. All in All => 48th.

All in All

48th. あり得ない仮定

常磐津千尋の二度目の夏は仲間の奮闘を見守るところから始まった。
 昨年の覇者である立海大学付属中学はシード扱いで地区大会は免除された。県大会も三回戦からの参戦で、柳蓮二が対戦相手のデータを十分に分析し終わっている。去年の千尋たちほどではないけれど、県大会レギュラーたちはそれぞれ緊張感の中にいた。部長の平福と柳が戦い方のアドバイスしているが、レギュラーの面々にそれが伝わっているのかどうかは怪しいところがある。生まれて初めての公式戦だ。緊張をするなと言うのがどれだけの無理かを千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)は自らの身をもって知っている。
 だから。

「ルック、ルイ。ウォーミングアップ、付き合ってやるよ」
「ラリーだけでも結構変わると思うけど?」

 千尋は千代と示し合わせて二回戦の試合を硬くなったまま凝視している二人に声をかけた。
 この試合の勝者と三回戦で対戦する。わかっている。どういう選手がいて、どういう戦い方で、どう攻めればいいか。その答えを知っていれば幾らかは安堵出来る。勝利の過程を頭の中でなぞって、対処を考えて、その通りに身体が動くのが理想だ。それでも。理想は所詮理想で、人間には精神状態という目には見えないのに重きを担う要素が存在している。人は極限の状態に置かれたとき、思っても見ない支障を連発する。
 一年生たちはまだそれを経験したことがない。
 幸村精市と本気で対峙したとき「どこに打っても絶対に返ってくるイメージ」が生まれるだけで感覚器が機能しなくなることも、公式戦で背負う常勝立海の声の重圧も、彼らはまだ何も知らないからこそ平然と悪態をついていられる。
 特待生である鹿島満(かしま・みつる)たちは少しずつ自分が敵わない上級生がいる、ということを受け入れつつあったけれど、選抜戦で負けた自分を棚に上げてレギュラーたちを品定めでもしようかという風情だった。
 だからこそ。

「ルイ。不安要素があるなら一応今のうちに聞いておくけど」

 千代がジャッカル桑原を連れてどこかに消えた。多分、人通りの少ない通路でも見つけてそこで軽く打ち合いでもするのだろう。わかっていたから、千尋は丸井ブン太に声をかけた。緊張感が百パーセントを軽く超越して表情が固まっている。呼吸をすることすら忘れている風情の丸井がいつもの闊達さを忘れた顔で千尋に応じた。

「んなもん、不安要素以外のが少ねぇよぃ」
「よし、それ全部言え。ラリーしながら」

 ラケット持ってこっち来い。
 言って千尋は立海四十五の雑踏を逆走する。夕焼け色の一団の向こうから鹿島が睨みつけるようにこちらを見ていたのには気付いていたが敢えて無視をした。鹿島は特待生に選ばれるだけのことはあって、才能の片鱗を感じさせる。その反面、精神的に脆い面があるのもまた事実で、一年の特待生の中では彼が一番打たれ弱いだろう。そういうやつに限って、仲間の失敗をこれでもかと指摘する。
 だから。
 丸井が去年の千尋たちのように散々たる試合をしたのなら、鹿島はこれ幸いと悪口を叩くだろう。
 そんな未来は丸井にとっても鹿島にとっても何の利もない。
 だから、と千尋は思うのだ。勝たなければならない。勝ってこいと言われて、負けは許されないと同じ口で言われて鷹揚に構えられるのは場数を踏んだやつかとびきりの馬鹿かのどちらかでしかない。丸井は彼がそういう風に振舞っているのに反して繊細なやつだ。空気を読む感覚に長け、人の期待を額面通りに受け取ってしまう。
 今も。丸井は平福や幸村が押し付けてきた「三タテ」の前で両足が竦みそうになっている。
 本当に自分で勝てるのか。本当に自分のテニスが通用するのか。
 ともすれば疑心暗鬼になりながらも、それでもまだ前を向いているのだから丸井には才能がある。
 テニスと真摯に向き合う気持ちがある、というのはそれだけで十分に才能だ。
 人は自分の気持ちをかけることでしか成長出来はしない。時間と労力と資産をどれだけ注ぎ込めるか。何度逃げ出したくなって、何度戻って来たか。その回数は人の伸びしろをそのまま表している。
 だから。
 丸井は三回戦の試合で勝てる。千尋はそう判断した。部長もそう判断したからオーダーに丸井の名を記した筈だ。
 その丸井がここで潰れるのは千尋にとっても本意ではない。
 今、千尋が丸井の為に出来ることがあるのだとしたら。立海史上最低の公式戦をした千尋にしか出来ないことがあるのだとしたら、その役割を果たすのに迷う必要なんてどこにもなかった。

