46th. 記録保持者
人生には必ず苦い通過点が待ち受けている。
その回数も、訪れるタイミングも、乗り越える為の難易度も何一つ人生の主役には通達されない。
なのに苦慮する通過点は必ず待っていて、手加減をしてくれることもない。
ただ。
そのハードルを越えたとき、目の前に広がる世界はいっとう輝きに満ちていて人生の美しさを存分に語る。絵物語だとか、理想論だとかそんな程度の輝きではない。これまでの道のりを一変させるような、そんなとてつもない輝きだ。
常磐津
千尋のもとへその色彩がやってきたのは立海大学付属中学で過ごす二年目の五月のことだった。
立海恒例のレギュラー選抜戦が終わった。次の大会は県大会で、レギュラーに抜擢されるのは戦績上位八位から十四位の選手だ。
千尋は相棒の千代由紀人(せんだい・ゆきと)と共に安定の七位以上通過だったから県大会に出ることはない。無敗の幸村精市、一敗の真田弦一郎と柳蓮二。三年になった特待生の先輩である倉吉と佐用。この七人は準レギュラーに勝負を託して見守るという宿命を負った。
八位以下に残ったのは特待三年生の河原、二年生のジャッカル桑原。それから。やはりというか、順当というか、一般生の中では群を抜いた成長を見せた二年生の仲間――丸井ブン太、仁王雅治、柳生比呂士の三人と最上級生の威厳を保ちたい三年生が二人。信頼出来るかどうかならもう十二分にわかっている。この七人の仲間はきっと勝利を手に戻ってくるだろう。
だから。
「ルック、お前とルイとダブルスか」
七人の代表が決まって、上位十四人は特別メニューが与えられる。正レギュラーが遠慮など微塵も見せずに準レギュラーを徹底的に叩きのめす。彼らの弱点がどこで、どんな攻撃を受けるか。八面六臂の戦略眼を持つ部長――平福とデータテニスを得意とする参謀――柳の二人が最強にして最凶の練習メニューを組んだ。勿論、手抜かりはないし、手心を加えることもない。その、容赦のないメニューを連日、
千尋たちは全力でこなした。
勝ってこい。信じている。その気持ちを託すかのようにボールを強打した。
今日の練習が始まる前に柳が
千尋に告げた。桑原のゲームメイクは体力に頼りすぎている。十五分の短期決戦で勝ってこい、というオーダーが柳から発令されて
千尋と千代は揃ってコートに入る。相手は桑原ともう一人。丸井だ。
練習の中では何度か見た組み合わせだ。即席よりはまともな試合が出来るだろう。
それでも、柳は十五分で完封しろと言ったから、実際のところは十二分ぐらいを目指すのが妥当だ。
そんなことを考えながらゲームの流れを組み立てる。
千尋と千代のペアは概ね
千尋のゲームメイクで成り立っている。コートの外では凡庸でも、ラケットを握ってコートに立てば
千尋の評価は一変する。駆け引きはもう始まっている。
だから、
千尋は敢えて桑原に声をかけた。
「ああ。黄金ペアのお前たちみたいには上手くいかないかもしれないけど、絶対勝ってくるぜ!」
「ルック、それ、禁句だから」
「何がだ、ダイ」
「あー、お前去年いなかったな」
去年、俺とダイで最低の試合したんだ。
何でもないことのように言う。丸井が気まずげに視線を逸らした。丸井は去年の最低の試合の顛末を終始見ていた。だから、
千尋たちがそのことについて触れてほしくない、と思っていることも知っている。彼のこういう人情に富んだ所作は決して嫌いではないし、寧ろ好ましいとすら思う。
それでも。
「最低のハードル下げてやったんだから感謝しろよ、二人とも」
「えっ、最低のハードルが上がった、の間違いじゃないのか?」
「ジャッカル。お前、何でも素直に受け取りすぎだろぃ」
そいつ、もう試合モードだから騙されんなよぃ。
千尋たちが一年前の失態を上書きするだけの戦いをしてきたというのを丸井が言外に認める。正レギュラーというのはそういう存在だ。先頭に立って目標点として走り続ける。過ちは消えない。それでも、功績が上回れば評価はいずれ回復する。
