. All in All => 47th.

All in All

47th. 立海級の後輩

 名前なんてただの記号だ。
 個を識別する為の道具でそれ以上でもそれ以下でもない。
 なのに、人は名前を手にしたとき確かに肯定されたように感じるし、人に名前を呼ばれることに好悪を感じる。
 つまり、名前はただの記号なのに持ち主にとっては特別な意味を持っているということに他ならない。

キワ先輩!」

 五月下旬。厄介な中間考査が終わって、教員たちが採点の時間を確保する為の球技大会が行われている。
 四月のクラス替えで常磐津千尋は仁王雅治と同じクラスになったが、別段それで何か有利になったこともない。
 仁王は万事最大限に手を抜くことを信条としてるのか、球技大会が開幕すると同時にどこかに消えた。チームワークだとか、協調性だとか、そういった単語が千尋の脳内で明滅して霧散する。テニス部で言えば仁王の自由さは群を抜いていて集団生活には不向きだ。テニス部の練習にだって最初の頃はまともに参加しなかった。部活動をサボって一人で自主練習をしている、と知ったとき、千尋は思った。どう考えてもテニス部には不器用しかいない。なら、千尋も不器用でいいのではないか。
 その答えを仲間たちが実証してくれて、千尋は自らの不器用を許容出来た気がした。

キワ先輩ってば!」

 今回、千尋はバレーボールの競技にエントリーした。まだクラスメイトに慣れたとは言い難いけれど、チームスポーツを通じてお互いを理解するきっかけになればいいと思った。
 球技大会のルールで、自分の所属している部活動と同じ競技にはエントリー出来ない。だから、バレーコートに集まったクラスメイトたちは全員バレーボールにおいては素人だ。サッカー部、野球部、バスケ部に柔道部。二年生ながらレギュラーの座に納まったやつらのなかに演劇部――文化系の生徒が一人混じっている。それでも、演劇部は演劇部なりにバレーボールに思い入れがあるらしく、トーナメントの順番が回ってくるまでの間に軽くウォーミングアップをするとそこそこの運動神経をしているのだということがわかった。
 去年の身体測定をしてから、今年の測定をするまでの間に千尋の身長は八センチ伸びた。
 それでも、バレーコートの中では小さい方から数えた方が早く、満場一致でセッターを任される。言外に、お前の最高到達点ではスパイクの威力がない、だとか、ブロックは無理だ、と言われているのを感じたけれど、勝利を欲している二年E組の仲間たちが千尋には別の働きを求めているのなら、まぁ、それはそれで役割だしいいか、と思ってしまう。
 セッターというのはコートの中におけるゲームメイカーだ。攻撃を組み立てるのは概ねセッターの役割で、千尋の視野の広さと底なしのスタミナで考えれば、それなりに適性があると言えるだろう。
 第一試合は三年C組との対戦で、テニス部の先輩である佐用がいた。
 佐用の戦い方は基本的にはとてもシンプルだ。基礎の基礎を積み上げた速攻。テニスでは緩急を付けてくるところはそのまま生きていて、長身の佐用が全力のスパイクのモーションからフェイントで浮き球を落とす、という判断を随所で挟んできたから、二年E組の前衛は緊張感と常に隣り合わせだった。
 それでも、千尋が負けたまま黙っている筈もない。
 急造チームで、信頼関係もコンビネーションもがたがたなのはネットの手前も向こうも同じだ。
 だから。
 サインの練習なんてしていない。千尋たちは敵も味方も全員母語が日本語で、日本語の指示を出せば当然、敵にもその意図が伝わる。それでもいいと思った。来る場所がわかっているのに上手く処理出来ない悔しさをバレーボールでも佐用たちに味わってほしくて全力でゲームメイクをした。
 Bクイック、ブロード、バックアタックにバックトス。千尋が全力をかけてトスを上げると仲間たちにその戦意が伝播したらしい。
 演劇部がリベロに徹して、攻撃が上手く噛み合うようになって、そして結局は三年生のチームを相手に危なげなく勝利を収めた。
 そのまま準決勝まで順調に勝ち上がって、テニス部部長である平福のチームと対戦する。結論から言えば、ゲームメイクのセンスにおいて千尋が平福を上回ることは出来ず、二年E組バレーチームの球技大会が終わった。

