. All in All => 41st.

All in All

41st. 午前五時十五分

 立海大学付属中学スポーツ特待寮の朝は早い。
 どこにいても、何をしていても、常磐津千尋や千代由紀人(せんだい・ゆきと)の起床する時刻は変わることがない。午前四時四十五分。千代の携帯電話がアラーム音を鳴らす。三分遅れの四時四十八分。千尋のアラームが鳴ってスヌーズに切り替わる前に布団の中から抜け出した。六人ないし七人ずつに割り振られた和室の中に二度、立て続けにアラーム音が響いたけれど、先に部屋から出た千代以外に誰かが起きた気配はない。そのことを確認して千尋は足元に置いた鞄から洗面用具を取り出した。そしてそのまま洗面所へと向かうといつも通り八分以内で朝の身支度を整えた千代が待っている。その隣にジャッカル桑原の姿を確かめて、千尋はここが立海でも神奈川でもなく、大阪なのだということを実感した。まぁ、昨日もその感想を抱いたのだけれど、何度味わっても特待生三人が揃っているという充実感が色あせることはない。
 そんな風に千尋の合宿三日目は始まった。
 午前五時ちょうど。千尋たち三人は荷物をそっと鞄の中に戻してロードワークに出かけていく。
 大阪に来たのは正真正銘一昨日が初めてで、当然地理勘などない。
 昨日の朝は全体練習で走った大学の外周を周回した。迷わずに帰ってくることが出来る道はそれしか知らなかったから、選択肢という概念が存在しない。飽きるほど周回して宿舎の玄関に戻ってくると二年の特待生三人がいて、千尋たち三人が揃っていて冒険もしないだなんていつの間にそんな分別を身に着けたのだと笑い飛ばされた。その一連の流れで、氷帝学園へ遠征試合をしに行ったときのことを思い出して、三者三様に後悔はしていないけど反省はしたのだと返す。二年生たちはそれすら笑って、不安なら四天宝寺の誰かを巻き込めばいいのに、という旨のことを言って消えてしまった。
 昨日の時点ではこの問題を解決するためのハードルが高すぎる、と思っていたけれど一日を過ごす中で千尋たちと四天宝寺の間にある空気感が変わった。今なら、今日なら、多分千尋たちには別の選択肢が用意されている。
 そのこともまた三者三様に受け入れて、これは、と思う結論を導いた。

「ダイ、ルック。清流の間行こうぜ」
「まぁ、新緑の間よりは可能性あるかもね」

 宿舎の大部屋に付けられたのは番号ではなく古風な日本語で、清流の間というのは四天宝寺の一年生に割り当てられた部屋の名前だ。新緑の間が四天宝寺の二年生――今井津や綾川の起居する部屋だけれど、多分、そちらは二年生同士特待の先輩が先に声をかけているだろう。
 千尋たちの誘いに応じてもらえる可能性が残っていないわけではない。
 それでも、可能性が低いのもまた間違いがない。
 だから、千尋は清流の間を推した。
 千代が遠回しにその意見を肯定して、桑原もまた彼の立ち位置を示す。

「俺はお前たちの判断に任せるぜ。小石川ってやつも面白いと思うけど、白石とか忍足の方が誘いやすいならそれで文句はない」

 これで一応は満場一致で誰を誘いに行くのかが決定した。清流の間にいる二人に声をかけよう。白石蔵之介の方とはまだ多くの言葉を交わしていない。それでも、忍足謙也と親しそうだったから誘えば応えてくれるのではないか。そんな期待を抱きながら千尋たちは清流の間を目指す。
 ただ。

「なぁ、ルック。今何時だよ」
「五時じゃないのか」
「世間一般で言う普通の朝って何時からだっけ」
「まぁ、五時じゃないのは確かだな」

 午前五時に身支度を整え終わっている自分たちが世界標準でないことは何となく理解していた。だから、こんな時間に部屋を訪ねていって、偶然に相手が起きている、なんて巡り合わせは奇跡でも起きない限り発生しないことも理解している。
 となると、事前に相手に打診しておかなければならないのだけれど、昨日の千尋は写真問題でいっぱいいっぱいで早朝練習のことはすっかり頭から抜けていた。当然、忍足に声をかけていないし、電話で起こそうにも番号もメールアドレスも知らない。
 そのことにようやく思い至った千尋の中に問題として姿を現したことがらを口から吐き出す。
 そうしないと、後悔と困惑と焦燥で千尋は制御不能になってしまいそうだった。

