. All in All => 54th.

All in All

54th. 例外処理

 立海の夏合宿には二種類がある。
 去年、常磐津千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)が強制的に参加させられた全国大会終了後の宿題合宿と、大会前の追い込みで行わる強化合宿の二種類だ。宿題合宿は運動部であることを理由に勉学を怠らないように、という目的があるから原則的には全員参加なのだけれど、その代わり合宿に係る費用は全て学校側が持つ。日程はそのときどきの課題の出題内容や部員たちの性格といった要素を考慮され、最終的には部長と顧問との間で決定されるから、開催されない夏もある。優勝旗を携えて帰ってきた去年は二泊三日で、褒められているのか優勝旗でも不足だと言われているのかわからない、と先輩たちが愚痴を零していた。多分、どちらもなのだろう。優勝をした功績を評価してある程度の妥協があったけれど、それでも勉学にも勤しんでほしいという顧問と平福の願望があったから催行された。
 だったら、二連覇という功績はどのぐらい考慮されるのだろう。
 その答えに対する感想を言う権利は千尋自身の働きにかかっている。だから、何の手抜きもなく戦うだけなのだけれど、心のどこかで全日程免除、だなんていう奇跡が起こることを望んでいた。
 そんな千尋の八月に強化合宿がやってきた。
 関東大会の優勝を称え、全国大会の健闘を激励する臨時集会が行われた四日後のことだ。寮の食堂で夕食を取っていると、三年の特待生の先輩が何でもないことのように言う。

「カラ、明日何時に大学正門だっけ」
「六時半だねー」

 その文句から始まる会話に自分が該当している、と思うほどには千尋は自意識過剰ではないと自負している。随分早くから遊びに行くのだな、と思いながら会話の内容を聞き流す。先輩たちの会話は奇数人数で行われていることを忘れさせるのが不思議だ。千尋や千代の会話も来年にはこの域に達するのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えていた。

「えっ、四十五分じゃなかったのかよ」
「じゃあクラだけその時間でいいんじゃない?」
「サヨちゃーん、それはないだろ」

 佐用が若干辛辣なのも、倉吉が概ねアバウトなのもこの一年で当たり前の光景になった。
 じゃれ合うように三人の軽口が続く。
 大らかだけれど三年特待生の中で一番現実主義者である河原の反応に固まったのは倉吉でも佐用でもなかった。

「そうだよー、強化合宿に特待生が遅刻なんて駄目じゃないかー」

 形容するなら「へらっと」としか表せない河原の笑顔が唐突に千尋たちの横面を殴る。何だその話は。強化合宿って何だ。聞いているのか、と千代と二人、思わず顔を見合わせた。どちらの表情にも焦燥以外の何ものもなくて、多分、今、千尋と千代は血の気が引くという体験をしているのだな、と妙に客観的な感想が浮かんでしまうぐらいには焦っている。
 何の話をしていますか、と正レギュラーが揃って問い返すのにはやや抵抗があって三年生とは反対側に座っている一年の特待生の顔を見た。彼らの顔面にも困惑が載っている。立海テニス部のホウレンソウはどうなっているのだ。おかしいだろう、と文句を言っていい場面だと判断する。
 まぁ、文句を言おうかどうだろうが千尋たちは強化合宿に参加する、という選択肢以外はないのだけれど。

「サヨ先輩、ストップ! ストップ!」

 選択肢がないことを察した千尋が諦観を示して、三年生の会話に割って入る。
 恥だとか外聞だとか言っている場合ではない。
 聞くはいっときの恥、聞かぬは一生の恥、という言葉をこの一年間で千尋はその精神と共に学んだ。知らないことを知らないというのはそれほど罪深いことではない。同じことを三度も四度も尋ねたりしない限りは。
 だから。
 全力で三年生の会話を止めた。
 名指しされた佐用がきょとんとした顔で――さも何ごともなかったかのような顔で千尋に問い返してくる。

「どうかしたの、キワ君」
「その話、最初から全部説明してほしいっす」
「この話ってどの話かな?」
「いやいやいやいや、サヨ先輩が今してる話じゃないっすか」

 わかってるでしょ、と含ませると佐用の笑みが深くなる。
 一年以上一緒にいると、誰のどの表情がどういう意味だとかいうのが説明されなくてもわかるようになってくる。だから、千尋も一応は理解しているのだ。千尋が今、全力で佐用にヘルプを出しているというのを佐用が理解していることも、それを理解した佐用が千尋に何を求めているのかも一応は理解している。
 理解したうえでダメ押しをした。当然、否が返ってくる。

