. All in All => 40th.

All in All

40th. また明日

 明日を見たことのあるやつなんてこの世には誰もいない。
 必死に生きて心血を注いだ今日はあっという間に昨日になって、そうして時間は無慈悲に過ぎ去っていつの間にか新しい今日が始まる。それでも人は明日という未来をただ願って、そうすることでどうにか今を描いている。その点においてこの世に生を受けたものは誰もが平等で、特別なやつなんてどこにもいない。
 明日を知らない常磐津千尋には結局のところ今しかなくて、それどころか今日を生きることですらなかなか思い通りには運ばないのだから、神様とかいう存在が本当にいるのなら、そいつは割と不平等主義者なのだろうと勝手に思っている。
 だからと言って自らの不遇を嘆き、俯いて今日を過ごさないぐらいには千尋は馬鹿だった。
 過ぎ去った昨日は取り戻せない。見えない明日は選べない。
 選べないものを希っても、何の解決にもならない。だから、千尋は無限に繰り返される今日を望んだ。
 その唯一選べる今日が間もなく終わろうとしている。
 昨日と同じ、色が薄いのに確かに味が自己主張している関西の食事が今日も千尋たちに提供された。昨日と違う点があるのなら、今日のドレッシングは「和風しょうゆ」ではなく「柑橘ミックス」で千尋たち立海勢はこれは本当に夕食にマッチするのかと戦々恐々しながらサラダを食べたことぐらいだろう。結果は言うまでもなく、柑橘ミックスは食事に彩りを与えて千尋たちに新しい発見を植え付けて終わった。柑橘類の味がするから、ドレッシングの成分に含まれているのはわかる。じゃあ何の柑橘類だ。立海三十二の疑問がドレッシングのボトルをまじまじと観察させる。なのに正解は与えられなかった。柑橘ミックスのボトルには原材料などが記載されているラベルが添付されていなかったのだ。
 そんな三十二の好奇心の矛先は四天宝寺三十二人には不可思議に映ったのだろう。
 君らなんでそんなそわそわしてるん。四天宝寺の部長を務める今井津が同じテーブルに着席した千尋たちに向けて問うた。関西の味覚が千尋たちの常識を遥かに上回っているのだと、どうやって伝えたらいいのかわからなくて曖昧に笑う。千尋の隣の千代由紀人(せんだい・ゆきと)が四天宝寺で唯一会話してもいい選手と認めた小野寺に声をかけた。

「『柑橘ミックス』って何がミックスされてるのか、わかる?」

 完全なるタメ語。相手が年上であるということを失念した言動。「わかる?」じゃないだろう。わかりますかと言え。それが嫌なら千尋がするように「わからないすか」とかそう言った言い回しを選べないのか。
 小野寺の表情が曇る前に千尋の眉間に皺が寄った。