「どうしよう、俺、謙也に昨日声かけるの忘れてた」
「馬鹿じゃないの、キワ
「馬鹿に馬鹿って言うやつが一番馬鹿なんですー」
「まぁ、そういう屁理屈を言うやつが最大の馬鹿だと思うけど、そうじゃなくて」

 起こせばいいだろ、忍足と白石。
 千代はまるでそれが当然のことであるかのように言った。馬鹿の千尋の頭上高くを通過する本物の大馬鹿が目の前にいる。千尋の悩みなんてとても些細で、問題なんてどこにも存在しない。言外にそう告げられた気がして、気が付いたら「あぁ、うん。そうだな」とか言っていて常識とは何か、とかいう何の役にも立たない理論が脳内で何度も明滅した。
 何の前情報もなく、午前五時に叩き起こされる相手のことを考えろ、だとか、お前が同じことをされたら怒るはずだ、とかとにかく色々なことを思い浮かべたけれど、千代の平然とした様子を見ていると、今すぐにでも彼は有言実行してしまいそうで、その段になってやっと千尋は現実を直視する。

「いや、ダイ。じゃあお前が行けよ」
「意味のわからないこと言うなよ。忍足呼べるのお前だけだろ」
「いやいやいやいや。普通に考えて言い出しっぺの法則だろ」
「じゃあ今日も外周でいいわけ?」
「何なんだよその二択! 俺は、穏便に朝トレしたいだけだっつの!」
「だから、キワが忍足呼んできたら穏便に始まるだろ、朝トレ」
「ルック! お前からも言ってやれよ、ダイの言い分おかしいだろ」
「まぁ、でもそれが一番手間かからないと俺も思うぜ」
「おーまーえーもーかー!」

 三人の集団は奇数だ。多数決が発生したとき、答えは必ず示される。どちらでもない、なんていう責任感がまるで感じられない返答をしない限り、数の暴力は結論を支持する。今は千尋に逆風が吹いている。そのことだけを理解して心の中でそっと溜息を吐いた。
 現実なんてそんなものだ。
 耐えるしかない。
 それでも。それが真理だとしても。
 割を食うのが自分だとわかったとき、何の抵抗もなくそれを受け入れられるやつがいるのだとしたら、そいつは既に一般人の領域を超越しているから千尋の人生と重なり合うことはないだろう。
 だから。

「ダイ、貸し一つだからな」
「意味わからない。取り敢えず、キワ、五分経った。時間もったいないから早く」
「貸しなんだよ! お前が! 否定しても! 俺は貸したんだからな!」

 貸し借りが成り立っていなくても、双方に共有認識がなくても、千尋は千代に貸しを作った。別に本当に返してもらわなければ困る、だなんて思っているわけではない。ただ、何のリアクションも取らずに諾々と受け入れることに抵抗があっただけで、実際のところはくれてやってもいいとすら思っている。
 一応は拒絶の意思を示し、それで自己満足を得た千尋は清流の間の扉をそっと開いた。
 中はまだ暗闇に支配されている。電灯を点ければ誰がどこに寝ているのか、明瞭になるけれど、関係のないものまで起こしてしまう。それは流石にまずい、と感じるぐらいには千尋にも一般常識が備わっていたから、暗闇の中、忍足と白石の二人を探す。取り敢えず、忍足が一番手前の布団に寝ていることをどうにか発見して布団を剥いだ。そして右腕を肩に担いでそのままずるずると出口から外へ引っ張り出す。意識のない男子中学生を軽々と運べるほどの体格ではない千尋にはなかなか困難な作業だったけれど、それ一番簡単だと勝手に判断した。
 廊下まで運んで後のことを千代たちに一任して、千尋は再び部屋の中に戻る。そして、白石も同じように運んで廊下に放り出す。
 当然、放り出された二人は寝ぼけ眼をこすりながら千尋たちに猛抗議だ。
 わかっている。
 わかっていて、本人の意思を確認しないで強行した。
 だから。

