. All in All => 42nd.

All in All

42nd. 嫌いじゃない

 人間は視覚から八割以上の情報を得る。残りの二割弱の大半は聴覚で、だからこの二つを失うと人は何も知覚出来ないような錯覚に陥る、と柳蓮二が高説を垂れたのはいつのことだっただろう。
 常磐津千尋は柳がその解説をした意図もよくわからなかったし、ただ博学な柳が言うのならそうなのかもしれない、程度の認識しかなかった。視界に映ったものが全てだ。何かに打ちのめされたかのように続けられた小さな呟きも千尋の耳に届いていたのに、言葉を拾っただけで咀嚼することも理解することもしなかった。
 そんな過去の自分の横面を殴ってやりたい、という自己不全感が千尋を襲ったのは四天宝寺との合同合宿も残すところあと一日となった三日目の午後だった。
 最後の昼食を終えて、それぞれが小休憩を取っている。
 小さいけれどしっかりと甘みのある饅頭と、程よい渋みの緑茶が全員にふるまわれて、千尋たちはここが食の都と称される意味を自分の身で体感していた。大阪の味は派手一辺倒しかない。そう思っていたのに毎食提供される料理は決してくどくはなく、なのに確かに味わいがある。千尋たちの既成概念の中にある派手な料理もときどき現れるけれど、実際、食べてみると思っていた以上にあっさりとしていた。食べても食べても飽きることがない。
 この料理をもっと食べていたいような、あるいは立海で暮らす一年で慣れ親しんだ関東の食事に戻りたいような複雑な気持ちを抱えながら、千尋は二箭目の緑茶を湯のみに注いだ。
 その耳に四天宝寺の一年生が雑談に興じているのが聞こえてくる。
 初日とは違い、一年生のレギュラーが半分以上を占める立海のことを層が厚いと評価する内容に変化していた。ただ、思っていたほどの高みにはいない。王者立海などと言っているが次の大会では下せる。そんな響きが聞こえてきて、千尋の感情が瞬間沸騰する。
 まだそんなことを言っているのか。だとしたら残りの二十四時間で完膚なきまでに叩きのめして夏の大会に出場する気力すら残してはならない。追いかけるには遠い背中を見せていると思っていた。その距離感は十分に示せたと思っていた。なのに、今、聞こえてきた評価は何だ。何かの手違いがあれば勝てるかもしれない、などという楽観的な希望を与えたのは誰だ。もし、それが千尋の手落ちなのだとしたら、自分の失敗は自分で挽回しなければならない。
 だから。
 千尋は喧嘩腰で席を立とうとした。席を立って、そのまま四天宝寺の会話に殴り込もうと思った。
 その肩を誰かが後ろからそっと押さえる。優しく、なのに力強さのある不思議な感覚に抵抗しようとして千尋は振り返った。どうせ真田弦一郎だろう。でなければ柳蓮二だ。この二人以外に千尋に我慢を強いる相手なんていない。振り返って文句を言おうと思って、なのに思っていたのとは違う相手が見えて、千尋の口腔から文句が消える。

「精市?」
千尋。お前は本当にコートの外では駆け引きが出来ないね」

 幸村精市が穏やかな笑みをたたえて立っていた。四天宝寺に向ける感情は平らかで、寧ろ千尋に対する慈愛が滲んでいる。どうしようもなく出来の悪い子どもを温かく見守る大人の風情すら感じさせて、幸村は千尋に言った。

千尋。いいじゃないか。別に、わかる気のないやつにまでわかってもらわなくなって、俺たちの道はかすり傷一つ負わない」
「けど」
「この世の全員に認められなきゃ生きていけないほど、お前だって弱くないだろ。それに」
「それに?」
「見えていることしか信じられないやつが俺たちの覇道をどうこう出来るとでも思っているのかい?」

 美しいまでの反語だ。絶対にあり得ないと幸村はそう思っているのに敢えて問いの形を選んだのは確かめたかったからだろう。千尋に幸村と同じだけの覚悟があるのか。幸村と同じ目線で世界と対峙する覚悟があるのか。その覚悟が千尋にもあるなら、こんなところでむきになっていても何の利もない。
 だから、と幸村は言う。