キワ、その人スイッチ入ってるから全部言うしかない」
「全部ってどこからだよ!」
「まぁ『お前が思いつく限り』じゃない?」

 お前が何をわかってて、どういう気持ちで、何を知りたいのか。
 二年生の先輩としての矜持や面子を「全部」棄てて、それでもいっときの恥を取れ、と言われている、と千代は千尋に言った。一年生の三人は既に高みの見物を決め込んでいる。準レギュラーにすらなれなかった。その時点で彼らはもう恥をかいている。今更恥が一つ増えようが二つ増えようが大した差ではない、というのが一年生の認識なのだろう。
 恥の上塗り、という日本語が不意に千尋の脳内に明滅した。
 この場合、何をもって「恥」とするのかの定義の問題に突入するのが二十秒でわかる。その時点で千尋は十分成長した。それを踏まえたうえで佐用が無理難題を放ってきているのもわかる。
 それでも。
 投げられた挑発を額面通りに受け取るのは佐用の期待から外れているところまでを更に十五秒で理解したから、千尋は抵抗を示した。無駄だとわかっている。それでも、その程度で自分の道を譲るようなやつは立海レギュラーに必要ではない。
 だから。

「はぁ? 『全部』じゃねーかよ!」
「だから、そう言ってるだろ」

 下手な抵抗なんてしていないで、さっさと諦めろ、と千代は言う。諦める、だなんて簡単に言うのなら千代が代わりに恥をかいてもいい筈だ。なのに千代の考慮の中にその答えが存在しない。全幅の信頼だ、なんて言えば格好はいいけれど、要するに千代は千尋に甘えている。千尋なら多少の我がままを通しても問題ないと思っている。
 その若干歪な信頼関係についての是非は取り敢えず後回しだ。
 今は目の前に横たわっている「先輩たちの謎の発言」を解明しなければならない。
 先輩たちの会話は三人で成り立っていた。つまり、内容を理解しているのは三人いる、ということだ。佐用に答える気がなくても残り二人は別の腹積もりかもしれない。そんな薄くて細い可能性に賭けて、千尋は悪あがきを続けた。
 
「じゃあクラ先輩に聞きますけど、その話最初から説明してほしいっす」
「サヨちゃんが言わないなら俺も言ーわない」
「じゃあ俺も言ーわない」
「あんたたち中学三年生だろ! 最高学年だろ! もっと後輩に優しくしてほしいんですけど!」

 立海特待生が先輩になる、ということがどういうことか。千尋は三か月前に自ら実体験をした。優しさや甲斐甲斐しさを前面に求めるのなら、そんなやつは特待生として戦うための最低の条件を満たしていない。誰かを踏み台にしてでも、利用してでも自分の道を走っていけるやつ。立海はそういうやつを特待生に求めている。
 だから。
 佐用たちのやり方が間違っている、と詰るのはそもそもお門違いだとうことを千尋も理解していた。千尋自身、鹿島たちに強権的な態度を取ってきた。煽るし、試すし、潰そうともするし、突き放しもする。
 そんな千尋に今更佐用たちの不親切を非難する権利なんてどこにもない。
 わかっている。
 わかっていたから、千尋は肺腑の底から大きなおおきな溜息を吐いた。

「サヨ先輩、明日、立海大学で何するんすか」

 河原の発言に誤りがないのなら強化合宿だろう。そのぐらいは流石に類推出来る。それでも日程も集合時間も持ちものもメンバーもわからないのに自尊心を気にしている場合ではないのは自明だ。
 これ以上の抵抗は無意味だ。それを理解したと態度で示せば、佐用は満面の笑みをたたえたまま言う。

「強化合宿、だけど」

 キワ君、聞いてなかったの。
 不思議な声で佐用が問い返す。聞いていない。聞いた覚えがない。去年の強化合宿は失意のままに欠席したから出欠の希望調査すらなかった。だから、立海の強化合宿が何なのかも知らないし、どういった手順を踏んで行われるのかも知らない。その点において千尋たちと鹿島たち一年生に差はない、ということを三年生は教えたいのだろうか。だなんて意味のないことに意味を見出そうとしていると倉吉が「キワ。ここ、すごいことになってるぞ」と自分の眉間を指さしながら笑った。

