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All in All

52nd. 馬鹿の中の馬鹿

 いつだって昨日の続きに今日があって、今日の続きに明日がある。
 知らなかった景色が馴染んだ景色になって、そうしてそれが当然になったときそいつの真価が問われる。
 中学一年生の常磐津千尋は怪我による試合欠場で関東大会と全国大会は眺めることしか出来なかった。だから、知っている。仲間の試合を見守ることしか出来ない歯がゆさ――どれだけ声援を送っても自分には勝敗を左右する権利すらない無力感も、信じるという選択肢しかない絶望感も、それらを全て超越する勝利の高揚感も千尋は知っているのだ。
 だから、今年の正レギュラーになったときに背負ったものの意味もちゃんと理解しているつもりだ。
 レギュラー選抜戦で千尋が敗北を突き付けた仲間たちの気持ちを背負って、千尋は今ここにいる。去年と同じ千尋ではない。背負うものは少し重たくて、一回戦の試合の後は若干見苦しい様相を呈した。それでも、王者立海として恥じないだけの試合は出来た筈だ。
 そう、信じて次の試合までの待ち時間を過ごす。
 喉が渇いたけれど、マネージャーたちは忙しなく次の試合の準備をしていたから、声をかけるのを控えて自動販売機を探す。去年もこうして歩いていたら柄の悪い連中に捕まったのだった、などと思い出しながら進んで行くとどこからか聞き覚えのある罵声が聞こえた。
 曰く、一年生のくせに一丁前の顔をするな、だとか、古豪だとか言われて調子に乗っているのじゃないか、だとかそう言ったことをもっと口汚く、だみ声でひたすら罵っている。誰だテニスコートでそういう品のない行為をするのは、と半ば苛立ちを覚えながら音源の方に進むとそこには見覚えのあるジャージが並んでいる。忘れるわけがない。あのジャージは去年、千尋に絡んできた両国中央だ。去年、彼らは千尋に不要な挑発をふっかけて、その結果二回戦で惨敗したというのをもう忘れたのだろうか。それとも、今年も同じ運命を辿りたいのだと言うのなら千尋にはそれを阻む権利はない。
 氷帝の名前を見つけられなかった千尋の視覚と記憶に正当な根拠がないのは自明だけれど、それでも多分、両国中央は立海に勝たなければ決勝戦に出られなかった筈だ。ということは、千尋の手の中には今、一枚のカードがある。使ってもいい場面か、使うべき場面か、使ったことを後悔しないか。ある程度の質疑応答を脳内で済ませて、そして、結局千尋は気が付けば両国中央五人を相手に声をかけていた。五人の向こうに鮮烈な赤が見える。両国中央の罵倒が間違っていないのなら彼は一年生だ。
 去年、跡部景吾に助けられた借りの清算だ、なんて勝手に理由を付ける。

「ちょっと。お楽しみのところ申し訳ないんだけどさぁ、テニスの品位、傷付けるからそういうのやめた方がいーんじゃない」

 っていうか今すぐやめろよ。まぁあんたらに品位なんてクソ難しい言葉、理解出来るとも思わねーけど。
 出来るだけ相手の注意を引き付ける為にどういう台詞を選べばいいのか、は相棒の千代由紀人(せんだい・ゆきと)を見ていればある程度は理解出来る。成長期の千尋は去年から比べると十センチ近くも身長が伸びた。一年生のあどけなさはもう残っていないだろう。百戦錬磨のつわものにはまだ少し足りないかもしれないけれど、それでも千尋はこれでも立海レギュラーだ。自分の着ているジャージの価値なら自覚している。
 だから。
 両国中央の五人の注意を引き付けて、そうして後ろの赤いユニフォームの一年生に目配せをした。逃げろ。出来れば仲間のところまで早く戻れ。視線の意味に気付いた一年生がゆっくりと、それでも確実に移動を始める。両国中央はまだ誰も気付いていない。気分よく相手を罵っていたのを邪魔されたと憤っているだけだ。