「謙也、お前、俺より強くなるんだろ。寝てねーで練習付き合え」
「無理やり叩き起こされて練習出来るかどうかぐらい、お前、考えろや」

 今、何時やねん。まだ外暗いやないか。寝かせろ。
 もごもごとしてはいたけれど、忍足の苦情が的確に飛んでくる。その一切を切り捨てて、千尋は二人分の文句と笑顔で対峙した。

「うん、朝トレ行こうぜ」
「強くなりたいんだろ、二人とも」
「俺、知ってるぜ。日本語のことわざでこういうの『千里の道も一歩から』っていうんだろ?」

 立海三人の動じることのない笑みを見て、忍足と白石が押し黙る。一年前の千尋たちを見ているようだ、と思うとなんだか懐かしくて同時にとても心躍った。誰しも最初から強いわけではない。ひとつの勝ちを得るまでに数えきれないほどの負けを味わった。それでも、千尋はテニスを愛しているからここまで来た。やめようと思った日がなかったなんて嘘を吐けるほど強くもない。勝てない自分に絶望して、悔しくて、それでもなおテニスが好きで勝つまで続ける。そう思うまでどれだけの時間が必要だったか、思い出しても鮮明にはならない。そのぐらい、千尋たちはテニスと時間を共にしてきた。
 朝五時に起きるのだって最初はつらかった。八分しかない身支度の時間。急かされるようで少しも生きた心地がしなかった。眠たい目をこすって、必死に授業を聞いて、そのまま部活をして自主練習をする。そんな日々に慣れるまで、何度も心が折れそうになった。もしかしたら、折れてしまったこともあるかもしれないけれど、それは今思い出すことが出来ない。思い出すことが出来ないのは、忘れたからだ。今ある、充実の日々が過去を書き換えた。
 だから。

「謙也。俺、蓮二みたいに詳しい理屈とかわかんねーし、お前みたいに頭回るわけじゃねーからどう言えばいいのかわかんねーけど、テニス好きなやつとなら分かり合えると思う」
「いや、千尋。頼むから文脈言うんを覚えてくれや」
「要は、お前たちと一緒にテニスを楽しみたいんだけど、方法がよくわかんねーから取り敢えず一緒に練習したらどうかって話だ」

 馬鹿の千尋にそれ以上の表現は出来ない。合理性も、感情論も、何もない。ただ、結論と方法だけを示した。あまりの剛直さに呆気に取られた忍足の隣で、呆れを通り越して一周まわった白石が噴き出す。謙也、俺らの負けや。そんな言葉が聞こえた。

常磐津君」
「くん、いらねーんじゃね?」
「エエねん。俺、君に勝てるまでは『君』付けることにしたんや」

 そういう覚悟、エエと思てくれるやろ。
 試すように付け足された言葉に千尋は苦笑いを返す。知っている。そういう美学は決して嫌いではないし、千尋の中でも価値のあるものとして理解出来る。親しむ為に名前を呼んだ忍足とは正反対の美学だけれど、美しさに優劣をつけることに意義を感じない。
 だから。
 敢えて素っ気なく答えることで受容を示す。白石がこれ以上ないほどの笑顔で言った。

「あっそ。で?」
常磐津君、練習ってこんな朝早うから何をするん?」
「一時間ぐらい走って、その後ストレッチと筋トレ」

 何キロを走るのかは今から白石たちの反応を見て決める。だから、距離ではなく時間で示した。一時間が長いのか短いのか。千尋たち特待生の中では短いに分類されているけれど、それが一般論でないことだけは何とか認知している。
 時間を聞いた忍足の両目から眠気が飛んで、大きく見開かれていた。