「ダイ、敬語。敬語」
「別にエエよ、常磐津君」
「よかないでしょ。小野寺さんは俺たちの先輩じゃないすけど、人生で言えば先輩なんすから」
「それやけど」

 俺、早生まれやねん。三月。千代君、四月生まれて聞いたから一か月しか早よ生まれてへんのに先輩面するん、微妙やと思うんや。
 小野寺が柔らかく笑う。その笑みの中に他意はなく、彼が本当に千代のことを許容しているのだということがわかった。テレビ番組で見る関西芸人は概ね年功序列の意識が強い。だから、千尋は関西人に対してそういうステレオタイプのイメージを持っていた。実力があるかないか、も重要だけれど、それ以上に関西人は経歴を重んじる。そう思っていたのに小野寺は本質を選んでみせる。関西人にだって色々なタイプがいる。そのことを改めて知って、千尋は自分が安易なレッテル貼りをして常識を身にまとったつもりになっていたことを知った。
 紙の上の知識は人を豊かにする。理屈を知れば現象に対してより深い理解を得ることが出来る。
 けれど。
 先入観は人の視野を狭くする。人の数だけある筈の常識を強要することに何の意味もないことを小学生の千尋は感覚的に理解していた。今の千尋はそこから一歩前に進んだけれど、時々本質を見誤ることもある。それが進化なのか退化なのか、誰に聞いても十人十色の答えが返ってくるだけだということは想像に難くない。多分、進化というのは何かを棄てなければ得られないものなのだろう。何かを選んで、選ばなかった何かを棄ててそうして前に進む。棄てたものに何の価値を見出すかによって肯定か否定か意見が分かれるだけで、そこに万有の結論を求めることには大して価値がない。
 小野寺が示した道筋はそういうことだ。
 コミュニケーション障害を自称する千代は礼節よりも親近感を優先した。そのコミュニケーションを受けた小野寺もそれを許容した。当事者同士で納得のいった内容について第三者が口を挟むのは無粋というものだ。だから、千尋は小さな頭痛を覚えながら小野寺の意見を容れる準備をする。
 千尋が許容に向けて舵を切ったのを見て取った千代が元の話題に戻った。ドレッシングの配合について立海三十二人は戸惑っている。そのことを伝えられた小野寺は部長の今井津、副部長の綾川へ視線を投げて彼一人で解決出来る問題ではないことを伝えた。
 それを受けて四天宝寺二十九がそれぞれの意見を近くの立海生に説き始める。正答がほしいのではない。ただ、お互いに興味がある。だから意見を交わしたい。ただそれだけのことだった。
 コミュ障の千代ですらコミュニケーションが取れるのだから自分たちは大丈夫だ。
 そういう割を食った役を千代が率先して引き受けるだなんて、一年前の立海生の誰が想像出来ただろう。
 三十一人もいて、そういうやつが一人もいない。
 だから。千尋たちは別に四天宝寺のことや関の東西で怯えたりしなくてもいいのだ。四天宝寺にもその認識が伝播して食堂の中は穏やかな空気になる。二か月に一回程度練習試合で行き来のある関東の学校の選手と同じように接したらいい。ただそれだけのことだったのだけれど、そこに辿り着くまでに随分遠回りをした。
 その最終的な結論なのだろう。
 千尋の斜め前に座った今井津が言う。

常磐津君。君の撮った写真、最終日までに出来た分だけでもエエから俺らにもくれへんかな」
「えっ」

 その想像もしていなかった言葉に千尋は返答に詰まった。それを否定のニュアンスだと受け取ったのか今井津の言葉が続く。

「写真、焼いてくれんでも大丈夫やから。データだけでエエから。アカンかな?」

 集合写真だけでもエエし、一枚でもエエよ。今井津の提示する条件がどんどん下がっていくのを他人ごとのように聞きながら、千尋はこれ以上ないというほど混乱していた。今朝、部長の平福にカメラを押し付けられたときよりも強い動揺が千尋の中に降って湧く。
 どうしたらいい。何を答えたらいい。拒否か許容か。どちらを示せばいい。
 混乱の中、千尋は必死に柳蓮二の姿を探した。千尋が撮った写真のデータは全て柳のノートブックの中に取り込んである。許可を得るのなら千尋ではなく、柳か、写真を撮るように指示した平福かのどちらかではないか。そんなこともぼんやりと思った。
 千尋の答えが返らないことに焦れたのか今井津がとうとう顔色を絶望に染める。離れた場所に座っていた綾川がそんな今井津の様子に慣れた所作でツッコミを入れた。

「今井津。がっつくなや、みっともない」
「けど、綾川」
「『けど』も『やって』もあるか。常磐津君、困っとるやないか」

 写真撮ったんと現像したんは常磐津君やけど、指示出したんは平福君やないか。聞く相手、間違えんなや。
 的確な綾川のフォローが聞こえて、千尋は正気を取り戻す。そうだ、千尋に判断を下す権利はない。今井津が四天宝寺の部長として写真を欲しているのなら、立海の部長である平福に許可を得るべきだ。
 だから。
 今井津はそれに納得出来たのだろう。「常磐津君、すまんかった」と言って平福のもとへ直談判をしに行ってしまった。千尋の斜め前の席が空く。そこに忍足謙也がやってきて「なぁ常磐津」と千尋に声をかけた。

「なぁ常磐津。個人的な意見やったら、お前に言うたらエエん?」
「だから、何」
「俺、お前の写真ほしいねんけど、個人的にやったらお前からもろたらエエんか、って言うてるんや」

 また写真の話だ。千尋が好きなのはテニスで、テニスだけが好きで生きている。
 なのにテニスの評価より写真の評価の方が勝手に上がっていって、四天宝寺においては千尋はテニスプレイヤーというよりは写真家に近い認識になろうとしていた。そのことに不服を感じながら、それでも現実を否定したところで何にもならないという現実を認識した千尋は溜息一つで目の前で起きていることを黙って受け入れる。

