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All in All

50th. Virtue of life

 常磐津千尋の学力が半分より前の成績を保つようになって約一年。
 三強の家を持ち回りで巡っていたのは二学期までで、三学期が始まる頃にはごく自然に丸井ブン太たちの家もリストに加わっていた。特待生の一人であるジャッカル桑原と丸井が同じ小学校の卒業生だった、というのは二月頃に話題になったけれど、お互い面識がなかった時点で千尋の理解を軽く超越する。千尋の出身校なんて一学年二クラスだから、クラス替えの楽しみなんて架空の存在だった。幸い悪質ないじめや疎外感に襲われたことはないけれど、もしも同級生たちと本当に対立していたら、多分千尋は学校に行くのをやめただろう。そのぐらい、千尋の世間は狭かった。
 そんな、果てしのないすれ違いを経て桑原と丸井は今では立海のダブルスのペアの一組だ。
 人生の複雑さのうち、幸運の一面を見たようで、千尋は自分のことでもないのに無性に誇らしい気持ちになった。仲間だと信じたやつが新しい仲間と分かり合う過程、と言えばいいのだろうか。馬鹿の千尋には適切な比喩表現が思いつかないけれど、とにかく。他人だった筈の桑原と丸井が一緒に試験勉強をしている、という光景がもうそれだけで千尋の人生の豊かさを象徴しているようだった。

「それで? キワ君。人生の美しさを語るのは来週でも間に合いますが、その問題の解法を今日中に理解出来なければキミは関東大会の出場権を返上する、というのは理解出来ていますね?」

 柳生比呂士が口にしたのはただの事実確認で、それ以上でも以下でもない。
 声音はいつも通りだし、怒気はどこにもない。なのに。千尋は内心どきりとした。多分、自分自身でも現実逃避に気付いていたからだろう。目の前の物理の問題は適切に公式を使うだけだ。わかっている。わかっているけれど、どの数字をどこに入れるのかが一切理解出来ない。
 柳生にはそれを見抜かれている。止まったシャープペンシルの先が問題文の要素の幾つかに下線を引いたままで動き始めないのだから、まぁばれるのは時間の問題だ。千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)は去年、三強から勉強の手ほどきを受けた際に、文章を順に追って必要だと思った箇所には下線を引くことを習慣づけられている。
 その、習慣で問題文の中で解答に必要だと思ったところには下線を引いた。
 そこまでは誰かの力を借りなくても出来る。ただ、それを必要に応じて分配して構築するところまではまだ千尋の学力では至難の業だ。
 そこまでを見抜いて、公式の意味を反芻して、結局のところ現実逃避の旅に出ていた千尋は痛い腹を探られた気分になる。本当に行き詰っているとき、三強たちは何がわからないのかを確認してくる、というのが定番のパターンだったけれど、勉強を教わる側の人数が増えたこともあって五月の中間考査の勉強会辺りから、千尋の担当は柳生で半ば固定化していた。
 その、柳生が感情の起伏を感じさせない声で言う。
 千尋は大きな溜息を吐き出した。

「ヤギ、目が笑ってない。マジで怖い」
「予選リーグで0-6で負けた恨みは残っているんです」

 もう少しポイントを取れると思っていたのに、と言外にあって千尋は柳生の平坦の理由を知った。
 柳生との試合で手を抜いたのか、と言われるとそれには概ね否と答えられる。だからこそ、千尋は1ゲームも彼に譲らなかったのだけれど、その理由としては更に明確なものがあった。

「だって、お前さぁ、わっかりやすいんだもん」
「なっ!」
「身長とか体格とか諸々似てるってのはわかるけどよ、ダイのコピーはアウトだろ」

 柳生のプレイスタイルはサーブ&ボレーヤーだ。丸井も同じサーブ&ボレーヤーだけれど、二人の戦法は大きく異なる。コート前方に出て、俊敏性を生かしたプレーをするのが丸井で、柳生は長身を生かした後方からの攻撃を得意としている。立海二年生のうち戦力として換算されるサーブ&ボレーヤーは三人だ。千代、丸井、柳生。柳生が手本としているのが誰か、なんていうのは一度対戦すると多分誰でもすぐにわかるだろう。
 そのぐらい、柳生の戦法は千代のものと類似していた。
 コピー、という表現が少し余計な攻撃力を持っている、というのは一応理解していた。理解していたけれど敢えて言う。コートの外でもテニスの話題なら千尋の駆け引きは成立した。
 千尋のスイッチが試験勉強からテニスの方へシフトしたことに周囲が気付く。
 気付くと同時に煽りを速射してきたやつがいる。誰か、なんて尋ねるまでもない。千代だ。
 