「ねー、キワ先輩ってば! いー加減聞こえてるんでしょ!」

 自分の競技が終了してしまった千尋は四位敗退であることを仁王に告げようと同窓会館へと向かう。多分、仁王は勝敗に興味なんて持っていないだろうけれど、千尋の八面六臂の活躍を聞いてほしい、と思った。同窓会館の二階が学生食堂の一つになっていて、L字型の構造をした一番奥の席を仁王が好んでいることを知っている。今はそれぞれの出場種目やクラスメイトの応援で食堂の中なんて閑散としているだろう。
 リノリウムの階段を上る。滑り止めの臙脂色のゴムが敷かれていて上履きが階段を上がる音を全て吸い取ってしまう。同窓会館の三階は会議室だ。だから、吸音の仕様になっている。階段を踊り場まで上ると、フライドポテトの香ばしい匂いが漂ってきた。その匂いの中を上る。
 開け放たれた食堂の中には一見、誰一人としていないように思えたけれど、窓際まで歩くと人影が視界に映る。いた。あれは間違いなく仁王雅治だ。
 向こうからしても、こんなタイミングで食堂に現れるのは千尋ぐらいのものだと予想していたのだろう。二本ある唐揚げ串のうちの一つを千尋に差し出して仁王は「ご苦労さん」と言った。四位の副賞が唐揚げ串一本なら優勝だったら何を貰えたのだろう。そんなつまらないことを考えて打ち消す。揚げたてからは程遠い、冷えた唐揚げ串だったけれど、特に美味いとも不味いとも思わなかった。自分の活躍を語ってやろうと思っていたのに、いざ仁王を目の前にするとそんなことをいちいち言葉にしなくても、仁王には全部伝わっている気がして、結局は何も言わずに仁王の隣で唐揚げ串を最後まで食べた。
 そんな千尋と仁王の心地よい沈黙の時間をぶち壊して生意気な後輩の一人が姿を見せる。
 切原赤也。名前も顔も知っている。先ごろ彼のことを滅多打ちにして負かした。恨まれるのが筋だと思っていたのに、切原はことあるごとに千尋に積極的に関わってこようとする。世俗に倦厭的な仁王の気持ちが少しわかった気がした。
 その、切原は食堂に姿を見せるなり千尋のことを「キワ先輩」と呼んでしきりに会話しようと試みている。
 ただ。
 千尋のことをそう呼んでいいのは千尋が認めた相手だけだと思っている。大阪・四天宝寺で忍足謙也がキワの名を使いたい、と希望したとき、千尋は一刀両断にした。この名前は仲間だけの名前だ。その気持ちには今も変わりがない。
 だから、切原が何度千尋を「キワ」と呼ぼうとも決して反応を返さなかった。隣で仁王が「お前さん、なかなかええ性格になってきたのう」と他人ごとのように呟いたけれど、それにも反応しない。
 それが千尋の意思表明だ。
 呼んでも呼んでも反応を示さない千尋に焦れるように顔を歪めて、切原がとうとう根負けする。