「いや、俺の写真とか何に使うんだよ」
「携帯の待ち受けにするとか、家のパソコンの壁紙にするとか色々あるやろ」
「お前、変わったやつだな。俺の写真、待ち受けにしてどーすんだよ」
「そら、俺の仲間が一番エエ顔しとる写真が待ち受けやったら、テンション上がるやないか」
「はぁ?」

 その思ってもみない返答に、千尋の思考が停止した。
 何だその理論は。昨日、あれほど荒れた忍足がどうしてこうも簡単に千尋を評価するのだ。立海の仲間ですらお互いを許容するまでには数か月が必要だった。なのに、忍足は千尋と彼との間にあった距離を一足飛びで詰めて友人のカテゴリに放り込もうとしている。
 関の東西に深い意味などない。
 そう結論付けたばかりだったのに、千尋の価値観はまたも大きく揺さぶられる。
 やっぱり、関の東西で人は違うのではないか。そう思って、なのに千尋の記憶は今はここにいないもう一人の仲間の顔を脳裏に投影した。徳久脩(とくさ・しゅう)。彼もまた人懐こく、相手を信じるのに細かい理屈や動機付けは不要だと豪語した。忍足はそういう人種なのだろうか。信じてもいいのだろうか。千尋の心が揺れる。
 揺れる千尋を知ってか知らずか忍足の言葉は続く。

「お前、晩飯始まるまでロビーで糸目君と現像とかいうんしとったやろ。お前がトイレ行っとる間に糸目君に何枚か写真見してもろたけど、お前の撮ったミキ先輩の写真、俺が一番好きなミキ先輩やった」

 だから、忍足は千尋の写真を評価する、と言う。
 ミキ先輩、というのが小野寺のことだと精一杯の読解力で理解する。小野寺の名前は幹久だった筈だ。だからミキ先輩。安直で、けれどわかりやすくて簡潔な呼び名に千尋は先代の立海部長のネーミングセンスが平均を易々と超越していたことを改めて知った。普通に考えて常磐津千尋からキワだなんてあだ名が出てくるやつは、はっきり言って頭がどうかしている。
 それでも、千尋キワという名前が嫌いではなかった。勿論、今も嫌ってはいない。
 寧ろ誇りすら感じている。仲間だと認めた。戦友だと遇された。だから千尋を呼ぶ「キワ」の名前には価値がある。
 多分、忍足の言う「俺が一番好きなミキ先輩」にも似たような感情が込められているのだろう。
 千代が小野寺を認めた。たったそれだけのことで、千尋は小野寺のことを信頼出来ると判断出来る。
 その根拠と似たようなものが忍足の中にもある、ということだ。忍足は千尋の撮った小野寺の写真の向こうに、忍足しか知らない要点を見出した。だから、忍足は千尋のことを評価しようとしている。

「いや、忍足、普通に意味がわかんねー」

 そのことを認めてしまうのはなんだか癪に障るので、一旦は否定のニュアンスを含ませる。
 コート上の千尋は駆け引きのテクニックを知らなくても実践出来る。なのにコートから外に出てしまうと直情径行の百面相だ。柳から受けたその評価は一年が経過してもなお撤回されない。わかっている、それが多分千尋の個性で、天賦の才能なのだろう。
 それでも。

「何や、お前、けったいなやつやな。テニス強うて、エエ写真撮れて、エエ仲間おるのにコートの外出たらただのアホとか、ホンマもったいないで」

 対面して四十八時間未満の忍足に柳と同じ評価を下す権利はないだろう、と名前を呼ぶことで婉曲に伝える。それも駆け引きの一つなのだけれど、千尋の中ではその意味合いを持っていないからまだ成長にはつながらない。千代の言動に遺憾の意を呈するのと同じことをしたつもりだった。千尋と千代の一年間がそれを許したのか、それとも千尋特有の権利なのかもわかっていない。ただ、感覚的にそうすれば会話が弾んでいく、というのを千尋は知っていた。

「おーしーたーりーくーん」
「俺はお前の相棒みたいに器用には煽れへん。せやから、これは煽りやのうて俺の純粋な感想や」
「忍足、一つだけいいこと教えてやるよ。ダイだって素直な感情で喋ってるだけで、別に計算して煽ってるわけじゃねー」
「そうなん? もったいないわ、お前の相棒、エエ笑いのセンスがあると思てんけどなぁ」