「えっ? 何、ヤギ、俺に憧れてるわけ?」
「ちちちちち、違います! ダイ君のプレイスタイルは非常に参考にしていますが! 別に、真似たとか、そういうのはありません!」

 可愛いとこあるんだ。言って千代は柳生の否定を額面通りに受け取らない。
 必死の弁解を続けようとする柳生は残りの仲間が全員、千代の方に乗ったことにまだ気付いていない。気付いていたらこんな勝ち目のない勝負の舞台からはさっさと降りていただろう。
 もちろん、千尋も千代の方に乗った。

「じゃあ無意識だ。蓮二、数字で教えてやれよ」
「そうだな。柳生の試合運びはダイのものと非常に類似している」
 
 返球のコース、バックとフォアの使い分け方、ポジショニング。どれをとってもダイのデータと近似する。
 言った柳の口角が僅か吊り上がっていたことに、柳生以外の全員は気付いている。
 それでも。
 柳生のことを馬鹿にしているやつはどこにもいない。自分のプレイスタイルを最初から持っているやつは天才だ。その才能を磨きさえすればどこまででも勝ち進んでいけるだろう。それでも。どんなスポーツでも最初は模倣から始まる。こうありたい、という目標点を見つけてその理想と現実との差異を埋める。その段階を飛ばそうとするやつもいるけれど、そういうやつは大抵長続きしない。
 だから。
 誰かのプレイスタイルを真似るのは決して恥ずかしいことでも、間違ったことでもない。
 千尋自身、テニスを始めたばかりの頃は憧れのプロ選手のスタイルを真似た。子どもの遊びレベルだったし、基礎が出来ていないのに実戦用のテクニックを真似るなんておこがましい、とコーチに何度も叱られた。それでも、千尋は憧れのプレーから離れられなかったから、今、自分のスタイルを確立している。
 夜遅くまで起きていることは許されなかったから、四大大会はいつも録画だった。その日見ていたのも昨晩録画したものだ。その年のウィンブルドンのセンターコート。何度でも繰り返されるデュースアゲインのコール。先に二ポイントを連取すれば晴れてこの大会の覇者だ。オールラウンダーとカウンターパンチャーとの試合。
 あの試合がなければ今頃はオールラウンダーを志しでいただろう。カウンターパンチャーを目指す、と決めたのはその年のことだ。そのぐらい千尋の中にも憧れであると同時に理想像である選手がいる。残念なことにその選手は数年後に現役を引退してしまったから、千尋が彼の試合を見ることはもうない。
 なくても、千尋は覚えている。自分の目指したものとその美しさを千尋は一生忘れることがないだろう。
 柳生の父親が医者だ、というのは去年のいつかに聞いた。
 なるほど、立海に進学するに値する生粋のお坊ちゃんだ、なんて思ったけれど、彼と交流をするうちに三強に似た雰囲気を持っていることに気付く。父親の付き合い程度にテニスをしたことはある、と言っていただけあって彼の成長速度は著しいものがあった。

「なぁヤギ。カウンターパンチャーにも二種類いるだろ」

 努力と成長は比例しない。今日頑張ったら明日から強くなる、だなんて単純な仕組みではないことを千尋も一応経験として理解していた。それでも、今日頑張らなければいつかの未来に強くなることは絶対にあり得ない。
 だから。
 気恥ずかしげに眼鏡のレンズを拭くことで感情を割り切ろうとしている柳生に千尋は声をかけた。

「速戦タイプと持久戦タイプ、ですか?」
「正解。じゃあ、ここに四人カウンターパンチャーがいます。さて、四人はそれぞれどの種類でしょうか」

 質問に答えが返ってきた。ということはまだ柳生の気持ちはここにいる。
 その証拠に。

「キミたちは全員微妙にタイプの違う持久戦型でしょう」

 そういう意味ではキミたちは四人ともオールラウンダーとそれほど違いはない、とワタシは思っています。
 眼鏡をかけ直して、柳生は真っ直ぐにそう言った。
 圧倒的な実力でミスなく淡々と詰将棋でもしているかのような幸村精市。相手のデータを根拠に苦手コースを徹底的に狙う柳蓮二。フィジカルというアドバンテージで驚異的な守備範囲を誇る桑原。そして、持ち前の持久力を惜しみもなく使い、試合の流れで相手を揺さぶって潰す千尋
 まるで教科書の音読でもするかのように柳生は四人の特徴を挙げた。