常磐津先輩!」

 その呼び方なら受け入れられる。
 だから、千尋は音源を振り返り、そして無表情を取り繕って言葉を返した。

「どうした、切原」
「――っ! やっぱり聞こえてたんじゃないすか!」
「何の話だ。知らねーな」

 ハル、お前何か知ってる?
 わざとらしく隣の仁王に話題を振ると、彼も千尋のノリを受け入れて「さての」と首を傾げて見せる。後になって知ったのだけれど、切原が仮入部の初日に大幅に遅刻したのは仁王がテニスコートの場所を「誤って」切原に告げたかららしい。まぁ仁王が間違える筈がないから敢えて嘘を教えたのだろう。そのぐらい、仁王は切原の存在に危機感を見出している。出る杭は打つ。何度でも打つ。折れようが途中で曲がろうが千尋たちには関係がない。立海テニス部で胸を張れるのは何度も打たれてそれでも顔を下げなかったやつだけだ。
 だから。

「で? テニスに一番近いからって卓球にエントリーしたくせに一回戦でルックに秒殺された口だけ切原君が俺に何の用なんだ?」
「アンタ! 本当にすげーいい性格っすね!」

 切原の球技大会事情はバレーコートでジャッカル桑原本人から聞いた。「俺も特待生の余裕ってやつ、見せられたかな」とはにかんで笑うのがもどかしくて肘鉄で応えたら、背中を勢いよく叩かれて千尋は前向きにつんのめった。痛い、と文句を言うと桑原はますます笑顔になってしまって、千尋は苦く笑うしかない。準決勝が始まる頃に桑原のクラスメイトである幸村精市がやってきて「部長に勝てるとは思えないけど、健闘を祈ってるよ」と言って自分たちのクラスの応援に出向いて行った。
 桑原はいいやつだ。
 一回戦で対戦した切原をストレートで叩き伏せたのに、桑原はひと言も自慢はしなかった。寧ろ切原の「いいところ」を列挙するばかりで、桑原ほどの褒め上手もなかなかいないだろう。その桑原が褒めちぎった切原には当然のことながら美点がある。客観的なその指摘を聞くうちに、切原がただ生意気なだけの一年生ではないことを理解したけれど、桑原ほど綺麗には気持ちを切り替えられない。自分たちの部長を――ひいては立海テニス部を侮った相手を容れる、という答えを容易く選べないぐらいには千尋にも自尊心というやつがある。
 だから。
 何度も叩いて、叩き伏せて、それでも立ち上がってくるものを容れるという答えなら選べる。そこに至るまで、千尋は何度も繰り返し切原を叩き伏せるだろう。それでも。桑原から伝え聞いた「切原赤也」像は何度でも立ち上がってくることを予感させた。
 切原のことは一朝一夕で信じることは出来ないが、桑原の価値観なら信じられる。
 桑原は切原を褒めたが、それでも千尋に叩くことをやめろとは言わなかった。
 だから。
 
「で? 食堂くんだりまで来て何の用件だ」

 千尋はもう一度切原の感情を切り捨てる。
 多分、まだ心が折れる段階ではないだろう。威勢よく突っかかってくるだろうか。そんなことを考えながら挑発を放ると、切原は一瞬だけ言葉に詰まって、それでも最終的には千尋の望んだのとは違う形の返答を寄越した。

「べっ、別にアンタが一番勝ち目あるとか思ってねーから!」

 今の感情を一言で表すと「イラっとした」以上も以下もない。
 一番勝ち目がある、というのはどういう意味だ。
 一度対戦したぐらいで千尋の選手としての奥行きがわかったとでも言うのなら、過小評価もいいところだ。切原と試合形式で戦ったのは三強と千尋だけだから最下位なのは理屈では理解出来る。理解出来るけれど、だからといって「勝ち目がある」などと評されるのは不本意以外何ものでもない。
 その不本意を黙って飲み下して、平静を装えるほど千尋は大人ではないし、自分のポジションに納得しているわけでもない。
 苛立ちを仁王にぶつける。仁王が眉間に皺を寄せた。

「ハル、情に絆して訴えかける相手を間違えてる後輩に付ける薬はどこに売ってるんだ」
キワちゃん、顔がマジじゃろ。ガチでキレるんはええき、俺にキレるんはやめんしゃい」
「こういうのは! ダイの仕事だろ! 俺は! どっちかっていうと! 宥める役じゃねーのかよ!」