そのことを体現してきた
千尋たちを認めて、敬って、それでも負けないという心を示した丸井の成長に
千尋は破顔した。
「ルイ。いいこと教えてやるよ。十二分。お前たちが負けるまでの時間だ」
「言ってろぃ。何なら、サービス打つごとに五分ぐらいかけたらどうなんだよ」
「お前、そういうの嫌いだろ」
「それも柳のデータか。面倒臭いのがチームメイトでありがてぇなぃ」
ジャッカル。十五分。耐えられるだろぃ。
丸井が不敵に笑って、彼の相棒に視線を投げる。その仕草が丸井もまた試合モードに入ったことを
千尋に教えた。
十五分耐える、だなんて言うのは簡単で、その実どれだけ難しいのかを丸井は知っている筈だ。それでも、彼は敢えて言う。言うからには実行するつもりがある。そういう駆け引きがもう始まっていた。
「ルイ、俺たち相手に十二分なら別に恥ずかしくないだろ」
「それでも! お前たちの言うままなんてつまらねぇんだよぃ」
「まぁそういう相手を叩きのめす方が楽しいから構わねーぜ」
「言ってろぃ」
お前の方こそ、ハードル上げすぎて泣くなよ。
千尋の挑発を受けて挑発が返ってくる。こういう、気持ちの面でも負けていないやつらだから戦いたいと思う。もっと上の世界まで一緒に見たいと思う。そして、丸井は
千尋がそう望んでいることを知っている。いい仲間に恵まれたな、と思うと同時にいい敵に恵まれたとも思う。そういう環境を与えられて、胡坐をかいているほどの余裕はない。
ただ。
「丸井、お前がどういう試合をしたいのかよくわからないが、俺は十五分耐えればいいのか?」
「おっ、ルック、来るか?」
「来てほしい、って顔してるぜ、
キワ」
「うん、だって強いやつと戦うの、わくわくするだろ」
「ああ、それはわかるな」
俺たちだってお前と戦うとわくわくするんだぜ。言った桑原の眼差しは真摯な輝きを放っていて、彼が真実そう思っていることを教える。
三強と特待生三人の自主練習。桑原はいつも一人だけ取り残される形になった。それでも、彼はくさらずにずっと一緒に練習を続けてくれた。いや、くれた、なんて表現は桑原に失礼だ。一緒に練習を続けた、に訂正する。
十か月。そういう日が続いて桑原は出会った頃よりもずっと強くなった。純日本人の
千尋と、ハーフの桑原では身体能力の伸びしろが違って、
千尋はいつか遠くない未来に体力勝負で桑原に負ける日が来ることを頭のどこかで覚悟した。そのアドバンテージを指摘して卑怯だとか、ずるいだとか、自分に同じものがあれば決して負けないだとか言うのはただの言い訳で、桑原には何の落ち度もないし、万が一、落ち度があったとしても
千尋に戻ってくるものは何もないことも知っている。
だから。
「お前とルイのペアが準レギュラーだと一番強いだろ。だから、言っておこうと思って」
「何を?」
「立海の試合は三タテなんだ」
「それは、知ってる」
「公式戦で、三タテなんだ。ルック」
「
キワ?」
「だけど、別に気負わなくてもいい。信じられている重みに最初から勝てるやつなんていないし、お前もルイも公式戦は初めてだろ。それでも、『俺たち』より強いダブルスペアなんて中学テニス界には一組もいないから、安心したらいい」
そうだろダイ。
黄金ペアと呼ばれた
千尋の相棒に声をかける。コミュニケーション障害を自称した本物の不器用である千代は今の今まで無表情を貫いていたけれど、不意に口元を緩めて微笑を形どった。
「その、俺たちより酷い公式デビュー戦するやつ、絶対いないし」
「あれはお前が悪いだろ」
「
キワだって散々だったくせに」
「まぁ、周り見えてなかったよな」
周りが見えていなくて、自分のことも相棒のことも信じられなかった。二人で立っている筈のコートの中を一人で彷徨って、その肩に載っている筈のチームの信頼のことも忘れていた。
その結果。
「周り見えてなかったって言えば、セイのこともそうだろ」