「この中ではキワ君のプレイスタイルがいちばんえぐいでしょうね」
キワ。お前、えぐいってさ」

 最後に付け足された悪辣な冗談はこの顔ぶれの中では既に定型句と化している。
 千尋のプレイスタイルは相手のプライドを著しく傷付ける。えぐくない、だなんて思ってはいなかったけれど、否定するところまでが様式美だ。千尋は元の話題から徐々に脱線していっているのを感じながらも、振られた話題には乗った。

「えぐいえぐい言うな! 俺は別にスポーツマンシップに対して恥じなきゃなんねー試合はしてねーだろうが!」
「そうは言うけどね、千尋。お前の試合は十分えぐいよ」
「本筋から離れてる! ヤギの話! でも一応聞く! 何がどうえぐいんだ!」
「相手選手の絶望の濃度が100%超えてるところかな?」
「おーまーえーがー言うな!」

 どこに打っても絶対に返されるイメージが強すぎて相手選手が感覚器官を遮蔽するレベルの幸村にだけは言われたくない、と悪辣な冗談に変えながら抗議すると「俺は別にお前みたいに計算でやってるわけじゃないから不可抗力ってやつだろ」というぐうの音も出ない正論で返り討ちにされた。
 溜息を吐くと、いち早く本筋に戻ったらしい千代からの追撃が来る。
  
「それで? 墓穴掘りたかったわけじゃないだろ、キワ
「いや、だから」
「ダイ君の真似から始まっても、その先は決して同じにはならない、と言いたかったんでしょう、キワ君」
「ヤギ、お前、結構いい性格になってきたな」

 わかっていたのなら、千尋のプレイスタイルに対する感情論をぶつける必要はなかった筈だ。
 そう反論すると柳生が爽やかな笑顔のまま言う。

「ですから、言っているでしょう? 予選リーグで0-6で負けた恨みは残っている、と」

 それとも、そんなことすら記憶出来ないほど君は集中力を欠いているのですか。
 問われて、千尋は苦笑する。
 覚えている。覚えているとも。6ゲームの間で千尋が柳生にポイントを許したのは十に満たない。千代の戦法なら千尋は熟知していたから、柳生と対戦して勝つのはそれほど難しいことではなかった。
 なのに。
 その試合の内容が柳生の矜持を傷付けた。部内戦で、本当の本当に対戦相手を潰そうと思って戦うのは三強が相手のときだけだ。そのぐらいの腹積もりがないと一矢報いることすら出来ない。
 それ以外の部内戦では千尋はより良いスコアを望むだけで、相手を潰そうとはしない。
 その、暗黙の手加減が気に入らない、と柳生は言っているのだ。

「あー、もー、お前って割と面倒臭いやつだったんだな」
「当然です。ワタシもキミたちと同じ神経質で過去を根に持つA型男子ですから」
「紳士的じゃなくてもいいのかよ」
「十分、紳士的ですが?」
「どこがだよ」
「決闘を申し込まれたので受けて立った。それだけのことですよ」

 違いますか? 侮りを受けて甘んじろと言えるほど、君は偉いのですか。
 その返答に千尋は一瞬、言葉を失って、そうして結局は苦笑を浮かべる。

「完全試合の方がよかったのかよ」
「キミが本気なら」
「だったら、次はそうする」
「約束ですよ?」

 わかった。わかったから、静かに怒るのやめてくれよ。
 そう言うと柳生は「最初から怒ってなどいませんよ」と晴れやかな笑顔を見せた。いや、怒っていただろう。という反駁を口にすると更に虎の尾を踏むのだろう、というのが目に見えていたから、千尋は柳生への追及を諦めて溜息を零す。
 そして。

「ブン太とハルもそっちに乗るんだろ」
「当然だろぃ」
「まぁ、俺はお前さんとまぁまぁの試合をするんも嫌いじゃないがの」
「ハルらしい答えだな」

 皮肉を込めて返したのに仁王雅治はシャープペンシルを二本の指で器用にくるりと回して、笑っている。

「それで? お前さんはその問題、解けそうなんかい?」

 逆に質問を返されて、今、自分が置かれている状況の根源、というやつを思い出した千尋の眉間に皺が寄る。仁王のシャープペンシルの頭がその皺をつつく。
 お前さんにそういう顔は似合わんぜ。言われて溜息を吐いて、そうして仁王の性格を思い出した千尋は「そろそろギブアップしたい」と現在の心境を吐露する。どう考えてもこれ以上一人で問題の解決を図るのは無為だ。使う公式は分かっているから余白に書き出した。必要だと思う要素にも線を引いた。それでも、何をどう組み合わせるかは思いつかないし、多分、このままこうしていても解決する見込みなんてない。
 仁王もそれは理解していたのだろう。
 思ってもいなかった助け船を出してくれた。

