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All in All

51st. 安い挑発

 東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬、栃木、茨城に山梨。都県大会を勝ち抜いた学校がそれぞれ出場してくる。王者立海の名に相応しい戦いが出来るかどうか、という問題の前で常磐津千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)はまたしても完全にアウェー感に襲われていた。
 関東大会というのは関東地方の強豪校がひしめく熱狂の渦だ。
 去年、スコアブックに一心に記録を書き留めた対戦相手は概ね皆卒業してしまって、今年の他校レギュラーに見覚えのある選手はいない。柳蓮二のデータからすると現在の立海準レギュラーよりなお劣る、という評価になった一回戦の対戦校の選手たちの眼差しに侮りはない。一年生のレギュラーが三人もいる、と侮っていた立海が全国大会を制したのが影響しているのだろう。三強、千尋、千代。二年生のレギュラーが半数以上を占めていても、それは紛れもなく「立海のレギュラー」なのだと今年は認識されていた。
 遠巻きに、あれが立海黄金ペアだ、なんて指さされる度に千尋は否が応でも千尋自身のデータもまた収集分析対策されていることを実感する。本当に自分たちで勝てるのか。いや、勝つしかないし、負ける為に来たわけではないから結論から言えば勝つのだけれど、不安が爆発的に増殖する。
 関東大会はダブルスの二試合から始まる。立海のオーダーは基本的に流動的だ。千尋と千代はダブルスに放り込まれることの方が大半だけれど、平福が必要だと思えば真田弦一郎と幸村精市がダブルスを組んで、千尋たちはシングルス、という采配も事実上あり得る。
 あり得るのだけれど。

「いや、部長。なんで俺と弦一郎でダブルスなんすか」

 オーダー表の一番上。D2の枠に千尋と真田の名前が並んでいる。
 その下の段であるD1の枠にあるのは千代と幸村の名前で、どうやら正レギュラーとしてのデビュー戦で去年の愚を繰り返すのではないか、と危惧されていることを察した。
 察したからこそ、千尋は立腹する。
 千代と二人で戦える。緊張していない、だなんて言うのは無駄だから言わないけれど、それでもこの適切な緊張感と臨場感に負けてしまわないぐらいには千尋はメンタルの面でも成長した筈だ。それを認められていないようで、どこか歯がゆさを感じる。

「そんなこと言い出したら俺だってセイとダブルス、組みたくないんだけど」
「お言葉だけど、由紀人。お前の方が俺のお荷物なのわかってるのかい」

 レギュラー選抜戦、最下位通過だったの忘れたわけじゃないだろ。
 千尋と同様に不満を漏らす千代に対しては即座に幸村から毒が返る。では千尋も真田からお小言を受けるのか、と身構えたけれどその瞬間はなかなかやってこない。
 どころか。

千尋、俺が相手では不足か」

 しゅんと萎れた顔をした真田が千尋を不安げな眼差しで見下ろしていた。その光景の意外さに千尋は瞬間、言葉を失う。お前だって俺とダブルス組むの、嫌だろ、だなんて言える空気はどこにもない。

「えっ?」
「オールラウンダーというのは実に華のないプレイスタイルだからな。ダブルスではただの邪魔にしかならんのならば、致し方あるまい」
「えっ? 弦一郎、いや、あの、俺、あの」

 不服を陳情したのは他ならない千尋自身だ。つまり、真田と組むことを先に否定したのは千尋の方で、そういう風に受け取られても一切文句が言えない。そんなつもりはなかった、と言ったところで千尋が真田を否定した事実は消えないし、真田がそれに対して真実、心を痛めているのなら千尋のどんな謝辞も意味を成さないだろう。
 ただ。

「部長、千尋が一対二で勝利を収めてくる、と言っています。俺はコートの脇で控えたいと思いますが」

 問題ないでしょうか。
 真顔で平福にそう確認するのを聞いて、千尋は完全に真田にしてやられた、と思った。
 自分の浅慮で真田を傷付けたのかと思った。ともすれば千尋以上の馬鹿正直である真田が小芝居をするだなんて思ってもみなかった、だなんて言い訳をするのがどれだけの敗北感を伴っているのか簡単に想像出来たから千尋は言葉を飲み込むしかない。
 平福幸村真田劇場だ。
 完全に、千尋の反応は想定の範囲内に収まっていて、三人の手のひらの上で踊っている。
 溜息しか出てこない。折角の関東大会デビュー戦なのに何なのだこの敗北感は。
 試合の内容如何ですらない。試合をしてもいないのに叱責を受けている。
 この展開で溜息以外が出てくるやつがいるとしたら、多分、それは去年、アメリカに渡っていった徳久脩(とくさ・しゅう)ぐらいのものだろう。
 だから。