「誰だ――って、立海じゃねーか」
「立海が何の用だよ」
「っていうかてめー誰だ」
「あんたら頭大丈夫か? 俺は、立海は立海でも正レギュラーなんだけど」

 相手校の下調べ、杜撰すぎるだろ。あっ、二回戦敗退までが予定調和の両国中央さんには難易度高すぎる話題だったな、悪い悪い。で? 負け犬の遠吠えをどうぞ、続けて。
 正直な話、五対一で暴力の勝負になるなら千尋に勝ち目なんて一つもない。
 だから、これはただのはったりで一歩間違えば千尋の人生は一瞬で壊滅だ。わかっている。立海正レギュラーの重みを背負ってすることではない。わかっている。それでも、赤の一年生の味わっていた恐怖を知っていて、競技者であることに誇りを持っている純然たるテニスプレイヤーの常磐津千尋に目の前で行われている暴虐を無視しろ、というのは無理が過ぎる。
 誰かが助けてくれる、だなんて曖昧で希薄な希望を抱かない程度には千尋は現実主義者だ。
 自分で始めたことは自分でどうにかするしかない。
 勝利という概念はひとまず捨てるべきだろう。限りなく敗北に近いドロー、それを狙うしかない。わかっている。相手は五人で千尋は一人だ。暴力の勝負に持ち込まれたら勝ち目どころか、千尋の選手としての人生が終わることを覚悟しなければならないだろう。それだけは避けたい。
 それに加えて、この後も千尋はまだ試合が残っている。
 圧倒的不利な要素ばかりが並んでいる。その中から最善を探すしか無事に帰還するルートがなくて、正直なところ泣きたい気持ちでいっぱいだ。
 せめて負けないステージに上がらなければならない。
 両国中央のペースは、今、乱されている。このまま千尋のペースに載せなければ勝算はゼロだと言えるだろう。
 どうすればいい。
 どうすればいい。考えろ。考えるんだ。去年、千尋が跡部景吾に助けられたときはどうだった。勝算を見つけろ。両国中央の隙はどこだ。千尋の強みは何だ。考えろを無限に繰り返して、表情だけは冷静を装って千尋の心理戦はもう始まっている。弱みを見せれば形勢は一気に逆転するだろう。
 調査してもいない立海の正レギュラー。潰しておきたいと思うのが当然の心理だ。潰す、の概念の中に直接的な暴力が含まれていない、と信じるしかないのが若干弱いけれど、そんなことを言っている場合ではない。潰したい相手が目の前にいるのなら次に取るべき行動は何だ。「無茶苦茶な条件の試合をふっかける」じゃないのか。野良試合でも試合は試合だ。その中で「偶然」に相手が負傷したとしてもそれは彼らの責任ではない。
 つまり。
 その、無茶苦茶な条件の試合を回避しようとするともっと無茶苦茶な事態になるのは自明だ。せめて「無茶苦茶な条件」をこちらの有利な条件だと気付かれないように挿げ替えるしかない。不本意を装って最善を押し付ける方法を考えろ。
 千代ならどうする。幸村精市ならどうする。真田弦一郎ならどうする。柳蓮二ならどうする。
 立海特待生としての一年間で得たものは何だ。
 去年のままの千尋ではない。それを示したいのなら、怯えている場合ではない。
 だから。

「それで? あんたらだって遊びに来てるわけじゃないだろ」

 お互い言いたいことがあるのならテニスでケリ付けようぜ。
 取り敢えずはそこからだ。このステージに相手を引っ張ってこられないのなら、千尋には何の希望も残らない。逆に言えば、こちら側へ引きずり込むことに成功すれば勝機がある、ということだ。
 ただ、向こうもただの馬鹿ではないだろう。
 立海正レギュラーだというのを明かす、というカードはもう使ってしまった。
 正当な形式での試合をすれば千尋が勝つとわかっている状態で、勝負に乗ってくる筈がない。勝負に載せるのは無茶な条件をあと一押しか二押しぐらい必要だろう。
 一見、千尋に不利なように見えて、向こうの挑発に乗った形になって、それでも千尋が勝てる条件を必死で探す。人数は一対五だ。それでも、相手選手一人ひとりの実力を考えるとぎりぎり同時に相手出来る、と判断した。立海で言うなら後輩の切原赤也よりもなお弱い。何とかなる、というよりは「何とかする」という次元だろう。出来るか。出来るか、じゃない、やるしかない。覚悟を決めて奥歯をぐっと噛み締める。