「直球じゃのう。でもまぁ、努力はした形跡もあるし、教えてやったらどうじゃ柳生センセ」
「おや、仁王君。ワタシは別に最初からキワ君の手ほどきをするのは吝かではありませんよ?」

 眼鏡のフレームを見た目よりはずっと節くれだった柳生の指が持ち上げる。運動部の生徒というのは概ね皆こういうギャップを持っていた。端正な顔をしている幸村も、日本人形のような柳も、見た目だけは繊細そうな千代も、皆指はごつごつとしたスポーツ選手の手だ。
 そんなことを今更確認しながら、千尋は成り行きを見守る。
 神様仏様仁王様。その調子で柳生を口説き落としてくれ、と思っていたのに一筋縄ではいかないのが仁王雅治だ。彼は悪戯げに微笑むとまた燃料を投下してしまう。

「ちっとばかし意趣返しをしとうなっただけで?」
「短絡的な表現をしないでください。まるでワタシが悪人のように聞こえます」

 でしょう、キワ君。
 確認する相手を間違えている。というか、これは新手の嫌がらせか、と思いながら投げやりに返答すると幸村が堪えきれないと言った表情で声を上げて笑った。

「聞こえるっていうか事実っていうか」
千尋。また墓穴掘ってるよ」
「るっせ。根が素直に出来てんだよ」

 素直って自分で言っちゃ駄目だろ。
 言って幸村はクスクスと笑っている。お前を見てると本当に飽きないね、という言葉が称賛なのか軽んじられているのかは定かではないけれど、それでも、まぁ何か微笑ましいものを観察するという雰囲気になっているこの場の空気は決して嫌いではない。
 だから、今のままでもよかったのに国語の問題集を見つめたまま、しれっと煽り文句を放ってきた相棒の本音がどこにあるのかはわからない。彼を置いて盛り上がっているのが気に入らなかったのかもしれないし、仁王の煽りよりもっと先鋭的な煽りが出来る、と示したかっただけなのかもしれない。
 それでも。相棒が煽るのならそれに乗っていくのが千尋の基本的なスタイルだ。

「まぁ世間じゃお前みたいなの馬鹿正直で馬鹿の括りだけど」
「『定員』の読み仮名に『てんいん』って書くやつにだけは言われたくねーよ!」
「てんいん、だろ。どう考えても皆てんいんって発音してるのに今更字面だけちゃんとしましょうって意味わかんない」
「じゃお前『体育館』の読み仮名は『たいっかん』にしろよ。絶対しろよ」
キワ、お前、馬鹿? あ、馬鹿なんだけど更に馬鹿?」
「何が」
「ケースバイケースって知らない? 体育館をたいっかんは流石に口語的表現すぎて見苦しいんだけど」
「だーかーらー!」

 お前が言うなの見本市か、とツッコミそうになるのを必死に自重しながら千尋は馬鹿正直なコメントを紡ごうと必死に頭を回転させた。
 てんいんが良くてたいっかんが駄目な理由が千尋には一切理解出来ない。ならふんいきは間違いなくセーフか、なんて次の具体例を探していると相棒はこの話題に飽きたらしい。
 彼の目付である真田弦一郎を掴まえて、勉強会の一時中断を直訴している。
 勉強会なら事実上、中断しているのに敢えて明確に休憩を求める時点で千代由紀人というやつの思いやりが複雑であることを物語っていた。

「サダ、そろそろ休憩にしないと馬鹿が行き詰って迷走してるけど」
「ダーイーちゃーん! お前さぁ、俺をだしに使うのやめろよな」
「何。キワは休みたくないわけ? じゃあ一人で解けもしない物理と戦ってたら? 俺とルックとルイは休むけど」
「俺だって休みたいに決まってるだろ! わかってるだろ! じゃなくて!」

 この不毛に繰り返されるやり取りのことを煩わしいと思ったことがないか、と尋ねられるとその問いには即答で否と答えられる。煩わしいと思っている。でも、と千尋は思うのだ。煩わしいと同時に愛しくも思っている。こんな複雑な感情を小学生の千尋は知らなかった。
 千代が煽る度、千尋が吼える。
 それを周囲が微笑ましく見守っている、という空気感は決して嫌いではない。自分がここにいてもいい、という安心感がある。無茶をしても受け止めてくれるやつがいる、というのはそれだけで十分に幸せなことだと教えてくれた。