「出来るのか、常磐津

 真田の妄言を真顔で受け止めた平福に、そう問われた瞬間千尋は直角に身を折った。
 凡そ一般的な感性の範疇にいる千尋にはそうする以外の答えなんて最初からどこにもない。

「すみませんでした」

 最敬礼でその言葉を紡ぐと、頭上からは淡々とした声が降ってくる。
 謝ってそれで済まされるのは一年生の間だけだ。二年生になったのなら後輩たちへの示しもある。自ら愚を犯したのを理解して、過ちを詫びるのであればその次の答えも当然求められている。

「何に対する謝罪だ」
「部長の配慮を無視したうえにペアを組む相手への敬意が足りてませんでした」
「それで?」
「真田と組ませてください」

 お願いします。後輩たちが若干どよめきつつ見守っているのを知っていて、それでも千尋は頭を下げた。
 二年生と三年生は高みの見物だ。平福の性格も千尋の性格も知っている。だから、結果がどうなるのかはもうわかっているのだろう。よっ、キワちゃん、そのまま土下座までやりんしゃい。なんて声が飛んでくる。仁王雅治だ。あとで三発ぐらいぶん殴ってやろう。そう思ったけれど、千尋は地面を水平に見つめたまま微動だにしない。
 運動部の特待生、というのはこういうところで腹が座っていないと続けられないのだ、ということを身をもって示している。頭上からは平福の淡々とした声しか聞こえない。

「真田、常磐津はこう言っているが、お前に不満はないのか」
「いえ、それは今、存分に晴らしていますので問題ありません」
「だ、そうだが」

 双方不満がないのなら立海の試合をしてくるよう。
 第一試合が始まる、と言いながら平福の手のひらが千尋の頭を二度軽く叩いた。
 許容だ。許された。そのことがわからないほど馬鹿ではない。千尋はばっと顔を上げて、平福の顔を見て、もう一度改めて最敬礼した。

「ありがとうございます!」
「礼を言う相手を間違えるな」

 言って平福は踵を返し、今度は千代と対峙した。今のやり取りだけでも千代の肝は冷え切っているだろうに、これから第二試合が始まるまでの間、針の筵に座らされるのだろうな、と思うと少しだけ同情心が湧いた。

「弦一郎、助かる」
「いや、俺は十分に溜飲を下したのでな」
「お前、絶対こき使ってやるから覚悟しろ」
「ははっ、お前ほどではないが俺も体力には自信があるぞ」

 というよりも、だ。と言って真田が凶暴な笑顔を千尋に向けた。

「俺たちが走り回らなければならないような相手ではないだろう」
「まぁ、それもそうだ」

 関東大会一回戦。負ける要素も競る要素もどこにもない。全力を出さなくても多分「それなり」の試合は出来るけれど、今、平福が指示したのは「立海の試合」だ。完璧な三タテ、その内容すら指示されたも同然だ。わかっていたから、千尋は真田に向けて拳を突き出す。真田が無言で同じように拳を合わせて、それが試合開始の合図だった。
 結果から言えば、千尋と真田の第一試合はこのうえないほど完璧な「立海の試合」だった。落としたゲームの数――6-0だったからゼロだ――ポイント、勝ち方、どれをとっても立海の名に相応しい試合で、第一試合が終わっただけだというのに相手校の選手の士気は半ば折れている。千尋と千代の立海黄金ペアならいざ知らず、千尋と真田の急造ペアでもこれだけの戦果を収められる、というのが想定外だったらしい。その時点で既に調査不足そのものだと言わざるを得ないのだけれど、公式試合における千尋のデータなんて新人戦の一度きりだから、神奈川以外の学校からすれば常磐津千尋というのはぽっと出の選手に他ならない。そのことを改めて知って、千尋の戦いはやっと始まったばかりなのだということを痛感した。
 試合には勝った。満足のいった試合かと尋ねられると概ね思い描いた試合展開だったと言える。
 それでも。

「蓮二、お前の中で今の試合って理想何分よ」
「二分十三秒オーバーだった、と答えよう」
「だよな」

 そんな感じあったんだ。呟くと千尋の隣で真田が「ウォーミングアップとしてはまずまずだったのではないか」と息一つ乱さずに言う。なるほど、そういう認識ならまずまずだと言えるだろう。
 ただ。

「弦一郎、お前、手加減しやがったな」
「そうは言うが、千尋。お前こそコースの狙いが甘かったのではないか」
「誰かさんのポジショニングが悪いからだろうが」
「ほう、それはつまり俺が悪い、と」