「立海レギュラーとサシでやるほど馬鹿じゃねーんだよ」
「そうそう。最初から勝てねー条件出されて誰が乗るかよ」
「へぇ、勝てないってのは一応わかってるのか」
「はぁ? 馬鹿にしてんのか、てめぇ」
「そんなに不安なら、あんたら全員で来ればいいだろ」
「あ?」
「五対一でも勝てる自信ないわけ? あぁ、そう。だから弱い一年生掴まえては憂さ晴らしってわけだ」

 そういうやつが関東大会にいること自体が不愉快なんだけど。
 最大限の悪意を込めて「消えて? どうぞ、速やかに」の句を紡ぐ。何を言われたのか、理解した瞬間に両国中央の五人が顔を紅潮させた。煽りが露骨すぎる、と千尋自身気付いている。千代ならもっと上手くやる筈だ。
 それでも。
 千尋の稚拙な煽りに乗ってくる五人、の図が見えて、内心ほくそ笑んだ。思っていたよりも単純な反応が返ってくる。ということは千尋にも勝ち目がある、ということだ。

「立海だからって調子こいてんじゃねーよ」
「そんなに次の試合、棄権してーならお望み通りぶっ潰してやる」
「来いよ、立海!」

 オラ、見せもんじゃねーんだよ。
 言いながら怒り心頭といった風情の両国中央五人が先導して歩き出す。元々人気の少ないところから、更に人気のない空きコートの一つに辿り着いた。完全ではないが殆ど無人で、千尋がここから生還する為には無傷、というわけにもいかないだろうと察する。
 千尋がある程度察したことを察した両国中央の五人はにやついている。勝てる、と本気で思っている顔だ。つまり、彼らは千尋のプレイスタイルを何も知らない。千尋が持久力自慢のカウンターパンチャーだということを知らないで試合をするとどうなるのか、その見本市だ、と千尋は胸のうちでほくそ笑んだ。
 立海レギュラーに負けは許されない。公式戦は勿論、練習試合も、野良試合も全部。選手層の厚さが圧倒的に違うから、氷帝のような「一度負けたら二度とレギュラーには登録されない」だなんてシステムこそなかったけれど、油断をすればいつでも寝首を掻かれる。
 今から千尋がしようとしているのはただの愚行だ。
 公式戦の第三試合を待つ身で、その後も準決勝、決勝と試合は残っている。残っているのがわかっているのなら、きちんとコンディションを整えたり体力の回復に努めたりしなければならない。わかっている。そんなこと、立海の特待生として入学してきてからずっとわかりきっている。先輩たちが示してくれたことを右から左へ受け流してたわけではない。千尋に負けた四十の期待が何か、なんて知らない筈もない。
 それでも。
 野良試合一つで潰れるようなやつは立海の正レギュラーとして不足があるだろう。たとえどれだけ不利な条件の試合でも、公式戦を控えている重圧があっても、千尋が今背負っているものは立海大学付属中学テニス部正レギュラーの肩書だ。誰かに恥じる要素なんてあっていいわけがない。
 下卑た笑みの両国中央が揃ってコートに入った。
 こいつらは下衆だ。クズだ。ごみだ。こんなやつらに枠を譲った東京都というのは本当にどうかしている。
 ただ、それは後で詰るべきことだろう。勝利を収めて、遥か頭上から見下して、支える術が思い出せなくなるぐらいまで自尊心を折って、そうして言うべきだ。
 お前たちにはテニスをする資格なんてない、と。
 待機中にもラケットを持っている、という点は評価出来る。
 ジャージのポケットにボールが入っている、という点も同じだろう。
 少なくとも、テニスプレイヤーとしての最低条件は二つクリアしているけれど、それだけだ。
 一番大切な最低条件を満たせないやつは関東大会なんかに来るべきではない。テニスのことが好きなやつしかここに来る資格がない。日常の一部になってもいい。寧ろそれは歓迎する。それでも、誰かを傷付ける為の手段としてテニスを選ぶようなやつらにはここに立つ資格すらないのだ。
 だから。
 一対一で戦えば有言不実行の汚名を背負った鹿島満(かしま・みつる)にも容易く負けてしまうような、そんな連中を相手にするのに幸村に臨むときと同じだけの覚悟をする。
 両国中央の五人は思い知るべきだ。
 王者立海を相手に潰す、だなんていうのがどれだけ荒唐無稽で無理難題なのか。
 思い知ってそのままラケットを置いて去ればいい。
 そう出来るだけの研鑽と鍛錬を積んできた。今更、ラフプレーが怖くて試合が出来ません、だなんて泣き言をいうつもりもない。千尋を潰せるのは、千尋以上の選手だけだ。どんなに汚い戦法を選んでも、どれだけ巧妙に罠をしかけても千尋を潰すのが不可能だと知ったとき。そのときから千尋の試合がやっと始まる。
 
