. All in All => 43rd.

All in All

43rd. 立海の特待生

 生まれてから死ぬまでの展望が見えている人生なんてつまらない。
 最善の選択、あるいは最適解を知りながら人生を歩んでいくのは安全かもしれないけれど、多分何の楽しみもないだろう。目の前に山積する困難の一つずつを解決して乗り越えていく。その瞬間に生まれる達成感の繰り返しこそが人生の華で、それを持たない道のりに彩りはないに等しい。
 常磐津千尋の人生もまた艱難辛苦の連続で、所謂ハードモードに身を投じていると言えるだろう。
 その路線を選んだのは他ならない千尋自身で、だからこそ逃げ出したい気持ちや投げ出したい気持ち、道を引き返したいという衝動が絶え間なく襲ってくる。無限にも続くその感情の振れ幅に戸惑っているだけでは何も解決しない、ということを教えてくれたのは立海大学付属中学のテニス特待生として過ごした一年だろう。仲間たちと駆け抜けてきた一年は本当に多くのことを千尋に与えてくれた。
 諦めたいと思う気持ちが特別ではないということ。
 人は葛藤の向こう側で成長するということ。
 一人では見えない景色も、隣を走る仲間がいれば手に届くということ。
 それでも、最後に自分の人生を決めるのは自分だけで、だからこそ、明日を望むのなら弱い自分と強い自分を知らなければならないということ。
 そういう全部をひっくるめて、千尋の人生に成果と課題を与えた一年がもう間もなく終わろうとしている。
 大阪・四天宝寺中学との合同合宿の最終日。四天宝寺の部長である今井津との口約束の通り、千尋は忍足謙也と再戦した。忍足が求めていたのは全力の勝負だったから、千尋は一切手を抜かなかった。立海の強さを見せつける為の道具として忍足を利用したことに対する埋め合わせの意味合いもあった。
 先の勝負に手を抜いていたか、と問われるとそれについては否と答えられる。
 それでも、打算のようなものはあった。そういうものを抜きにして、一切の手加減をせずに叩きのめしてもいい。忍足からすれば圧倒的な敗北を望まれたとき、千尋は幸村精市がどんな気持ちで千尋と戦っているのか、少しだけ理解出来たような気がした。
 結果から言えば十九分三十一秒で試合は決着する。ニ十分を切るのは千尋の中でも好タイムに入り、この合宿の中で千尋自身も何らかの成長を得たのだということを知った。

「で? 謙也、夏までに勝てそうなのかよ」
「諦めたらそこで終了、て言うた人おるやろ」

 絶対勝つ。圧倒的不利も、力量差も経験不足も全部跳ね返してこそ勝利が手中に納まる。そう思わなければ勝つことなど出来ない。忍足の論理が千尋の中に真っ直ぐに届いて、ベンチに座り込んでいる彼の隣に千尋もまた腰を下ろした。スポーツタオルを頭から被っている忍足の表情は見えない。ただ、千尋を振り向く気配がないことが忍足の悔しさを雄弁に物語る。
 どんな言葉をかけたらいいのだろう。コートの外に出てしまうとそんな簡単なこともわからなくなってしまう。
 一年前の自分にはきっと今の千尋の姿は思い描くことは出来なかっただろう。
 全力で戦って、それでも圧倒的にねじ伏せられる屈辱を知って、千尋は少しだけ臆病になった。敗北の毎日にくさくさとしたこともある。それでも、千尋は速度を緩めたり、寄り道をしたりしながらもずっと走り続けてきた。
 今、足を止めたらどうなってしまうのだろう。
 そんな不安を抑えつけて、無視をして、無理をした自分を知って、マイナスの感情も受け入れて恐怖と対峙する今がある。
 それは別に千尋一人だけが特別に秀でていたわけではなく、千代由紀人(せんだい・ゆきと)も三強も多分忍足も白石蔵ノ介もみんな同じように苦悩して戦ってここにいる。そのことを理解出来ていたから、千尋は無理やりに言葉を探さない。馬鹿の千尋の馬鹿な言葉ではまだ忍足の心の傷に寄り添うことは出来ないとわかっていた。
 勝負の世界は勝利だけが全てだ。どんな方法でも、どんな内容でも最終的に勝った方が正しい。勝者には全てを肯定する権利があって、敗者がそれを非難するのはただの負け犬の遠吠えに過ぎない。だから、千尋たちはいつでも勝利だけを求めている。忍足だってそうだろう。自分が戦って負けた相手にフォローをされる屈辱なら十分にわかる。
 だから。