 柳の予想時間を二分十三秒オーバーした原因、の押し付け合いが始まる。お互いに自分はベストを尽くした、と思いたいから一歩も譲らない。負けそうになって内輪揉めをした去年から比べると、勝ってから内輪もめをしている今年の方が多少は成長した。そんな言い訳を頭の片隅に浮かべながら、それでもなお自分は悪くない、と主張し続ける。その口論すら柳が分析している、ということも忘れて半ば本気で責任の押し付け合いを続けていると平福の長い溜息が聞こえた。
 そして。
 平福とは反対の方向から、夏の暑さを忘れるような冷ややかな声が飛んでくる。
 
「真田、千尋。それ以上、その見苦しい争いがしたいなら、二回戦はベンチに座ってゆっくりしなよ」

 要するにこれ以上口論を続けるのなら、二回戦は出なくてもいいということだ。
 それを即座に理解出来るぐらいには千尋も真田も冷静さを残していた。

「ごめんこうむる」
「その点については非常に同感だ」

 よし、弦一郎一旦停戦だ。言葉で殴り合っていた相手の肩を叩いて停戦を申し入れると彼は大きな溜息を吐いたけれど結局は同意を示す。十センチほど低い位置にある千尋の額を真田の指先が弾く。帰ったら覚えておけ、と顔中に書いてある。それはこっちの台詞だと言いたかったけれど、口にした瞬間から舌戦が再開されるのは想像に難くない。言葉という言葉の全部を飲み込んで、千尋は真田の隣に座る。
 代わりに立ち上がった幸村と千代がコートへと出ていった。フェンスの内側と外側に隔てられた後、幸村が不意に振り向いて、いつも通りの柔らかいようで絶妙に相手と距離を取った表情で言う。

千尋、お前は本当に立海レギュラーとしての自覚があるのかい?」
「なかったら終わった試合にもやもやしねーよ」
「そう。じゃあ、その愚痴は後でゆっくり聞いてあげるから、しばらく黙ってて」

 そう言って幸村がまるで子どもをあやすように人差し指を自分の口に当てた。
 この全てを超越して察した顔をしているときの幸村は臨戦態勢で、千尋なんかでは何を言っても影響を与えられない、と経験則で知っている。
 だから。

「……わかった」

 いつからだろうか。幸村は冬場以外でも長袖のジャージを肩に載せているようになった。肩に載せているだけで袖は通していないのにコートへ落としたのを見たことはない。そのぐらい、幸村は試合に対して余裕を持っている。
 余裕を持っているのだけれど、戦意だけは十分にあるからコートに入るときの幸村の双眸はいつでも獰猛に輝いていた。季節は紛れもなく夏なのに、幸村の視線一つで体感温度が一度は下がる。一瞬だけ、常勝立海大の声援が途切れて、その後に倍以上の音量で再開した。立海は今、絶対の勝利を確信した。その圧倒的な熱気の中、幸村と千代が第二試合を開始する。

「由紀人、十五分で終わらせるよ」
「別に。いいけど」

 俺、セイと組むのだから嫌なんだけど。
 呟かれた千代の不満は誰の耳に届くことなく霧散する。
 多分、この状況に文句を言っているのだろうな、とレギュラーたちは気付いているけれどそれでも誰かが助け舟を出すでもない。王者の試合をして帰ってきたら。そのときは千代の愚痴を聞く時間も設けなければならない。
 それでも。
 そうだとしても。
 今はただ、常勝立海大のコールを喉から全力で絞り出す。
 幸村の宣言通り、十五分に満たない時間で勝負は決着した。幸村と千代のダブルスが速戦型だというのもあったけれど、圧倒的力量差がそれに拍車をかける。戦意を喪失した相手から、それでもなお戦意をえぐり取ろうとするかのように幸村たちの猛攻が襲い掛かった。誰だ。千尋のプレイスタイルが一番えぐい、だなんて言ったのは。明らかに、幸村のプレイスタイルの方がえぐいじゃないか。そんなことを思ったけれど、その問題を精査する日は来ないだろう。
 息一つ乱していない幸村たちと入れ替わりに河原がコートの中に入る。こりゃ格好悪い試合なんて出来ねぇなぁ、面倒臭ぇなぁ。だなんて言っていたけれど、綺麗な6-0を持って帰ってくる辺り、河原も立海の特待生なのだろう。
 完璧な三タテで一回戦が終了して、相手校は勿論、他の関東大会の出場校の士気が削がれている。戦果としては上々だと言えるだろう。
 ただ。