 それは千尋と忍足の価値観が異なっているということを暗喩的に表現していた。忍足の言う「笑い」が千尋にはわからない。冗談を言って場を盛り上げる為に自分を一段下に置く。「どうですか、面白いでしょう?」と言わんばかりに相手の顔色を窺って、そこまでして場を盛り上げることのどこに何の価値があるのか、千尋は自分の人生の中に見出すことが出来なかった。
 テレビの向こうの世界は作られた疑似的な世界だ。
 番組や演目上「笑われて」いるやつが本当に馬鹿なのかどうか、視聴者はそこまで考えたりはしない。馬鹿なことをしている。馬鹿馬鹿しい。だから笑う。その一連の流れと感情の動きは理解出来る。
 それでも。
 日常生活でまでそんな作りごとをしなければ成り立たない関係なら最初から破綻しているのではないか。千尋はそう思う。
 思うけれど、口に出すことはしない。
 多分、千尋にとって「笑われる」ことが抵抗感に満ちた行為であると同時に、忍足にとっては誇らしい行為なのだと漠然と理解出来た。自分が誇っていることを安易に誰かに否定されるのは決して心地よい出来ごとではないだろう。正しさの尺度は人の数だけある。
 だから。

「忍足。俺、思うんだけど」
「何や常磐津
「親が金持ってて、そこそこ女子受けしそうな顔のつくりしてて、テニスもまぁまぁ強くなる予定なのに、人のこと羨ましがってるっていうのも割と残念だと思うぜ」

 千尋が口にした条件を満たしている仲間が何人か心の中に思い浮かぶ。幸村精市、真田弦一郎、柳、柳生比呂士。親が高収入で財産を持っている。その条件下に生まれた仲間のことを妬まなかったか、と問われると苦い気持ちになる。妬んだ。妬んだに決まっている。自分のやりたいことを選ぶだけで、その道を進むことが出来た。自分以外の誰かに我慢を強いてまで、自分の望みを通すということの苦しさを幸村たちは一生知ることがないだろう。少なくとも、現代日本において金銭というのはそれだけの力を持っている。
 だから、忍足の生まれた家庭が裕福だった、と小野寺に教えてもらったとき、正直なところ「またか」と思った。硬式テニスというスポーツは日本にはまだそれほど浸透していない。プレイ人口は少なく、学校の部活動として経験するのは殆どの場合、大学生になってからだ。野球やサッカーほど浸透したスポーツなら、小学生の頃からでも接する機会があるけれど、残念なことに硬式テニスがそうなる日は千尋の将来の展望の中にすら存在しない。願望を抱こうとすら思わない。
 それが、紳士のスポーツ、硬式テニスだ。
 そんな競技だとわかっていて選んだのは他ならない千尋自身で、身の丈にあっていないと思ったのなら、その時点で引き返すという選択肢もあった筈だ。なのに千尋はそれを選ばなかった。
 だから、今更生れ落ちた条件を箇条書きにして誰かを羨んで、自分が持っていないことを不幸だと嘆くのなんて本当に何の意味もない。
 千尋は赤貧ながら立海の特待生の枠を手に入れた。
 不正でも縁故でもない。自分の実力だけで勝ち取った権利だ。
 だから、せめてその肩書きに恥じない自分でいたい。
 下を向いていても何も見つからない。落ちているものを拾い集めるのではなく、自分の手で前にあるものを掴み取りたい。
 だから、三強たちには決して言わなかった「お前は金持ちでいいな」という話題を忍足に振る。決して広すぎはしない食堂の中で、その話をすれば三強たちにも聞こえるかもしれないとわかっていて振った。
 千尋の不安を知らない忍足が不本意である、ということを顔中で表して叫ぶ。
 そのぶれた声色を聞いて、千尋は安堵した。忍足の中には千尋と対等な存在でありたいという気持ちがある。親が高額所得者だと知られるのは、千尋と忍足の間にある均衡を崩す要素だと忍足自身が理解している。でなければ、虎の威を借って自分自身の立場を優位に進めることも出来ただろう。なのに忍足は親の話を聞かれた、ただそれだけで狼狽する。
 忍足の出した結論が千尋の感情を柔らかく肯定した。三強を相手に経済的に恵まれているかどうか、という話題を振らなかったこの一年間の自分の判断は決して間違っていなかった。
 会って二日の忍足なら問題ないのか、と言われると少し弱いけれど、それでも小野寺が千尋に忍足の情報を伝えた、という事実を鑑みるとあながち間違ってもいなかったのだと判断出来る。千尋が信じた千代が信じた小野寺が信じた忍足だ。修飾語が入れ子状態になっていて、千尋の国語力では間違いがあるのかどうかの判断も出来ない。それでも、三人分の価値観を経由した結論が間違っているとは思わない。
 忍足なら、千尋の悪辣な冗談を笑って、そして諦めて受け入れてくれるだろう。
 そう信じていたから言った。会って二日の忍足を信じる、という判断をしている自分をどこか遠くから見る気持ちで認識したとき、千尋は自分が少しは人間として成長したのだということをぼんやり理解した。
 