「謙也、さんきゅな」
「――っ!」

 負けるとわかっている勝負に全力で挑んでくれてありがとう。自分の限界と対峙する覚悟を持ってくれてありがとう。敵わないと知って、それでも最後まで戦ってくれてありがとう。
 そんな無数のありがとうを送る。多分、幸村の言う「ありがとう」もこんな気持ちから生まれたのだと今ならわかる。
 施しではない。慰めでもない。ただ、そこにあることに感謝の気持ちがある。
 それを端的なありがとうの言葉に載せた。忍足が頭から被っていたタオルを乱暴に振り払って顔を上げる。その双眸には明らかに怒りが宿っていた。強く噛み締めた唇が憤怒をこらえているのを告げる。悪友の範疇に納まることが出来そうだったのをたった一言で台無しにしたのだと知っても、それでも千尋は自らの行動を悔いる気にはなれなかった。
 この程度のことですれ違うのが運命なのだとしたら、千尋はその運命とかいうやつをぶち壊してやりたい。
 本当に、本当の本当に自分を押し殺さなければ寄り添えないだなんて、そんなことを本気で言っているやつがいるのだとしたら、そいつは千尋以上の馬鹿で本当に救いようがない。千尋は馬鹿だが、決して救いようがないわけではないから、知っている。怒りが人の心を波立たせても、その向こうでお互いを認め合える。そういう関係が人と人との間にはある。忍足との間にはそういう形があるようでない人間関係を望んだ。道を競い合うライバル。忍足は遠くない未来にきっともっと強い選手になる。そのときに、切磋琢磨出来る関係がほしい。馴れ合いや一方的な施しで保たれるだけの上っ面の友情なら要らない。
 忍足にとってもそういう相手でいたかったから、千尋は自分の立っている高さのまま上から忍足を見下ろした。
 文句があるのなら追ってくればいい。
 同じ高さに立って、同じ視点で、同じように悪口を叩き合えばいい。
 忍足謙也というのは、その為の努力が出来るやつだ、と信じられる。
 だから。

「全国大会で待ってるからな」
千尋、よう覚えとけや。絶対、にや。絶対! お前に勝って泣かしたるから覚悟せえや」
「おう、楽しみにしてる」
「お前、ほんま余裕すぎて腹立つわ。けど」
「けど?」
「まぁ、また大阪来ぃや。大阪、エエとこやろ」

 言って悔しさと怒りを両目に湛えたまま忍足が無理やりに笑う。
 ああ、こいつは強いやつだな。そう直感して、千尋の表情もまた緩む。わかっている。忍足は今、千尋の存在を今までとは違う形で容れた。絶対に勝つと定めた目標点。追い付いて追い越される瞬間の屈辱を味わわせると決めた。その為なら今まで以上に努力をすることが出来る。その、覚悟が忍足の双眸に宿っている。
 その姿の向こうに千尋は自分自身を重ね合わせた。

「その前に、お前たちが神奈川来いよ」
「天下の立海さんやったら俺らやのうても練習相手、なんぼでもおるやろ」
「謙也、知ってるか? 大阪もいいとこだけど神奈川だっていいところなんだぜ?」

 神奈川は千尋の生まれ育った郷里ではない。たった一年。それに満たない期間しか在住していない千尋なのにいつの間にか神奈川にホーム感を覚え始めていた。だからこそ言える。千尋の郷里も、大阪も、神奈川もみんな違ってみんないいところだ。
 関東地方には硬式テニス部を持つ中学校が星の数ほどもある。
 その中から練習相手を選べ、と言われてもなお千尋は自分の主張を折るつもりがなかった。
 笑顔に載せてその腹積もりを明示すると、忍足が大きな溜息を一つ吐き出した。

「何が美味いんや」
「そうだな。中華街とか行くか?」
「そらエエわ。俺、本場の肉まん食うてみたかったんや」
「じゃあその前に、お前たちの言う最高のお好み焼き食わせてくれよ」

 いいだろ?
 問うと、今度こそ本当に忍足は呆れ顔になって、そして最終的に晴れやかに笑った。

「お前、アホやろ」

 最高のアホや。言って、忍足が丸めていた背中を伸ばす。ベンチに背を預けるようにして伸びをして、そうして彼はどこからどう見ても寛いだ表情を見せた。

「謙也、関東人にそれは禁句だって」

 と関の東西の違いを指摘すると、忍足は悪戯そうに目を細める。
 そして。

「お前、関東もん違うやないか」
「うん?」
「お前の標準語、ときどきイントネーションおかしいやないか。どっちか言うたら『こっち』の生まれやろ、お前」

 その言葉に確信すら含ませて忍足は言う。千尋はその指摘を正面から受け止めるべきなのか、それともしらばっくれるべきなのかで迷い、言葉が音にならなかった。忍足の言うのは的を射ている。千尋の出身県は関の東西で言えば西にあたり、イントネーションは関西に近い。いつ、見抜かれたのだろう。そんなことをぐるぐると巡らせて百面相をしていると、忍足はますます面白そうに笑った。

「あー……えっと、それは、あのー……」
「何や、千尋。お前、エエやないか。生まれがどこでも、お前は『立海の常磐津千尋』やねんからもっと堂々とせえや」
「あ、うん、はい」

 お前、ほんま変なやつやな。でも、オモロいで。
 言って忍足の左腕が千尋の肩を叩く。軽く、触れるように二度、三度。繰り返し叩かれているうちに、いつの間にか目の前のコートの試合が終わったらしい。千代と白石がベンチの前に立っていた。

「忍足、そいつ叩いていいの、俺たちだけなんだけど」
「セコいこと言うなや。エエやないか、別にお前だけの千尋やないやろ」
「当然だろ。キワは俺たちだけのキワに決まってるじゃないか」