「はぁ? どこですんだよぃ。空きコートなんてそうそうねぇだろぃ」

 そう言いながらも歩き出した千尋の背を追って丸井がやって来る。
 彼の手には去年、入部と同時に買ってもらったと嬉し気にしていたウィルソンのラケットが握り締められていた。ボレーの練習が苦手だと言っていた丸井のラケットらしく、地面に何度もぶつけたのだろう、擦り傷が無数に残っている。グリップの握り方もどれが彼に向いているのかわかるまで、何度もテープを巻き直した痕跡がある。その一つひとつが丸井の一年の戦いを物語っていた。
 だから。
 丸井は誇るべきだ。
 スクールに通って、より多くの経験を積み、特待生を名乗りながら散々な試合をした千尋より、ずっと格好の付いたデビュー戦が出来るのは丸井の「才能」だ。丸井がそれだけの努力をしたことを笑うやつがいるのなら、千尋はそいつを無言で殴ってやろう。頑張っているやつを馬鹿にして、低きから人を笑うやつの人生なんて所詮その程度だ。何の言葉もかけるに値しない。
 そんな、つまらないやつらの溜飲を下げる為に、丸井が無様な試合をするのは千尋としても本意ではなかった。
 少し歩くと人通りが若干減る。
 二十メートル程度の距離と五メートル弱の横幅を見つけて、千尋は足を止めた。

「ラリーすんのに場所とか関係ねーだろ。ここの通路でも十分じゃねーか」
キワ、お前。本当にメンタルでも耐久力あるよなぃ」

 ジャッカルもそうだけどよぃ、お前ら規格外すぎんだろぃ。
 ぽつり、丸井が弱音を吐いた。
 それでも。
 丸井は見ていた筈だ。去年の千尋たちが逆の意味で規格外の試合をするのを、丸井はその目で見た筈だ。
 最低の試合だった。ゲームメイクなんて一ミリも出来ていなくて、相手のいいように振り回されて、立海の名に泥を塗る試合だった。
 その千尋と千代が今では「立海黄金ペア」だなんて呼ばれている。
 あの試合がなかったら。あのとき幸村が千尋たちを突き放さなかったら。その屈辱を噛みしめて耐えることが出来なかったら。きっと丸井が今言う「規格外」の千尋はどこにもいなかっただろう。
 その過程の一年間を丸井たちは見ていた筈だ。
 だからこそ、彼もまた奮起したのだろうし、こうして友人のカテゴリにお互いを収めている。
 桑原は二学期にやってきた。
 十一月の新人戦に出場出来なかった悔しさをバネに桑原はぐっと成長したけれど、それでも公式戦に出るのは県大会が正真正銘、初めてのことで緊張している。
 なのに丸井の中の桑原が極限まで美化されて緊張なんてしていないことになっていた。
 初めての出来ごとに緊張しないやつなんてどこにもいない。
 経験は人を強くする。器の大きさの違いで、最初から幾らか強いやつもいるだろう。
 それでも。

「そのルックが今、半分死んでるからお前が何とかしなきゃなんねーんだよ」
「お前、それさぁ、緊張解してんのかプレッシャーかけてんのか、どっちなんだよぃ」
「外からは何とでも言える。平福部長みたいにどこ行けとかどっち打てとかそういうのも言える。でも」
「でも?」
「コートの中で戦うのはお前とルックの二人だけなんだ」

