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All in All

55th. 性善説

 人生という道は無限に折り重なっている。
 今、自身が認識している現在地点から分岐する無限の可能性の一つを拾って、残りを棄てていくという行為を繰り返した結果の一つを享受しているだけで、選ばなかった別の道もどこかには存在しているのだろう。
 時間の流れというのは不可逆だ。道を引き返すことは決して出来はしない。
 それでも。
 それでも、と常磐津千尋は思うのだ。
 もし、人生をゼロからやり直せるのなら「今の常磐津千尋」は何を望むのだろう。そんな無意味で、無価値で、無為で不毛なことを考えてしまうぐらいには千尋の人生にもゆとりが生まれた。視野が広くなったと言ってもいい。人は純粋さを切り売りして「成長」という結果を得る。失った感性が二度と戻らないと知ったときに後悔をするのか、それとも充実を得るのかはまだ十四の千尋には見えていない。
 それでも。多分。
 千尋は自分の人生を全てやり直したい、だなんて思わないぐらいには今の選択を気に入っている。
 テニスが好きで、好きすぎて友人が出来なかった小学生の頃からは決して想像も出来なかったような夢のような展望の中にいる。これが幸福でないのなら、千尋は多分、残り数十年の人生を進んでもその概念と相まみえることはないだろう。
 充足ではない。飽きるにも程遠い。この道の途上で確かに「もっと上」を目指している日々を実感させる顔が神奈川へやって来たのは強化合宿が始まって丁度二時間後の出来ごとだった。
 午前六時半、立海テニス部の強化合宿は参加者十四人を確認して大学の正門の中に入った。今回は少人数ということもあって、同窓会館の二階の和室で寝起きするらしい。三部屋に分かれて荷物を置くとラケットバッグだけを持って会館を出る。
 集合時刻になっても、顔を出さない切原赤也のことを誰もが指摘しないまま、千尋たちはテニスコートで練習の準備に突入した。ネットを張り、コートブラシをかけてボールを運ぶ。マネージャーの中からは二人が参加するらしいのだけれど、彼女たちは平日のタイムスケジュールで自宅から通うそうだ。朝練が始まる時刻には来る、という平福の説明を受け入れて、千尋たちはウォーミングアップを開始する。
 去年の海原祭で入って以来の大学の構内から、外周を二巡ほど周回してまた構内へと戻ってくるだけのランニングコースだ。泊まり込みの院生だろうか。大学生の姿が構内に散見される。彼らは一様に千尋たちの姿など見えていないかのように素通りしていった。中学生の部活になんて興味ないのだろう。千尋たちは中学テニス界では昨年の覇者という肩書きを背負っているけれど、それは世間一般では大したことでも何でもないと言われたようで、少し面白くなかった。

「俺たちは空気かっつーの」

 まるでいてもいなくても同じような扱いを受けるのが何となく気に食わなくて、コートサイドでペアストレッチをしながら相棒に愚痴を零す。千代由紀人(せんだい・ゆきと)はそんな千尋のことを鼻先で笑って、そうして言った。

「いちいち『付属中学のテニス部? 凄いね』って言われないと不服なのかよ、キワ
「別に。そういうわけじゃねーよ」
「偉くなったもんな、お前。華の立海テニス部レギュラーだもんな。褒めてほしいよな」
「だから! そういうんじゃねーって言ってるだろ、ダイ」
「じゃあ何なわけ? 大学の先輩たちからしたら中学の俺たちなんて何の興味もないに決まってるだろ」

