. All in All => 49th.

All in All

49th. 限界の向こう

 小学生の頃は特に感慨を覚えたこともない。日常の一部で、ごく自然な光景。無意味だと思わない程度には手ごたえがあって、爽快感もそこそこある。ただ、特別な瞬間ではなかった。
 柳蓮二と試合をして勝つ、というのはそういうことだった。
 なのに。

「ゲームセット、ウォンバイ常磐津。7-6」

 そのコールが聞こえた瞬間、常磐津千尋は誰に遠慮をするでもなく拳を天に向けて突き上げた。
 関東大会のレギュラー選抜戦の最終日。予選の結果、千尋は柳と同じリーグだった。選抜戦では安定の五位。予選の段階でもそれは変わらない。このまま五位でレギュラー入りをするのか、と半ば諦観のような気持ちがあったのは否定しないし、柳は千尋のプレイデータを網羅していたから苦戦を強いられた。幸村精市と戦うときほどではないけれど、最近の柳は地味ながら堅実な試合運びをする。ただ、千尋もまたカウンターパンチャーで堅実な試合は得意だ。どこに打っても絶対に返ってくるイメージ、に近いものを柳が生み出しても長期戦になればなるほど千尋には持久力というアドバンテージがある。最後まで諦めない気持ち、というやつは三強たちによって散々鍛えられた。ミスの一つひとつに悔やむのは試合の後でいい。目の前にある今とその先の勝利だけを必死に求めて、千尋は柳の攻撃を耐えた。
 カウンターパンチャー同士の試合はどうしたって華やかにはならない。
 攻めを急いだ方が先に潰れる。だから、お互いのミスを狙いながらもギリギリのコースの応酬だ。
 千尋の戦い方は小学生の頃と比べてもそれほど変わったつもりはない。立海の特待生として一年を過ごして、その結果、多少メンタルが強くなったとか駆け引きの手札が増えたとかそのレベルだ。柳の戦い方も一貫してデータ分析に基づく論理戦で、そういう意味では千尋と柳は小学生のままのプレイスタイルを貫いていると言えるだろう。
 それでも。
 負けた悔しさは選手を強くする。
 その言葉通りに柳は強くなった。勝ち負けは五分五分になって、去年の新人戦以降は特に勝ちにくい。お互いに欠点の洗い出しをして、それを克服して、そうしてお互いにまた強くなって次の欠点を洗い出す。その繰り返しに飽きただとか、苦痛を感じる、だとかそういう感情が芽生えないぐらいには千尋は十分にテニス馬鹿だった。
 そのテニス馬鹿がようやく納得の出来る勝利を手に入れた。
 三強、だなんて線を引いて特別視をして、絶対不動の存在として立海テニス部に君臨していた彼らの牙城を崩す。この選抜戦が始まってからでも、三強が敗北を喫するシーンは見られなくて、どうせ上位独占だろうと思われていた。
 その、柳に勝った。
 辛勝だという自覚はある。執念でもぎ取った無理やりの勝ちだったのも理解している。
 それでも。
 千尋は今、柳から一勝を得た。

キワ、いい試合だった」
「何だよ、お前さぁ、もうちょっと悔しがるとかないわけ」
「全力を尽くして負けた試合を恥じるのは愚行だ、と俺は思うが?」

 それともお前はこの試合で手を抜いていたのか。問われて千尋は苦笑を返す。そんなわけがない。何か言葉で表すのなら死闘。お互いの全てを懸けて戦った。そういうのは公式戦でやるべきで、部内戦でお互いがお互いを潰し合っても何にもならない。それでも、どんな勝負でも手を抜くようなやつは立海に必要ではない。それがたとえ部内戦や野良試合であろうとも。
 だから。

「やっと試合でお前に勝った」
「スコアが残る試合ではお前に負けるつもりはなかったのだがな」

 三強、と呼ぶには上位―――精市たちと差がついてしまったな。柳もまたそう言って苦笑を返してくる。美しく切り揃えらえた前髪の下で、柳の細い眦がいっそう細くなって千尋の奮闘を称えていた。

「まぁ、でも俺、得失点差でどうせまた五位通過だろうけど」
「それはこの後の佐用先輩の試合結果によるだろう」
「お前わかってる? 今、俺と四位タイなのサヨ先輩な。俺、サヨ先輩にスコアで勝ったこと今までないわけ」
「その佐用先輩の対戦相手が誰だかもう忘れたのか」