「なぁ蓮二。跡部、いねーんだけど」

 この熱狂の渦の中に数多くはない見知った顔がないことに違和感を覚えた。千尋の知っている跡部景吾なら、こんな立海一強の状況なんて許しはしないだろうに、今や完全に関東大会の主導権は立海が独り占めだ。千尋自身、そうなるように試合をしたうちの一人だ。戦果に不服はない。不服はないけれど、でも。あの不遜で居丈高な声が聞こえてこない、という状況が何となく居心地の悪さを生み出していた。
 辺りを見回す。跡部がいるのなら聞こえる筈の氷帝コールも聞こえない。
 そのことに今更気付いて申告すると、千尋の周囲から溜息が漏れる。

「何なんだよこの雰囲気! 俺が悪いのか? また何かやったのか、俺」
キワ、お前、馬鹿?」

 馬鹿に向かって馬鹿かと訊く馬鹿がいるか。
 千代の煽りに反応しようとした先を遮って、真田の硬質な声が飛ぶ。生真面目で馬鹿が付くほど正義感に満ちている真田は無駄に人を煽ったりしないから、これは珍しい光景を見ている。わかっていたけれど、千尋は憤懣やるかたない。

「本物の馬鹿に馬鹿って言うのは危険だからやめておけっていうか、弦一郎まで『そっち』に乗るんじゃねーよっていうか!」
千尋。今のは明らかにお前が悪いよ」
「だーかーらー!」

 何をやらかしたのかを先に言え、と半ば叫ぶように要求すると非常に面倒臭そうな顔をしながらも仁王雅治が「キワちゃん」と千尋の名前を呼んだ。

「お前さん、対戦表、見ちょらんかったんかい」

 仁王の言う対戦表、というのには覚えがある。部室のホワイトボードにトーナメント表が貼り出してあった。それのことだろう、とすぐに見当が付いたから答える。

「見たけど。自分の当たるとこだけ」

 立海大学付属中学、という無駄に漢字の並んだ学校の名前はそれほど多くはない。
 その立海がA3用紙の一番上にあった。トーナメント表だから下半分は勝ち上がってきた一校以外、対戦する可能性がない。くじ引きが終わった翌日に平福から何か説明があったのも薄っすらと覚えているけれど、初めて正レギュラーとして試合をする高揚感から殆どは聞き流していた。
 その中に跡部を見かけない理由、もあったのだろうと千尋もようやく察する。察したけれど、察したところで過去に戻ることは出来ない。千尋の口からも溜息が漏れた。

「上半分しか見ちょらんち言うても限度あるじゃろ。関東大会の枠、そげにぎょうさんはなかったじゃろうが」

 あったとしても精々十幾つだ。どういう神経をしていたら氷帝学園の名前が自分たちの島にないことに当日まで気が付かないのか、と言われても知らなかったものは知らなかったのだからどうしようもないだろう、と開き直ると周囲の溜息は重みを増した。

「見てねーもんは見てねーんだよ」
「それで馬鹿を返上するのは流石に無理があるだろぃ、千尋
キワ君、ワタシとしましても、その、何と言うか」
キワ、諦めろよ」

 もう無理だぜ、この雰囲気。と締め括るのはジャッカル桑原で彼までがフォローを投げたのなら立海で千尋をかばってくれるやつ、の心当たりはもうない。まぁ、一斉射撃に見えるこの状況そのものが千尋へのフォローであると気付けないほどには愚昧ではなかったから、白旗を掲げる。

「あーそうですね! 俺が! 馬鹿でした!」
「だから、最初からそう言ってるだろ。本当に馬鹿だな、キワ

 お前が言うな。っていうか、最後の最後まで煽る必要はないだろう。言いたくなって、言ってしまったが最後、終わらない舌戦を無限に繰り返さなければならなくなるのが自明だったから、千尋は理性で言葉を押し留める。千代の煽りは際限がない。本当に際限がない。試合の後でも、練習の後でも、勉強の後でもそんなことは一切関係がないのだ。千代は彼が煽ろうと思う限り、絶対に譲らない。
 だから。

「それで? 跡部はなんでいねーんだよ」
キワ、お前のその切り替えの早さだけは特筆するに値するな」
「で?」

 柳からもまた煽り文句のようなものが飛んでくる。忍耐力が試されているのだろうか。その勝負なら絶対に降りない自信があるから、本当の本気で千尋を試しているのなら柳が最終的に得るものは後悔だけだ。数字がそれを証明していないのだろうかと疑わなければならないほど、千尋と柳の距離感は遠くなかった筈だ。言葉遊びは十分楽しんだ、と言外に含ませて助詞を放る。呆れ半分、充足半分と言った顔の柳が「先週、部長が言った通りだが」とようやく説明をくれた。
 氷帝学園は基本的に敗者には容赦がない。公式戦で敗れたものは基本的に二度とレギュラーの座に就くことがない、と言っても言いすぎではない。そのことは千尋も聞いたことがある。
 だから。