 千尋たちはただ託すことしか出来ない。
 コートの外から一心に祈ることしか出来ない。
 戦うのは丸井と桑原の仕事だから、千尋がどう思っても、どんなに素晴らしい戦略を思いついても、常勝立海大と叫ぶ声に力を込めることしか出来ない。
 だから。

「不安要素は全部、今ここに置いて行けよ」

 ジャージのポケットに手を突っ込む。習慣でそこにはボールが二つ収まっている。その片方を取り出して、千尋は五メートルぐらいの距離にいる丸井の正面に向けて軽く打った。持ち前の反射神経で、構えすら取っていなかった丸井が捕球した。小気味い音が響いてボールが返ってくる。千尋は三歩下がってもう一度、丸井に向けて返球した。ラリーの始まりだ、ということを理解した千尋と丸井の間に適切な距離が生まれる。
 攻めたコースなんて一つもない。
 ただ、リズミカルにお互いのインパクト音だけが繰り返される。
 何往復かするうちに、丸井の顔に表情らしいものが戻ってきたのを確かめて千尋は言葉を続けた。

「なぁ、ルイ。初めてって誰にでもあるだろ」
「まぁそうだけどよぃ」
「で? 何がそんなに不安なんだよ」

 その問いに、丸井の答えがぽつりぽつりと返ってくる。
 相手校の選手はデータ上、千尋たちよりもずっと弱いのは理解していること。
 県大会レギュラーとは言え、選抜戦を勝ち抜いてきた自分の実力を疑っているわけではないこと。
 桑原とのダブルスが噛み合わなかったらどうしよう、と思っていること。
 戦略的には丸井に集中砲火を浴びせた方が楽になる、と誰もが思っているだろうこと。
 そんな一つひとつを聞いて、それでも千尋はフォローという名の否定はしなかった。不安は自己否定に端を発している。否定の否定は肯定だと数学は説明するけれど、感情にその理屈は通用しない。自己否定を否定されても否定感しか覚えないのは自明だ。そんなことを理屈で説明されなければ理解出来ないほど学があるわけでもない。
 ただ。
 学がないからこそ千尋は確信している。
 人の感情は四則演算ではない。
 データ収集と分析を生業としている柳ですら予想を外すことがある、ということを千尋は知っている。
 完璧なんてどこにもない。完璧な人間なんてただの妄想だ。
 だから。
 千尋は丸井の不安を肯定も否定もせずにただそのまま聞いた。
 愚痴と相槌だけのラリーが三十を越えそうになった頃。丸井の顔に笑顔が戻ってきた。

「なぁ、ルイ。テニス、好きだろ」
「まぁなぃ」
「ルックとダブルス組むのも楽しいだろ」
「おう」
「じゃあさ、『楽しんで』こいよ。な、ルイ」

 お前なら勝てる、とかそういうことは言わなかった。言わなくても丸井にはもう伝わっている、という感覚がある。楽しいだけのテニスがしたいなら、そんなやつは立海を去るべきだ。それでも。勝負に勝ったうえでテニスを楽しむ、という概念が成り立たないようなやつも立海には必要ではない。勝つべき場面で勝ち、そしてそれでもなおテニスを楽しめるやつだけが王者と呼ばれるに相応しい。
 だから。
 千尋はラケットを握る力を少しだけ強くした。インパクト音が硬度を増す。若干の強打だ。それを、丸井が美しいフォームで吸収して空いている左手にボールを収めた。
 キワ。不意に丸井の双眸が真剣みを帯びる。

キワ、俺が『かっこいい三タテ』決めてきたら、そしたら、お前のこと『千尋』って呼んでもいいだろぃ」

 何をもって格好いいのか悪いのかを決めるのは定かではないけれど、それでも千尋は丸井の決意の意味を理解した。だから、敢えて言う。丸井が三タテと肯定的に向き合っているのなら、これ以上の叱咤激励は野暮というやつだろう。

「ルイ、『優勝旗持って帰ってきたら』俺もお前のこと『ブン太』って呼ぶけどいいよな」
「交渉成立、だなぃ」
「ルイ、わかってるか? 俺は――」
「ハードル上げたんだろぃ? でも、信じられるってのも満更でもねぇなぃ」

