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44th. 大言壮語

 四月。桜が咲いて新入生――常磐津千尋にとっての初めての後輩たちがテニス部へとやってきた。特待寮でも例年通り三人の一年生を迎え、ささやかながら歓迎会が実施される。加古、鹿島、別所の三人は一年前の千尋たちがそうだったように上級生を叩きのめして上の世界へ臨む、そんな覚悟をそれぞれの双眸に灯していた。明日から彼らは仮入部だ。千尋たちも倉吉たちも誰一人手を抜いてやろうだとか、心が折れないようにサポートしてやろうだとか、そういった気遣いの類は持ち合わせていない。心が折れてテニスに飽いたのなら郷里に帰ればいい。その屈辱を乗り越えられないようなやつは立海テニス部特待生たる資格がない、というのを千尋は身をもって知っている。何人残るだろうか。最悪のパターンがやってきて全員が退学しても、今ならまだ補充に間に合う。夏の大会を経て、それなりに活躍した筈の徳久脩(とくさ・しゅう)の代わりにジャッカル桑原がやってきた去年のことを思えばより容易いだろう。
 だから。

「おれの目標は全国二連覇です! 特待生なのにレギュラーに残れなかった先輩たちのようにはならないのでご心配なく!」
「そうですね。僕もその点では加古に同意します。結果を残せないような不甲斐ない特待生は先輩たちの代までで十分でしょう」
「鹿島ちゃん言う〜! まぁオレも激しく同意っすけど」

 三者三様に在校生を批判する。お前たちが今、侮蔑した相手に徹底的に負ける明日を覚悟しろ、と思うと不思議と怒りは湧いてこなかった。
 ただ。

「鹿島、今言ったのと同じことを平福の前で言うなよ」
「平福さん? 実力に見合わず同情されて部長になった方でしょう? 僕はあなたたちのような馴れ合いは好きじゃない」
「言ったぞ、鹿島。平福の前では同じことを言うな。この忠告が守れないなら、お前たちがどれだけ後悔しても、俺たちは一切フォローしないからそのつもりでいろ」
「脅すつもりですか?_まったく、立海テニス部というのはいつからこんな軟弱になったんですか」

 がっかりだ、と顔中で表して鹿島満はさらに挑発を続けようとした。上級生としての忠告までもをこうも露骨に嫌悪されると、気分を害する、を通り越して静観の域に達するのだと彼の言動が教えてくれる。そういう意味では価値のあるやり取りだった、と勝手に結論を導き出した千尋は、隣に座っていた千代由紀人(せんだい・ゆきと)を促して自室へと戻る。コミュニケーション障害を自称し、初対面の相手とは意思疎通もままならない彼にこれ以上不要の挑発を聞かせることもないだろうと思ったのだけれど、意外と千代は落ち着いたもので感情の起伏は発生しなかったらしい。

キワ、俺たちの方があいつらより前向きだったと思わない?」

 その意見には同意する。ただ、明日以降、徹底的に叩きのめされた新入生たちがどんな反応を見せるか。それを確かめてから比較をしてもいい。歓迎会しかしていない現状で多くを語ることは出来ないだろう。
 それとは別に千尋の中には感情があった。

「むしろあいつらと比べられることの方が俺には屈辱なんだけど?」

 去年の千尋だって多分生意気で小憎たらしかっただろう。三年の特待生たちは遠征に出ていて、千尋たちを迎えてくれたのは倉吉たち二年生だった。ちょっとぐらいなら天狗になっていた部分もあるだろう。それでも、倉吉たちは決して千尋たちのことを否定はしなかった。受け入れてくれたのだ、と今ならわかる。
 それと同じことを加古たちにも返してやるべきだ。本当の本当に叩きのめされて、それでもなお今の態度を崩さないという答えを選ぶのなら、それはそれで評価に値するだろう。
 それでも。
 そうだとしても。
 自分たちの誇りである平福を馬鹿にされたことを許すことは出来ない。そう、思ってしまう。
 感情も顕に吐き捨てると、千代の指先がぬっと伸びてきて千尋の額を弾く。

キワ、もしかして怒ってるわけ?」
「まぁ、一応、俺たちの部長、馬鹿にされたわけだし」
「お前、馬鹿だな」
「なっ!」
「大阪で学ばなかったのか。人の評価なんてどうでもいいだろ。俺たちに必要なのは結果だけだって」

