. All in All => 53rd.

All in All

53rd. 蔑称

 誰と戦っても100%勝利しかない、という場合を除いて試合のオーダーの組み方というのは、それ自体がある種の博打だと言えるだろう。自分たちの実力、得手不得手、相性と今日のコンディション。それらを把握したうえで、どんな順番で誰に当てるのが最も勝率が高いか。相手がそれをどこまで読んでいて、どんな対策を講じてくるか。心理戦はコートに立つより前から始まっている。
 その、一番最初の勝負にどうやって勝つか、という点において常磐津千尋たち立海は最強のカードを持っている。一番最初に除外した「誰と戦っても100%勝利しかない」という最強のカードだ。
 そして、そのカードを何の躊躇いもなく最善で配ることが出来るのが今年の立海テニス部部長・平福だ。この時点で立海には勝利以外の選択肢がない。この条件で勝てないようなやつは立海を名乗る権利もない。
 だから。
 関東大会決勝戦。跡部景吾のいない氷帝学園はどこか士気が下がっていて、どちらかと言えば部員数――すなわち応援の声量で圧倒的優位を確約されているそのコールすら敗北を受け入れていた。
 常勝立海大のコールが氷帝学園を威圧する。
 去年の練習試合で千尋に噛みついてきた宍戸亮はまだレギュラーの座を手に入れていないらしい。親の仇でも見るかのような鋭い眼差しでコートの中の千尋を射ている。
 その事実を受け止めて、千尋はフェンスの向こうの宍戸に笑みを投げた。
 サーブ権の関係で前衛の位置にいる千尋の挑発をどう受け取ったのか、宍戸の敵意が強くなる。そこまでを見届けた千代由紀人(せんだい・ゆきと)が呆れたように溜息を吐いた。

キワ、その全方位的に喧嘩売ってくスタイル、嫌いじゃないけど学習能力とかいうのはお前にはないわけ?」
「あるだろ。あるから、最低限の挑発で済ませてんだろ」
「お前、そのうち夜道で背後から刺されると思うけど、誰も巻き込むなよ」
「いやいやいやいや、その台詞はそっくりそのままお前に返すって、ダイ」
「別に。返してほしいなんて誰も言ってないだろ。それに」
「それに?」
「馬鹿でも何でも、俺たちは勝ったやつを肯定する。そうだろ」

 だから、千尋千尋の試合をしろ、と言外にある。
 この試合で勝利を得たのなら。関東大会の優勝旗を持って帰ることが出来たなら。臨時集会が開かれて、関東大会の祝勝会と全国大会の激励会が併行されたら。
 その結果を千尋が自ら示したのなら。千代は千尋を許すのだろう。
 馬鹿の中の馬鹿で、向こう見ずで、自分の価値観にあまりにも正直すぎて愚直としか言いようがない千尋の失敗を笑って、戯れの領域で殴って、そうして千代は何ごともなかったかのように立海の特待生の毎日を許すのだろう。
 馬鹿はどっちだ、と千尋は思う。
 千代だって十分に馬鹿じゃないか。
 仲間を許すのに理由が必要で、自分の感情を認めるのに煽りが必要で、不器用でコミュニケーションの何たるかを理解していない。
 それでも、と千尋は思う。
 そういう馬鹿の千代を相棒に望んだのは他でもない千尋自身だ。
 だから。
 涙の場面には一時間早い。そもそも、まだ試合が始まってもいない。
 それでも、千尋は千代と一緒に戦って負ける要素なんて一つも思いつかないし、美しい三タテを約束した相手がいる。後ろを振り返って涙に次ぐ涙を零すのはいつでも出来る。そんな激励の片鱗すらない激励を受け取って、結局、千尋は苦く笑うしかなかった。
 審判がゲームの始まりを宣言する。
 そこからは千尋と千代の独壇場だった。
 氷帝の三年生レギュラーを相手に何の遜色もない王者の試合をして、コートから出る。
 千尋たちと対戦した氷帝の三年生は完敗を受け入れて、そうして二度と公式戦に出ることを許されない、という現実とどうにか戦っている。
 わかっていた。氷帝の選手にとって公式戦での敗北はプレイヤーとしての死に等しい。
 負けた選手は二度とレギュラーとして起用されない。
 わかっていて、千尋はストレートで勝つという結論を選んだ。その結果を今、水晶体の向こうの網膜に照射している。ただ、それだけのことなのだけれど、心のどこかでは気の毒に思う。
 思っているのが、顔に出ていたのだろう。
 コートの外に出ると駆け引きが出来ないただのポンコツになるのは一年経っても更に三か月が経っても少しも変わらないらしい。
 同情、という感情を載せた千尋の表情をを見た「第三者」から激情が迸る。記憶に相違がないのなら、これは先ほど千尋が煽った宍戸の声だろう。