「立海ではそれが普通なんか」
「まぁ、俺たちの中では普通だけど、特待生だからな」

 ハルとかルイとかあいつらはまだ寝てるよ。
 そう答えると忍足はどこか安堵したような顔をした。立海三十二人が全員五時起きで普通なら、もう一度あの台詞を聞けるだろうか。立海、バケモンしかおらんのか、とかいうやつを。
 尊敬と侮蔑が入り混じった複雑な言葉が耳の奥に蘇る。今なら、一昨日とは違う響きで聞こえるだろう。そうしたら、千尋はきっと笑って答えられる。「当たり前だろ、王者立海だぜ?」とか「そのぐらいでちょうどいいだろ」とか。そんな自らを誇る言葉を真っ直ぐに届けられる。
 そんな未来を思い描いたけれど、千尋の複雑な期待は肯定されなかった。
 ただ。

「白石、お前、行けるんか」
「行くしかない、って顔に書いてあるで、謙也」

 朝の気配がまだ遠い三月の終わり。午前五時十五分。眠たさの残る四つの瞳に闘争心が宿った。
 知っている。こういう目をするやつは千尋たちを仮の目標点として定めて、その向こうの届かない未来を手に入れようとしている。立海で言えば丸井ブン太や仁王雅治たちがこういう目をしていた。
 だから、千尋にはわかる。この二人は千尋たちの望みを叶えてくれる。二年生の先輩たちがそうしたように、もっと質の高い練習をする機会を得た。

「取り敢えず、俺たち地理勘ないから道案内してほしいんだけど、いいか」
「俺らもこの辺りに詳しいわけやないけど、エエよ」
「よっしゃ、千尋! 俺ら五分で着替えてくるから先に準備しといてくれや」

 言って二人が部屋の中に消える。五分、と言った二人はきっと千尋たちに最大限、気を遣ってくれたのだとわかっていたけれど、三人で顔を突き合わせて苦笑いを交わした。五時二十分スタートの朝なんて生まれて初めてだ。それでも。最初から完璧を求めても何にもならない。ここは大阪で、特待生の三人がこんな時間に揃っていること自体が稀有だ。だから。まぁ、五分ぐらいなら世間話で済ませられるか。とか軽口を叩きながら宿舎の玄関へと向かう。まだ少し冷たさの残る空気が心地いい。そんな風に今を捉えられる自分たちを知るのも、千尋の中では意味のあることだった。
 千尋が腕にはめた時計で四分四十七秒後に二人がやってきて、練習が始まる。
 白石の案内で大学から街道を走る。時折、隣の忍足に道順の確認をしていたけれど、概ね白石の判断によるところが大きかった。千尋たちは二人の後ろで大阪の街をゆっくりと眺める。立海特待生の中では圧倒的スタミナ不足の烙印を抱く千代ですら余裕を持って走っている。そのぐらい、千尋たちと白石たちの間にはアドバンテージがあるのだと知って、それでも別段彼らを侮蔑するとかそういう感情は生まれなかった。ただ、彼らが千尋と同じ条件に立ったとき、どのぐらい強くなるのだろう。だなんて未来の楽しみを見出す。
 大学を出てからずっとアップダウンの少ない道が続く。神奈川は平野と言っても勾配が多い。少し下るとすぐに海だから、吹き降ろす風も強い。一年前はそんな立海の環境のことを苦しいと感じていた。だから、大阪の恵まれた気候の中を走っていると、色んな意味で遠くへ来たのだと思う。

キワ、俺思うんだけど」
「何だよ、ダイ」
「部長が嫌だって言っても七月ぐらいにあいつら呼ぶって主張するの、どう」
「立海大学で合宿か? 面白そうなだな、ダイ」
「ルックもそう思う?」
「柳が言ってただろ。ダイが提案すること、割と面白いと思うぜ、俺も」

 千尋を真ん中に挟んで、両隣の会話が続く。それなら、何の気兼ねもなくゆっくりと走れと言わんばかりに少しペースを上げた。三角形の頂点になればいいと思ったのに、千尋のペースに合わせて両隣も進む。当然、三角形は成立せずに一線上に並んだ。
 じゃあペースを落として逆三角にするか、と思って足を緩めると、それも上手くいかない。千尋は三人の中では一番身長が低いから、頭上を言葉が行き来するのは何となく違和感がある。そう思っているのが千尋一人だということが何となくわかって、高身長のやつらの傲慢のようなものを知った。
 それはそれで満更気に食わないわけでもない。
 ただ。