 結果だけが全てだ。勝利を得たものがいつでも正しい。千尋たちが平福の指示で勝てば、平福は正しい判断の出来る部長だったと証明される。それぐらいしか千尋たちが平福の為に出来ることはない。
 わかっている。わかっているけれど、それでもあからさまな侮りや軽視には腹が立つ。千尋一人が憤っているのか。千代は本当に腹が立たないのか。言葉で確かめようとして、そんなことは必要ではないことに気付く。無愛想な千代の双眸には明らかに敵意が宿っていた。千尋の怒りを通り越してぎらついているその輝きに、燻っていた不満が気勢を挫かれる。
 多分。
 千代の方が千尋の何倍も腹を立ているのに、感情の処理の過程で怒りから加古たちを拒絶している。仲間ではない。競い合う好敵手でもない。だから、千代は加古たちの暴言を右から左へ聞き流すという答えを選んだ。
 自然と溜息が零れる。
 何だ、その論理は。わかっていないのはお前の方だ。そう言ってやりたくて、でも、そうでもしないと感情をやり過ごせない不器用な相棒を知って、千尋は苦く笑うしかなかった。

「ダイ、後輩まで敵視してたらお前の中、誰が残んだよ」
「お前は出ていかないだろ」
「まぁ、出ていかねーけど、俺以外も置いておけって」
「セイもサダもレンもルックも残るし、何ならハルもルイもヤギも残るじゃないか。俺は別に困らない」
「お前、俺が死んでもあと追うなよ。絶対に追うなよ」
「そういう前フリされると追わないやつが馬鹿なんだけど?」

 悪辣な冗談に悪辣な返答がある。
 まぁ、でも。キワが死んだらあとを追うやつ絶対いると思うけど。
 そんな笑えない言葉を聞いて、千尋の居場所は間違いなくここなのだと実感する。
 だから。

「ダイ、明日、俺、止めるなよ」
「別にお前じゃなくていいだろ。クラ先輩とかに投げればいいじゃないか」
「無理だろ。クラ先輩確実に怒髪天じゃねーかよ。サヨ先輩の顔見たか? あれ、明らかに潰すときの顔だっただろ」
「お前なら潰さないわけ?」
「っていうか、俺が一番向いてるだろ」
「まぁ、それは認めるけど」
「だったら、そういう顔すんなよ。大丈夫だって。ちゃんと潰す寸前ぐらいで止める、と思う」

 千尋は自分が立海の試金石であることに誇りを持っている。最強でもない。最弱でもない。それでも、千尋を倒せないやつは立海では通用しない。生まれて初めて出来た後輩たちはきっとまだ立海のレベルには達していないだろう。
 そうでなくても、平福が部長たる所以を示すには千尋が一番適している。千代にもそのことは理解出来ている筈だ、と含ませると彼は不機嫌そうに眉根を寄せて、そして言った。

キワのくせに生意気なこと言うなよ」
「ダーイーちゃーん! 嫌でも賛成するときはもう少しまともな態度を取れよな」
キワにはさ、もう俺なんていなくてもいい、っていう証明してるみたいで面白くないのに、どうするのが大人の対応なわけ? へらへら笑って、見守れって? 俺がそうしたらお前、本望なのかよ。俺は、絶対に嫌だから」

 そこまでを一拍で言い切ると、千代は二階の談話室を飛び出していこうとする。今、千代に必要な言葉が何かわからなくて、それでも大切な相棒を失うのをそれこそ笑って見ていられるほど千尋は大人ではなくて、反射的に千代の腕を掴む。

「待てよ、ダイ」
「説教なら聞きたくない。一般論とかどうでもいい。お前が俺と組まなくてもいいなら、俺はそのつもりで戦うし、出て行くなら勝手にすればいい」
「お前、本気で言ってるなら流石に殴るぞ」
「だから?」
「だーかーらー! お前のが大人なら俺の小さな生意気ぐらい見逃してくれてもいいだろ! っていうかなんで俺が出て行くとかいう選択肢があるんだよ。出て行こうとしてるの、お前の方だろ」
「だって、キワ。俺はお前みたいにはなれないんだ」

 人と接することに過度の緊張感を抱いたり、自分の身の上を語るにあたって不安感に襲われたり、自分の居場所があると確信するのに果てしない遠回りをしたりしなければ千代は答えに辿りつけない。
 人間関係の最適解を一瞬で見つけられる千尋とは違う、と暗に言っていて、その言葉の意味を理解した瞬間、千尋の口からは溜息が漏れた。身体中の気力という気力を全部吐き出す勢いで長い息が零れ出る。
 人はたとえ正しい答えを得ても、一週間やそこらでは変わることが出来ないのだろう。コートの外での煽りに弱い千尋。不器用な千代の複雑な思考プロセス。少しずつは変わったのかもしれないけれど、概ね外枠を残して変わっていない、と評するのが最も現状に即している。
 だから。そうなのだとしたら。
 千尋がするべきことなんていつでも一つしかない。

「あのな、ダイ。一回しか言わねーからよく聞けよ。俺は最高のテニスがしたいだけだ。その為に下地作りが必要ならそうするし、ダイ、お前だって俺の『最高のテニス』の一部なんだから、出て行くとか出て行かねーとか、あり得ねーんだよ。だから!」
「だから?」
「腹立てるのも不安なのも、ムカつくのもぶっ潰してーのも全部引っくるめて俺たちのテニスなんだよ! わかったなら、もうちょっとましな顔しろ!」