「俺が三日間、耐えてきたことを無駄にしないでほしいな」

 何のことを言っているのか、一瞬、千尋は幸村の言葉を図りかねた。それでも、幸村がそれ以上のヒントをくれる気配がなかったから、必死に答えを探す。
 千尋は立海の圧倒的な強さを見せつけたいと思った。今も思っているし、そうある為の努力なら惜しみなく出来る。それは幸村にしても同じだろう。同じ志を抱いて同じ方を見て走っている。それは幸村の言葉がしっかりと裏打ちをした。
 だから、幸村の我慢がそんな些末なことでないのは確かだ。
 では何だ。
 コートの中でラケットを持って相手と対峙すれば、すっと思考が澄み渡る。なのに練習や試合から少しでも離れると千尋の目に核心や本質は見えなくなってしまう。どういう仕組みでそうなっているのか、千尋には少しも理解出来ないままだったけれど、それでも、何となく現実を受け入れることは出来るようになっていた。
 馬鹿でどうしようもない大馬鹿で、それでも、人に信じられるということの尊さを知っている千尋に、幸村は何かを期待している。だから、千尋は答えの片鱗を脳裏で何度も巡らせて解決の糸口を探す。
 見えていることしか信じられない、というのは四天宝寺のことだろう。その中にレギュラーや忍足謙也たちは含まれていない。なら、見えていないもので信じられるものがある、ということだ。
 
「見えてねーもので信じられる? 見えてねー? あれ? そういや、俺、ずっと見えてるな」

 二学期末の球技大会以降、千尋をはじめとした立海テニス部全般で起きている怪現象のことをやっと思い出す。幸村の圧倒的で完璧なテニスと対峙すると部員たちは「どこに打っても絶対に返されるイメージ」を想起して身体に異常をきたすようになった。その、異常が三日前から止まっている。四天宝寺と組むことが多く、幸村と本気で相対していないからだ。そんな言い訳も胸の内に湧いたけれど、多分、そんな単純なことではなかったのだろう。だから、幸村は「耐えてきた」と言った。

「気付いてなかったのかい、千尋。まぁ、お前らしいって言えばそうだけど」
「何なんだよ、お前。なんで、そんな我慢なんかしてんだよ」
「だって、千尋。俺が本気でやって大学病院行きのやつが出たら合宿どころじゃないだろ」

 俺はお前たちにも強くなってほしいから。
 何でもないことのように幸村はそう言ったけれど、ならお前は誰が強くするのだと思う。言外に千尋の実力不足が滲んでいて、不甲斐なさと同時にこれ以上ないというほどの悔しさを味わった。幸村には千尋を責めるつもりはない。わかっている。わかっているのに、まだ彼の足元にも及ばない自分を知って、悔しかった。
 千尋はテニスが好きだ。テニスさえあればいいと思っている。写真のことも色々あってそれなりに好きでいる覚悟は出来たけれど、それでもテニスとは比べる意味すらない。
 立海の仲間は揃いも揃って千尋と肩を並べるテニス馬鹿ばかりで、勿論、幸村も例外ではない。だから、幸村だってもっと強くなりたいだろうし、もっと深みのある試合がしたいと思っているのは想像出来た。
 なのに。
 幸村が合宿を本気で楽しめば、四天宝寺からも立海からも「どこに打っても絶対に返されるイメージ」を受け取るやつが現れるだろう。そうなるともう合宿どころでないのは間違いない。立海だけなら、その選手を一旦休憩させれば一時間程度で元に戻ることがわかっている。今更騒ぎ立てるやつなんていないだろう。ただ、ここには四天宝寺の生徒がいる。彼らにとっては未知の出来ごとで、そうなれば当然、不安を煽られる。恐慌状態で合宿を続けるだけの覚悟、なんて相手に求めるほどには立海も非人道的ではなかった。
 非人道的ではない、という状態を維持する為に犠牲になったやつがいる。そのことが正しいのか、千尋の乏しい知性では判断出来ない。こうなるとわかっていても合宿を楽しめたのか、と問われるとはっきり言えば自信なんてない。幸村のことを気にしながら、最善を尽くすだなんてマルチタスクをこなせるほど千尋は器用に出来ていないことを顧問も含めて立海三十二人全員が知っている。だから、多分。顧問は幸村に指示したのだろう。誰にも何も言わずに手を抜け、と。
 柳や真田は知っていても秘匿するだろう。千代由紀人(せんだい・ゆきと)は気が付いていても一々千尋に教えてくれるほど親切な性格をしていない。ジャッカル桑原も気付いても幸村の選択を支持する。丸井ブン太たちはまだイップスの仕組みをぼんやりと理解しているだけだから、敢えて千尋に知らせにくることもない。
 気付かなかったのは千尋一人だけだ。
 気付かなかったからこそ、この合宿に今の今まで全力で向き合ってきた。その結果、千尋が得たものはそれなりに大きい。
 どうしてだろう。どうして、千尋はコートの外にいるとこんなに鈍感で不器用なままなのだろう。メンタルが強いとか、弱いとかそういう以前の問題だ。自分のことに精一杯で全力投球しか出来ない。
 どうして、仲間が犠牲を払っていることに気が付けなかったのだろう。幸村精市というのがそういうやつだと知っていた筈だ。他の仲間にしてもそうだ。それぞれが自分の観察力で気付いた。なのに千尋はヒントをもらって、必死に考えなければ答えに辿り着かない。
 そのくせに自尊心だけは一人前で、侮られることに簡単に怒りを覚える。
 幸村はもう三日、その屈辱と戦ってきた。千尋の健闘を褒め称えながら、彼はずっと一人で手加減を強いられている。本気で戦えないつらさ、なんて千尋は知らない。相手を陥れる為に意図的に手加減をすることはある。それでも、全体の利益の為に自分を押し殺すつらさなんて知らない。