 そういうわけではない。
 隣のコートでこの後始まるのは今期の選抜戦、最後の試合だ。三年の特待生である佐用と三強の一人・真田弦一郎が対戦することになっている。真田は幸村以外には負けなしだ。予選リーグの戦績をもとに最終リーグは分配される。だから、真田と幸村が最終リーグで直接対決をすることはまずない。まずないが、スコア上幸村を上回ったことは未だかつて一度もない。立海のレギュラー選抜戦というのはそういう絶妙なバランスの上に成り立っていた。
 だから。真田は佐用に勝つだろう。現状四位の佐用だって成長した。三年の特待生としての立場や矜持だってあるだろう。それでも、そういう一切の事情に妥協を示さないのが真田弦一郎だ。相手が誰でも関係がない。どんな立場があろうとも一切を切り捨てる。その結果が真田の美しいスコアだ。千尋だってそのことをよく知っている。
 そうだとしても。

「まぁサヨ先輩、弦一郎に勝ったことないけどさ」
「番狂わせがないとも限らない、か?」
「そ。俺とお前みたいに、な」

 千尋が柳から一勝をもぎ取ったのと同じように佐用だって真田の美しいスコアを乱せるかもしれない。
 そう、言うと柳が一瞬だけ薄く両目を見開いて、そして言った。

「それでも、佐用先輩は弦一郎には勝てない」
「根拠は」
「お前だって知っているだろう。三強などと呼ばれても俺と弦一郎との差は歴然だ」

 三位、四位、五位。五分五分の勝率で三人が団子になっている千尋たちとは違う、と柳が自嘲気味に笑う。真田と幸村との間にも越えられない壁がある。それでも、真田の心が折れた瞬間なんて千尋は未だに一度も見たことがなかった。多分、これからも真田は走り続けるだろう。その背中の遠さを、柳の言葉が婉曲に伝える。

「もう一度聞く。キワ、お前は本当に佐用先輩が弦一郎に勝てると思っているのか」
「お前さぁ、何思ってんのかよくわかんねーけど、一回負けたぐらいでビビってんじゃねーよ」

 何が遠い背中だ。何が越えられない壁だ。何が三強だ。
 線を引いて、安全圏を確かめて引きこもって、その中で一敗の辛酸を舐めている。
 この一年で柳は十分すぎるほどのデータを得た筈だ。得たデータから十分すぎるほどの検証を積み重ねて、そうして理論は彼の勝利を約束した。技術的、身体的、精神的弱点とそれらがもらたすリスクを立海で一番よく理解しているのが柳だ。その柳が選抜戦とはいえ、試合で格下だと思っていた千尋に敗北した。何の不足があったのか、今、柳は必死に探している。次に千尋と戦ったときに同じ失敗を繰り返さない為に、今からもう彼は次へ走り出している。
 なのに。

「信じてやれよ、お前のこと」

 今、一年間、自分が積み重ねてきたものが柳の中で一瞬で霧散しそうになっているのは、幾ら千尋が馬鹿でも理解出来る。そのきっかけを作ったのが千尋自身だということもわかる。勝った千尋が負けた柳を慰める、だなんてあまりにも上から目線すぎて身の丈を考えろ、と言われるのもわかる。
 それでも。
 千尋は馬鹿だから言わずにはいられなかった。
 積み上げてきたデータと一緒に戦っている、柳蓮二のテニスが好きだ。
 その、積み上げてきたものに打ち勝ったという手ごたえをくれたのは間違いなく柳で、多分、次に同じように試合をしても易々とは勝てないだろう。運も勝因の一つだ。だから、千尋は柳に勝った自分を偽らないし、自らを下げてまで柳を持ち上げたりしない。
 それでも。

「サヨ先輩の練習メニュー作ったの、お前だろ」

 四十五人いる立海のテニス部員たちは希望すればいつでも柳に練習メニューを組んでもらえた。
 弱点と長所を書く欄を埋めるときは千尋たちも勝手に協力した。
 その、六人分の思いを込めた練習メニューを佐用も毎日こなしている。一年間のアドバンテージがあっても、佐用と真田の力量差は歴然としていた。勿論、真田が佐用を上回る方で、だ。
 そのことについて佐用が焦りを感じていることも、真田だって毎日練習していることも知っている。
 知っているから、敢えて言った。

「お前が作ってるメニューは『そこそこ楽しい』練習メニューじゃないだろ。必死でやらないとこなせないような、殺人的なやつだろ。それを作ったお前が限界感じてどーすんだよ」