「聞いてないっす。聞いてないっていうか、寧ろ、いつその話題が出てきたのかも知らないっす」
「まぁ、元則指名制だから」
「は?」
「特待生は出席するのが暗黙の了解だし、レギュラーも全員参加だし、それ以外で参加したいなら平福に直談判だから、みんな君たちが去年、欠席したってことももう忘れちゃってるんじゃないかな」

 そのぐらい、千尋と千代は悲壮感を纏っていない。自虐も傲慢もない。健全な中学生に成長してよかったのではないか、と佐用が悪戯げに笑う。
 悪意なく笑っているのはわかるし、まぁそういう成長過程を遂げているのは千尋としてもそれなりに意味のあることだろう。
 十九時を過ぎて明日の予定を知らされる、というイレギュラーがなければ、多分千尋だって朗らかに笑えた筈だ。
 ただ。

「いや、あの、サヨ先輩? 健全な中学生なのは別にどーでもいいんすけど、結局俺たちは誰々が何時に大学正門なんすか」
キワ君。聞いてなかったの? 特待生は全員出席。レギュラーも全員出席。数学の初歩的な問題じゃない? 順列組み合わせ、頑張ろうか」
「ってことはルックは知ってるんすよね?」
キワ君。ルッ君が立海に来たの、いつだっけ」
「その問題に正答するとすげーやばい現実が待ってる予感しかしねーんすけど、一応答えますね。去年の九月っす」
「さぁ十四歳のキワ君はどうするのが更なる正答なのかを考えようか」

 佐用というのはときどき、こういう風に人を試してくる先輩だ。タイプで分けるなら幸村精市と似たようなジャンルだろう。佐用が求めているのはとてもシンプルな答えだ。自分で考える。自分で動く。自分で出来る最善を尽くしてもいないのに他人の力を借りようとするのは人として不全であると思っている。
 だから。

「ダイ、お前、一人で荷造り出来るよな?」
「はぁ? キワ、俺を何だと思ってるわけ?」

 出来ないに決まってるだろ、と何の恥じらいも躊躇いもなく千代が答える。馬鹿か。それは胸を張って言う台詞ではない。そう言いたかったけれど、言ったところで何の解決にもならないし、何の効果も伴わない。
 溜息を吐いて、前髪を乱暴にかき上げて、千尋もまた腹を括った。

「サヨ先輩、日程、三泊四日っすか」
「正解」
「じゃあダイ。お前、下着四日分、シュウのベッドの上に並べろ」

 その間に千尋がジャッカル桑原に明日の予定を伝えるから、と告げると千代が少しだけむっとした顔で「俺がルックに電話するからお前が荷造りしたらいいだろ」と返してきたので自分でやることに価値があるんだと一方的に決定して通告する。
 同時に高見の見物を決め込んでいた後輩三人に話を振った。