常磐津! てめぇ人のこと舐めんのもいい加減にしろ」

 勝っておいて同情だなんて人の尊厳をどこまで傷付ければ気が済むのだ、と言外にある。
 言外にある部分が音声を媒介しなくても脳裏で言語化される時点で千尋は相当に進歩したのだけれど、それを宍戸が知る筈もない。それに、人としての尊厳を傷付ける、という次元での話題であれば宍戸の行為はまさに「負け犬の遠吠え」状態だから似たり寄ったりなのだけれど、宍戸本人がそれに気付いている印象はなかった。
 そんな激昂状態の宍戸を見て、千尋は柳が教えてくれた、ある日本語を思い出す。
 人の振り見て我が振り直せ。
 なるほど、実に一理ある言葉だ。
 そして同時に千尋は理解した。人の為に怒る、という行為は幾ばくかの尊さを持ち合わせているが、結局のところ自己満足なのだ。人の為に怒っているのではない。自分の為に怒っている。
 だから。
 宍戸の後ろからやって来たそこそこ長身で個性的な眼鏡をかけた少年の表情に載っているものを見て、千尋は宍戸の激情が日常茶飯であることを知った。

「もうちょっと落ち着いたらどないや、宍戸」
「俺は十分落ち着いてるだろ」
「その声でその台詞言われても何の信憑性もあらへんやろ」
「じゃあどうしろって言うんだ」
「どうもこうもないわ。岳人」

 取り敢えず宍戸連れて元の場所戻ってくれる。
 独特のイントネーションで紡がれる言葉の印象を知っているような知らないような不思議な感覚に襲われる。関西弁と包括される方言の一種なのは間違いない。それでも、四天宝寺で聞いた忍足謙也や白石蔵ノ介のものとは何かが違う。何かが違うのはわかるけれど、それが何なのかを表現することはまだ千尋には難しかった。
 その、関西弁の少年が名指した「岳人」が癖のある明るい髪色をした少年と二人で宍戸を強制的に氷帝側のエリアへ連れていく。去り際に「侑士、貸し一つだからな」と「岳人」は宣言して消えたのだけれど、肝心の「侑士」がそれを額面通りには受け取っていないのが見て取れる。不思議な連中だな、と思ったけれど立海の仲間も十分に不思議な連中だということを思い出したから、すんでのところで言葉にならずに済んだ。
 そんな千尋の最大限の奮闘を知らない「侑士」が言う。

「『初めまして』やな、自分は忍足侑士言うんやけど」

 なんであんたが「行き止まり(デッドエンド)」て言われとるんか、よう分かったわ。
 言って、「忍足侑士」を名乗った少年の右手のひらがすっと差し出される。現代日本におけるこの行為の意味と、次に千尋に用意された選択肢が二つしかないことを理解出来ないほどには愚昧ではなかったから大きな溜息を吐き出して、「渋々」の表情を取り繕って結局は千尋は差し出された右手に自分の右手を重ねた。
 イースタングリップよろしく、「忍足侑士」の右手を握る手の力を強めたのは、多分宣戦布告だったのだろう。彼がたった二言で充満させた「疑問」の数々を納得させるまでは氷帝に帰さない、という宣告だ。
 そもそも、だ。
 そもそもの話から順番に話すしか千尋には選択肢がない。
 基本的にはシングルタスクだから同時並行で疑問に対する説明がなされても千尋は多分、納得という答えを得られないだろう。
 だから。