「で? いつ潰してくれんの?」

 五人を同時に相手にしてなお千尋のプレーは揺らがない。持ち前の持久力でコート中を駆けては返球を続ける。両国中央は悪ぶった人相のままに千尋の身体にぶつけるコースを狙ってくるから、逆にコースを読むのは簡単だった。瞬発力では千代に負ける千尋だったけれど、それでもこの程度なら十分に対応可能だ。
 コート上を駆ける、とは言ってもその実、千尋はそれほどの移動を強いられていない、と両国中央が気付くのはいつだろう。ラケットの面を最大限利用してドライブをかけた球を返しているから、両国中央が狙えるコースなんていうのは殆ど千尋の想定の範囲内でしかない。
 そして、「返ってくる場所がわかっている打球」ほど返しやすいものもない。
 顔を狙われても、膝を狙われても全部綺麗に処理をした。俊敏性、という分野においては千代を軽く下回る千尋にとって、手首を狙ってくる打球が一番面倒臭いのだけれど、彼らがそれに気付くこともない。
 呼吸を乱して、走らせているつもりが走らされて、指の力でラケットがすっぽ抜けたように装って投げつけても傷一つなく避けられて、なのに千尋はまだ汗一つかいていない。
 千尋の身体能力と技巧、それからゲームメイクのセンスを侮った結果だ。
 その結果を受け止められるのかどうかは、千尋には興味のないことだ。潰そうとした相手に潰される。千尋の世界基準ではありふれた光景で今更、感慨なんて一つもない。
 だから。

