. All in All => 45th.

All in All

45th. 否定は肯定の始まり

 あり得ない、なんていうのはそもそもあり得ない。世の中には有象無象がひしめいていて、全てのものが水面下で結びついている。
 それを「自分」というフィルターを通して認知する以上、偏りが生じるのは当然で完全なる公正――すなわち全能を求めているやつがいるとしたら、そいつはきっと自惚れている。努力しても他人は他人で、たとえ血の繋がった親兄弟であろうともお互いの理解が完全に一致することなどない。まして他人同士なら何も分かり合えないと思っているぐらいがちょうどいい。
 だから。

「切原ァ、テニス、楽しんでるか」
「アンタ、マジ、意味わかんねーんだよ」

 昨日からテニス部の一般仮入部が受理されるようになった。その、初日の練習に大幅に遅刻して、切原赤也が運動着でコートに現れたのはウォーミングアップも終わった頃で、そうなると規律に厳しい真田弦一郎が黙っている筈もなく、練習試合と言う名の説教が始まった。切原は一日も早く立海で勝ちを収めたかったらしく、嬉々としてコートの中に入ったのだけれど、僅か十二、三分で徹底的に叩き伏せられる。敗北の苦渋をすすぐのは勝利だけだということを一応は理解していたらしい切原は続けさまに柳蓮二に挑んで負けて、幸村精市には四ゲームのハンデをもらってなお負けた。
 その、三強が見せた圧倒的な勝利と三連敗してなお闘争心の消えない切原の姿がほかの一般の新入生たちを励ましたらしい。今年の一年生は去年より少しはましな心構えでコートに残っている。
 新しい新入生の一人である加古昶(かこ・あきら)も昨日常磐津千尋と少し変わった試合をして徹底的に負けた。鹿島満(かしま・みつる)もその勝負を見ていた筈なのに、彼の自尊心はまだ力量差を認めたくないらしく、今日もまだ部長である平福に平気で不平を漏らしている。
 選手としてはそれほど非凡ではない平福がなぜ立海の部長なのか。在校生の誰一人、文句を付けようとも思わなかった人選に新入生たちは意外だと思っているのを隠そうともしない。
 平福の才能は決して平凡ではない。千尋たちの誰一人「その分野」において平福に勝るものはいなかった。天才である幸村ですら、平福に及ばない点がある。
 そのことは練習を重ねれば自然と理解出来るだろう。そこまでたどり着いて初めて立海の部員になったと言い換えることも出来る。それでも、切原の存在が新入生たちの気を大きくさせているのもまた事実で、在校生たちはどう対処すべきか苦慮していた。

「全員、第四コートに集合。どうしても負けを認めたくないやつがいるようだが、俺からするとどうしても負けたがっているようにしか見えない。よって、望み通り負けをくれてやろうと思うが、異論のあるものは今のうちに自己申告をするように」

 なだめる気も説き伏せるつもりもない声が聞こえる。千尋たちは平福の挑発ともとれる指示を聞いて、自分たちの部長は部長として間違っていないと確信した。
 だから。

「部長、俺とヤギでやります」

 千尋は今から平福がしようとしていることに積極的に加担することを決めた。柳生比呂士を巻き込んだのは千代由紀人(せんだい・ゆきと)の代わりだとかそういうことではない。いわゆる正レギュラー――全国大会に出られる選手の中では千尋は中堅だろう。ただ、準レギュラー――県大会のレギュラーに限れば多分柳生が一番下で登録される筈だ。
 立海の選手として公式戦に出たければ柳生に勝てる次元でなくてはならない。そのことを暗に含ませて提案すると、平福は「キワ、お前はテニス以外でもそれぐらいの理解力を示してくれれば俺は何も言うことがない」と言って苦く笑った。
 そして、彼は言う。

キワ、俺の戦い方を一番理解しているのはお前だ。柳生、お前は初めてだが今まで『敵』として何度となく味わってきた戦い方だ。出来るか?」

 言葉の上では確認の形をしている。それでも、千尋も柳生もはっきりとわかった。平福は本気で新入生たちに相対するつもりだ。手加減も酌量の余地もない。そのことが平福もまた侮りに対して報いを与えようとしていると教える。
 だから。

「平福部長。ワタシがどこまで戦えるかははっきり言えば不安ですが、それでもキワ君が名指すのなら勝機がある、ということでしょう? 最善を尽くすと誓います」
「ってことだ。切原ァ、鹿島ァ。お前らコート入れよ」