 お前だって鹿島たちのこと、知らなかったんじゃないのかよ。
 その事実の指摘に千尋は返す言葉に詰まった。そうだ。知らなかった。自分より学年が下で絶対的に実力が下のやつのことをいちいち気にしていたのでは到底上を目指すことは出来ない。
 だから。
 千代の言っていることは理解している。立海大学は日本屈指の名門大学だ。学部の数も学生の数も途方もない。その、途方もない人数の先輩たちが一様にテニスに興味を持たなければならない理由なんてないし、それを強制するだけの力は千尋たちにはない。もしあったとしても、押し付けられた興味関心で褒めてほしいだなんて思わなければ自我を保てないほど千尋は弱くないし、中身のない賛辞にも興味はない。
 ただ。千代の言っていることが図星だったから何かを言い返さなければならないような気持ちになった自分のことを馬鹿だと思った。
 その通りだ。華の立海テニス部レギュラーになって、自分たちに勝てるやつなんて中学テニス界にはいない、だなんて吹聴してその通りの試合が出来る自分に少し酔っていた。自惚れていたと言ってもいい。千尋自身の成長度合いは一旦棚上げしておくとして、それでも千尋はまだ十四歳で自分一人で生きていくことは出来ない。誰かの庇護下で精一杯の強がりを言うのが限界だ。なのに、千尋は自分に酔っていた。何でも自分で出来る、だとか、自分は特別な存在だ、とか思っていた。
 強化合宿に呼ばれたのだって、特別だからだ。その論には一理ある。幾ばくかは特別だから、千尋はここにいる。わかっている。千尋の上にはまだ三人いて、その三人に勝たなければ少なくとも「中学テニス界最強」の称号を得ることも出来ない。今、千尋が持っている「特別」の肩書きは学校の持っている肩書きで千尋のものではない。
 だから。

「お前さぁ、ほんとブレねーよな、ダイ」
「別に。俺がブレないんじゃなくて、お前がいちいち騒ぎすぎなんじゃない」
「まぁそういうことにしとくか」

 千尋は自らの傲慢に線を引いた。傲慢を自覚して、それをどう活かすのかは千尋次第だ。このまま負の連鎖を続けてもいい。元の場所へ戻ってくるのも、更なる高みへ進むのも全て千尋の自由だろう。
 千代が言っているのはそういうことだ。
 負の連鎖を続ける千尋を見捨てるのも、上の世界を目指す千尋と切磋琢磨するのかを選ぶのも千代の自由だから、ここから先のことは干渉するな、と言外にある。千尋と千代は二人一組のような扱いを受けるけれど、独立した個人だから千尋の凋落に千代が付き合わなければならない理由なんて一つもないのだ。
 そういう、個の線引きの感覚において、千尋は千代に敵うことがない。
 小難しい概念なんてお互いにわかっていないだろうに、千代は直感的にその切り分けを行える。
 切り分けられるからこそ、千代の煽りは輝くのだろうし、同じ船に乗ることを自然に望める。千代由紀人というのは千尋の中にあってもある種、特別な存在だった。
 その、千代の煽りが千尋を射程圏内に捉える。

「それで? 『二十五分』に賭けたくせに切原が遅刻してるの心配で仕方ない常磐津センパイは何がしたいわけ?」
「言い方! もうちょっと! あるだろ!」
「事実だろ。指摘されて困るような状況を生み出したやつが一番悪い」
「仕方ねーだろ、もうハルの『三十分』すら超えるじゃねーか」

 大学の正門前に集合しろ、と言われた時刻を遥かに超えている。二年生が八人もいて全員の予想が外れる、という事態が異常でない筈がない。定刻を信じた真田弦一郎の立場がない、だとかいう次元はもうとっくに通り越した。何か緊急事態でもあったのだろうか、と心配をするレベルに達している。その旨を告げると「十五分」に賭けた筈の千代は薄く笑って、あっさりと切り捨てた。

「いいんじゃない? もういっそ午前中来ないで昼イチで総スカン食らえば」
「ダーイーちゃーん」
「だってそういうことだろ。人と約束した時間を平気で無視出来るようなやつが仲間にいなきゃ困る理由なんて俺には一つもないけど?」

 お前はそこまでして何を守りたいわけ?
 辛辣な言葉が千尋の横面を殴る。わかっている。寝坊だとか道に迷っただとか、自己都合で集合時間に三十分以上も無断で遅れてくるようなやつは人として信頼する価値がない。わかっている。規律を守るのは集団生活における最低限のマナーで、そんなことも説教を食らわなければ理解出来ないやつを庇ってやる時間なんて立海レギュラーにはない。前だけを向いて、一歩でも上を目指す。同じ勝利でも一段上の価値を生み出してこそ、王者の名は燦然と輝く。
 それでも。
 「二十五分」しか信頼していないとしても、千尋には千代のように相手を潔く切り捨てるだけの冷徹さは持ち合わせていないのだと知るだけだとしても。どうしても、今、千代の拒絶を否定しなければならない。そんな衝動に駆られた。