「どうした、早くしないと潰せねーぞ」
「なに、が、だよ」
「もうそろそろ、『どっちか』来るだろ」
「意味、わかんね、こと言ってんじゃ、ねーよ!」

 五人もいて誰一人「どっちか」の内訳すらわからないのには流石に同情を禁じ得ない。
 黄色――立海大学付属中学か、先ほどの一年生が着ていた赤か。どっちか、が来るのに勝算そのものを賭けていたわけではない。ただ、一般的な善良なるテニスプレイヤーの感覚を持ち合わせているのなら、どちらか、もしくは両方が来るのにそれほど時間は要しないだろう、という未来は想像出来た。
 まぁ、千尋は五人とも潰すつもりで勝負に乗ったから最悪のケースでも二十分以内にどちらかが来ればいいと思っている。時間稼ぎだなんて気取るわけではない。ただ、ニ十分間、本気の千尋の返球を受け続けたらどうなるのか。その答えを知りたいと思った。だから、出来ればニ十分ぐらいは誰も来なくてもいいのに、と思っていたのは否定しない。
 そこまでを流れに乗せる為に千尋は立海の名を使った。千代がいたら「小手先の計算出来るようになったんだ」と無関心そのものの声音で称賛してくれるだろう。でも、多分、その直後に「俺が潰す前にお前が潰れるなんて笑えない真似するなよ」という叱責を受ける。
 それでも。
 笑って、その叱責を受けるのは決してやぶさかではない。
 両国中央の五人は既に潰れているも同然だ。一回戦はかろうじて勝ったのだろう。それでも、ニ十分間、千尋の思惑に乗って攻撃の名のもとに捕球を続けさせられて次の試合に臨むだけの体力なんてあるわけがない。潰す方と潰される方が完全に逆転している。
 そのことにすら気付かないのだから、彼らには最初から救いなんてなかったのだ。
 多分、このまま野良試合が続いて、立海の仲間が来ればその時点で名実ともに両国中央はテニスの世界から姿を消すだろう。立海が去年負ったトラウマはそういう類のものだ。わかっていた。わかっていて敢えて挑発した。両国中央のやっていることは確かに最低なのだけれど、ある意味では千尋はそれ以上に最低なことをしている。わかっている。それでも、千尋は聖人君子ではない。相手を本当に潰したいと思う日もあるし、そうなったときに自分を完全に律することなんて出来ない。
 相手を潰す、というのはそういう業の深い行為だ。
 千尋の思惑通りになったとしても、千尋が両国中央を潰したことを誇ることはないだろう。誇ったが最後、千尋は完全に両国中央と同じレベルに落ちる。寧ろ、良心の呵責と戦っていかなければならない。潰した相手への同情も、仲間に最悪の瞬間をフラッシュバックさせた罪悪感も一生千尋の身の上にまとわりついてくる。
 それでも。
 許せなかったのだ。テニスを暴力で辱める、だなんて絶対に許せなかった。
 だから、責められるのなら言い訳はしないし、罰があるのなら甘んじて受けよう。
 そんな覚悟をして、千尋は今、ここにいる。
 悪役を選ぶことも、善良なる英雄を演じきることも出来ない。
 だから、せめて、自分にだけは正直でいたい。その結果なら、どれだけ苦くても飲み込める。覚悟を決められないで、答えを失って途方に暮れる馬鹿、はもうたくさんだ。
 千尋は選んだ筈だ。立海の常磐津千尋を自分で選んだ。
 だから。

「まぁ、いーんじゃねーの。あんたらが絶対に越えられなかった壁の名前、知らなくてももう終わるんだし」

 夕焼け色のジャージが持っている価値を知らなかった一年前。スカウトを受けた、という理由だけで立海を選んだ二年前。それでも、千尋が自分で選んだ道だ。いばらの道でも、藪の道でも、獣道でも何でもいい。ただ、その道をひたすらに進んでいる。だから、千尋はこの道を譲らない。阻むものは全力で取り除くし、敵対するのなら受けて立つ。
 ネットの向こうが絶望に覆われて、悪意のメーターが尽きようとしていた。
 その頃合いを見計らったかのようにばたばたと足音が聞こえる。
 にわかに人の気配に満ちて煩雑さを帯びる空きコートの雰囲気にすら両国中央は気付かない。そのレベルまで疲弊しきっていた。
 幾らかの焦燥を滲ませた声が飛んでくる。
 意外なことに先頭は幸村だった。その後ろに千代、真田、と続く。