「ハル、いいだろ」

 一人――厳密には「忍足侑士」と二人なのだけれど、初対面の彼と行動を共にするのに「安全」は保証されないから、多分頭数に入れるのは間違っているだろう――で行動するのは危険だと散々口を酸っぱくして注意されたのを高々一時間や二時間で忘れられるほどには平和な頭をしていなかったので、千尋は名指しで同行者を募った。
 千代と一緒でもよかったのだけれど、どちらかと言えば千代は千尋寄りで「自分の思う最善」の形を何かのカテゴリに分けるなら多分「自己犠牲」になるだろう。そういう千代のことが嫌いではなかったし、どちらかと言えば気が合うと思っていたけれど、千尋の同行者としては不適切だというのがわからない筈もない。
 三強はレギュラーだからまだここで仕事がある。
 四人除外して、残った顔ぶれの中で一番悪びれていないやつの名前を呼ぶと、当人――仁王雅治が面倒臭さを隠しもせずに「えいよ」と言った。

「その代わりにキワちゃんは明日、俺の買いものに付き合うてくれるじゃろ」
「まぁ、どうせ練習出来ないし構わねーけど」
「じゃったら交渉成立、じゃの」

 ほんなら行くぜよ、二人目の「忍足」。
 言って仁王が千尋と「忍足侑士」を置いてさっさと歩き出す。
 千尋がどこに行こうとしていたのか、さも理解しているような足取りで仁王はどんどん進んで行ってしまうから、千尋と「忍足侑士」はお互いに顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
 仁王の背中を追いかけながら、道中、千尋は「忍足侑士」と言葉のやり取りをする。

「その苗字さぁ、珍しいけど双子の兄弟がいて名前が『謙也』だったりしねーよな?」
「惜しいわ。従兄弟にやったらおるよ、『謙也』」
「同い年で? 四天宝寺中学?」
「同い年で、四天宝寺中学でテニス部で性格がかなりせっかちや」

 そこまで具体的な話をする、ということは完全に千尋が知っている忍足謙也の従兄弟ということで間違いがないのだろう。日本という国は世界でも有数の苗字の種類が多い国なのだと幸村精市が言っていたのを思い出す。一般的な諸外国の苗字の種類より二桁ぐらい多い、と聞いたとき千尋は何となくだけれど納得したものだ。「常磐津」も「千代」もかなり珍しい苗字の部類だ。その二人が出会う確率、を柳が真剣に計算していたけれど、あまりにもゼロが多すぎて千尋は正答を記憶していない。
 そんな天文学的な数値の話をしたくて千尋は二人目の忍足を連れ出したのではないし、多分、忍足も興味がない話題だろう。
 自動販売機の前に辿り着いてそれぞれが適当な飲み物のボタンを押す。というか、千尋の分は仁王が勝手に選んで、カフェオレを押し付けられた。多分、仁王なりに両国中央とのことで腹を立てている、という意思表示なのだろう。理解出来てしまったから、苦笑してカフェオレのボトルを開栓した。
 自動販売機から少し離れたところに落ち着いて、千尋は言う。

「で? 俺はお前のこと何て呼べばいいわけ? 忍足、は区別付かねーし、いきなり『侑士』で問題ないならそうするけど?」
「別に『侑士』でもええけど、そしたら俺も『千尋』て呼ぶわ。それは別にええん? 『行き止まり』の常磐津千尋