「えっ、跡部、どっかで負けたのかよ」

 てっきりそういう結びになるのかと思って、答えを最後まで聞かずに問う。まぁ話は最後まで聞け。宥められて口を噤んだ千尋に対して、二度手間の説明が続く。

「負けてはいないが、関東大会のくじ引きで見た今年の部長は跡部ではなかったそうだ」
「意味わかんねーな」
「まぁ、それぐらいのスケールが跡部相応なのではないか」

 案外、今頃はロンドンなどということもあり得るかもしれんな。
 言った柳の中では何らかの着地点が見つかっているのだろう。疑問を感じさせない平坦な声音だった。全国大会だけが全てではない、と言われたような気がして少し寂寥感を覚える。
 それでも。

「取り敢えず、氷帝自体は反対側にいるって?」
「そういうことになる」
「じゃあ、決勝戦は遠慮なく負けてもらおうじゃねーか」

 ダイ、関東大会オール三タテ行けるぞ。もらったな、と続けると千代の煽りではなく真田のそれが飛んできた。
 今日の真田はいつにも増して好戦的で、この段になってようやく彼も公式戦で緊張をしていたのだということを知る。

「ほう、千尋。その言い草では跡部がいれば決勝で負けてもいいと思っていたのか」
「ちげーよ。決勝が楽になったなってだけだ」
「ならば落とすゲームの数を勝負しようではないか」
「お前と?」
「そうだ。ダイとは出来て、俺とは出来んか」
「いや。いいぜ。でも三タテだ。シングルスまで回んねーぞ」

 真田の安い挑発に敢えて乗る。挑発に乗って、挑発を返すと更なる挑発が返ってきて、千尋は今、自分が話している相手が真田だということを忘れそうになる。ただ、真田の煽り方はどこまでも真っ当で、悪意らしきものは微塵も感じさせない。千代の煽りに乗るのとは違うけれど、それでも心地よさを覚えた。
 だから。
 決勝戦まで三タテ、だなんて不遜すぎる煽りを返す。その煽りを受け取った真田が今、彼の向こうに見えている空よりも何倍も晴れやかな笑顔で笑う。

「俺がシングルスでお前がダブルスならば、三タテの時点で俺の負けでいい」

 それでは不服か。
 提案の意味を一拍遅れで理解した千尋は真田が大胆なのか、ただの馬鹿なのか、その答えを判じかねる。それでも。多分。千尋が彼に返した笑みの意味は届いただろう。

「へぇ、何だ、お前今日は気前がいいな」
「何だ、その言い方ではまるで普段の俺がけちくさいようではないか」
「事実だろ。皇帝」
「その呼び方はやめんか。その、気恥ずかしい」

 誰かが幸村のことを「神の子」だなんて呼び始めるのと前後して、真田が「皇帝」と呼ばれていることを知った。真田の戦法は風林火山を基にしているのに皇帝だなんて呼ぶやつはネーミングセンスが皆無なのだなと立海四十五は理解したけれど、それでも、真田の圧倒的で威圧的なテニスを何かに例えるのなら皇帝もあながち間違いではないのかもしれない。

「じゃあ弦一郎。男に二言はないだろ」
「無論」
「ダイちゃんよかったな、弦一郎がサイダー一本おごってくれるってよ」
「お前は相変わらず100%オレンジなんだろ、キワ
「当然」

 言って千尋は千代と笑みを交わす。
 その、あまりにも軽い勝利宣言に立海の仲間たちは一瞬だけ苦笑を浮かべて、そうして、結局は代わる代わるに千尋と千代を無遠慮に叩いていった。痛いだろ、だなんて抗議の声を上げても誰も手加減なんてしてはくれない。その小さな痛みが激励だと知っているから、千尋はまだ走っていられる。
 公式戦で戦う宿敵が一人減ったという残念さを立海レギュラーの誰もが抱いていた。
 それでも。目指す高みは決して変わらない。全力で楽しんでいく、という目標を掲げて、そうして千尋の関東大会は充実の一途を辿る。深紅の旗までの一本道を絶対に譲らないと誓った褒美がジュース一本だとしても。だとしても、今の千尋の邪魔を出来るようなやつなんてこの場所にはいなかった。
 優勝、立海大学付属中学の声が響くまで。
 千尋の中ではもうカウントダウンが始まっている。