「事故とかかもしれねーじゃねーか」
「それ以外の理由だったら俺が聖人君子でも絶対許さないけど?」
「いやいやいやいや、ダイちゃん。大前提がおかしいし、お前は既に許してねーと思うんだけど?」
「まぁ俺、聖人君子じゃないから」

 お前はそういうのに憧れてるみたいだけど。
 無駄だからやめろ、とまでは言われない。それが千代なりの優しさだ。わかっている。信じたものに現在進行形で千尋は裏切られ続けている。二十五分も見込めば来るだろうと思った。その範囲なら愛嬌で許すと示した。なのに切原はまだ来ない。それがどういうことなのか、全く心が痛まないのか、そこまで鈍感なのかと確認されると全ての問いに否定の答えを返す準備がある。わかっている。切原の中でのテニス部の練習は千尋と同じだけの重みを伴っていない。重要だとも思っていない。その否定を示されてもなお切原を信じ続けられるほど千尋は強くないし、馬鹿でもない。
 切原がいてもいなくても、千尋は全国大会に臨むし勝利を手に入れて帰ってくる。
 わかっている。切原赤也なんて千尋の中でもそのぐらいの意味合いしかない。
 それでも、そうだとしても。

「自分で部長に参加したいって言ったやつのこと、心配して何が悪い」

 特待生とレギュラー以外は自主参加。昨日、佐用は確かにそう言った。自主参加だから合宿に係る費用も自己負担だ。その負担を容易く両親にねだれる切原のことを少しも羨ましいと思わなかったかと言われるとそれは即座に否定出来る。羨ましいし、疎ましい。はっきり言って甘やかされたお坊ちゃんでしかない。先輩のことを先輩だとも思っていない。いつかは潰す通過点。その程度の認識だろう。
 それでも「来なくてもいい合宿」に自ら望んで参加した筈の切原が、そんな不実なやつだと信じたくないのだ。テニス馬鹿とは最終的にどんな形であれ、分かり合えるという結論を譲りたくないだけかもしれない。

「俺は、お前のそういうとこ、別に嫌いじゃない」
「ダイ?」
「性善説って言うんだっけ? お前、本当にお人好しの馬鹿だけど、そういうお前じゃなかったら俺も今頃ここにいなかったかなって思うわけ」

 だから、行くんだろ部長のとこ。一緒に行ってもいいけど。
 仏頂面で本人の納得なんて一ミリも感じさせない平坦な声色で千代がそう言う。その言葉が千尋の耳朶に届いた瞬間、千代が何を言っているのかよくわからなかった。ぽかんとした顔をしていたのだろう。体側を伸ばしていた千尋の背中が強か叩きつけられる。
 痛い、と苦情を告げるともう一度同じように叩かれた。

「切原は正直どうでもいいけど、お前が合宿に集中してないのは俺に影響あるから仕方ないだろ」
「まぁ、そういう理屈なら仕方ないな」

 このままストレッチが終わって、それでも切原が来なかったら。そのときは部長に切原の自宅へ電話をかけてもらおう。そういう約束を交わして、千尋も納得してストレッチを最後まで続ける。
 そうして千代と一勝負している間に、他の組もストレッチが終わったらしい。平福に状況の確認を依頼しに訪れると既にそこにはジャッカル桑原と丸井ブン太の二人がいた。
 彼らの目的と千尋たちの目的は概ね一致しており、平福から現在進行形で顧問が連絡を取っているという説明を受ける。切原が寝坊で今なお自宅にいるのならば、「現在進行形」などという表現は用いられないはずだ。
 どういうことか、と更に平福に尋ねようとすると「落ち着かんか」という声がどこかから飛んでくる。