 絶対優勝する。全部三タテに決まってるだろぃ。
 そういう、選手だと信じた。信じたから立海四十五は丸井たちの名前をオーダーに書くことに誰も反対しなかった。ただ見守るだけの役割がつらいことを千尋と千代は去年の夏に嫌というほど経験した。その痛みに耐えてなお前を向いている千尋たちを周囲が黙って支えたことを知らないだなんて言わずに済むぐらいには分別も思慮もある。
 だから。

キワ、正直、まだ今も緊張はしてる。自分の試合が出来るのかって不安だけどよぃ」
「不安だけど?」
「絶対勝ってくるから、全国大会はお前らが『かっこいい三タテ』見せてくれよなぃ!」

 そこには一片の気遣いも遠慮も疑いもなくて、千尋は軽く目を瞠った。県大会デビューをする丸井と全国大会デビューをする千尋とは同じ立場だ、と言外に告げられて苦笑が漏れる。人の心配をしている場合か、と含められていると気付いたとき、千尋は本当に苦く笑うしか自分に出来ることがなかった。
 それでも。
 丸井たちが美しい三タテで優勝旗を持って帰ってくる。そうしたら、次は関東大会のレギュラー選抜戦だ。その熾烈な戦いを勝ち抜いて、そうしてレギュラーの座を勝ち取って、全国大会を勝って来いと言えるぐらいには丸井も千尋のことを信頼している。
 だから。三回戦の開始を待つ夕焼け色の一団が待つ、その場所まで戻ろうと丸井が言う。もう大丈夫だ、と表情が雄弁に物語っていた。今、ここにいるのは見慣れた立海の丸井ブン太で、試合が始まればまたそんな自分が霧散してしまうかもしれない。
 それでも、と千尋は思うのだ。
 丸井は一人ではない。千代が連れて行った桑原とのダブルスだ。
 桑原は特待生というプレッシャーに耐えてきた歴戦のつわものだったし、何より千代がガス抜きに連れ出した。ダブルスのペアとして逆のポジションの桑原のガス抜きを選んだ理由なら多分、千尋にも理解出来る。自分ではない相手の意見だからこそ、スムーズに受け入れられる。同じタイプの選手同士で励まし合うとどうしても劣等感や焦燥感を煽られてしまうのだろう。競い合う気持ちも生まれる。だから、敢えて千代は桑原を連れて行った。
 だから。
 桑原にぶつけたかもしれない不安と苛立ちを千尋にぶつけて、それで前を向けるのなら千尋は決して損な役割だったとは思わない。その点については千代も似たような感想を抱いているだろう。
 ただ。
 少しだけ心の片隅に引っかかったことがある。
 その点について話題に上らせると丸井は爽やかな笑顔で応じた。

「ルイ。俺、別に名前呼ばれんの嫌いじゃないけど」
「『キワ』って呼んでもいいの、俺たちだけだってお前が大阪で言ったときな、正直『やった!』って思ったんだよぃ」
「まぁ、先輩が付けたあだ名だし」
「けどさ、お前と忍足が名前で呼び合ってんの見てたら、そっちのが仲良さげだし、よく考えたら幸村君たちもお前のこと名前で呼んでるしって思っちまった」
「蓮二はまだ『キワ』だけどな」

 まぁ細かいことは気にすんなよぃ。
 言って丸井が若干の気恥ずかしさを表情に載せて、俺だってお前のこと名前で呼んでもいいだろ、と自分に言い聞かせるように言った。

「けど、何つーの? けじめっていうか、きっかけっていうか、区切り? みたいなの必要だろぃ」

 だから、「格好いい三タテ」を決めて帰ってきたら千尋のことを名前で呼びたいんだ、と言われて千尋はまた思う。万事器用そうに生きている丸井ですらこの不器用だ。立海には不器用しかいない。
 でも、それでも、自らもまた不器用なのだとしても、この仲間と別離したいだなんて思う日が来る未来が見えなくて千尋は自らがちゃんと立海の色をしているのだと知った。