「まーまー、千尋。お前、コーラ飲むだろぃ?」
「飲むけど」
「じゃあちょっと持ってくるからそこで待ってろぃ」

 コーラ以外がいいやつは自己申告しろぃ。丸井の声に方々から炭酸飲料の名前だの、お茶だの水だの要求が飛んできて、もう少し気を遣った申告の仕方をしろ、と千尋は思ったのだけれど聖徳太子だったのだろうか。丸井は全員の要求を漏れなく聞き分けて確認をしていた。
 そのまま階下に降りてしばらくすると人数分のペットボトルが入ったビニール袋を持った丸井が再び現れる。
 500mlのペットボトルが一人ずつ順番に配られる。千尋にはコーラ、千代にはカルピス、真田には緑茶、といった調子で次から次へと希望の飲料が出てくる。受け取ったコーラは気持ちよく冷えていて、こんなにたくさんの種類の飲料を冷蔵庫に備蓄しておくのは大変だったのではないか、と思って尋ねてみると丸井はからっと笑った。

「勉強会する家のやつには柳が飲み物リスト配ってくれるから、そんなに大変でもねぇよぃ」

 な、仁王んちもそうだったろ。
 言われた仁王が「ピヨッ」という謎の擬音を残して炭酸水のペットボトルを開栓した。二酸化炭素が漏れる特有の音がして、続けて遠くにしゅわしゅわと鳴っている。
 柳が、飲み物リストを配っている?
 そんな話を聞いたのは今日が初めてだ。
 何せ、千尋と千代と桑原は特待生待遇でホストの役割は振られない。いつでもゲストだから休憩の時間に出てくる飲み物をどうやって調達しているのか、なんて考えたことがなかった。

「へっ?」
「レン、そんな準備もしてるんだ」
「全員一律にブレンド茶を配る、と言ったら思いつく限りの不平を零していたのは誰だ」
「俺です、お気遣いありがとうございました」

 主に趣味の延長だから気を遣わずともいい。
 と柳の声が聞こえて、こいつに予想出来ないデータなんてあるのだろうか、と一瞬考えてしまう。
 考えた結果、千尋は一つの結論に帰着した。
 先日のレギュラー選抜戦で柳に辛勝したのは他ならない千尋だ。つまり、あのとき柳は「返ってくる場所がわかっているのに打ち返せない」という状況を味わっていたのだろう。返球のコースも球種もわかっていて、打ち返せない、というのがどれだけの屈辱かは千尋もよく理解している。だからこそ理解した。あの日、千尋は柳のデータを僅かでも超越したのだ。
 人間は成長する生き物だ。昨日の自分と同じ自分はどこを探しても絶対にいない。その証明をしてみせた自分と、それを記録して次を狙ってくる戦友の闘志とを並べて置いた。そこには千尋の好きなテニスの世界があって、何だか無性に嬉しくなる。

「どうした、キワ。気持ちの悪い笑い方をしているが」
「気持ち悪かねーだろ」
千尋、流石の俺でもそれは、ちょっと、な」
「弦一郎まで何言ってんだよ」
「まぁいいんじゃない。そのぐらいの余裕があれば物理の問題は解けるよ、ね、千尋
「……お見苦しいものを見せてしまい、申し訳ございません」
千尋、『大変』が抜けているよ」
「精市、お前なぁ」

 人が下手に出てりゃふざけやがって、と返すと部屋の中にどっと笑いが湧く。
 何だ、今の会話のどこに笑いどころがあったんだ、ときょとんとしていると千代が千尋の背中を勢いよく叩く。あまりの勢いに前につんのめって口に含んだコーラを噴出しそうになった。

「ダイ、てめー、覚えてろよ」
「覚えないし、何も後悔しないけど?」

 それよりも、その問題さっさと解けよ。それとも関東大会、本当に辞退したいのかよ。
 一人でダブルスなんて器用な真似が出来るわけもない、と千代が小さな愚痴を零す。
 それもそうか、なんて一人で納得して、ペットボトルの中に残っていたコーラを飲み干した。
 試験勉強はまだもう一時間残っている。それでも、今なら柳生の悔しさから来る厳しさも受け止められるような気がした。
 物理公式の意味は今もわからないし、本当に理解する日なんていうのは千尋の人生にはやって来ないだろう。
 それでも。
 勉強の意味がわからなくても、投げ出すことは出来ないし背負っていくしかない。
 だから、せめてその運命を一緒に背負う仲間がいることに心強さを感じているぐらいは許されるだろう。
 期末考査が始まるまで残り二日。半分より前を維持する千尋の戦いはまだ続いている。