千尋、丸井。お前たちが騒ぎた立てたところで状況が好転する道理もあるまい」
「けどよぃ、真田」
「そうじゃそうじゃ。ブンちゃん、いつの間に『ええ先輩』になったんぜ?」

 ここにいる二年生は全員が全員で切原を潰そうとしたのではなかったか、と仁王雅治の声で責められて千尋と丸井は顔を見合わせて苦く笑うしかなかった。そうだとも。全員が全員の形で切原を潰そうとしてきた。レギュラーの千尋たちは勿論、丸井たちだって一切手は抜いていない。だから、今更善人面などするな、というのが仁王の言い分だ。
 それでも。

「ハル、そういうのは『三十分』に賭けたやつが言う台詞じゃない」

 仁王は自ら言った筈だ。「大穴で三十分に2ゲーム賭ける」と。それはつまり、勝算の少ない賭けだと理解していたという意味ではないか。三十分以内に切原が来ると思っていたのではないか。現時点で四十分以上をオーバーしてニアピンで仁王が勝っているのも不本意なのではないか。
 問いかけを無限に折り重ねて一言にまとめる。
 千尋の声が届いて仁王が本意だと悪戯に笑った。

「賭けちゅうても、別に勝つ為だけにするもんじゃなかろ。その場その場が面白かったら俺は何でもええんぜ?」

 仁王雅治というのはそういうやつだとわかっていなかったのか、と言外にある。
 知っている。仁王が世の中にある勝負という勝負の殆どを享楽を基準に戦っていることも、本当にときどきだけは自らの全力を費やすことも、今、千尋たちを試す為に微笑んでいることも、千尋は知っている。
 だから。

「へぇ、じゃあ今後、仁王は俺たち全員に2ゲームハンデでやってくれるんだね?」
「そこまでは言うとらんじゃろ、幸村」

 人生観について、多少辛辣なきらいのある幸村精市が千尋たちの肩を持ってくれる、というのは非常に稀な出来ごとで、その展開を見た瞬間、千尋は自分の選択が誤っていなかったことを確信する。
 二十五分の遅刻に賭けた相手のことをそれでもなお心配する、という行為は決して無駄ではない。無駄ではないからこそ、幸村が口を挟んでくる。彼は千尋たちの賭けにこそ参加してはいないけれど、千尋たちがどんな思いで賭けに乗ったのかを知っている。
 立海は実力で成り立っている世界だ。一年生だろうと三年生だろうと関係がない。レギュラー選抜戦で勝ちさえすれば、どんな選手でも公式戦に出場出来る。だからこそ、千尋たちは全力で戦うのだし、叩いても叩いてもなお立ち上がってくるものを求めている。切原赤也、というのがその挑戦で折れないだけの選手だと認めているからこそ、千尋たちは全力で煽った。不本意な出来ごとでその競争から零れ落ちるつらさをここにいる九人は全員理解しているだろう。千尋と千代が去年、身をもって証明した。そのつらさを切原にも味わってほしいと思うほどには千尋たちは非情ではない。そんな、しなくてもいい苦労をするのは千尋たちが最後で十分だ。
 だから。

「幸村、おまんには勝てんよ。けど、これだけは言うちょく。『俺は絶対に切原が来る方に賭けるき』」

 言葉を魔法のように駆使する仁王をもってしても、幸村を論破するのには骨が折れるらしい。
 勝利を得るよりも、勝負を回避する方を選択した。
 無駄な労力を使うのが嫌だ、という仁王らしい選択だと思う。思うと同時に千尋は別のことも思った。

「ハル、お前本当に素直じゃねーな」
「お前さんは素直すぎて馬鹿の領域じゃき、ちっくと相棒を見習った方がええぜ」
「じゃあ俺とダイで足して二で割ればいいだろ」
キワ、人間同士は足せないし割れない」
「比喩表現だろ! っていうかお前わかって言ってるだろ!」
「意味わかんないこと言ってないで、練習始めるか、ここで待ってるか決めたら?」