 ここからは千尋と柳生が全力で相手になる。その宣言を下すと指名された二人が異口同音に文句を付ける。
 会って二十四時間以内の相手とダブルスなんて出来ないとか、二人がかりでないと後輩と戦えないのかとか、言いたい放題にさせておいて、そして平福は平然と言う。

「文句は十分に言ったな? ダブルスなんて高度な戦いをお前たちに期待しているやつなんて誰もいないさ。お望み通りシングルスで戦わせてやろう。鹿島、お前の相手が柳生。切原、お前の相手が常磐津だ」

 キワ、何分かかりそうだ。昨日、千代から借り受けたのに活躍の場が後回しになっていた「あるもの」をジャージの上着から引っ張り出す。「あるもの」を装着しながら平福の問いを受けて「二時間ぐらいでどうっすか」と返すと在校生がどっと湧く。キワ、お前最高だよ、とか、トラウマになるだろ、とか、散々な意見が飛び交う。「あるもの」を正しく装着し終えると、千尋はその光景とは別離した。眼前にあるのは漆黒で、千尋の両目は今、千代から借りた就寝用のアイマスクで覆われている。

「部長、何なら三時間でもいいっすよ」

 アイマスクをずらしもせずに千尋がにっ、と笑う。新入生たちの空気がどよめいた。何だあれ、だとか、馬鹿にしているのか、だとか、嘘だろ、だとか果てには、あれ実は見えてるやつだろ、とかいう現実逃避までを受け取って千尋はさらに笑みを濃くした。

「信用ねーな。おい、切原。何ならお前、これ、付けてみろよ。正真正銘、寝るときのやつだからよ」
「ふざけてんスか、それ。あ、わかりましたよ。負けたときの言い訳っスよね? 僕ちゃん、ハンデが大きすぎて勝てまちぇんでしたぁ、とか言うつもりなんでしょ」

 目隠しをして相手をする、というのと、準レギュラー最下位を当てられるというのとはどちらの方が屈辱的か、切原と鹿島は今頃必死に判断しようとしているだろう。混乱は正常な判断力を奪う。気持ちを乱すところから勝負が始まっているのだと彼らは気付いているだろうか。多分、わかっているのならさっさと試合を始めることを選ぶ筈だから、まだまだ青いという評価が相応しいだろう。
 今から一体何が始まるのか。在校生は余裕の見物だけれど、新入生の動揺は最高潮に達している。
 それを知りながら、敢えて千尋は挑発を重ねた。

「部長、やっぱ四時間ぐらいやりましょうよ、四時間」

 千尋のコンディションならそのぐらいは平気だ。日曜日の自主練習でジャッカル桑原と根気比べをしたら昼食も取らずに五時間半ぐらいタイブレークが続いた。どちらも決着を急がなかったから、単純に体力の損耗度合いが勝敗を決めた。粘り勝ってぎりぎりレギュラーとしての名誉を守った千尋を待ち受けていたのはダメ出しに次ぐダメ出しで、昼食兼夕食の冷えたファーストフードを頬張りながら立海には鬼しかいないのだと改めて思ったのがふた月ほど前の話だ。
 だから、四時間ぐらいなら目隠しでも勝てる。そう煽ると思ってもない場所から反論が聞こえる。

キワ君、平福部長は君ほど体力自慢ではないのですから、無理を強いるのはよくありませんよ」
「そうじゃ、そうじゃ。お前さんには大したことじゃなかろうが、四時間もされたら陽が落ちちゅうき。ギブアップするときのそんやつの顔が見えん」
「仁王、お前、あいつに何か恨みでもあんのかよぃ。昨日もあいつお前に結構怒ってたじゃねーかよぃ」
「ブンちゃん、何を言うちょるんじゃ。出る杭は打つ。出てくるたびに打つ。立海の常識じゃないんかい」

 そうじゃろ、立海特待生の常磐津千尋
 問われた千尋は口角を釣り上げて今一度笑顔を作る。そして。ラケットを握って、見えていない筈の切原に向けた。
 幸村とネット挟んで向かい合うと視界がぼやける、どころか色彩を失う、というのが最近の千尋だ。千尋だけではない。他のレギュラーも誰一人として幸村の前でイップスを生じないやつはいない。だから、別に千尋が特に弱いとかそういう話ではないのだけれど、それでも無意識が幸村を神格化しようとしているのに抵抗せずにはいられなかった。
 幸村の戦友でありたい、というのがどれだけ無謀な願いなのかは少しずつ理解し始めていた。それでも、臆病な自分にすら負けたくなくて千尋は顔を上げた。
 幸村と対等に戦いたいのならまずは感覚に頼るのをやめなければならない。千尋の場合は視覚を封印してなお自らの水準を保てる、というのが最低の条件だ。
 その条件を満たす為に有用なのが平福の「才能」だというのは間違いがない。確信が得られるほど、千尋たちは多くのことを試行錯誤してきた。この三ヶ月が無駄でなかったことを、今、証明しよう。
 だから。