 この不器用で無愛想な相棒を望んだのは他ならない千尋だ。だから、千代が不安を抱えていると示しているのなら共に悩み、善後策が見つかるまで同じ目線の高さにいる。その時間と労力を惜しんだりしないと千代に暴言で伝えると、強張っていた彼の腕が少しだけ緊張から解き放たれた気がした。

キワってさ、本当に馬鹿だよな」
「否定はしねーよ」
「そういう答えを選べちゃう時点でだいぶ馬鹿だけどさ、お前みたいないい馬鹿ってそんなにいないと思う」

 柔らかな眼差しが千尋を射る。言葉はまだ辛らつだけれど声音は幾らか丸みを帯びていた。
 それを感覚器官で認知して、千代の気持ちが千尋の前に戻ってきたのだということに安堵する。
 だから、千尋は敢えてもう一つ悪口を叩いた。

「ルックがいるだろ」
「ルックのどこが馬鹿なんだよ」
「学力! テニス! 実家の資産! 身長以外なら全部俺のが勝ってるだろ!」
「そんなにコンプレックス抱えててしんどくない?」
「おーまーえーなぁ!」

 憐憫が降ってきて遺憾の意を呈する。そういう、幾らか後ろ暗い悪らつな言葉遊びを始めたのが千代だということを否定させたくなくて、抵抗をしたけれど結局は千尋に勝機などないのだから最初からこの駆け引きは負けると決まっている。千尋は千代に甘い。知っている。その通りだ。それの何が悪い。開き直るだけの強さが千尋の中に備わっていることに胸を張り、そして千代の腕を放す。彼の手は千尋という補助を失って瞬間、宙をゆっくりと落下した。その腕と千尋の腕とが示し合わせたように空を切り、そして握りしめた拳が合わさる。

「あの小天狗たちに教えてやるんだろ。立海は甘い世界じゃないって」
「まぁ、俺たちも智頭さんとかクラ先輩とかに散々に負かされたんだけどな」
「平福部長の得意分野でやるんだろ? 俺、何かすることある?」

 傍観者ではなく、能動的な参加者になりたい、という意思表示だ。千代が直接何かをするわけではない。それでも、関われることがあるのなら関わりたい、と彼は言っている。
 だから。

「じゃあ、あれ貸してくれよ」
「俺のでいいわけ?」
「うん」
「じゃあ明日の放課後、持ってく」
「頼んだ。あれ、自分で買う前に一回試してみたかったんだよな」
「それならもっと早く言えば貸してやったのに」

 まぁいいきっかけってことで。
 そう返すと完全にいつものペースに戻った千代がおかしそうに笑う。
 いつか。もしも、加古たちが本当に立海の特待生としてこんな風に笑い合える。そんな瞬間が訪れる為には、きっと明日の洗礼は必要だろう。世の中には必要悪という言葉がある、と四天宝寺の白石蔵之介が教えてくれた。世の中が成り立つ為には憎まれるやつがいないとどうにもならない。その役割を担うのも一つの社会参画だ。少なくとも、立海特待寮という最小の社会組織が円滑に人間関係を構築する為には誰かが汚れ役を引き受けなくてはならない。別段、千尋は博愛精神だとか、自己犠牲だとかでその役割を演じようというのではない。
 ただ。
 暴言悪口罵詈雑言。加古たち新しい特待生が、その向こうに千尋たちと同じ未来を見ているのかどうかを知りたかった。いい先輩と思われなくてもいい。優しい先輩でなくても構わない。最悪で最低な先輩で嫌悪感すら抱かれることになっても、それでも、テニスに対する感情が本物ならいつかは分かり合えるだろう。
 そういう仲間を探している。
 そういうやり方で立海は頂点を目指している。生意気な彼らにそれが伝わるのが先か、それとも理解出来なくて道を分かつのかは加古たち次第だ。彼らが千尋たちの横に並び立ち、競い合い、そして高みへと上ってくれる、そんな未来を願いながら千尋は談話室を後にした。
 四階建ての特待寮は一つのフロアに一つの学年しかいない。部屋替えもない。だから、加古たちは旧三年の先輩たちが起居していた三階のフロアで過ごすことになる。それでも、多分。部活動ごとに暗黙の了解的に割り振られたタイムテーブルがあるから、加古と鹿島が午前四時四十五分、別所が四十八分に起床することになるだろう。
 特待生としての戦いはもう始まっている。そのハードルを飛べるのか、楽しみな気持ちを抱えながら千尋は明日の身支度を整えて布団に入った。
 翌朝、疲れ切った表情で一年生の三人が食堂に並んでいるのを見るのだとしても、千尋の安眠を妨げられるものは何もない。