「なっ! なんで常磐津が俺の親の話知ってんねん!」
「医者だって? お前も将来医者なんだろ。頭良くねーと無理だから俺はなりたいとも思わねーし、お前のことずるいとかも思わねーよ。ただ」
「ただ?」
「いいんじゃねーの。人間、色々でさ。頭良くても頑固で融通利かなくて初対面の相手には必ず勘違いされるやつとか、誰にも負けねーって意地張ってるのに本当は孤独感覚えてるやつとか、負けた悔しさを必死に合理化しようとしてるやつとか、人の十倍頑張っててそれが報われてるやつとか。色々でいいじゃねーか」

 三強も特待生の仲間も、先輩も、一般生も。誰もが聞いていてもいい。そういう気持ちで言う。
 そういう気持ちが自分の中にあることに温かさを感じた。
 だから言う。
 千尋は仲間たちに誰一人として適当な気持ちでは接していない。
 十人十色。その言葉通りでいいじゃないか。
 生れ落ちる場所は選べない。でも、今日いる場所は自分の意志で選べる筈だ。
 だから、千尋は立海に進学したことを後悔していないし、転校するかと訊かれるとノーと答えるが四天宝寺もまたいい学校なのだと思う。そんなことを曖昧な言葉で表現すると、千尋の隣で大きな溜息が漏れた。
 
「それ、キワにそっくりそのまま返していい?」
「何がだよ、ダイ」
「色々なんだろ? だから、こいつがキワの写真、好きだって言うならそれも認めたらいいんじゃない?」

 人が抱いた「好き」という感情を否定するのは全くの無意味だ、と千代は言う。
 人は自分ではない。自分の気持ちですら書き換えられないのに、どうして人の気持ちを否定して上書きしようとするのだ。そんな無意味なことをしていないで、さっさと現実を受け入れろ。
 そこまでが暗に含まれていて、こういうとき、千尋は千代のことを素直に尊敬出来ると思う。
 千代以外のやつが同じことを言えば、きっと気障ったらしかったり、嫌味だったり、説教くさかったりするだろう。なのに千代が言うと単なる事象の説明にしか聞こえない。
 そう思っているのが千尋一人でないことを、忍足が教える。

「千代、お前ホンマときどきエエこと言うねんな」
「別にお前の為じゃない。俺は、キワが見えてる現実否定してるから、それを教えてるだけだし。キワが成長するってことは俺の為になることだから、お前の為にお前を肯定してやるつもりなんて小数点以下何桁進んでも絶対に一も立たない」
「千代、お前、笑い通り越してホンマ腹立つわ」
キワが言ってただろ? 俺は俺の思うことをする。それ以外のことなんでごめんだし」

 だから、キワ、写真ぐらいほしいやつに渡してやればいいんだ。
 千尋の価値はそこにもある。テニスプレイヤーとしての千尋の価値とは競合しない。だから、並列処理される価値が増えるのなら受け取っておけ、と千代は道筋を示した。
 ひとつしかないものと、多くの中からひとつを選ぶのとでは違う。
 平福が千尋に気付かせたかったことが、やっと千尋の中で芽生えた。

「なぁ、常磐津
「何だよ、忍足」
「俺はお前の言うた通りや。親は金持っとる。頭もエエ。見た目もまぁまぁイケとるかもしれへん」
「自慢なら身内でやれよ」
「いや、自慢やないし。お前が今、自慢やと思た俺やけど、俺がほしいもんはまだまだ遠い」

 俺は一番がほしい。
 淡々とそう言った忍足の言葉が千尋の中にすっと入ってくる。
 知っている。その感情ならもうずっと千尋の中で輝きを放っている。
 一番がほしい。一番好きなテニスで一番がほしい。
 なのにその望みだけが遠すぎるほど遠くて、下を向いてしまうときがある。
 忍足は今、その淵に立っているのだ、と千尋は理解した。