「お前、それでいいのかよ」
「俺はお前がちゃんと強くなってくれたらそれで問題はないよ」
「でも、お前、楽しくねーだろ」
千尋、楽しいだけのテニスがしたいなら立海なんて辞めたら?」
「なっ!」
「そうだろ。俺たちは勝つ為にここにいるんだ。楽しいテニスがしたいだけのやつとなんて俺は一緒に戦うつもりはない」

 幸村の表情は笑顔そのものなのに、双眸に灯っているのは強い決意だ。覚悟と言い換えてもいい。
 千尋は勝つ為に立海に来た。それなのに自分の役割も果たせない不甲斐なさに打ちひしがれた毎日のことを思い出す。特待生だとか言って、誰よりも優遇されて、なのに幸村に一度も勝てた試しがない自分に絶望した時期もある。
 それでも、そういう全部をひっくるめても千尋はテニスが好きだ。
 勝つ為のテニスをすることに異論はない。戦うということは生易しいことではないと、立海の一年間が否応にでも千尋に叩き込んだ。そうして幾つもの艱難辛苦の向こうに勝利を得たとき、どれだけの充足を得るのかも、今の千尋は知っている。
 だから。

千尋、俺はお前のこと信じてる。お前が俺に追いつくまで、俺は俺の全力で走ってるから、見せかけだけの強さとか上っ面の綺麗さとか、そんなの全部捨てちゃえばいいんだ」
「お前、そういうこと簡単に言うけどさ」
「目が見えなくても、耳が聞こえなくても俺と戦ってくれる三十一の仲間がいるだけでいい、って俺は思うよ」

 負けるって思うのに全力で最後まで戦ってくれるやつがいるだなんて、それだけで幸福なことじゃないかと幸村が心の底から微笑む。
 テニスは紳士のスポーツだ。礼節を重んじる。だから、手加減をされた忍足は激昂したし、多分、他の学校の選手でも同じように怒るだろう。
 ただ、手加減を種明かしされなければ気付けないほど愚昧なら怒りにすら至らない。幸村の手加減はそういう次元まで高められている。そう暗に含んでいて、千尋はやっぱりこいつには敵わないと何度目かの嘆息を零した。
 目に映ったものだけが全てだ。柳の呟きがふと耳に蘇る。
 多分、あのときの柳には、今、やっと千尋が気付いた光景が見えていたのだろう。
 己の無力さを嘆き、才能の重さを知り、そして自らを鼓舞して一歩でも二歩でも前に進む覚悟をした。だから、柳は何度でも何度でもデータを集める。せめて目に映る現象を数値化して、その中から最善を選び取る道を柳は望んだ。
 目に映ることすら見落としてしまう千尋に何が出来るだろう。そんなことを茫洋と思う。
 多分。
 幸村は千尋にそれほど多くのことを求めてはいない。
 ただ、同じ方向を見て一緒に戦う。目指す形の違いなどどうでもいい。結果が違っていてもいい。重なり合った道の上で一番前を競い合う。その勝負にお互いが臨場していることを純粋に受け入れている。