「部長。いつでもいいっすよ」

 やりましょう。その声を合図に、平福の顔つきが変わる――のを今の千尋は見ることが出来ないけれど、確かにそうなったと空気感が伝える。

キワ、柳生。コートへ入れ」

 試合を始める。言った平福の声と足音が移動する。慣れ親しんだ立海のコートのどの辺りがサービスラインで、どこまでがシングルスコートなのかは何となくわかる。その、第三コートと第四コートの中間辺りから平福の声が聞こえる。
 新入生たちのどよめきを環境音に千尋は右手に握ったラケットの感触を確かめる。コンチネンタルグリップ。イースタングリップ。セミウエスタングリップ。ウエスタングリップ。四度握り直して、基礎を復習する。
 平福の指示でサービス権は新入生からだ。捕球位置に立つと「キワ、柳生。セット」の声が聞こえる。その声に従って千尋は捕球体勢をとった。
 審判台には幸村と真田。千尋のコートが真田だ。真田のプレイコールが聞こえて、コートの向こうからボールをバウンドさせる音が数度聞こえる。そして、衣擦れの音と、シューズがコートの上で動くとき特有の砂の音が聞こえた。

「馬鹿みたいなお遊びなんてすぐ終わらせてやんよ!」

 切原のラケットのスイートスポットが正確にボールを捉えてインパクト音になる。その音のした方向と距離、大きさと音の高さからサービスの軌道を描く。最初に聞いた切原の立ち位置を示すシューズの音と組み合わせて瞬間的に落下地点を弾き出し、レシーブに向かう。

キワ! に、さん、モア、セット!」

 目的地点に到着する寸前、平福の声が聞こえた。その暗号めいた平福の声に導かれて千尋は目的地点を修正する。セット、に続いて「ストレート」の声が聞こえて、千尋は躊躇いもなくラケットをスウィングした。心地いい破裂音が千尋にレシーブの成功を教える。それと前後して再び平福の声が飛ぶ。

「柳生! 十一時の方向! 四歩! 打点高く! クロス!」

 その指示に柳生の「はい!」が応えてこちらからもインパクト音が聞こえた。
 平福の才能、というのはこれだ。
 複数のコートにおける戦略を同時進行で把握し、的確な指示を出せる。戦略の組み立て方は柳蓮二にも決して劣らず、平福に理論を実行するだけの身体的、技術的能力があればレギュラー選抜戦でも十二分に戦えるだろう。ただ、天は平福に二物を与えなかった。平福の頭脳は美しく適切な戦術を描くのに、彼はその通りのプレイが出来ない。
 だから。

キワ! よん、はち、ハイ! 思い切って打て! ご、スマッシュ!」

 最初の数字が示すのは移動する方向。次の数字が歩数。その次に平面上、または垂直の指示が補正されて、球種が指定される。その定型句があれば、ある程度のゲームメイクが出来る。そこから自分自身の判断を加えるか、そのまま平福に委ねるかはプレイヤーの自由で、平福は彼の指示に従わなくとも別段腹を立てたりはしない。たとえプレイヤーが自らの判断を誤ってポイントを失っても、淡々と次の指示をくれる。
 だから、千尋は聴覚が伝える情報を頼りに、平福の指示と自分なりの判断を加えてコートの中を自由に駆け回った。
 当然、平福の指示は新入生たちにも聞こえている。次に打球が返ってくるのがどこか、あらかじめわかっているのなら戦略も立てやすい。切原がそう思っているのは、彼の攻撃的なプレーが伝える。それでも、千尋はアイマスクを取らないし、平福も指示を出すのをやめない。
 ボレー、フラットショット、スマッシュ、ドロップ。クロスにストレート。まるで目が見えているかのように千尋のプレーは続く。平福の指示は実に千尋好みのコースで、彼が千尋の戦い方を熟知していることを教えた。そこまでデータとして理解し、分析、再現出来ているのに彼は今まで一度として千尋から勝利を得たことはない。
 それが平福の才能だ。
 柳生には丁寧に、千尋には伝達速度を重視して簡潔に。平福の声が二面のコートへ絶えず飛ぶ。
 切原の足が少しずつ動きが鈍くなる。
 返ってくる場所がわかっている筈なのに、思うように攻められない。その焦りと、圧倒的な持久力の差が勝敗を分けようとしていた。