「あぁ、そうだな」
「立海の試合出来なかったらセイが凄い顔するから覚悟しておいた方がいい」
去年の覇者である王者立海をして部内戦績無敗を誇る幸村はその肩書と正比例して誇り高い。自分の試合は勿論、チームメイトの試合の勝ち方一つにも拘るし、彼の美学に反しようものなら容赦ない叱責が飛んでくる。そのことを
千尋たちが身をもって証明したから、二、三年生は桑原を除いて全員が知っている。普段の幸村は柔和な印象を与えるけれど、コートに立つとその姿は一変した。桑原も何となくは察していると気付いていたけれど、
千尋と千代は敢えてしかめっ面をする。
「いや、もう本当に肝が冷えるってやつだから、お前、体験しないように善処しろよ、本当」
「
キワ、それは既に挑発じゃなくて本気で心配してる『ただのいいやつ』になってるから」
「いや、でも。お前、あれもう一回体験してーのかよ」
「そりゃ、嫌だけど」
お前、本当、煽るってどういうことかわかってないし、向いてない。
千代が溜息混じりにそんな感想を吐露すると、気を張っていた筈の丸井が堪えきれない、という風情で噴出する。
「お前ら、本当、『らしい』よなぃ」
「本当、いいやつだよお前たち」
「別に、励まされてほしかったわけじゃねーんだよ」
「えっ、
キワ、お前、本気で言ってる?」
お前、最初から最後まで徹頭徹尾心配しかしてないと思うんだけど。
その指摘に、
千尋は一瞬、何を言われているのか音声が右から左へと直線通過した。
「えっ?」
「『えっ?』じゃねぇだろぃ。お前、本当、わかりやすいのかわかりにくいのか悩むやつだなぃ」
「
キワ、サンキュー! お前の応援、確かに受け取ったぜ」
褒められている、と冷静な
千尋は判断する。同時に、ラケットを握っていても試合が始まらなければ直情径行のままだ、と告げられたのだとも判断して、
千尋は誇ればいいのか恥じるべきなのか結論を見失った。
そんな
千尋を置いて千代がラケットをくるりと回す。「ウィッチ?」の声が聞こえて、ゲームが始まろうとしているのを知った。丸井が「ラフ」と答えるのと前後して千代のラケットが軽い音を立ててコートに倒れる。
「ルイ、サーブ権お前たちだから。俺たちこっちのコートもらうけど、いいだろ、
キワ」
「えっ、ああ。うん、どっちでもいい」
「お前さぁ」
「何」
「別にいいだろ。コートの外で駆け引きなんて出来なくてもお前はお前だし、お前は凄いテニスがしたいんだろ」
だったら、ぐだぐだ言ってないでコート入れよ。話したいことがあるなら、テニスで話せばいいじゃないか。
言った千代に触発されたかのように三人が散開する。不器用を自称する千代の方が本質を捉えている。
そうだ。そうじゃないか。百の言葉より、一つのプレーが選手を雄弁に語る。そういう世界に身を置いていることを忘れていた自分に気付いて、成長というのは何かを得るのと同時に何かを失うことなのだと理解した。
人の手のひらの大きさはそれぞれに決まっている。ほしいもの全部を手に入れられるやつなんてこの世にほんの少ししかいない。テニスではやや非凡、それでも人間としては概ね平凡の範疇にいる
千尋の両手で持てるものの数は決まっている。新しいひとつを手に入れる為には今あるひとつを失うしかない。
それでも。
そうだとしても。
前に進むのが怖い、だなんて臆病風に吹かれるつもりも、悲劇の主人公を気取るつもりもない。それぞれの形は違うけれど、それでも誰もが等しく苦悩している。神様だとかいう存在が
千尋をどうしたいのかは知りたいとも思わない。
ただ。
「じゃあ行くぜ!」
信じて預けるのと、頼って任せるのとは違う概念だ。
千尋と千代のダブルスの主導権を持っているのは
千尋だけれど、だからと言って千代は
千尋に全てを丸投げしているわけではない。