千尋! 無事だね?」

 幸村らしくもなく、血相を変えている。この世界が広いと言っても、幸村がこの表情を見せる相手の範囲は限られていた。つまり、今からここが千尋のホームだ。この最低で最悪の状況を一瞬で打破出来る最強のカードが来た。両国中央がどれだけ無学でも立海三強の顔と名前は一致していたらしい。疲労と絶望感で青くなっていた顔面がいっそう色を失って最早白くなっているという次元だ。千尋側のコートに二本ほどラケットが落ちていて、ネットの向こうに五人がひしめいているという状況証拠が両国中央の犯行を裏打ちする。逃げなければならない。そう判断した彼らが立海の仲間が入ってきたのとは反対側の出入り口へ向かおうとするけれど、そこには既に赤の一団がいる。
 詰みだ。千尋の役割が終わった。
 ここから先は仲間たちがどうにかしてくれるだろう。安堵が胸中を満たす。コートの中へと飛び込んできた幸村が千尋の両肩を掴んで必死に揺さぶった。怪我はないかと問われたのに「勿論。当然だろ」と軽く答えると幸村の顔が少しずつ平静を取り戻していく。
 幸村の後ろからやってきた千代が、いつも通りの無愛想に三十倍ぐらいの輪をかけて不機嫌を示していた。冷え切った声で彼が言う。

キワ。今日の試合全部終わったら十発ぐらい殴らせろ。拒否権とかないから。何言われても殴るから」
「待て! 拒否権はあるだろ!」

 幸村に両肩を掴まれた状態のまま遺憾の意を呈する。
 無抵抗で殴られろ、というのは一体何の冗談だ。千尋は千代に恨まれるようなことをした覚えがない。無謀な賭けに乗った自覚はあるけれど、それでも十発も殴られなければならないことではない筈だ。
 そう、反論すると今度は柳の冷徹な声が聞こえる。
 
「ないな。ついでに言わせてもらうが、明日、お前は練習禁止だ」
「だから! なんで!」

 正義のヒーローを気取ったつもりはない。
 千尋が両国中央を許せなかったから、勝手にしたことだ。
 規律を乱したのと、単独行動をしたのは自覚している。ただ、その程度のことで罰則を受けなければならない理由に思い至らない。
 更に反論をしようとすると長袖のジャージが頭上から降ってきた。待機場所に置いてきた筈の千尋の上着だ。
 そんなことを出来るのは千尋よりかなり身長の高いやつだけで、そのうちの二人は千尋の視界の中にいる。ということは、これは真田だ。溜息が聞こえる。
 
千尋。自分がしたことは理解しているな」
「……まぁ、一応?」
「携帯電話ぐらいきちんと持って歩け。一人で無茶をするな。俺は――俺たちは去年のような思いはもうごめんだ」

 圧倒的な強さから逆恨みを受けた幸村。暴力で全てを解決しようとした名前も覚えていない上級生。幸村を咄嗟に庇った千代は裂傷。上級生を必死で制止した千尋は打撲。全治二週間を言い渡されてただ見ているだけの夏を強いられた。
 わかっている。
 あの事件だってここにいるやつは誰一人悪くなかった。悪かったのは件の上級生だけで、誰かの落ち度で事件が起きたのではない。
 今もそうだ。
 悪いのは両国中央の連中で、赤の一年生も千尋も世間から責められるべきことは何一つしていない。
 何一つしていないのに、現在進行形で千尋が責められている。
 それでも。千尋は理解してしまった。千尋が乗った無謀な賭けは一歩間違えば、やっとふさがった筈の幸村たちの古傷を抉ってしまうものだった。いや、既に抉ってしまったのだろう。あの日の後悔が想起されているから、千尋の仲間たちは一様に顔色を失っている。
 誰かを守る為に全力を尽くせるという千尋の長所が今、短所として仲間たちを襲っている。
 そこまでをやっと理解して、千尋の胸中に幾ばくかの反省という感情が芽生えた。
 悪い、と謝ろうとする。一人で何でもかんでも行動に移してしまう悪癖を詫びようとした。
 その出鼻を挫いて千尋と真田の背中の向こうから「あの」と遠慮がちな声が聞こえた。