「で? お前たちは荷造り用の鞄とか持ってるんだろーな」

 今なら寮の備品借りられるから申請しろよ、と言い残して千尋は席を立つ。トレイの上に載ったおろしとんかつ定食はすでに完食していた。特待寮の食事はいまだに外食の感覚なのだけれど、それでも千尋にとってはこの味がなくては日々が成り立たない。日本全国津々浦々から集まってきた後輩たちにとってもそういう食事になってくれればいいな、と思いながら返却口にトレイを置いた。
 一泊二日程度の軽微な合宿ならラケットバッグで兼用出来る。ただ、今回の日程は三泊四日だから別の鞄を用意する必要があるだろう。カレンダー如何にかかわらず、日々合宿というイベントが発生する特待寮においては、日程に合わせた鞄を貸し出すという仕組みがある。ただし、貸出日の前日21時が締め切りだから、後輩たちに与えられた猶予もそれほど長くはないだろう。
 まぁ、立海大学が会場なら、足りないものを寮へ取りに帰ってくるという最悪の選択肢があるから、それほど悲観的になる必要もないのだけれど。
 部屋に戻って、携帯電話で明日の予定を知っているか、と桑原に連絡するとどうやら彼も知らされていなかった一人らしく「サンキュー、キワ! じゃあ明日よろしくな」と手短に終話を促される。それもそうだ。お互いの身の上に降りかかった愚痴については明日以降、好きなだけ交換する時間があるけれど、明日の集合時間は待ってくれない。優先順位を正しく分配出来る自分たちの成長を少し実感して、千尋の胸中がほんのりと温まる。
 この気持ちなら千代の荷造りを手伝える。そんな感覚を抱いて、千尋は隣の部屋のドアを叩いた。
 それでも、まぁ、千代だって幾らかは進歩しているのだ。三泊四日用の鞄を空っぽにして、使うべきあるじのいない徳久脩(とくさ・しゅう)のベッドに用意した着替えを並べて、百円均一でまとめ買いした衣類圧縮袋の枚数が足りるかどうかを確認している。
 これが進歩でないのなら、多分、千尋は一生進歩という概念を理解することはないだろう。
 そんな小難しいことを考えながら、二人がかりで荷造りをする。千尋の分は三十分もあれば十分に用意出来るだろう。あっという間に就寝時間が来て、すとんと眠りに落ちて、そして朝が来た。
 特待生は寮の玄関に一旦集合する。一部の顔ぶれだけで移動をすると道に迷う愚かものが出かねないから、と三年生たちが言ったとき千尋には身に覚えがありすぎて苦く笑うしかなった。なるほど、千尋の人生はこうして失敗の経験を踏襲していくのだな、と思ってそれでも反省があるのなら自分の道を譲らなくてもいいのだろうかとも思う。
 そんないつも通りで、去年とは少し違う毎日のことを考えながら大学の正門まで移動すると、そこには見慣れた顔がすでに幾つか待っていた。

「弦一郎、お前また四時起きかよ」

 この一年間ですっかり慣れてしまったのだけれど、真田弦一郎が起床する刻限は季節によっては早朝の範囲を逸脱している。まぁ、八月の午前四時ならある程度は朝の範疇にあるだろう。それでも、千尋たちよりも一時間近く早くに起きているのに日中に集中力が途切れたりすることもない。どういうメンタルの構造だ、という皮肉を僅かに載せてからかうと真田はこれでもかと言わんばかりの自慢げな顔で答える。

「ふん、四時では間に合わんわ。三時半に起床した」

 それはもう既に早朝の範囲を100%逸脱して、深夜だ。三時半。三時半って何時だ。そんな問いを胸中で一周させて、そして間髪を入れずに遺憾の意を最大限に呈する。千尋の隣の千代が、くわ、とつまらなさそうに大きなあくびをした。

「何に! 時間を! 割いたら! そういうスケジュールに! なるんだよお前は!」
「鍛錬の基礎は精神統一だ。そのためには余裕をもって行動するという前提が――」

 立て板に水状態で真田の解説が始まる。しまった。これは虎の尾を踏んだというやつだ。多分、真田の気が済むまで軽く十分以上は鍛錬における心構えの講釈が続く。
 精神論はどうでもいい。一番最後に自分を支えるのが根性論だ。心身共に揃ってこそ勝利を得られるのだということは千尋も理解している。どれだけ身体を鍛えても、精神が未熟では試合に勝つことが出来ない。
 そもそも、その身体を鍛えるという行為自体が精神力によって支えられているのだということも理解している。千尋が理解していると真田も理解しているのに、どうしてこいつはいつだって説教を始めてしまうのだろう。この悪癖がなければ、もっと面白くていいやつだということが多くの相手に伝わるのに、と思って千尋は自分の仮定を打ち消した。
 おもむろに説教を始めて、自分の正当性を疑いもしない真田から、その特徴が失われてもそれは本当に真田なのだろうか、とか。そんな欠点がなくて万人に愛される存在だったら千尋は真田を今と同じ感覚で仲間だと思ったのか、とか。そんな答えがありそうでないようなことを考えてしまう千尋自身のことに気付くとどんな顔をすればいいのかがわからない。いつからだろう。千尋は一人前に自分と世界の線引きが出来るようになった。集団生活の中で、協調性と個性は相反しないことも知った。
 それを教えてくれた仲間がいるのはどう考えてもただの僥倖で、だからと言って結論がわかっている説教を最後まで付き合わないという選択をする権利が千尋にあることも今では感覚的に理解している。
 だから。