 忍足改め侑士は再びその聞いたこともない単語とセットで千尋に確認を促す。
 別に彼が千尋のことを名前で呼ぶのには何の抵抗もない。忍足謙也を挟んで知り合いの知り合い同士という関係が成立しているからだろう。謙也が信頼に足る人物でなければ、この不思議な人間関係は破綻する。
 キワ、と呼ばないのは謙也が侑士に千尋のことを話したのだろう、という推測を裏打ちしていた。
 侑士は見たところそれなりに真面目そうだし、人の話を聞かないレベルの偏屈には思えない。謙也と交流があるのなら、きちんとした性格をしているだろう。
 だから。

「何なんだよ、その『行き止まり』ってやつ」
「ええように言うと『共通のあだ名』やけど」
「けど?」
「まぁ、言うたら『蔑称』なんやろうなぁ」

 逆立ちしたところで絶対に勝たれへんやつへのつまらへん仕返しや、と侑士が何の感慨もなさそうな顔で言う。「行き止まり」を表す英語が「デッドエンド」で、感覚的な話で言えば世間一般が幸村のことを「神の子」と呼ぶのと似ている、と侑士が語った。どこに打っても絶対に返ってくるイメージを類推するプレイスタイルで、程度から言えばまだ攻略の可能性が残っているから「行き止まり」なのが千尋、もう何の可能性も残っていないから別次元の存在として認識されているのが「神の子」なのだろうというのが侑士の弁だ。
 相互理解を放棄して、対戦相手になったら「運が悪かった」で済ませる為の方便だ。そんなことをつらつらと説明して、一番最後に侑士は「まぁ、そないなこと言う俺も『千の技を持つ天才』らしいわ」と締め括った。
 つまり、何なのだろう。
 蔑称を与えられたもの同士だから仲よくしよう、という声色ではないし、「天才」だから彼にひれ伏せ、という意味にも聞こえなかった。ただ、事実だけを淡々と語って説明すべきことは説明したとでも言わんばかりに侑士の表情は凪いでいる。立海にこういうタイプの仲間はいないから、新鮮な感覚になる。

「なぁ、侑士」
「何や、千尋
「『どうして宍戸から俺を庇ってくれたんだ?』っていうのは聞いてもいいのか」

 その問いを放ると侑士の眼差しがすっと鋭くなったのをレンズ越しに感じた。

「勘違いせんといてや。別に俺はお前を庇ったわけやない」
「『氷帝の面汚しになるのを防いだ』だけ?」
「噂よりは話早いやつやな」

 その噂というのがろくでもない内容なのは聞かなくてもわかる。
 知性が壊滅的だとか、日本語能力に問題があるだとか、そういった噂が他校の間に流布されていることは柳の調査でわかっている。氷帝の誰が千尋のデータを集めたのかはわからないけれど、それでも一つだけ言えることがある。
 千尋を侮る噂が流れても、千尋の価値は寸分たりとも揺るがないし、寧ろ千尋の戦術から言えば勝利が近くなるだけだ。
 だから。本当は侑士の認識を塗り替えなくてもいいし、正しいデータなんて与えなくてもいいのだけれど、それでも若干気難しそうなこの知り合いの知り合いと友好的な関係を築けたらいいなと思ってしまった。

「言葉には裏と表と裏の裏があるって、そこにいるやつが教えてくれたからな。な、ハル」
「ピヨッ」

 千尋の言葉には例の奇妙な擬音が返ってくる。
 道連れを頼んだのは千尋だし、初対面の相手と仁王が打ち解けてくれるだなんて期待はしていなかったけれど、それでも、この対応は塩対応と言って差し支えないだろう。まぁ、塩は塩でも天日甘塩なのは一応わかっているけれど。
 そんな千尋と仁王の双方向でしか通じないやり取りをどう受け取ったのか、侑士が言う。

「今年は跡部がおらへんから面白うないと思ってるんやろうけど」
「まぁその点は認める」
「いや、流石に認めたらあかんやろ、千尋
「お前が自分で言い出したことだろ」
「さっき、『言葉には裏と表と裏の裏がある』てドヤ顔で言うたやつには言う権利のない台詞や言うてるんや」
「誰も全部区別出来るとか言ってねーだろ」