「切原ァ! テニス、楽しんでるか」

 挑発めいた言葉を放る。
 暗闇の向こうで切原が渋面を作った。楽しくなどないだろう。小学生の頃は彼もきっと無敗の王者だっただろうに、こんな屈辱的な負け方をするだなんて認めたくないだろう。
 それでも。

「これが、王者立海だ! よく覚えておけ」

 この負けを乗り越えていけないやつは立海には要らない。
 立海レギュラーに勝負を挑むというのはこういう戦いを乗り越えていくということだ。
 その中で切磋琢磨し、輝きを放ったものだけが頂点に立てる。だから、千尋は立海の試金石たる自らを誇り、そして同時に自らの限界を知る為に知覚の八割を占める視覚を手放した。幸村と戦うにはこの状態に慣れておく必要がある。この状態でも万全の試合が出来たら。そうしたら、千尋はまだ幸村に挑み続けることが出来るだろう。
 万人がそう出来るとは思っていない。千尋の相棒である千代にはきっと向かないし、彼は聴覚を失うタイプの選手だ。
 テニスに負けたぐらいでテニスのことを嫌ってしまえるようなやつは、もっとやさしい世界でテニスを楽しめばいい。ここは、上を目指してお互いを蹴落として、そうして屍のうえで笑っていられるやつの為の世界だ。
 だから。

「ゲームセット! ウォンバイ、常磐津、6-0」

 そのコールが真田の声で聞こえたとき、千尋はアイマスクを外して眩しい世界にラケットを頭上高く掲げた。
 視界を閉じた相手と戦って完全試合で負ける、だなんて経験を無理やりに与えられた切原が真っ赤な顔をして憤怒している。そうだ、その気持ちだ。負けて悔しい、と強く思えば思うほど、それは推進力に代わる。この相手を負かしてやる。心の底からそう思えたなら、もう気持ちは前を向いている。
 一年前、柳が千尋に言った台詞を思い出した。
 負けた悔しさは選手を育てる。
 だから。追ってくればいい。遠い背中を見せられて、自らの不足を知って、そうしてそれでも前を向いたのならそいつはいつでも走り出せる。
 外したアイマスクを指先でくるくると遊ばせた。千代がそれを見て「どうだった、キワ」と聞いてくるので見ての通りだと返す。隣のコートから幸村のコールが聞こえた。三ゲームを落としたが、柳生もまた勝利をおさめた。
 平福の戦い方は決して間違っていない。
 千尋も、柳生も、選手としての不足もない。
 そのことを確認して千尋はまだ眩しさを残している世界に左手を高く掲げた。隣のコートから柳生が帰ってきて、同じように左手を掲げる。
 そして。
 軽い破裂音を生んで、ハイタッチを交わす。
 鹿島もまた切原と同じように苦渋に満ちた顔をしている。
 その一連の流れを見届けて、審判台から降りてきた幸村が言った。

「本当に、平福部長のテニスは厄介だよね」

 味方だからいいけど、敵だったら苦戦しているよ、きっと。
 負け知らずの幸村がそう漏らす。それは負けた相手からすると嫌味を通り越して辛辣な事実の指摘にしかならない、ということを彼は理解しているのだろうか。多分、理解しているどころか、負けた二人の後輩を煽る為に言っているだろう、と千尋たちは一様に理解する。誰かあいつの悪口を止めてこい、と顔を見合わせて無言で責任を押し付け合う。
 結局のところ、柳がその貧乏くじを引いてくれて彼の分かりやすい優しさに千尋は心の中で感謝した。

「そういえば精市、お前も言っていたな」
「そう。机上の勝負で平福部長に勝てるかどうか、なら五分五分か少し俺が分が悪いぐらいだよ」
「理論上なら、最強、と言って差し支えないだろう。そのうえ、部長は並行して三つの試合を展開出来る」

 平福が部長になるよりもずっと前からの定番だ。
 彼がまだ二年生で準レギュラーにもなれなかった頃。柳のデータテニスに興味を示し、平福は積極的に協力してくれた。人の思考をトレースする、という練習の一環で平福は当時、一年生だった三強にある勝負を挑んだ。

「俺がチェス、蓮二が囲碁。真田は将棋だったっけ」
「三面同時に勝負して、一手にかける時間はわずか一秒にも満たない」
「うむ、あれはなかなかに悔しかったな」
「過去形かよ、弦一郎。お前まだ、勝ってねーだろ」
千尋、そういうお前とて五目並べで平福部長に勝ったことはあるのか」
「あるわけねーだろ。俺は――」
「コートの外では直情径行、か?」