「ルイ。俺は前衛じゃねーから前衛のアドバイスは出来ねーけどさ」
「後衛のアドバイス、も要らねぇよ。その代わり、試合が終わったら『後衛から見たダメ出し三十個』な」

 その言葉にもまた立海のテニス馬鹿精神を感じて、千尋は笑ってラケットを握り直した。
 多分、丸井は千代からも「前衛から見たダメ出し三十個」を受けるのだろう。千尋や三強たちのように小学生の頃からテニスをやっていた選手に追いつく為には、今から何倍の努力をするのかにかかっている。経験の差で諦められるやつはその程度だ。
 だから。

「ったく。うちの部にはテニス馬鹿しかいねーのか」
「お前が言えたことじゃねぇだろぃ」
「まぁ、それは一理ある」
「否定しろよ、テニス馬鹿」
「お前だって否定出来ねーくせに何言ってんだ」

 いいぜ。ダメ出し三十個、引き受けた。
 言うと丸井はパッと顔を輝かせて、そうしてくしゃりと表情を崩す。

「サンキュー、キワ
「お前が『かっこいい三タテ』決めるのが前提だけどな」
「決まんなかったらどうすんだよぃ」
「あり得ない仮定の話をするほどは暇じゃねーんだよ」

 信じていると言った。その信頼を立証する為には言葉では不足がありすぎる。
 人は言葉だけなら何とでも繕える、ということを千尋は最近学んだ。思ってもいないことを平然と言うやつもいるだろう。咄嗟に嘘を吐けないやつだっているだろう。相対したやつがどちらか、なんて初見で見抜こうとすると猜疑心に駆られて、結局自分が疲労するだけだ。
 だから、と千尋は思う。
 百聞は一見に如かず、という言葉を柳から学んだとき決めたのだ。
 百の言葉よりたった一つの行動が全てを示すのなら、千尋は信じる相手の為に何度だって一の奇跡を示そう。それはもしかしたら「言葉を発する」という行為かもしれないし、何も言わずにただ聞いているだけ、なのかもしれない。そんな多次元的なことを熟考して把握出来るほどには千尋の知性は高くない。
 馬鹿な自分を知って、それでもなお示すことの出来る何かがあるのなら、それは多分相手にとって誠実であることだけだ。正解を求めても見果てない。正しさは人の価値観で姿を変える。ならせめて正しくなくとも、美しくもなくとも、千尋千尋であることが答えなのだろう。
 傷付いても、転んでも、挫けても、折れても、それでもなお千尋千尋の道を求めることこそが唯一の真理だ。その結果の全てを受け止めることは多分百年生きても不可能だろう。それでも、人を傷付けながらでも否定しながらでも、人は生きていくしかない。
 だから。
 信じるのも疑うのも自分の心次第だというのなら、千尋は戦友ぐらいは信じたいと思う。信じることが丸井を傷付けることもあるかもしれない。それでも、そのうえでも丸井は千尋を信じてくれると信じられるから千尋は前を向いた。それが今の千尋に出来る丸井への精一杯の応援だ。

「ルイ。行こうぜ、全国」

 最上の高みまで土も付けないで走っていこう。千尋たちの夏には深紅の優勝旗がよく似合う。一番を追う戦いを三年間続けてみせよう。
 立海なら「当然の戦果」なのかもしれない。褒められることもないのかもしれない。
 それでも、千尋たちは知っている筈だ。自分たちがその手で勝ち取ったものの重みも、自分たちがそこに至るまでどう生きてきたのかも、千尋たちは必ず知っている筈だ。だから、自分に恥じないだけのテニスをしたい。自分が一番テニスのことを愛していると胸を張って言える自分でいたい。
 気が早ぇーんだよ、キワ。言って丸井が右手で拳を作って千尋の方に突き出してきた。そこに千尋の左手を同じように拳を握ってぶつける。
 丸井と桑原のダブルスがぴたりと噛み合って、初陣だなんてまるで信じられない八面六臂の活躍をするのが網膜の向こうに見えた気がした。
 神奈川県大会優勝、立海大学付属中学の声に平福が表彰を受けるのが予定調和だとしても。
 それでも、千尋は仲間たちの勝利を願ってやまない。