 だから、そこ、退けよ。そいつの隣は俺のものだ。
 そう言い切った千代に残りの三人はリアクションを取ることも忘れてフリーズした。
 そして。

「千代君、君も結構オモロいやつやな」
「あれやろ。お前、あれや。千尋、お前、ほんまに千代の保護者やってんな」
「ダーイーちゃーん! お前はまたそういう突拍子もない言葉選びしてんじゃねーよ」
「事実だろ。何。それとも、お前、立海辞めてそいつらの仲間にでもなりたいわけ?」
「あー、そりゃねーわ」
「だったら、別に出身地なんてどこでもいいだろ。発音がどうとか、価値観がどうだとか、そんなことで勝手に遠慮するなよ、キワのくせに」

 お前は俺たちと一緒に上を目指していくんだ。
 そうだろ。問われて、千尋の中で留まっていた感情の迷走に終止符が打たれる。そうだ。そうじゃないか。こんなに単純で簡単な答えをどうして忘れていたのだろう。そんな自分に気が付いて苦く笑う。
 知っている。千代は言葉を選ぶセンスが壊滅的にないけれど、だからこそ、彼の言葉はまっすぐに飛んでくる。決して裏表のない言葉。着飾ることも、遠慮もない。千代の言葉は額面通りに受け取ればいい。
 だから。

「謙也、悪いけど、そういうことだから俺、戻るわ」
「おん、そないせえや。俺も白石もお邪魔みたいやしな」

 悪いな。こっちから声かけたのに。
 言うと、ほんの少し名残惜しそうに忍足が目を眇めたけれど、彼はその感情を最後まで言葉にしなかった。

「ダイ、戻るぞ」
「当然だろ」

 お好み焼きならセイたちと一緒に行けばいいだろ。
 ぽんと放られた言葉に千代の寂寥感を知る。千代由紀人というのは概ねこの調子だ。この不器用で不愛想で無遠慮なやつを相棒だと認めたのは他ならない千尋自身だ。
 だから。

「あー、俺このあと精市から三十個ダメ出し受けるんだった」

 仲間は三十一で十分だ。
 仲間で、一蓮托生で、なのに競い合う相手。そんな相手が三十一もいる幸福を感じさせてくれるイベントがこの後、帰りのバスの車中で待っている。そのことを思い出して、小さな弱音の形をした自慢をすると千代は表情一つ変えずに言う。

「それ、俺も参加したけど、多分三十どころじゃなかったと思う」
「精市と蓮二とお前とか、お前ら鬼か」
「サダとルックもだから五十ぐらい行くんじゃない?」
「はぁ? 五十? っていうか全員参加? マジで? お前らガチで来てんじゃねーよ」

 っていうか直すとこ五十か。そう呟きながら、弱点を克服して今よりも強くなった自分を思い描く。
 その輝きが導く先にはきっと千尋が望んだものが待っているだろう。自分で選んで、自分で戦って勝ち取った未来こそ何にも代えがたい価値がある。
 だから、五十の指摘があるのなら五十の改善に挑もう。
 
キワはさ、そういう顔してるのが一番いいんじゃない」
「どういう顔だよ、それ」
「さぁ。まぁ、それより食べに行くんだろ。お好み焼き」

 歩き出した千代の背を追っていると不意にそんなことを言われる。立海の仲間しか知らない千代の優しい顔に、千尋はどこか安堵を覚えた。知っている。この顔を見られる千尋にはちゃんと価値がある。
 今、その事実を知っている自分を誇りながら、千尋は次に自分がするべきことと向き合った。
 そして。

「精市ー! 五十個全部直すから先にお好み焼き奢ってくれ!」
「あっ、キワ、ずるい。そういうのは最初にちゃんと言えよな」
千尋。由紀人。いいよ、二人とも次の選抜戦までに弱点全部直すなら今日は奢ってあげようか」
「やったー!」
「セイ、俺、ネギ焼きがいい」
「いいよ。由紀人にはたこ焼きの借りもあるしね」

 お前たちがもっと強くなるの、楽しみだね。
 先に試合を終えたレギュラーたちと合流すればそんな声が聞こえる。
 弱点を五十個克服したら、千尋はもっと強くなるだろう。多分、難癖レベルの小さい指摘から決定的な弱点まで、殆ど全てが網羅されている。だから、千尋はその五十と向き合おう。そう決めて顔を上げた。
 先の分かっている人生なんてきっと何の楽しみもない。
 明日がわからないからこそ、千尋は全力で努力をするし、弱さと向き合う。
 その先に思い描いたままの理想を手に入れることが出来なくても、最大限善処して、そうして少しずつでも願いが叶ったとき。そのときに千尋はきっと心の底から自分自身を誇ることが出来る。
 そんな未来を望んでいるから、今日の休息を挟んで、明日からもまた千尋は走り続けていられるだろう。
 ときは三月。桜のつぼみが少しずつ膨らみ、そして花を咲かせる。
 千尋の次の一年が間もなく始まろうとしていた。