 千尋をここまで引っ張ってきたのは千尋自身の自助努力だけだ、なんて言わないでいいぐらいには知性がある。柳がメニューを組んで、千尋自身もそれを吟味して、そうして実行した結果が先刻の勝利だ。
 柳のメニューは限界を超える土台を作ることが出来る。
 そのことを今、千尋が立証してみせたのに柳は俯こうとしている。
 単純で、純粋な矛盾を黙って飲み下せるだけの余裕なんて千尋にはない。

「俺は、諦めてねーんだよ。お前に一回勝って、ハイ満足です、なんて言えるかよ。いつでも勝てるようになって、それで次の世界に進まねーと全然面白くねーだろ」

 だから。多分。特待生である為に必要な素養があるとすれば、並々ならぬ向上心。それに尽きる。
 一般生の親が支払った学費を湯水のように使って、それに見合う才能である為の努力を出来るやつだけが特待生として残っていられる。やっかみなんて千尋の人生には数えきれないほどあった。この一年間だって、タダ飯食らってるやつはいいよな、と何回言われたか数えるだけ虚しいぐらいに言われ続けた。タダ飯だと思うのなら一度特待生の人生を味わってみろ、だとか羨ましいと本気で思っているのなら、どうしてお前も特待生にならなかったのか、だとか反駁したいことは色々ある。
 それでも、千尋はここにいる。
 自分の足で立って、今もまだ立海テニス部の特待生であり続けている。

「蓮二。もう一回言う。サヨ先輩の練習メニュー作ったの、お前だろ。お前は三強には勝てないようなメニューを先輩に押し付けたのかよ」
「いや、そんなことはない」

 そういう意味ではなかったんだ。
 言って柳が困惑を表情に載せた。
 多分、今、柳は自分の感情の処理に戸惑っている。
 沈着冷静でともすれば中学生だなんて信じられないほど理知的な柳でも感情を全て言葉にすることは出来ない。そう知って、千尋の中の柳蓮二像はまた新しい側面を記録した。
 人には限界がある、だなんて今どき小学生でも知っている。
 それでも。
 そうだとしても、その線引きを未来永劫遠ざける努力を出来たやつだけが本物になれる。
 絶対なんてどこにもない。あるとしたら、それは千尋の中の世界で、だけだろう。千尋本人が千尋に対して「絶対」を思ったときだけ、「絶対」になる。人間は自分自身を偽れない、だなんてうそぶいてそれでも千尋は知っているのだ。本気でその結果を求めるのなら、本能という名の自分が願うなら、自分を騙すのなんて他人を騙すよりずっと簡単だということを。
 そんな複雑で煩雑な思考が千尋と柳を襲っているのを見越して、だろうか。不意に千代由紀人(せんだい・ゆきと)の声が割って入ってくる。煽るでもなく、淡々と、それでも千代は千尋が思考の迷路に入る寸前で歯止めをかけた。

キワ、そういうご高説はいいから。サヨ先輩が何ゲーム取るかに小鉢賭ける?」
「ダイ、お前なぁ」
「難しいこと言ったってさ。サヨ先輩はサダには勝てないし、お前がレンに勝ったの覆らないし、レンが俺たちの面倒見てくれたってのも変わんないなら、内容で勝負するしかないだろ」

 サヨ先輩が勝っても負けても俺が暫定七位なのも変わんないし。
 言った千代の声音には確かに悔しさが滲んでいて、それでも千代は自らの力でレギュラーの座を手に入れたのを歓迎していた。千尋にしてもそうだ。四位になるか五位になるかは佐用の戦績にかかっている。
 それでも。
 千尋はもう関東大会に出場する権利を得たも同然だ。去年のようにフェンスの外で歯噛みすることはない。
 なら。

「じゃあせめてクラ先輩とカラ先輩も巻き込めよ」

 それぐらい、特待生というのは一蓮托生の存在だ。ライバルだから蹴落とす、という次元を超えて蹴落としても蹴落としても隣にいる、半ば相棒のような関係を築けないやつは去年のうちに学校を去っていった。今残っているのはもう同士と呼ぶしかない仲間だけだ。学年も部活も全部飛び越えて、自分たちの仲間だと胸を張って言える。仲間であると同時にライバルでもあるからお互いに依存したり迎合したりはしないけれど、それでも千尋にとっては本物の仲間だ。
 だから。
 この夕食の小鉢を賭けるゲームには役者の数が足りない。
 そう、含ませると今度は別の方から新しい声が聞こえた。