千尋が後ろで返球のコースを潰しているように、千代もまたネット際で返球のコースを潰してくれる。お互いを信じ、お互いの最善を引き出す。だから。今はまだ桑原の体力に依存しているといっても言い過ぎではない彼らのダブルスの弱点を指摘するところから始めよう。丸井が彼の判断で彼が最高に輝くプレーを見せてくれるまで。その未来が一日でも早く現実のものとなるまで。
千尋たちは決して手を緩めない。
だから。
圧倒的な持久力を誇る
千尋と桑原。それでも、
千尋はレギュラーとして場数を踏んできた。相手のプレイスタイルの如何に関わらず、前を向いて戦うだけの強さが少しずつ備わりつつある。
千尋が持久力勝負に持ち込めばダブルスの試合だろうがシングルスの試合だろうが、相手が粘り負けるまでゲームは続く。
そんな
千尋を知っているだろうに、柳は速戦を指示した。
千尋にはまだ別の可能性も残っている。そのことを示したいのだろうか。それとも、得手に頼る
千尋への叱責だったのだろうか。柳の心中は柳にしかわからない。それでも。
千尋は知っている。柳は決して意味のないことを指示したりしないし、柳の指図に従うと次の世界の景色が見える。
だから、十五分で勝ってこいと言われたのなら十二分で勝って帰ってくる。
そう出来ると信じられている気持ちに応えたい。
それが立海レギュラーとしての矜持だ。
十分に連携が取れているとは言いがたい桑原と丸井のペアは弱点だらけだったから、そこを手加減なしで攻める。圧倒的守備範囲の広さを誇る桑原ですら対応出来ないようなコースを狙う。それでも桑原は必死にコートの中を駆ける。必死に駆けている桑原の邪魔な位置に来るように千代が丸井を動かす。
千尋たちの目的はわかっているだろうに、それでも対応出来ない自分たちを知った二人が苦々しい顔をする。
だから。
十二分ジャストで勝利を収めたとき、
千尋の中には確かに手ごたえがあった。
幸村の先導で始まった
千尋の五十個の弱点を克服するチャレンジには桑原も加わっている。つまり、桑原には
千尋の弱点が見えている筈だ。見えているのに何も出来ない。客観的に知っている弱点を攻める手段がわからない。そういう悔しさを噛みしめている桑原を見て、気付いたら
千尋は彼に声をかけていた。
「ルック」
「本当、お前は大したやつだぜ」
五十個も列挙された弱点の大半をひと月と少しで改善した
千尋の努力を称える言葉が聞こえる。
違う。今は、そんな言葉を聞きたいわけではない。
寧ろ。
「ルック、ルイ。お前たちが直す弱点、三十個あるってよ」
今の試合を見ていた柳がそう言う筈だ。だから、
千尋はそれ以外の弱点を列挙する役割を引き受けよう。
県大会まで残り一か月。
千尋がそうだったように、桑原もまた伸びしろを多く残している。だから、その、自分への落胆と無力感とはここで別離すればいい。難癖レベルの指摘だとわかりながら、それでも桑原は細やかなアドバイスを
千尋にくれた。それと同じものを
千尋は桑原に返したい。
丸井にしてもそうだ。
今の試合の中で、はっとするようなシーンがあった。ドロップショットがネットに当たって、
千尋たちのコートへぎりぎり落ちる。千代が持ち前の反射神経で飛び込んで処理をしたから、得点には至っていないし、丸井からすればミスショットの一つだろう。
それでも。
「ルイ、お前すげーよ」
たった一年でここまで来た。ボレーボレーが苦手で
千尋と組むのが嫌だと言っていた丸井はいつの間にかいなくなっていた。丸井のボレーは繊細で多彩で、そして目を瞠るほど正確だ。ボレーやドロップの精度だけで勝負をするのなら、多分、
千尋でも苦戦を強いられる。そういう次元に至るまで、丸井が努力したのだということが真っ直ぐに伝わってくる。
二人は立海のレギュラーとして恥じることのない試合が出来る。そんな予感めいた確信を得て、
千尋は頼もしさを覚えた。
「
キワ、お前たちばっかが立海じゃねぇんだよぃ」
「ブンちゃん、偶にはええこと言うのう」
「ハル?」
「
キワちゃん、ええこと教えちゃる」