千尋。もう一度だけ言うよ。俺はお前がちゃんと強くなってくれればそれでいい」

 幸村が重ねて言った台詞が駄目押しをする。
 彼の世界では他人なんてどうでもいい存在なのだろう。多分、眼中にすらない、と表現するのが的確だ。つまり、評価をする以前に認識すらされていない。中学テニス界において、幸村が認知するのは立海三十一の仲間と一部の他校の強力な選手だけで、その範疇には全国大会常連校である四天宝寺といえども容易には含めてもらえない、ということだ。
 その言外の宣言を聞いて、千尋は複雑な感情を抱く。
 幸村の世界に千尋はいる。四天宝寺はいない。だから、意味のある存在である千尋が厄介ごとに首を突っ込むのを止めるのは決して吝かではないし、寧ろ望んで阻止したと言える。
 千尋の中で関わりの出来た「大阪の知人」をそういう風に扱われて、格の違いを目の当たりにしたという現実と、その格別の中に千尋がいるという幸福にどんな反応を返せばいいのか、コートの外の千尋には最適解がどうしても見えない。
 溜息を吐いて、そして両手を肩の高さに持ち上げてひらひらと手のひらを振る。降参を示すと、ずっと千尋の肩を押さえつけていた見た目を裏切ってごつごつとした幸村の掌が離れていく。

「あ、そ。で? お眼鏡には適いそうなのかよ」
「その結果は俺たちの神奈川でお前が俺に教えてくれればいいじゃないか」
「お前、本当いい性格してるよ」

 大阪の選手には千尋の成長も、幸村の本気も決して見せない、と含まれている。それだけの価値がない、と幸村は四天宝寺を切って捨てた。
 本当にいい性格をしている。今の幸村の辛辣さなら千代に比類することも出来るだろう。
 
「そう? でも、俺、お前に手加減してあげられるほど余裕があるわけじゃないんだ」
「そりゃ俺の台詞じゃねーか」
「ねぇ、千尋。知ってる?」
「何を」
「イップスが出だした後の俺から4ゲーム取れるの、お前と真田だけだってこと」

 その唐突な爆弾発言に千尋は軽く瞠目した。そんな筈はない。そうだとしたら、今頃千尋は立海トップ三の争いをしているだろう。なのに現実は五番目を維持するのが精一杯で、幸村の見ている現実と千尋の思う現実との間に乖離を感じた。
 そんな筈はない。論理的な反証を求めて千尋の視線は食堂の中を一巡する。データを取っている柳なら易々と否定してくれるだろう。そう思ったのに視界の右端で視線が合った筈の柳はゆっくりと瞼を伏せて、まるで幸村の発言を肯定するかのように柔らかく微笑む。柳の唇がゆっくりと動いた。「事実だ」と言った気がする。その事実に千尋は混乱を極めた。

千尋。俺はお前のそういうテニス馬鹿なとこ、嫌いじゃないよ」
「順接! 順接はどうしたんだ! 正しい日本語!」
「俺に日本語の説教をするなんて、多分全国でもお前だけじゃないかな」
「そうじゃなくて!」

 我武者羅に走ってきた。前を向いているつもりで、なのに何度も転んで、躓いてきた。
 この合宿が始まってからだって、自分自身のことで手一杯でまだまだ改善すべきことが山積している。
 なのに。

「目が見えなくても、ラケットを放さないお前の視界に何が映ってるのか俺にはわからないけど、それでも、お前が全力で戦ってるのは知ってるよ」

 視覚は人間の認知の八割強を占める。その情報から隔絶されてなおテニスを続けられる千尋には、幸村とは違う方面での才能がある、と彼は言う。好きこそものの上手なれ、という言葉を柳は千尋に教えた。柳が何を思ってそれを教えたのかはわからないけれど、幸村が言おうとしているのも似たようなことなのだろう。
 全力で戦う相手を全力でねじ伏せる。その戦いが一番充足を与える、と千尋も知っている。
 だから。

「別にお前に満足してほしくて負けてるわけじゃねーんだよ」
「当然だろ? 勝つ為に戦ってるやつに勝たないと何の意味もないじゃないか」
「じゃあ、精市。立海に帰ったら本気でやろうぜ」
「まぁ、お前にはあと二十四時間、本気で練習してもらわなきゃならないんだけどね」
「言ってろ」