キワ、一年生も巻き込まないとフェアじゃないぜ」
「ルック。お前、ダイの方に乗ったのかよ」
キワだって乗ったじゃないか。幸村が言ってただろ? ダイの提案することは大体面白いんだって」

 言った。それは聞いたから千尋も記憶している。
 千代の提案はいつだって唐突で何の前置きもなく始まる。
 それでも、その提案の本質はいつだって仲間のことを思うところを起点にしていて、そういう意味において千代は千尋よりもずっと純粋なやつだと教えてくれる。言葉、声音、視線、表情、態度。その全てを無視して相手の本質が見えるからこそ千代は千代であるのだろう。
 千尋にはない才能だ。羨ましいか、と問われると実は少し返答に詰まる。
 大したやつだ、とは思うけれど千尋は千代になりたいと思ったことがない。
 それでも。
 千代と組んでダブルスを戦うとき、千尋は確かに思うのだ。こいつとならもっと上を目指せる、と。
 その感触を疑ったことはない。疑わないでいられるぐらい、千尋は千代と一緒に戦ってきた。
 自分にないものを持っているから憧れる、というパターンと自分の上位互換だから羨む、というパターンがあるのだとしたら、千代は前者で幸村が後者だ。
 だから。

「あいつらそういうの乗ってくるタイプか?」

 千代の双眸を輝かせる要素を千尋は幾つか知っている。
 逆に言えば曇らせる要素も幾つか知っているということで、一年生たちの小生意気な態度を見ているとやや懸念点が残るのもまた事実だ。
 溜息を吐く。夏の訪れを予感させるように時刻の割には日が高かった。

「乗せるのがお前の仕事だろ、キワ
「はぁ? ダーイーちゃーん、お前また皮算用で煽りふっかけてきたのかよ」
「皮算用じゃないだろ。俺は今、キワに言った。だったらもう結果なんて一つしかないじゃないか」

 あいつら――っていうか、最悪切原も入ってもいいけど。
 皆お前の人たらしにやられてるから、お前が言えばどうにかなるんじゃない。
 投げやりにも聞こえる千代の台詞を聞きながら、千尋もまた自らの才能の分岐について思い出していた。
 大阪・四天宝寺中学と合同合宿を行ったときから、だろうか。もっとずっと前からだろうか。
 千尋には人と人を繋ぐ才能がある、ということを何となく自覚しつつあった。
 人を輝かせる才能、とも言えるだろう。
 その才能を使え、と率直に言われて、否と拒むぐらいなら千尋は「人たらし」だなんて呼ばれることはなかった。千尋は基本的に来るものを拒まず、去るものも追わない。追わないけれど、それは諦観でも別離でも決別でもなくただ別の道を進んで行く背中をそっと見守るという行為に代わり、千尋の中には去ったやつとの思い出も残っている。多分、徳久脩(とくさ・しゅう)が今もそういう対象であるのがそれを証明していた。
 だから。

「鹿島が参加したら、その時点でお前らのデザートもらうけどいいよな」

 あの小生意気な後輩たちを言いくるめられるか、正直に言えば自信なんて少しもない。
 結果を出せなかった不甲斐ない特待生だったのは事実だし、その後の新人戦なんて小学生の鹿島満(かしま・みつる)たちは見てもいないだろう。中学生の秋の大会なんてその程度の位置づけだ。
 それでも。予選リーグから始まったこの五日間の選抜戦の中で、特待生――千尋たちが順当に勝っていくのを見ていた筈だ。勝算が全くないわけではない。
 ただ、千尋が自ら上げたハードルの高さは一応駆け引きの相手である千代にも伝わったのだろう。

「まぁ、鹿島なら仕方ない。だろ、ルック」
「よかったな、キワ。今日のデザート、フルーツ杏仁だったぞ」

 千代が許容を示す。示したのに次の瞬間、ジャッカル桑原の悪意ないひと言が千代を後方から全力でぶん殴った。
 フルーツ杏仁は月に一度しか出てこない献立で、どちらかと言えば千尋も楽しみにしている。ただ、それ以上にフルーツ杏仁に特別な思い入れがあるやつがいて、そいつから月に一度の楽しみを取り上げるのがどれぐらいの罪悪か、なんて誰かから説明されなくても千尋が一番よく理解している。
 だから。
 桑原に賭けの中断を即時申し入れた。敗北の悔しさを噛みしめていた筈の柳がふっと笑い声を漏らす。