「ちょっと、キワ。さっきから走りにくいんだけど?」
「いや、ダイ。そう思うなら俺に合わせるなよ」

 別に千尋が一緒でなくてもいいだろう。そう含めると途端に顔を顰めて千代が文句を言う。

「毎日毎日、お前に合わせて走ってるんだから、お前が隣じゃないと気持ち悪い」
「いや、お前、頼むから自立しよう? な?」
「だから、こっち来るときのバスはレンの隣に座っただろ」
「えっ、何。お前、あれ、遠慮してたのかよ」
「何、俺だって色々考えてるんだけど」
「じゃあ帰りはハルの隣にでも座ってやれよ」
「考えておく」

 そんなやり取りを交わすと千尋の左隣の桑原が噴出した。お前たち、仲いいよな。ほんの少し羨ましさを滲ませた言葉に千尋と千代は束の間顔を見合わせて、そして同時に言う。「当然だろ」の声が綺麗に唱和したのを聞き届けて、桑原はもう一度噴出した。

「流石、立海黄金ダブルスペアだな」
「何だよ、それ」
「知らないのか? みんな、お前たちのことそう呼んでるぜ?」

 立海レギュラーで一番強いダブルスペア。だから、黄金ペアと呼んでいる、という説明があって、立海というのは万事名前を付けるのが好きな学校だな、と思った。まぁ、そういう学校だと言うのにはすっかりもう慣れて、それが当たり前のような感触すらある。
 立海の色は夕暮れの色だ。黄金もその色味に近い。だから、満更悪い気はしない。いいんじゃないか、そう思った千尋の心中を知ってか知らずか千代が唇を尖らせた。

「何。俺たちが黄金だと、白銀と白金もどこかにいるわけ?」
「そういうわけじゃないんだけど、そのうちどこかで生まれるかもしれないな」

 ダイ、日本語強くなったな。日本とブラジルのハーフである桑原がその台詞を口にすると、なんだか違和感があるのに感覚がそれを認知しない。日本人だとか外国人だとか、そういうレベルを超越して桑原は「千尋たちの仲間」なのだということを間接的に伝えて千尋の中で温かいものがゆっくりと広がった。
 千代の指摘に、千尋も「銅も入れておけよ、ダイ」と口を挟むと彼は銅を含む二文字熟語が分からないと言ってからりと笑った。

「普通、『赤銅』じゃねーの」
「そっか。そんなのあったっけ」
「日本語って遊びの幅があっていいな」
「ルックが言うと真実味あるよな」
「な」

 そういう遊びを教えてくれたのは、今ここにいない三強たちだ。
 千尋たちとは部屋が違うから確証はないけれど、多分、真田弦一郎は今朝も四時起きで竹刀をふるっているだろう。幸村精市と柳蓮二もそろそろ起きる頃だ。
 手元の時計を見ると、路上に出てから間もなく一時間になる。
 余裕でじゃれあっている千尋たちの前方で、完全に息の上がった白石が振り返った。

常磐津君、そろそろ、大学、着くで」
千尋、お前、やっぱりバケモンか!」
「よし、謙也。じゃあお前、俺とストレッチな!」
「はぁ? なんでそうなるねん!」
「じゃあ白石は俺と組んだらどう?」
「お手柔らかに頼むわ、千代君」

 悪口を交わしているうちに、薄明かりの中、大学の正門がぼんやりと見え始める。
 正直なところ、白石に一時間ちょうどのペース配分は期待していなかった。多少の増減はあってもいい。もし、一時間で帰ってくることが出来なかったらそのときは筋トレの時間を短くしよう、そう思っていたのに白石は時間きっかりを提示する。大したやつだ、と思った。
 千尋が逆の立場なら、多分、白石ほどの働きは出来なかっただろう。動揺して、狼狽えて「よく頑張った」レベル止まりだ。なのに白石は息を乱してこそいるものの概ね平然としている。頭の中で冷静な判断をしているのが千尋にも見て取れるのだから、多分、千尋が思っている以上にメンタルが強い。そんな白石を見て動揺するでもない忍足のメンタルもそこそこのものだ。
 だから。