 そんな軽口を叩き合う。
 仲間の苦悩を知らずに過ごした自分の横面を張ってやりたい、と本気で思ったのは否定しない。ただ、その鈍感が幸村の苦悩を幾らかでも和らげていたのなら、それはそれで価値のあることだったのじゃないか。そんな風にも思える。全てを意識してこなしていけるのが最善だろう。ただ、それは千尋の能力では不足の方が大きすぎて、遠くない未来に破綻するのが目に見えている。
 だから。

「精市、ハルから聞いたんだけど」
「仁王が? 何だい?」
「『人間の認識は視覚が八割』っていうけど、本当はケースバイケースらしいぜ」

 人間の脳はそのときどきによって感覚器官に与える権限を融通する。だから、見えているものが全て、とは限らない。幸村に対して発現するイップスが視覚だったり聴覚だったりするのは、そういう面に由来しているのではないか、と千尋と仁王雅治は考えている。
 そう伝えると幸村は不器用に泣きそうな笑顔を浮かべた。幸村がこの顔をするのは今のところ千尋にだけだ。だから、千尋は知っている。人は信じたものには驚くほど許容的でいられることも、それゆえにある面においてだけ狭量になることも、全部幸村と過ごした一年が教えてくれた。

「精市、だから、お前は俺たちにだけは遠慮しなくていいんだ。ここで我慢した分は、俺たちにぶつけろよ」
「本当に手加減なんて出来ないけど、いいんだね?」

 幸村精市の人生にも遠慮や躊躇いがある。たった一つの躊躇もなく人生を生きてきたのではないと、今の千尋は知っている。憂いも戸惑いもある。そんな幸村の仲間の一人でいることに誇りを感じているから、千尋は幸村の確認を笑顔で首肯した。

「俺はお前から6ゲーム取れるまで諦めねーんだよ」
「何だい、その言い方。勝てるまでって言えばいいじゃないか」
「精市、タイブレークって知ってるか?」

 一般的にテニスの試合は6ゲーム先取で勝利だ。それでも、全ての試合に例外がある。6-6――タイブレークまでもつれ込めばたとえ6ゲームを取ったとしても勝利とは等号で結ばれない。
 そのことを失念しているだろう、と暗に含ませると幸村の双眸が軽く見開かれる。当たり前のことを言っただけだ。それでも、千尋がその返答を寄越すと思っていなかったからこそ、幸村は驚いている。
 もっと純朴で素直一辺倒だと思われていたのだろうか。
 コートの外では駆け引きが出来ない筈の千尋が自虐的な冗談を口にするとは思っていなかったのだろうか。
 もしそうだとしたら、今の千尋の対応は幸村に意外性を示しただろう。
 幸村の双眸に慈しみが再び灯って、緩やかに弧を描く。知っている。彼のこの表情は許容だ。だから、千尋は誇ればいい。幸村の琴線に触れた。その回数も内容もときを経るごとに向上の一途を辿っている。
 だから。

「本当、お前って変なやつだね。由紀人にどんどん似てくるし、笑えない冗談ばっかりだし。でも」
「嫌いじゃないだろ?」
「よく言う」

 そう言ってどちらからともなく破顔すると、周囲の評価なんてそれほど大したことでもないのじゃないか。そんな気持ちになった。信じられるやつがいる。信じてくれるやつがいる。それ以上に価値のあることを求めるのは多分強欲だ。
 千尋は完璧な人生なんて欲していない。幾度も間違って、幾度も立ち止まって、それでもいつか目指す場所に辿り着く。そんな人生を求めている。
 幸村もまた、そういう人生を望んでいると知って、人の願いの種類なんてそれほど多くはないのだと察した。凡庸な願いかもしれない。それでも、幸福を求めない人間はどこにもいない。
 だから。

「じゃあ、まぁいいか」
「そうだね。お前はそういう顔をしてる方が、ずっと似合ってると思うよ」

 眉間に皺を寄せて、難しいことを考えるのは真田にでも任せて、千尋は馬鹿のままでいてほしい。先入観とか、既成概念とか、そういうものを全部取っ払ってそうして幸村と真正面から向き合う千尋でいてほしい。恐れも畏怖もない馬鹿の千尋だからこそ、幸村は何のわだかまりもなく接することが出来る。
 そう言われた気がして、千尋の胸中はまた複雑な色を帯びる。
 それでも。
 悪意から隔絶された人生なんてないことを千尋は知った。強くても弱くても侮りは満遍なく生まれる。それでも、前を向く為に憤った千尋の感情を幸村は肯定して、その後で否定した。
 だから。