「あっ、それ無理。ダイからフルーツ杏仁取った時点でこいつポンコツ化するの目に見えてるからなし。今の話なし」
「……別に、お前にかばってもらわなくてもいい」
「食いたいんだろ、フルーツ杏仁」
「まぁ、月一の楽しみだし、食べたくないわけないだろ」
「じゃあ、次に三色団子が出たらそれくれよ」
キワはそれでいいわけ」
「俺はお前が約束守ってくれるなら別になんでもいーし」
「あ、そ」
「ってことで交渉成立したし、行ってくるわ」

 千尋に借りを作りたくない、と顔中で示す千代に代替案を告げると特に喜ぶでもなく、悔しがるでも、ありがたがるでもなく、千代が拗ねた顔で他所を向いた。  
 この仕草が何を意味するのか、なんて説明されなければ理解出来ないやつは一生レギュラーになんてなれないだろう。そのぐらい、千尋と千代のやり取りは立海の日常風景の一部と化した。
 隣のコートでウォーミングアップが始まる。千尋に残された交渉の時間がそう長くないことを察して、一年生の塊の中へ飛び込んで行こうとする千尋の背を柳の一言が瞬間、留めた。

キワ、俺と精市も賭けていいな?」
「じゃあ明日の昼飯の何か、な」

 詳細は試合を見ながら決めればいいだろう。
 そんなことを算段しつつ千尋は駆けた。小生意気な一年生たちを何と言って口説こうかと真剣に考える。
 さっきの試合は見てただろ?
 二回連続予選リーグで落ちた感想は?
 どれも千代に任せるべき煽り文句で千尋はあまり得意ではない。
 なら何を言おう。柳が集めたプレイスタイルの話だろうか。今、お前たちならどう処理する、とかそういうことなら千尋にだって分があるかもしれない。
 そんなことをつらつら考えながら目的の顔を探す。
 いた。切原赤也だ。切原の周囲に鹿島たち特待生三名の顔もある。
 その四つの顔のどれ一つ、顔色を失わず、寧ろ奮起の表情をしているのを両目で捉えて千尋はやっと優しい先輩の顔が出来る。そう思った。そうだ、その顔だ。負けて悔しがるのは当然だ。勝てない相手がいるのも、まぁ当然の一部かもしれない。
 それでも。
 負けても、くさらずに自分に勝った相手の応援を出来るやつはもっとずっと先まで走っていける、それだけの器を持っているともうすぐ十四になる千尋は知っている。
 一敗の重みを知って、それでもなお前に進むものを立海は決して拒みはしない。
 寧ろ歓迎しよう。
 だから。

「鹿島ァ、切原ァ」

 お前らそんなとこで見てたらつまんねーだろ。四人ともこっち来い。
 結局そんな言い方しか出来なかった。出来なかったのに、一年生の四人は互いに顔を見合わせて、視線で何かを打ち合わせて、そうしてきっちり十七秒後に「はい!」が唱和した。
 六面あるテニスコートの中央の一面。そこに向かって一年生たちを連れて歩くと反対側から三年の特待生たちと桑原がやってくる。
 そして、自身の試合を全て終え、あとは見守るしかない千尋のスコアを懸けた選抜戦最後の試合が始まる。
 テニス馬鹿はテニスさえあればいつかは相互理解を得られる。だなんていうのはただの理想論で、受け入れられないやつだってこの世にはきっとたくさんいるだろう。
 それでも、同じ学校の同じ特待生として選ばれた数少ない仲間なら、快く応援出来る相手の方がいい。
 ただそれだけのことだから、千尋は鹿島の侮蔑が許せなかった。それでも、そういう鹿島でも身の丈を知って、敵わない相手に勝つ努力を積み重ねて、それでもなお千尋をもいつかは追い抜くと言うのなら。
 それはもう特待生の後輩として必要な条件を満たしている。
 一年前の自分たちが生意気な後輩だったように、倉吉たちが頼れる先輩に育って行ったように。
 人は皆少しずつ変わっていくものだ。
 だから。

「ゲームセット、ウォンバイ真田。7-5」

 そのコールが聞こえた瞬間の感慨についても、千尋はきっと忘れることがないだろう。
 空の端は赤みを帯びているが、頭上にはまだはっきりとした青が残っている。
 今年もまた熱戦が始まろうとしていた。