 それとも、この結論の出ない集まりをずっと続けたいのかと尋ねられる。
 切原の所在は部長である平福と顧問が確認している。千尋たちが今出来ること、なんて本当は何もないと知っていた。知っていてなお、それでもその結論の出ない行為を続けようとしていた。
 千代の一言が妙に鋭く千尋の胸に刺さって、不意に「王者の道」という言葉を思い出す。
 そうか。そうだ。
 ホウレンソウもなしに大幅な遅刻をしている切原のことはもう待つしかない。待って、来るのか来ないのかは千尋が決められることではない。それでも、仁王は明言した。来る方に賭ける。その賭けならここにいる残り八人も全員同じ方に乗れるだろう。賭けが成立しない、だなんて野暮なツッコミが意味を成さないレベルで賭けられる。
 だから、今千尋たちが出来ることなんて最初から一つしかないのだ。

「よし、じゃあ募集しまーす。練習始める人ー」
「はーい」

 千尋の声に一番最初に応じたのは意外というか、順当というか、千代だった。
 その声に幸村、桑原、柳生比呂士、柳蓮二、やや遅れて丸井、真田と続く。仁王の「結論は出たみたいじゃの」という締め括りの言葉を聞いて、一様に「いつも通り」の練習を始める態勢が整った。
 待ってください、と鹿島満の泣きそうな声が聞こえたのは一拍遅れてのことだ。
 二年生以上の先輩のことをまだ心のどこかで侮っているだろう鹿島が一番最初に声を上げたのにはやや驚いたけれど、それでも千尋は何ごともなかったかのような顔をする。コートの中の千尋に勝てるやつなんて三強しかいない。
 だから。

「どうした、鹿島」
「待ってください、どうして、そんな」

 そんな、切原を見捨てていつも通りを通せるのだ、と鹿島が言う。
 どうして、と言うのなら先ほど結論が出た。

「まぁ、そのうち来るやつを待つのに理由なんてないだろ」

 切原は来る。必ず来る。どんな理由で遅刻したのかは到着してから叱責すればいい。そのときが必ず訪れると千尋たちは確信した。家を出たのなら、寝坊ではないのなら必ず切原はここにやって来る。
 そう返すと鹿島は切羽詰まった声で反論を口にした。

「ですから!」
「なんだ、鹿島。お前、信じられないのか」
「――っ!」
「信じられないなら、そこで部長を待ってればいいだろ」

 じゃあな。言って千尋は踵を返す。
 ことさらに騒ぎ立てて、大袈裟に慌てて、そうすれば切原がここに今すぐ辿り着くのなら千尋だって望んでそうする。けれど、現実はそれほど甘くはない。千尋たちがどれだけ動揺してもそれが切原に伝わることはないし、切原の到着が早まることもない。
 なら。

「鹿島。いつも通りなら、弦一郎が一喝して部長がペナルティ課してそれで終わりだ。学校に言って、警察呼んで、大騒ぎにしてそれであいつがありがとうの一言でも言うと思うのかよ。少なくとも、俺が切原ならそんなのごめんだ」
「もし、何かあったらどうするんですか」
「自惚れてんじゃねーよ、鹿島。切原の家からここまでどれだけ離れてると思ってる。お前に――俺たちに出来ることなんて何もねーんだよ」

 だから、せめていつも通りを保っていたい。
 いつも通りに待って、いつも通りに叱ることしか千尋たちに出来ることがない。
 その圧倒的無力感の前で膝を折りたいという気持ちは理解出来る。
 それでも。そうだとしても。
 この道は王者の道だ。どんなときでも全力でテニスをして、テニスの為に何が出来るかで頭を悩ませて、そうしてもう一段階上のテニスを実践する。それが出来ないやつは立海テニス部に必要ではない。それを非道徳と詰るやつも立海には必要ない。
 もしも、だ。もし、本当に切原が何らかの事故に巻き込まれていて、その身に危険が迫っていたと後で知ったら千尋たちは文字通り「後悔」をするだろう。いつも通りを貫いた自分たちを軽蔑することもあるかもしれない。
 それを踏まえたうえで、千尋たちはテニスを続けることを選んだ。