「謙也。正門まで全力ダッシュしようぜ」
「何やねん、いきなり」
「勝った方が朝飯の小鉢一個もらうってことで、三、二、一、スタート!」

 一方的に宣言して駆け出す。きっと、忍足は追いついて横に並んで正門まで競り合ってくれる。そんな予感があったから後ろは振り返らない。五秒後、期待通りに忍足の姿が見えて千尋の気持ちが高揚した。

「謙也、お前、結構行けると思ってたぜ」
千尋! お前卑怯やろ! なんで、お前のタイミングやねん!」

 せめて忍足のタイミングに合わせろ、と全力で抗議されたけれどそんなことはもう些末な問題だ。正門まで残り五十メートル。息をするのも忘れて必死に走る。風景が飛ぶように過ぎた。飛んでいく景色に常に忍足がいる。負けたくない。負けられない。その気持ちだけで走った。
 千尋たちは陸上競技の選手ではないから、日本記録を出すことなんて出来ない。
 それでも、十秒の壁を破れるぐらいのスペックは持っている。一時間のロードワークの終わりとは思えない疾走感を味わって、正門のラインを越えた。人間の身体は精密に出来ている。急に停止するのは危険だから、千尋と忍足は構内をゆっくりと流しながら走った。走りながら、お互いの健闘を称えたりするとよくわかる。忍足といると丸井たちといるときのようなわくわくした気持ちが千尋の中に生まれる。だから、忍足もきっと今よりずっと強くなるだろう。

「謙也、また走ろうぜ」
千尋、一つだけエエこと教えたるわ」
「何だよ」
「そういうんは事前にちゃんと言えや! 俺やって準備とか色々あるし、お前が五時から練習したかったんやったら俺らやってその時間に起きたかもしれへんやないか!」

 別段、千尋は拒絶を恐れていたわけではない。ただ、単純に失念していた。それに尽きるのだけれど、忍足は言う。もう少し段取りを踏めば、お互いにとってよりよい時間を過ごせただろう。その提案はすとんと千尋の中に落ちてきて、安定した。
 なるほど、そういうものか。
 そんな感覚がある。だから、笑顔で忍足の提案を容れた。次があるのなら必ずそうする。約束をすると、忍足は一拍遅れて「まぁ、わかってくれたらエエねん」と言って宿舎の前の地面に倒れこんだ。

「謙也?」
「もう無理。今日は無理。これ以上筋トレとかしたら俺、死んでまう」
「謙也、俺からも一ついいこと教えてやるよ」
「何や。嫌な予感しかせえへんけど」
「無理って思うから無理なんだろ。ダイと白石が来るまで休んで、その後ちゃんとストレッチしようぜ」

 筋トレもメニューを減らしてでも挑戦する価値がある。そう言外に告げると忍足は大きな溜息を吐き出して、そして完全に呆れた顔で答えた。

「お前、ホンマ規格外やな。アホやないと立海の特待生なられへんのとちゃうか」
「その点については異論はない」
「反論せえ、言うねん」

 お前と話すとようわからんようなる。
 忍足がぽつりと呟いた。常識とは何なのか、標準とは何なのか。一般とは何で、いったいどこからが特殊なのか。一流が何で、どこまで行けばその域に達するのか。忍足には到底推し量れないけれど、それでも、諦めたくはないと言って忍足は薄っすらと笑みを浮かべる。
 千尋、お前、不思議なやつやな。

「俺、絶対にお前に勝てるようになるから、待っとけや」
「まぁ、夏の大会は俺たちがもらうけど」
「決勝戦で三勝一敗、の一敗がお前になるだけのことやろ」
「言ってろ」

 取り敢えず、お前立てないならドリンク、持ってきてやるけど?
 軽口を叩くと忍足が弱弱しく「頼むわ、俺、まだアカン」と呟いて、それが千尋に正面から喧嘩を売ったやつの台詞か、と思ったけれどまぁそういうのもありなのかもしれない。そう結論付けて千尋は宿舎の中へドリンクを取りに戻る。
 合宿も残り一日半。明日の午後には神奈川へと戻る。
 立海の格を見せつける為ではなく、純粋に自分の楽しみの為だけに忍足と再戦する瞬間までのカウントダウンはもう始まっていた。