「よし、精市。お前は残りの二十四時間で俺が直した方がいいとこ、三十個探してくれ」
「コートの外で?」
「いやいやいや、コートの中に決まってるだろ」

 コートの外で直した方がいいところを挙げると、三十では多分足りない。
 テニスの中に限る、と改めて条件を示すと幸村は「そうだね」と前置いて、納得したような顔を見せる。そして、その納得の顔のままするすると二の句を告ぎはじめた。

「じゃあまず、フォームから行こうか。セカンドサービスのとき、お前は右肩が――」
「ストップ! ストップ! 精市、帰ってから聞くから!」
「何だい、注文が多いやつだね。でもまぁ、じゃあ帰ってから蓮二と二人でお前の弱点洗い出してあげるよ」
「楽しみにしてる」

 その、何でもない返答だった千尋の言葉に幸村が双眸を見開いてフリーズしている。
 どうしたのか。千尋は何かとんでもないことを言ったのか。不安が胸中に満ちる。不安が焦燥に代わりそうなぐらいの間を置いて、幸村はゆっくりと瞼を伏せた。そして、再び開かれた彼の瞳はどこか泣きそうで、なのに充足に満ちている。
 人間の認知は視覚が八割強。その八割強を占める視覚が伝える情報の意味が分からなくて、見えているものだけが真実ではないのだ、と改めて千尋は思った。何だ、八割強なんて大した数字じゃないじゃないか。そう思って、揺れる眼差しと向き合う。
 悪口を叩いたのに正面から受け止められて、苦言から逃げる素振りも見せずに対峙する。そんな千尋のことを幸村はひと言「ずるいな、お前は」と呟いた。何がずるいのだ、と思って次の言葉を待ったけれど、それ以上の答えは得られない。
 ただ。
 幸村が心の底から千尋の何かを羨んでいるのだけが伝わって、千尋の胸中はまたしても複雑な色を持った。
 それでも、答えを聞かなければ一緒にいられないだとか、そういう距離感の遠さとはとっくの昔に別離した。
 だから。

「精市?」
「ああ、うん。何でもないんだ、千尋
「よし、じゃあ、精市。午後練行こうぜ」
「えっ、あぁ、もうそんな時間なんだ」

 千尋が幸村を促すと、彼は食堂の中を見渡して、今、その事実に気が付いたばかり、という顔をする。
 立海を侮った四天宝寺の一年生も、王者の余裕でスルーした立海の仲間たちもコートへ移動を始めていた。そのことを指摘すると、幸村の中から戸惑いのようなものが消えて、いつも通りの柔らかいのに不遜な態度の彼に戻る。
 そして。

千尋、俺がお前の直すところ三十個以上見つけたら、帰りのサービスエリアでソフトクリーム、おごってくれるよね」
「何味だよ」
「あれ? 三十個以上、見つけちゃっていいんだ?」
「直すところは早くに見つかった方がいいだろ」
「本当。お前には敵わないよ」

 じゃあ、俺、抹茶がいいな。
 言って幸村が踵を返す。そして、彼は今まで千尋が見た中で一番優しい顔をして食堂を出ていった。

「精市?」

 千尋の呼ぶ声に応える相手はいなくて、残された千尋は菓子盆を返却口に置いて、慌てて幸村の背中を追う。その背中がいつもよりも大きく見えるのは何の心境の変化だろう。まぁ、でも、追いかける背中は大きい方が楽しいのじゃないか。幸村の背中を追い越したときに見える空の色は何色だろうか。立海の夕焼けの色だろうか。
 いつかその色が見えたら、千尋は幸村に伝えたい言葉がある。
 その言葉を胸の内で温かく育み、そしていつか来るその日まで研鑽を続けようと誓った。
 知覚だけが人間の全てではない。八割強も九割も決して十割にはならない。十割になったとしても、それは人間の全てではない。
 だから。

「待てよ、精市。午後練、俺とストレッチしようぜ」

 今は目指すだけのその背中に追いつき、並び、そしてともに戦う。
 その為の合宿だ。だから、まずは三十の弱点を指摘してもらおう。そう決めて、千尋は午後の日差しが待ち受けるコートへと足早に向かった。