「わかった。精神統一教のありがたさはわかった。わかったから、もうお前黙っててくれ」
「何に時間を割くのかと訊いたのはお前ではないか、千尋
「返答が想定の範囲内すぎて時間がもったいなくなったんだっつーの」
「ほう、ではまずその想定の範囲とやらを確認する必要があるな」

 にたり、と真田が凶悪な笑顔を浮かべる。
 自尊心に満ちていて、勝算を十分に持っていて、それでいて悪辣な冗談の範囲を逸脱しない遊びを真田が始めるのも満更でもなかったけれど、そういう高尚な遊びは合宿の最終日にしてほしい。
 婉曲にそれを伝えるのは千尋の性分ではなくて、三泊四日の荷物が入ったリュックサックを背負ったまま、ラケットバッグを地面の上に置いて両手を大きく胸の前で交差させた。どこからどう見ても否定意見の主張で、それ以外の解釈の余地はない。

「ありません! ノーサンキュー! はい、蓮二。結局今日は何人来るんだよ」

 話題を強制的に次の段階へと進める。昨日の段階で知っていなければならない事実の確認なのだけれど、特待寮から来た千尋たち八人のほかで正門前にいるのは四人だ。真田、柳蓮二、仁王雅治とテニス部の部長である平福。幸村精市の姿がないけれど、彼の性格を考えるともう間もなく到着する頃合いだろう。特待生と正レギュラーは参加必須で、それ以外は任意だ、と聞いている。仁王がいるのは任意参加だろう。
 そんなことを考えながらあとは誰の到着を待つのかと思って柳に問うと「全体では十五人程度だ」という答えがある。
 十五人の内訳を思い浮かべつつ、数を確認した。

「えーっと、特待生が九人で、レギュラーが七人で――あれ? なんか既に多くね?」
キワちゃん、待ちんしゃい。今、お前さん二重にカウントしちょるぜよ」
「えーっと、えーっと」
「お前さん、ほんまに数字はからきしダメじゃのう」

 答え合わせは必要かい。何でもないことのように仁王が口を挟んでくる。声に出して計算問題を解いていた千尋が言うのも何だけれど、出来の悪い千尋の面倒を見てくれるに王雅治というやつは多分、とんでもないお人好しか何かだろう。
 九と七の重複を除外出来なくて計算で躓いた千尋は一瞬だけばつの悪さに苦笑を浮かべたけれど、結局は自力ではどうにもならないと察して助け舟を依頼する。
 ハル、頼む。
 その依頼に仁王は満更でもなく微笑んで今回の合宿の参加者の名前を教えてくれた。

「ルイとヤギと切原?」

 あれ? 人数多くね?
 呟いた千尋の背中の向こうからどっしりと落ち着いた声が聞こえる。振り返らなくてもわかる。この堂々たる声色の持ち主は平福のものだ。

「今回、俺は『見ているだけ』のつもりだ」

 強化合宿に参加する為の必要最低限の実力を持ち合わせていないし、今後伸びる可能性も低い。高校に進学したら多分、テニスはもう続けないだろう。そんな自分が切磋琢磨する場所にいるのは足を引っ張るだけだ。
 そんなことを平福が淡々と語る。
 あまりにも平坦で、抑揚もなくて、国語の教科書を音読しているだけのような平福の声に千尋は冷や水でもかけられたような感覚に陥った。

「部長――?」
キワ、別にテニスが嫌いになったとか、今更辞めたいだとか、そういうのじゃないんだ。ただ、今はそうだな、優勝旗を持って帰ってくるために何をしたらいいのか、で俺も悩んでいる」
「だから『見ているだけ』っすか」
「そうだ。お前たちのテニスを見て、お前たちがどういう手札なのかを理解して、そのうえで俺はオーダーを決めたい」

 それが俺に出来る最善じゃないか、そうだろう幸村。
 言って平福が視線を横に振る。その動線を追って千尋もまた同じ方向を見ると、そこにはいつも通りの幸村が立っている。
 そして。

千尋のこと、そういうの言っちゃうと無駄に悩むやつだってわかってて言ってるの、本当にいい性格ですよね」
「それでもなお前を向けるやつだとお前も確信しているくせによく言う」
「えっ? へっ?」