「お前には負けるし、そのお前は立海で一番やないし、正直泣きそうや」
「泣くなら消灯してから好きなだけ泣けばいいだろ」

 泣きそうと言った忍足の表情は晴れ晴れとしていてどこが泣きそうなのだ、と千尋は疑問を覚える。
 その違和感を示す前に、千代が口を開いた。
 忍足が特大の溜息を零す。

「千代、お前、ホンマ黙っといてくれるか」
「俺がお前の言うこと、聞かなきゃいけない合理的な理由、十五文字以内で言えたら考えてもいい」
「はぁ? 『俺は今常磐津と話しとる』」
「十五文字ジャスト? 割と頑張るけど、俺、言ったよな。『考えてもいい』って」
「はぁ? お前、そらないやろ」
「まぁ、でも、お前の話、聞いてやってもいいかな」

 本当に十五文字で返してきたやつ、お前で三人目だから。
 千代がめったに見せない柔らかい顔でそう言う。一人目は幸村で、二人目が柳だ。今のところその二人以外に千代の無茶振りを攻略したやつはいない。大抵のやつはチャレンジを放棄するから、真面目に答えて、なおかつ千代の要求を満たしている、というのはなかなかのレアケースだ。
 千尋が信じた千代が信じた小野寺が信じた忍足、が一つ短縮されたのを千尋は茫洋と理解する。
 千尋が信じた千代が信じた忍足。それを信じない理由はどこにもない。
 千尋もまた黙して忍足の話を待った。

「なぁ、常磐津。俺、思うんや。お前、天才やろ」
「何だよ、その嫌味。俺、言わなかったか。立海で――」
「五番目やろ。聞いた」

 聞いたが、忍足はそれが全てではない、と否定する。

「一番上だけが天才か? 違うやろ? 天才の定義、俺にはようわからへんけど、俺、思うねん。人とは違う、オンリーワンの才能。それが天才やと俺は思う」
「その理屈だと人間は全員天才になるじゃねーか」
「そうでもないと思うで」
「理由は?」
「そら自分で探してくれるか。人から答えもろても、そんなんすぐどっか行くやろ。まぁ、少なくとも俺の中ではお前は天才に分類したから、俺がお前に勝てるまで絶対に降りてこんといてや」

 忍足の言葉を受け取って、千尋は納得がいかないような居心地の悪さと同時に身に覚えのある感情が想起された。これも知っている。千尋が三強たちに対して思っている気持ちと変わりがない。
 目指すべき目標点として四つの背中を認識した。その四人からは実力で勝利を勝ち取るから、それまでに勝手に弱くなっては困る。尊敬と畏怖と友愛と激励。それらの感情が一つの矛盾もなく並ぶ。それを論理破綻だというやつもいる。判断基準が一意ではない。そういう風に受け取ることも出来る。
 それでも。

「で? 常磐津。写真、俺にくれへんか?」

 最高の笑顔で千尋の写真を欲している忍足の目標点になったのだということは、誇るべきだろう。千尋は天才ではない。何の努力もなしに結果を出せるほど人として優れているわけではない。なのに忍足は千尋を天才だと言った。見当違いのことを言っているなら、隣の千代が一笑に付すだろう。それもない。ということは、千代も何らかの視点から見て、千尋を天才だと認めている。
 だから。

「どれがほしいんだよ」
「エエんか! ホンマにエエんか!」
「蓮二、データだったら分けてもいいよな」

 誰かが必要なものを自らが持っているという現実を受け入れた。
 それは千尋のほしかった一番ではないかもしれない。それでも、今、この瞬間、千尋が誰かの一番なのだとしたら、それは素晴らしいことなのだとやっと気付く。気付いたから、相手の望みに応えたいと思う。
 テーブルで言えば三つ以上離れた場所にいる柳に向けて、許可を仰いだ。
 柳がノートブックを手に千尋たちの座るテーブルへとやってくる。ということは彼が暗に千尋の望みを肯定したということだ。

「一枚や二枚と言わず、フォトブック単位で譲ってやったらどうだ、というのが部長の判断らしい」
「それ、出来上がるの一週間以上先じゃねーか。忍足、お前、今、ほしいって顔してるけど今の方がいいか」
「おん! 俺、一枚だけもらえるんやったら絶対にほしいやつがあんねん!」
「どれだよ」