 煽り文句を言ったのと同じ口で、自分と現状に対して所謂「ツッコミ」を入れるのが不本意なことこのうえない。
 それでも、ツッコミを入れないという選択肢のない千尋自身に心のどこかで苦笑していた。心の中の苦笑が仁王にも伝播して、二人で顔を見合わせる。
 ここから先はストッパーのいない悪ふざけの領域だ。わかっていて、二人ともが悪ノリに乗った。

「まぁ、お前さん、後輩が出来てからはオールラウンダー扱いじゃからの」
「沸点の低さで圧倒的にルックに大敗してるのが本当に気に食わねー」
「いや、それは去年からぜよ」
「はぁ? 去年の俺はもう少し沸点高かっただろ」
「いやいや、それだけはないじゃろ」

 いやいや。いやいややいやいや。
 そんなやり取りを目の前で延々と繰り広げられた切原は束の間ぽかんとしていたけれど、これが度の過ぎた悪ふざけだと気付いて、顔を真っ赤にした。

「ちょっ、アンタたち! 俺を題材にしてショートコント始めないでくださいよ!」
「おっ、気付くの割と遅いな。お前」

 ハル、こいつもしかしたら天然かもしれねー。
 言うと仁王は悪戯が成功した子どもの顔になってくしゃりと笑った。
 知っている。仁王のこの顔は相手を容れたときの顔だ。仁王も千尋もわだかまりこそ残してはいるが目の前の後輩を「後輩」として受け入れつつある。
 だから。

「そんな調子じゃとキワちゃんどころか俺に勝つのも十年かかりそうじゃの」
「えっ、お前テニス歴何年だっけ」
「ちょうど一年ぐらいじゃのう」

 部活テニスでスクール生に勝つとか神かよ。
 言った直後に「まぁお前根性あるしな」と付け足すと切原からは見えていないだろう角度で脇腹を強か殴られる。仁王に対してのこの手の発言はタブーだ。白鳥ではあるまいに、水面下で必死にもがいているのを見せるのがどうにも不本意らしい。頑張っているのだから頑張っているでいいじゃないか、と馬鹿の千尋は単純に考えてしまうけれど、仁王には仁王の矜持がある。不必要にお互いを踏みにじる行為には価値を見出せないから殴られた時点で言葉を止めた。

「まぁ俺らには神様が一人付いちょるしの」
「馬っ鹿、お前、それこそ禁句だろうが」

 厳密には誰も禁じてなどいないけれど、千尋たちの中での常識だ。
 幸村のことを誰かが「神の子」だなんて呼んだやつがいる。その暗黙の差別に幸村が傷付いているとわからないほど千尋たちは鈍感ではなかった。幸村は何も言わない。腹が立ったとか、不愉快だとか、残念だとか。そういうことを幸村が口にしないのは彼なりの気遣いだと千尋たちは理解している。
 雲上の存在に線引きをすることは多分自然なことなのだろう。
 お互いの間に線を引いて、お互いが不注意で傷つけあうことがないようにする。ただそれだけの行為で、その中には好意も悪意も存在しない。それでも幸村は間違いなく心を痛めているし、千尋たちだって「不可能」を目の前に突きつけられるのは不愉快だ。
 だから。
 いつか必ず追いつく目標として定めた。いつか必ず追いつくのだから幸村は「神様」でも何でもない。自分たちと同じただの一人の人間だ。
 そう解釈していても、幸村のことを仲間の外に誇るとき、千尋たちは油断をするとその呼称を用いてしまう。その度に、誰かが気付いて必ず否定を挟んできた。
 その歴史を物語る千尋と仁王の会話だけれど、切原には当然通じない。
 むすっ、と頬を膨らませた切原が会話に自然に入り込んでくる。