 もう、ほんま謙也の言うてた通りのやつやわ。
 言ってレンズの向こうの眦がほんの少しだけ柔らかみを帯びた。氷帝の誰かが集めてきたデータより、謙也が伝えた印象の方が幾らか信憑性が高い、と言外にあって千尋はちょっとした悪戯でも成功したような気持ちになる。身長、体重、誕生日に血液型、出身地から勉強の得手不得手、異性の好みのタイプまで揃っていてもそこに「常磐津千尋」は僅かしかない。データはあくまでも客観的に収集されるもので、数字はその持ち主の印象までは伝えてくれないからだ。その点、忍足謙也という主観を通して得た感想は偏見に満ちているけれど、人となりを雄弁に物語っただろう。
 侑士のその感想が千尋に伝わって、そうして独断と偏見に満ちた印象が一巡する。一巡して千尋は謙也のことを更に好意的に捉えることが出来た。侑士に何を話したのだろう。その内容を尋ねても、侑士は多分答えてはくれないだろう。それでも、一つだけ確かなことがある。謙也もまた千尋のことを好意的に受け入れている。
 だから。

「侑士。帰ったら謙也に言っておいてくれよ。『千尋は相変わらず馬鹿だった』って」
「馬鹿は馬鹿でもテニス馬鹿や、って言うてほしいんやろ」
「まぁ、関東で一番のテニス馬鹿を決める大会に出てる時点でそれ以外の答えがあるわけないと思うけど」
「勝って当然、やとは言わへんのやな」
「今日、ちょっと自信減ったけどテニス馬鹿に悪いやつはいねーだろ」

 本当に、本当の本当に馬鹿が付くぐらいにテニスのことを愛しているやつに悪人なんていない。整った外見から受ける印象をその悪口で一瞬でぶち壊してしまう跡部も、自分たちに勝ってレギュラーとして出場した先輩を無残に叩き伏せた千尋を睨みつける宍戸も、そんな仲間のフォローをすると同時に常磐津千尋が本当に本当のテニス馬鹿かどうか確かめずにはいられなかった侑士も。ここにいるやつはみんな筋金入りのテニス馬鹿だから、最後の最後には分かり合える。
 そう、豪語すると侑士は嬉しそうな、それでいて同じぐらいつらそうな顔をして不器用に笑った。

「筋金入りの阿呆の面倒見るんは大変やな、白いの」
「プリッ」
「何言うてるんかようわからへんけど、まぁ満更迷惑そうにはしてへんみたいやし、そろそろ俺はお暇するわ」

 ほな。
 言って侑士が氷帝の一団が待っている方へと歩き出した。侑士に勝ってレギュラーになった三年生の先輩を軽々と負かしてしまう立海、に対してどんな気持ちを抱いているのか。その感情の機微を理解出来るほど、千尋は精神的に成熟していない。
 ただ。

キワちゃん、満足したじゃろ」
「えっ、あぁ、うん。まぁ」
「何ぞ不満でも残っちょるんじゃったら、今のうちに言うておきんしゃい」

 今なら仁王が王様の耳はロバの耳状態で聞き流してやる、と言外にあって千尋の仲間というのはどうしてこう一事が万事、わかりにくい優しさの発露しか出来ないのだろう、と苦笑する。
 苦笑して、不満なんてないと告げると、その顔では何の信憑性もないから虚勢を張るのはよせと返された。

「本当に、不満なんてねーよ」
「勝ったやつが、負けたやつに同情するんは相手に対する侮辱じゃ、ちゅうんを何回お前さんに言えばええんぜ?」
「同情はしてねーよ。それだけは断言出来る」
「じゃったら何が不服なんじゃ」