 言いながら三人でノートブックを覗き込む。タイル状に表示された写真のサムネイルを次から次へスクロールしながら、忍足は必死に自分の欲しい一枚を探した。
 そして。
 何百枚ものサムネイルの中から、忍足がたった一つを選ぶ。
 小野寺がサーブを打った瞬間、千尋と小野寺とを結んだ直線状に忍足が割り込んだ、いわゆる使い道のない失敗作。忍足が選んだのはそんな写真だった。

「忍足、お前、本当にこれでいいわけ?」

 暗に、もっとちゃんとした写真を明日以降に撮ってもいいと含ませたのに、忍足は満面の笑みでその申し出を辞去する。

「俺、これがエエんや。今の俺とミキ先輩の距離感、よう出とって、もっと頑張ろ思うし、何よりこの写真のミキ先輩は俺の好きなミキ先輩やから、これがエエねん」
「お前、結構変なやつだな」
「お前ほどやないで」
「言ってろ」

 そう言ってお互いにどちらからともなく破顔する。
 知っている。お互いに変なやつだと言い合える距離感は友人として既に大分親しい位置づけになるだろう。
 だから、千尋は試すように言った。

「なぁ謙也」
「何や、千尋
「お前、やっぱり覚えてたか」
「お前こそ、よう俺の名前覚えとったな」
「白石がお前のこと謙也って呼ぶから」
「ほなお互い様やな。お前のことかって、幸村君や帽子が千尋て呼ぶやないか。それともキワの方がエエん?」

 忍足のことを下の名前で呼んだ。拒絶の言葉は紡がれずに、まるでそうすることが当然だと言わんばかりに千尋の名前が返ってくる。頭がいい、という小野寺の情報は決して間違っていなかったのだな、とぼんやり思ったが同時に真田のことは帽子呼ばわりなのだと思うと、人と人との距離感というのは存外難しいということを実感する。
 その忍足が千尋を立海での通り名で呼ぼうとしたから、それには明確に拒絶を示した。

「あー、それは無理」
「なんでやねん。立海殆どお前のことキワやないか」
「だから、無理」

 キワ、という呼び名は特別だから、仲間にしか呼んでほしくない。
 立海に来て、千尋が一番最初に手に入れたのがキワという名前だ。郷里の誰もそんな名前では千尋のことを認識していない。立海三十一。たったそれだけの仲間に許した特別な名前だから、忍足を友人として認めても、その名前では呼ばれたくない。
 そんなことを一つひとつ説明するのが煩わしくて、省略すると忍足は「まぁ、そういうもんもあるんやろ」と言って深追いはしてこなかった。人と人との距離感を推し量るのが上手いな、と思ってそれが忍足の才能なのか関西人の常識なのか千尋にはまだ判別出来なかったから言葉にはならない。
 ただ。

「謙也、また『明日』な」
「おう、明日な」

 夕食が終わって久しい食堂に顧問が入ってきて、本日最後のイベントである就寝前ミーティングが始まる。四天宝寺、立海と分かれてテーブルに座り直す。顧問たちはそれを見届けて話を始めた。
 明日を見たことのあるやつなんていない。
 明日が待っている保証なんてどこにもない。
 それでも。千尋も忍足も明日を約束した。
 忍足は千尋の味方ではないかもしれない。全国大会で対戦すれば、そのときは本気で潰すことを躊躇う理由もない。弱点があるのなら、そこを攻めるし、それでも忍足が成長したのならそれは当然認めるべきだと思う。そこから千尋が学ぶべきこともあるだろう。
 だから。
 今話しているのが、敵か味方か、とかいうのは二元論だ。世界は等しく一かゼロかなんて言っているのと変わりがない。味方だけど弱いやつ、応援出来ないやつ。敵だけど強いやつ、応援出来るやつ。そんなの全部存在するに決まっている。だから、千尋は他校という線引きをやめることにした。
 明日を約束出来る相手と巡り会えたことを僥倖に思い、受け止め、そして明日もまた研鑽が出来ることを喜べばいい。千尋の世界が一歩前に進んだ。一歩ずつ前に進む度に世界は彩りに輝き、新しい表情を見せる。
 選べる今が未来を決めるのなら、せめて後悔のない選択をしたい。それすら無理と知っても、千尋はまだ前を向いている。
 また明日。見たこともない明日に向けて、千尋の一日がまた終わろうとしていた。