「何すか、何なんすか。俺にもわかるように話してくださいよ」

 切原のその言いように千尋と仁王は思わず顔を見合わせた。何なのだこの後輩は。千尋と仁王が相互理解を得るまでにはゆうに半年以上の時間を要した。それからの半年弱はそこそこの人間関係だったとお互いが自負しているけれど、その時間をなかったことにして、今すぐ自分の距離感に置き換えてしまうだなんて、そんなことを出来るやつは千尋たちの仲間にはいない。
 なのに。
 切原は何の衒いもなく千尋と仁王の世界に受け入れられることを要求した。
 新しい、を通り越して新しすぎて千尋たちは切原を否定する、という原初的な行動を忘れる。
 そして。

「お前、大したやつだな」

 称賛が不意に口から零れ出る。
 それを聞いた切原が唇を突き出すスタイルを保ったまま応じた。

「何がっすか」
「度胸だけは立海級だなって言ってる」
「何すかそれ。褒められてる感じしないんすけど」
「褒めてるよ、一応」

 褒めているとも。千尋は切原に対して所謂「塩対応」というやつをぶつけたつもりでいる。
 なのに、切原は臆面もなく千尋と仁王に相対して、それでもなお自らの主張を引っ込めるつもりがない。生意気を言って、散々に負けて、恥をかいて、突き放されて、侮蔑を放られて。それでも友好の情を求める姿勢を曲げない、というのならそれは彼の気性に立海テニス部であるというだけの矜持が備わっているということだ。
 だから。

「ハル、お前、今日の昼飯どーする」

 立海大学付属中学における球技大会の位置づけはあくまでも「教員が考査の採点をする為の時間を確保する手段」だ。午前中だけで下校させられるのも、部活動が休みになるのも、全部恒例行事だから立海で一年間を過ごした千尋たちにとってはこの後の予定なんて殆ど流れ作業と同じで、選択肢があるとしてもどのファーストフード店に行くか、ぐらいの差しかない。
 なのに千尋は敢えて大枠の問いを放った。
 千尋の意図を適切に受け取った仁王が悪戯げに目を細めて、そして千尋の提案に乗る。

「今日は部活も休みじゃろ。マックでええんじゃないかい」
「切原、お前、金持ってるか」
「えっ、そりゃ、まぁ、一応」

 切原は特待生ではない。ということはそれなりの資産を持った両親の間に生まれた筈だ。
 その「それなり」の概念に収まる切原の「一応」は千尋の概念でいう「相当」に相当するのだけれど、それはまぁまた追い追い概念のすり合わせをしていくしかないだろう。スポーツ特待生の千尋の小遣いは学校が出す。学校が出す、ということは特待生以外の生徒の父母が納入した学費が元手になっている、ということでこの循環を端的に表すと「千尋の昼食は切原の奢り」だと言っても言いすぎではない。その極論を知らないわけではなかったが、その分千尋は学校に貢献しているのだから、相応の見返りだ、と今では弱気ながらも思える。
 思えたから、千尋は切原に向けて微笑みを投げかけた。

「じゃあ三人で行くか。マック」
「えっ?」

 特待生はよく三人で一組の扱いを受けるけれど、それでも常に三人一緒ではない。
 千代には千代の、桑原には桑原の人間関係があって、それぞれが独立している。一緒に過ごす時間は確かに長いが、二人がいなければ何も出来ないほどには千尋ももう幼くはない。
 だから。

「ハル、俺、あれ食いたい。ベーコンのやつ」
キワちゃん、それは半月前で終わっちょるぜよ」
「えー、じゃあ今、何があんだよ」
「まぁ俺もマックは詳しゅうないき、行ってみてからのお楽しみ、じゃの」