 この一年ですっかり馴染んでしまったその呼称を改めて突き付けられて、千尋は苦く笑う。
 そうだ。コートの中ではどんな駆け引きも間違えずに出来る。なのに、試合が終わると途端に凡人の領域に逆戻りだ。心理的駆け引きも戦略的計算も何も出来ない。
 それの何が悪い、と一年前の千尋なら開き直っただろう。今でも、ある程度の開き直りはある。
 それでも。

「まぁ、部長もお前らも、全員ぶっ潰して選抜戦全勝する野望はまだまだ残ってるんだから覚悟しとけよ」
「その前にヤギたちに抜かれなきゃいいけど」

 悪口を叩き合っていると不意に混ざってきた新しい声がした。
 悪口を叩いている、という自覚があるのも新鮮だし、そういう言葉で遊べる自分がいる、というのもまた千尋の世界を広くした。それもこれも、全ては三強たちの協力があってのことで、その恩義に報いるのには彼らに勝つのが最短の答えだと、今の千尋は知っている。
 柳生たちもそれと同じような思いを抱えている。千尋が千代が、ジャッカル桑原がテニスの楽しさと難しさを三者三様に伝えた。その結果、彼らもまたテニスのことを好きになってくれて、少しずつだけれど確実に成長している。三人の中で言えば一番弱い印象を与える柳生だったけれど、平福の戦略を実行出来るだけの実力とメンタルを備えている、と今示した。
 いつか、遠くない未来に彼らは追いついてくるだろう。
 そのときに追い抜かれないように、と気持ちの緒を締めて、千尋は桑原に言う。

「まぁ、お前よりは可能性低いけど。あと、ルックは来るよな」
「負けないぜ、キワ、ダイ」

 確認の形で聞いた。六人の自主練習。ずっと桑原が一人、疎外感を覚えていると知らなかったわけではない。どれだけ努力をしても、特待生として扱われても、桑原は試合に出る権利がなかった。
 だから。
 今年の夏は一緒に出よう。そんな思いを込めて戦友を煽ると別のやつが奮起する声が聞こえる。
 
「何だい、俺たちもちゃんとその勝負に混ぜてくれなきゃ困るじゃないか」
「精市、自惚れてんなよ。お前も! 負けて! もらうんだよ! そうだろ、ダイ」
「当然。セイに勝ってからじゃないと心残りで卒業も出来ないだろ」
「じゃあ千尋と由紀人は一生中学生のままだね」
「言ってろ」

 そんな励ましなのか煽りなのか、冗談なのか本気なのか、紙一重で全てが裏返ってしまう遊びをしていると不意に全く想定していない方向から鋭い声が飛んできた。

「先輩たち!」
「何か用? 四戦全敗の一年生君」
「名前! 名前あるんスよ! 俺にだって!」
「そう? だから? 俺たちは弱いやつには興味ないんだ」
「その台詞、絶対後悔させてやるから覚悟しててくださいよ!」

 俺の名前は! 切原赤也っス!
 ぜってー名前で呼ばせてやる。そう意気込んだ切原を見届けて、彼を一刀両断に切り捨てた幸村が穏やかな顔で凶悪に微笑む。

千尋、今年の一年は面白いね」
「いやいやいやいや、精市、それは絶対理解されてねーからな」
「お前も頑固だね。相互理解を得たいなら、まずは自分を示すのが筋じゃないか」

 先輩に対する敬意を表現出来たら、そのときは正面から認めてもいい。そのぐらい、強かで誇り高い新入生を前にして幸村は微笑んでいるのだけれど、多分切原はその評価を理解出来ていないだろう。加古も鹿島も別所もその点ではそれほど大きく乖離していない。
 だから。

「まぁ、いいか」

 思考を停止したのではない。善後策を講じるのを諦めたわけでもない。
 ただ、この空気に慣れて、慣れるまでに数えきれないほどの敗北と屈辱を味わって、それでもなお立っているやつだけを仲間と認めたい。幸村のその気持ちは十分に理解出来たから、千尋は彼の規格外の願望を受け入れる。千尋たちだってそうやってこの場所にいる。同じ苦労を味わわせたいだとか、そういう無粋なことを言っているわけでもない。それでも。多分、この景色を見る為に辿る道としてはきっと無駄でも無為でもないだろう。
 そんな予感めいたものを抱いて、千尋は笑う。
 ときは四月。桜が咲いてすぐに散ってしまう季節。
 千尋たちに生まれて初めて後輩が出来た。この出会いが未来を変えていくだなんて、その兆しはまだないけれど、それでも確かに変化が訪れていた。