 多分、仁王はもうわかっているだろう。
 わかっていて、それでもなお千尋の言葉で説明させることに意義を見出しているから質問の矛先を緩めることをしない。相変わらず手厳しいやつだ。わかっている。そういう仁王を選らんで連れて来たのは他ならない千尋自身だから、わかっている。
 今から始まる押し問答は千尋が望んだものだ。
 だから。
 感情として確かに千尋の中に存在する形のないものを必死に言葉に変換する。
 こうなったら順を追って説明するのが最終的には最短距離になるだろう。
 腹を括って、訥々と千尋は言葉を紡ぎ始めた。

「精市がさ、『神の子』って呼ばれるの差別だって言ってただろ」
「ほう、つまり、キワちゃんは『行き止まり』ち呼ばれて、幸村の居心地の悪さが分かったような気分になっちょるんじゃな」
「ハル、お前さぁ。言い方、あるだろ」
「で? 今度は勝てん言い訳をするんに同情かい」
「だから! 言い方!」
「幸村の言う通りじゃ。お前さん、ほんまに馬鹿の中の馬鹿じゃろう」

 人と人というのは所詮は別の個体で、決して同一の存在になることはない。生まれ、育ち、持って生まれた才能と性格、それらを取り巻いた環境。どれ一つ等しくは存在しないのだから、共感というのは幻の概念だ。ただ、自分という人格の中で生み出された架空の感情だ。
 だから。
 相手の立場になってやっと意味がわかった、だとか、理解出来た、だとかいうやつは所詮その程度だ。どうあっても想像上にしか存在しないものを、最後の最後に自らに降りかかってようやく想像する、だなんていうのは傲慢で利己的で短絡的だ。お前はそんなつまらないやつだったのか、と仁王は暗に千尋を詰っている。
 詰っているのに責められている感じは少しもしない。仁王の説教はいつもこうだ。千尋が自分で考えて答えをだすことだけを望んで、仁王は辛辣な言葉を浴びせる。辛辣な言葉で殴ってくるのに、その向こう側に確かに優しさとしか言いようのないものが透けて見えるから、千尋もまたその信頼に応えたいと思う。
 だから。

「ハルにはさぁ、わかってることなのかもしんねーけど『差別』と『区別』がどう違うのか、なんてあんまり考えたことなくってさ」

 不条理を伴うのが差別で、それ以外の合理的判断に基づく客観的な線引きを区別だというのだと漠然と思っていた。平等や公平なんて概念上にしか存在しない。本当にそんなものを求めるのなら、人はまず感情という概念を棄てるべきだ。優越感も劣等感も全て棄てて、人を羨むことも自らを誇ることすらも棄てて、それでもなおスタートラインは横一直線にはならない。
 だから。わかっているのだ。
 人は感情と共に生きる生きもので不条理の根拠は人によって違う。
 だから、「差別」だなんて言葉を使う幸村精市のことを少し大袈裟でブラックジョークの類か何かだろうと思っていた。実際に自分にも蔑称が付けられるまでは。

「そがいなもんを考えても人は幸せにはなれん」
「それでも、何つーの。目の前に線引かれて、『あぁこいつは俺を受け入れるつもりがねーんだな』って思うのって結構ダメージでかいじゃねーか」
キワちゃん、それが王者の道じゃろ」

 目の前に立ちふさがったものは一刀両断にして、追いかけてくるものは何度でも蹴りつけて、一つしかない頂点を必死に奪い合うのが王者の道だ。
 王道ではないかもしれない。覇道なのかもしれない。
 理解も共感も全てを棄てた見返りが「王者」なら、千尋は侮蔑も敬遠も受け入れなければならないことを今知った。
 ただ。

「お前さんの『王者の道』にはお前さんしかおらんわけじゃなかろうが」
「ハル?」
「お前さんの前にも後ろにもそりゃあ間隔が大分遠いかもしれんがの、ちゃんと一緒に歩いちょる仲間がおるじゃろうが」

 それとも、千尋の道にはもう自分たちは必要ないのか、と責められて千尋は慌てて首を横に振った。

「違う! そんなことあるわけないだろ!」
「じゃったら、お前さんは堂々としちょれ。えいやないか、別に誰に差別されても、お前さんの評価は揺るがん。お前さんがいつか倒す俺の目標なんも変わらん。何も変わらんのにお前さんは何にビビっちょるんじゃ」