 目の前で始まった高次元の心理戦に千尋はただ右往左往するしか出来ない。
 千尋自身が話題の中心であるはずなのに、遠回しに評価されているのか、それとも貶されているのかも判断が出来ないから千尋は混乱を極めた。駄目だ。朝食のおにぎりを三つ食べたけれどそれではまだ脳に糖分が不足しているのだろうか。参加者が全員揃ったら、プロテインを飲むべきかもしれない。
 そんなことをぐるぐると考えているとぽん、と肩が叩かれる。仁王が複雑なのだけれど優しい顔をして立っていて、ああ、今は別に悩むタイミングではないのだと察した。
 
キワちゃん。お前さんはその舌戦に参加する権利はないき、俺とここで切原が何分遅刻してるか予想大会に参加しんしゃい」
「おっ、おう」
「じゃあ俺、十五分にサービス権1ゲーム」
「なら俺は二十分にセカンドサービス返上2ゲームだな」
「だったら、俺は間を取って十八分にコート半面賭けるぜぃ」
「では俺は十分にサービス権を2ゲーム賭けよう」
「そこまでたるんだやつではあるまい。定刻に1ゲームだ」
「ではワタシも切原君を信じて五分に1ゲームとしましょう」

 それで? キワ君はどうしますか。
 千代が言ったもん勝ちと言わんばかりの勢いで口火を切るといつの間にか揃っていた二年生の仲間が口々に賭けを始める。こういう、勝っても負けても誰も損をしない賭けごとは人を束の間楽しませてくれるから、千尋も決して嫌いではない。
 桑原に続いて丸井、そのあとを引き取って柳、真田と条件の提示が進む。生真面目を絵に描いたような柳生比呂士だったけれど、彼は意外とこういう遊びが好きなのだと知ったのはいつだっただろう。
 千尋の条件は何だ、と問われて考える。
 千尋が答えるより早くに仁王が「俺は大穴で三十分じゃの。2ゲーム賭けてもええぜ」と言ったのだけれど、そこまでを聞いていて千尋は噴出せざるを得なかった。

「お前ら、賭けの条件、ばっらばらで負けたときのこと考えろよな」
「まぁ、負けたやつは全員に対して自分が出した条件呑めばいいんじゃない?」
「お前、そこまで計算せずに賭けたくせによく言う」
「で? 何分に何賭けるんだよ、キワ

 そうだな、と千尋はしばし沈黙して、そうして結局は「二十五分にサービス権2ゲーム」と答える。
 それを蚊帳の外で聞いていた一年生の三人が苦笑していた。切原、全然信頼されてないじゃん。別所のそんな呟きが聞こえて二年生は顔を見合わせて笑う。そういう前歴を作ったのは他ならない切原なのだから、信頼を回復したいのならば、今後そうなるように努めるしかない。舌戦を楽しんでいる幸村を除いた二年生八人の中で、一番厳しそうに見える真田が、一番切原を信頼している、という結果が出てしまったのにも一年生は意外そうだったけれど、千尋たちの間では何の違和感もない。真田弦一郎というのはそういうやつだ。
 果たして切原は誰の信頼に応えるのだろうか。
 そんなちょっとした心躍る時間が始まるまで残り五分。
 切原が本当に定刻にやってきたら。
 そうしたら、千尋たちは真田にハンデの1ゲームを献上して、切原には昼食のデザートをくれてやろう。
 そのぐらいの心構えで千尋たちは悪ノリを楽しんでいる。
 いつか。
 一年生の四人がこの遊びを一緒に楽しめるぐらいに距離が縮まる未来まで千尋たちは彼らを試し続けるだろう。
 二年生の威厳と正レギュラーの責任を負った夏はそう簡単に終わってくれないのが、嬉しいような少しつらいような、それでいて一生終わらなくてもいいようなそんな複雑な感情で彩られていく。
 千尋の二度目の夏は、まだまだこれからなのだけれど、取り敢えずは遅刻癖の後輩が来なくてもこの合宿は始まってしまうのだろうなという確信に近い予想を立てた。時計の針は刻一刻と進む。定刻まで残り二分半。それぞれの感情を伴って切原の到着を全員が待っている。