃ、ちゅうても俺はお前さんのことを見ちょるよ」
「そうかよ」
「そうじゃ」

 じゃけ、行ってきんしゃい。お前さんのええとこは俺がちゃんと写真にしちゃるき。
 言って柔らかく仁王が微笑む。知っている。仁王が心の底から微笑むことがどれだけ珍しくて、そして、その相手がどれだけ少ないのか。
 立海大学付属中学は王者だ。常に頂点だけを目指して研鑽を続けている。
 殺伐としていると思っているやつもいるだろう。ぎすぎすして相手を潰し合っている学校だと思っているやつもいるだろう。
 それでも、千尋はちゃんと知っている。
 上を目指すことと相手を認めることは決して混ざり合わないわけではない。両立出来る概念だ。
 だから。
 千尋は仁王の言葉を信じられる。それが、仁王の写真の中に映るのだということも信じられる。
 岐路のない人生はない。無数に繰り返される分岐の先で待っているものの全てを想像し得るだけの能力は千尋にはない。それでも、千尋は人生を望んだ。それも分岐点の一つで、どこに辿り着くのかはわからない。
 わからないから、せめて自分で望んだと思っていたい。
 強くない自分を知って、そこから歩き出せるのなら弱いばかりでもないだろう。

「弦一郎、行けるだろ」
「無論」
「じゃあ今井津さん、綾川さん。ダブルス、楽しんでってください!」

 そうして声に出して、自分自身を奮い立たせて、せめて自分の才能にぐらい正直でいたいとか思って、千尋は午後の陽気の中、ダブルスを始めた。