 そうじゃろう、立海の常磐津千尋
 言われて、千尋はやっと自分の中で引っかかっていた何か、から解放された。あぁ、そうだ。そうじゃないか。他人の顔色を窺って、万人受けする評価がほしかったのじゃない。勝利という一番わかりやすい答えがほしかったのは認める。それでも、その「勝利の内訳」自体に優劣を付ける、だなんていう馬鹿馬鹿しいことまでもを求めたことはない。千尋は今まで、小学生のときからこの関東大会に至るまで、ずっと、ずっとテニスのことが好きすぎて自分の持っているものを全てテニスの為に使ってきた。
 その過程で得たものが同じ道を同じ方を向いて進む仲間であって、望みもしない蔑称は付属してきただけのことだ。
 だから。

「ビビってねーよ」
「ビビっちょったじゃろうが」
「見間違いだろ」

 謝罪の言葉を口にしようかと思う。同じ道を歩いている仲間のことを束の間忘れたことについては多少の罪悪感を覚えた。それでも。多分、謝罪は言葉ではなく今後の行動で示すべきだろう。仁王の顔色を窺ったわけではない。ただ、千尋自身がそういう謝罪の仕方を望んだ。反省はしているけれど後悔はしていない。なら、千尋が選ぶ道はもう決まっているだろう。
 虚勢を張るなと言われた。
 その言葉の意味は理解している。仲間の前でまで無理やりに強がらなくてもいい、と言われたのだ。
 それでも。
 その好意に甘えて乗っかっていくだけになるのは千尋の本意ではないから、悪口を叩く。
 また前を向いていると示すと仁王は「それで?」と千尋を試すように悪戯に笑った。

「『行き止まり』さんは相棒の蔑称も聞いて、今のうちに一通り荒れちょった方がえいと思うが、どうじゃ」
「げっ、ダイの分まであるのかよ」
「そりゃあ、お前さん。お前さんらは立海黄金ペアなんじゃから、蔑称付くのも一緒に決まっちょろうが」

 そういうものか。そういうものだ。
 一人で問答して自己満足の答えを得て、千代の「蔑称」を聞いてみようと思う。
 それをそのまま伝えるのはどこか気恥ずかしい感じがしたし、何より仁王とは対等な立場でいたい。これは仁王から一つ借りている。その自覚があったから「明日の予定」の条件を提示する。

「『スターバックスラテ一杯』でどうだ」
「サイズは」
「グランデまでなら自由」
「お前さん、そこまで言うならサイズ自体を自由にしてもえいじゃろ」

 ほんまにようわからんやつじゃ。言って仁王が明るく笑う。彼のこの表情を見られるのは本当にごく一部のやつだけで、その一部に千尋自身が含まれているということをとても誇りに思っている。
 そして、同時に仁王の笑みは千尋の失態を許して「明日の予定」の提案に乗った、ということも意味している。だから、確認なんて何の意味もないのだけれど、敢えて言った。

「で? どうなんだ」
「しょうがないき、教えちゃろうかの」
「っていうか、明日何時にどこだよ」
「まぁそれはおいおい今晩にでもメールするぜよ」

 で、じゃ。と前置いて千代由紀人の「蔑称」を教えてもらう。千尋とどっこいどっこいの「コート上の戦車(チャリオット)」というのが千代の「蔑称」だった。機動力、強打力ともに警戒が必要なのはわかっているのに、気が付くと相手選手の打ち返したいコース上にいて、このうえないほどのプレッシャーを与える。それでいて退く場面ではきっちりと退いて、戦略的に対処するのが難しい。そういう、名前だと仁王が淡々と語ったから、多分、千尋たちに「蔑称」が付いたのは最近のことではないのだろう。自分のことが一番気付きにくいとはいえ、今まで知らなかったことを思うとどこか歯がゆい気持ちになる。
 それでも。