「あの、その人俺を助けてくれたんす」

 被されたジャージを正しく羽織り直そうとしながら、音源を振り向くと先ほど千尋が助けた筈の赤いユニフォームを来た一年生が立っている。今の時点でも千尋より十センチは背が高い。それでも、あどけない顔つきには幼さが残っていた。
 その、幼さの残る顔を後悔と困惑で染めて彼は言う。
 その人がいなかったら、俺は無事じゃなかった。その言葉を聞いた立海の仲間たちの顔が一様に苦渋で彩られる。
 代表して答えたのは順当と言うか、当然と言うか、幸村で苦渋のその下には憤怒がまだ残っていた。
 一年生の背中の向こうで、両国中央の五人が大会運営関係者に連れていかれるのを見届けて、多分、千尋もこの後、何らかの聞き取りを受けるのだということを察する。

「知ってるよ。人を助けるのに最善を尽くせる馬鹿の中の馬鹿だからね」

 幸村が言った馬鹿の中の馬鹿、という表現は多分、柳が口にする「All in All」と対して変わらないのだろう。殆ど全部。それを一瞬で目の前のことに懸けられる。褒めているようで貶しているようでそれでも最高の賛辞の意味も持っている。
 体力と集中力をある程度欠いてるから完全に無事、というわけではないがそれでも両の脚で立っている千尋を見て安堵したのだろう。悪口を飛ばすぐらいには幸村の胸中は余裕を取り戻しつつある。
 その、幸村に対峙して一年生が言う。

「俺、次の試合勝つんで、三回戦、その人と戦わせてください」

 そういうのは部長に聞かなければわからない問題だ。
 それでも、千葉六角中学の一年生――天根ヒカルと名乗った少年はここで言質を取るまでは帰らない。そんな顔をしていたから、千尋は思わず問い返してしまった。

「俺と?」
「出来たら千代さんとダブルスで」
「お前、ダブルス?」
「そうっす」

 あっちにいるバネさん――正しくは黒羽春風というらしい――とダブルスをやっていて、立海黄金ペアと戦えるのを楽しみに関東大会へやってきたのだと言う。
 その、ある種憧れの域にいる千尋に助けられて、何の恩も返せないのが歯がゆくて耐えられないから、せめて助ける価値のある選手だったと証明したい。そんなことを一年生――天根はこんこんと幸村に語った。
 天根の話をどう受け取ったのか、幸村が束の間考える素振りを見せる。
 そして。
 いつも通りの一般の皆さま向けの笑顔で言った。

「折角だけどお断りするよ」

 それは天根程度の選手に興味がない、という意味でもあるし、この状況下では千尋の好悪を受け入れるつもりもない、という意味でもあった。最高に爽やかな笑顔から繰り出される完全なる否定の言葉に天根は一瞬、意味を捉えかねてぽかんとした顔をする。お断りする、という言葉の響きこそ柔らかいけれど、声音は頑としている。この状態の幸村には交渉の余地すらない。完全な拒絶モードだ。
 その理由、を敢えて本人に確認したりしない程度には千尋にも学習能力が備わっている。
 間違いなく、千尋が無茶をしたことについて怒っているし、その元凶になった天根の存在を許せないのだろう。そして、そんな状況を許した幸村自身にも腹を立てているし、この後の最善の処置としては「千尋を休ませる」が先頭に挙げられている。
 何と言うか、過保護なやつだなと思う部分は千尋にもある。
 あるけれど、それでも、千尋は幸村の判断に口を差し挟むつもりもない。
 そういう幸村を作ったのは他ならない千尋の言動だとわかっている。無謀と無茶を平気でやってのける。そういうやつだということを千尋は幸村たちに示してしまった。今回の無茶がそれを上書きしたのもわかる。
 だから。

「なんでっすか」
「天根、だっけ。俺がその理由について君に説明しなきゃならない理由なんてないだろ」
「でも、俺――」
「君の自己満足に付き合っている暇なんて俺たちにはないんだ」