俺たちの弱点は三十個じゃきかんき、もっと真剣に向きおうてもらわんと困るんぜ。
言った仁王の表情には一点の曇りもなく、そして恥じ入るところもなかった。
数えきれないほどの弱点、欠点。それを改善すればもっと強くなるし、次の世界が見える。
その為に、一緒に前を向いて走っているのだから、小さな進歩でいちいち感動されていたのではたまったものではない。
そんな茶化すような、真剣なような不思議な声が聞こえて
千尋は知らないうちに笑みを浮かべる。
「あーあ、今日は試合に勝って勝負に負けた気分じゃねーか」
「へぇ、
キワ、負けでいいんだ?」
「負けてんの直視出来ねーのはもう卒業したんだっつの」
「ふーん。じゃあ、俺も一緒に負けてやるよ」
ハル、お前たちの勝ちだから何かしてほしいことあれば聞いてもいいけど。
言って千代がとびきり凶悪な笑顔を浮かべて準レギュラーの四人と対峙する。そのあまりの切り替えのよさに苦笑して、それでも彼を相棒に選んだ自分を誇れることに気付いて、そして
千尋もまた強気の笑みを浮かべる。
そんな
千尋たちを見て、四人はお互いに顔を見合わせた。
そして。
「じゃったら、
キワちゃんは俺と試合じゃ」
「ダイ! お前、前衛の心得、もっと教えてくれよ!」
「ずるいですよ、仁王君。ワタシだって
キワ君と試合がしたいです」
三者三様に「勝った褒美」をねだる言葉が飛んでくる。その一つひとつは些細なことで、それでも彼らがもっと強くなりたいのだという気持ちをダイレクトに伝えた。揃いも揃ってもっと練習がしたいだなんて、テニス馬鹿すぎて本当に言葉が出てこない。三強たちにとっての
千尋や千代も似たようなものだろうか。
慣れ合っているわけではない。
仲良く、慰め合いがしたいのでもない。
叩きのめされて、叩き潰されて、それでも、そんな苦い思いをする展開を乗り越えてでも前に進みたい。
千尋が思っていたより、ずっと深く丸井たちの中にテニスが浸透していることを知って、
千尋の胸中は複雑でなのにやさしい色合いが広がった。今見ている景色が幻ではないのだとしたら。
千尋が今、味わっている感情の名は明らかにしない方がいいのだろう。
「じゃあ、俺は晩飯のデザート、二人ともからほしい」
「ジャッカル! お前、そんなささやかな幸せに浸ってんじゃねぇよぃ!」
「ルイ、特待寮の晩飯のデザート、なくなるのマジつらいのわかってねーな」
「ルック、お前がそんなやつだとは思わなかった」
「いいだろ、それが嫌なら勝てばいいじゃないか」
そうだろ、特待生。
言われて、
千尋は千代と顔を見合わせて苦笑する。
そうだ。大切なものを失いたくないのなら戦って勝つしかない。
だから、戦って負けを認めたのなら苦い思いは黙って飲み下して、そうして次の機会を与えられるまで、決して手を抜かずに修練を続ける。それ以外の答えなんて最初から用意されていないのだから、嘆く時間なんて無駄だ。
ジャッカル桑原、という仲間が思っていたよりも辛辣で強かなやつだと再認識した頃、コートの中央から集合の声が聞こえる。
五月の空は青く晴れ渡って、新緑の色彩を鮮明に伝える。
負けのない人生はない。勝てる勝負しかしない、だなんて泣き言も言わない。
だから。
「いいぜ、ルック。デザート、二人分くれてやるよ」
「そうこなくっちゃな」
「あーあ、俺、牛乳プリン食べたかったのに」
そう思うのなら、次は勝て。その思いを込めて千代の背中に手のひらを叩きつけた。背筋に衝撃を感じた千代が軽く仰け反る。そして、彼は仲間でないとわからない微笑を浮かべて、第三コートの周りへと向かう。
千尋や桑原たちもそれに追随して、平福が何を話すのかを待った。
仲間たちが一生に一度しかない中学テニス界でのデビュー戦で思うように戦えるといいなと思いながら見た景色を忘れない。
最低の記録保持者は
千尋と千代のままがいい。そんな自虐なのか自慢なのか判断に困る感想を抱きながら、今日の練習に一区切りが付こうとしていた。