「『行き止まり』に『戦車』なぁ」
「まぁ俺にしてみれば逆の印象なんじゃがのう」
「だよなぁ」

 そんな感想を抱きながら雑談をしていると決勝戦をしている筈のコートからどっとどよめきが湧き起こる。多分、S3の試合が終わったのだろう。決勝戦のS3は真田弦一郎だ。彼もまた「皇帝」という蔑称を持っている、という内容を仁王が帰る道すがら教えてくれた。
 真田が皇帝、というのには少し同意する。
 そう言うと仁王は悪戯が成功した子どもの顔になって「武家屋敷の皇帝、ちゅうんもミスマッチでえいと思わんか、キワちゃん」と言った。言った頃に集合場所に辿り着いて、整理体操をしている真田の姿を視認する。その瞬間、「武家屋敷の皇帝」というフレーズが無限に再生されて、千尋は笑いを堪えるのに必死だった。
 必死だったけれど、この何とも言えない感情のことは嫌いではないと純粋に思う。
 だから。

「ハル。あいつら誘って祝勝会しようぜ」
「月曜になったら臨時集会してくれるじゃろ」
「じゃなくて」
「『俺たちで祝いたいんだ』だろ、キワ

 千尋の言いたかった内容が相棒の音声で再生される。千代がいる場所までもう戻ってきたのか、という気持ちとこの会話はどこから聞かれていたのだろう、という疑問が同時に湧く。湧いたけれど、後ろめたいことは一つもなかったから相棒に向けて笑みを投げる。

「お前はどうなんだよ、ダイ」
「いいんじゃない。俺は賛成するけど」
「じゃあ俺も行くぜ。いいだろ、キワ
「待てよジャッカル。俺たちだって行くに決まってるだろぃ。な、柳生」
「当然です。ワタシも祝いたい気持ちは皆さんと変わりませんよ」

 いつも通りの顔ぶれの同意を得て、笑顔の千尋は三強を呼ぶ。

「精市。ってことだから今日は奮発してロイヤルホスト行こうぜ!」

 奮発しても行き先がチェーンのファミリーレストランなのは中学生の小遣いの限界だ。
 ドリンクバーがあって、全員同じ区画に座ることが出来て、安価。
 この条件を満たせるのは概ねファミリーレストランぐらいだから、千尋たちの小さな宴会はいつでもファミリーレストランで催される。
 店の名前を出して、出欠を確認すると幸村はこれ以上ないほどの笑顔で答えた。

「18時解散が厳守出来るならいいよ」
「いや、それは流石に早いんじゃ……」
千尋。お前だけ来なくてもいいんだけど?」
「よし、じゃあ皆さん18時解散厳守お願いしまーす!」

 その宣言に仁王や丸井がお前だけ18時に解散しろ、と愛ある詰りを放ってきたけれど、それらの全てを無視して千尋は柳と幸村との三人で祝勝会の具体的な計画について話し始める。
 昨日の夢を今日の現実に変えて、今日の夢を明日に思い描いて、そうして毎日は続いていく。
 取り敢えずは、今年に入って二本目の優勝旗に手応えを感じたところで千尋の夏休みはまずますの滑り出しだった。明日の練習は禁止されたけれど、仁王の買い物に付き合うのはそれほど苦手ではない。
 だから。

千尋! 18時解散厳守なんだろぃ! 早く行こうぜ!」
「待てよ、ブン太! あぁ、もう!」

 いつの間にか帰り支度が終わって、会場から神奈川へ向けての移動が始まっている。
 関東大会の試合はゲームを落としたものもあったけれど、どの試合でも三タテを決めた。
 こんな時間に決勝戦が終わるなんて前代未聞だ、という顔をしている大人たちには無視を決め込んで、千尋もまた荷物を背負って通路を駆け出す。
 解散時刻までのカウントダウンを始めながら、それでも千尋たちの小さな祝勝会は間もなく始まろうとしていた。