 言いながら食べ終わった唐揚げ串が二本入っていた紙コップをぐしゃりと潰す。食堂から出ていく、という暗黙の宣言だ。それを受けて、千尋もまた椅子を引いて立ち上がる。携帯電話のクーポンがあっただろうか、と考えて、ファーストフードに行くのに答え合わせは特に必要ではない、と打ち消す。
 話の流れに追いつけない切原は頭の上に無数の疑問符を浮かべていて、千尋が見る限りにおいて、入部してきて以来、侮りや焦りを抜きにして初めて狼狽している、という顔だった。
 それと知っていて、謎解きをしてやるほど千尋は親切には出来ていなくて切原には気付かれない程度に笑みを深くする。

「切原、お前、炭酸好きだろ。絶対好きだろ」
「えっ、いや、まぁ好きっすけど」

 決めつけの先入観を押し付けた。
 そういう、タイプだなんて言われるのは千尋自身苦痛でしかないと知っているのに敢えて押し付けた。
 疑問符だらけの後輩の肩の力を抜いてやる方法、なんて千尋の頭の中にはないし、第一「後輩」という概念に接するのもつい先月、生まれて初めて体験した出来ごとだ。
 それでも。
 この馬鹿で馬鹿正直で猪突猛進的な後輩のことを多分千尋たちは受け入れられる。
 そんな手ごたえがあったから、千尋は仁王と二人で凶悪な笑みを浮かべた。

「じゃあお前、俺たちの派閥だから」
「派閥って何すか」
「カラオケとか行くだろ」
「はぁ」
「ドリンクバーあるだろ」
「そりゃあるんじゃないすか」
「喫茶派閥のやつはマグカップ選ぶんだよ」

 幸村を筆頭に三強は全員そちらの派閥だ。炭酸飲料などというたるんだ飲み物は口にしない。二年生の親しい仲間で言えばあとは柳生比呂士も喫茶派で、残りが炭酸派閥という形になるが千代に関しては炭酸飲料が飲めないから厳密に言うと派閥は三つあることになるのだろう。
 そんな仔細までを説明するほど千尋と切原の距離感はまだ近くない。
 それでも、切原が本当に千尋の仲間になるのなら、いつかはきっと理解出来るだろう。そういう複雑で多面性のある立海テニス部という仲間の一部になったら。そんな未来が千尋の網膜の裏にほんのりと見えるような気がした。
 
「夏でもっすか」
「あいつら夏とか冬とかねーよ。一年通して紅茶か珈琲だ」
「まぁ、炭酸派閥の俺たちは年中アイスのグラス選んじょるから人のことどうこう言えんけどのう」

 で? 行くんぜ? 炭酸派閥の新入生。
 言って、けれど答えは待たないで仁王がごみを片手に歩き出す。その背を追って、千尋もまた食堂の出口へと向かうと、三拍ぐらい遅れて切原が「はいッ!」と言うのが聞こえる。
 臙脂色をもう一度踏みながら階段を降りる。
 後輩なんて煩わしいだけだと思っていた。そんな千尋だって一年前は生意気な一年生で、そういう千尋のことを先輩たちは温かく見守ってくれた。調子に乗ったこともある。不敬と知って先輩を煽ったこともある。それでも。千尋が立海テニス部の矜持に見合うと知った先輩たちは千尋のことを阻害しなかった。
 だから。
 今度はそれを千尋が切原たちに返す番だ。出る杭は打つ。それでも。それでもなお起き上がってきたものは、強か殴りつけながらも愛すべきだろう。どうしようもなくても、救いようもなくても、それでも切原もまた学校が認めた立海大学付属中学の生徒なのだ。
 だから。いつか遠くない未来に彼にも「キワ」と呼ぶことを許すだろう。
 その未来がやってくるまでのカウントダウンは始まっている。
 押し付けの先入観から始まったとしても。思い込みの既成概念から始まっても。その未来が現実になったとき、そいつは本質を手にしている。本質に触れてさえいれば、未来を望み続けることが出来るだろう。
 そんな、儚いようで強かな願いを抱いて、千尋の二年目の夏が始まろうとしていた。