 ほら、千尋。もういいだろ。行くよ。
 言って踵を返した幸村の背を追う。
 ただ。

「天根。全国大会で会おうぜ」

 悪いのは一年生という弱い立場の人間で憂さ晴らしをしていた両国中央だ。それは間違いがない。運悪くその対象になってしまった天根に非がないことは千尋もよくわかっている。その状況で立海と六角の両方を連れてきてくれた天根の判断は決して間違っていないだろう。
 だから。
 三回戦と準決勝は多分S1に名前を登録されるだろう。立海の試合は三タテだからそれは事実上補欠と変わらない。その間に十分に休息を取れ、と言われるのだという未来も予測出来る。
 千尋に出来る天根へのフォローは万全の試合をすることだけだから、幸村が進言する措置については甘んじて受け入れるしかない。
 六角はこの後、間もなく両国中央との二回戦を控えている。勝てば三回戦は立海とだ。その試合に千尋が出場する権利はないし、それを嘆願したところで叶うかどうかの判断ぐらいは出来る。平福は休息を命じるだろう。
 全国大会への出場枠は五つだ。三回戦まで残ればコンソレーションがある。
 そこまでを理解してなお、千尋は言う。
 全国大会で会おう。
 全国大会への出場枠を手に入れたとしても、対戦出来るかどうかは誰も保証してくれない。
 それでも、千尋は言った。全国大会で会おう。そうしたら、そのときは全力で戦える。

「じゃあな、天根。『バネさん』にもよろしく言っといてくれ」
「ほら、千尋。行くよ」

 言って幸村の手のひらが千尋の腕を掴んだ。
 ぐいぐいと引っ張られて天根があっと言う間に遠ざかる。その名残すら遮蔽するかのように千代が千尋の背中のすぐ後ろを歩く。圧倒的不機嫌を絵に描いたような千代が、不満を隠さない声で言った。

キワ、やっぱりもう五発ぐらい追加してもいいだろ」
「ということはその五回についての報復は許可されるんだよな?」
「はぁ? お前に反撃する権利なんて最初からないんだけど?」
「ダーイーちゃーん」

 あまりにも平常運転すぎる千代を見て、心のどこかでほっとする自分がいるのに千尋は気付いた。
 多分、そうなるように千代が千尋を煽っているのだろうな、というところまでは理解出来る。理解出来たから、曖昧に笑って千尋の手首を跡が付くぐらい、必死に掴んでいる幸村にたったひと言「痛い」とすら言わなかった。
 馬鹿なことをしたな、と思う。
 却って天根の心を傷付けてしまったのじゃないか、とも思う。
 幸村は天根の懇願を自己満足と切り捨てたけれど、そもそもが千尋の自己満足に端を発している。
 それでも、と千尋は思うのだ。
 多分、千尋があの場面で無視を出来るようなやつだったら、きっと幸村たちはこんなにも心を傾けてはくれなかっただろう。だから、自分のしたことを恥じるつもりはない。反省はしているけれど、後悔はしていない、というやつだ。
 コートを出て、一面が夕焼け色で溢れている区画へと向かう。
 その道中、緊張感から解放された千尋の両ひざがわらってしまい、歩けなくなって真田に背負われたのだけれど、別段そのことについても恥じるつもりはなかった。千尋の帰還を知ったマネージャーたちがあれやこれやと世話を焼いてくれる。その優しさと厳しさに触れながら、彼女たちもまた立海なのだなと思っていると少しずつ身体が重くなる。
 一番最後に、「千尋、お疲れさま」という幸村の声が聞こえた気がするけれど、それが現実なのか幻なのか千尋にはもう判別出来ない。風のよく通る木陰で、二年生の仲間たちとマネージャーに見守られながら千尋は意識を手放した。次に目が覚めるときは、多分、関東大会の決勝戦だろう。今年はまだ公式戦で千代とのダブルスをしていないな、だなんて不意に思って唐突に彼の不満の理由を察した。何だ、自分は思っていた以上に千代に必要とされているのだな、と思うとどこか相棒に愛嬌を感じた。十五発も黙って殴られるのは不本意だけれど、まぁ、今日ぐらいはいいか。
 そんな答えのない問答を無限に繰り返す暗闇も満更不快ではないと知った夏。
 跡部のいない氷帝と決勝戦を争うのはもう少し後のことになる。