「鹿島。俺たちはお前に『割り切れ』とか『諦めろ』とかそんなことは言わない」
「なら、何です」
「お前が、自分で決めればいい」

 ここで待っているのも、千尋たちと練習を始めるのも、それ以外の選択をするのもすべて鹿島の自由だ。自由という概念は無限の可能性を持っているけれど、それと引き換えに責任を押し付けてくる。自分で選ぶ、というのがどれだけの重圧を伴っているのか十二の鹿島にはまだ理解出来ないだろう。
 それを理解していたけれど、千尋は適切な解を示す、という答えを選ばなかった。
 三強たちが千尋にそうしたのと同じように、解法と原理と選択肢だけを用意して、解そのものは鹿島に委ねる。
 鹿島が何の解を導き出すのかも、切原がどんな解を示すのかも千尋にはわからない。
 それでも、どんな解でも受け入れると決めた。
 示された解に誤りがあれば都度正せばいい。最適解を最初に教えて、その通りを求めるのなんて最低の手解きだ。人生は数学ではない。人の数だけ解がある。立海の一年間はそのことを千尋に教えてくれた。だから。鹿島たちも未来のいつかに自分だけの解を見つけられればいい。
 その為に必要なのは、自分の中で無限の問答を繰り返す作業だ。
 自分で考えて、答えを出す、という行為だ。

「じゃあオレ、練習する方にしまーす」
「別所!」
「おれも練習します」
「加古!」
「鹿島ちゃーん。オレ、思うんだけどセンパイたちが言うの、一理あるじゃん?」

 オレが悩んでても切原は来ないし、来たときに切原に「待ってやってたんだ」とか言うの押し付けがましくてオレの趣味じゃないし。
 それとも鹿島はそういう共感の押し付けを望んでいるのか、と別所が軽い調子で問うと鹿島が押し黙ってしまう。

「鹿島。おれは先輩たちみたいに『特待生仲間意識』とかないから、おまえが一緒じゃなくても別に関係ない」
「加古! そういうの面と向かって言うのアウトっしょ!」
「事実の指摘だけど」
「それでも、アウトなんじゃん!」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「もっとマイルドに言えるっしょ!」
「じゃあ、おれには無理だから、おまえが言ってくれ」
「えーっと、えーっと」

 一年生三人の会話を聞いているとどうしてだか、懐かしさのようなものを感じる。千尋たちも一年前はこんな感じだったのだろうか、という懐かしさと「仲間」と「他人」の間にいるぎこちなさからくる愛嬌が二年生九人の表情を綻ばせた。

「鹿島。お前はもうちょっとそこで悩んでろよ。加古と別所は結論出たならこっち来い。ボレーボレーすっから」
「っす」

 言って一年生の二人が千尋たちのかたまりに合流した。
 それを確認して冷静に状況確認に努めている三年生に声をかける。

「先輩たちはどーします?」
「おいおい、キワ。当然、俺たちも混ぜろっての」
「高速ボレーボレーやろうやろう!」
「えっ、高速の方やるんすか?」
「よっしゃ! それなら俺にも勝算あるなぃ! キワ、久しぶりに組もうぜぃ!」

 そんな会話をしながらテニスコートの中へと散らばっていく。コートは三面あるから、一つのコートには五人ずつ割り振られることになる。合宿の参加者十六人のうち、切原が不在、鹿島が憂慮だから実際に練習をするのは十四人だ。それを敢えて六・四・四に分けると全員が固定の相手とボレーボレーの練習が出来ることに気付いた幸村の主導でコートに入った。言い出しっぺの法則とかいうやつを適用して各コートの声出し担当が河原、幸村、千尋の三人に任命される。
 そして。
 各コートで高速ボレーボレーの練習が始まった。普段のローテーションボレーボレーも立海名物と言えば名物なのだけれど、高速の方は立海でも実力のある選手同士でしか成り立たない。ネットを挟んだ二人一組の両方が同時にボールを打ち出す。二個のボールがほぼ絶え間なくネットの上を行き来するから、集中力と瞬発力、それから持久力が常に求められた。
 つまり。
 河原の提案は切原の到着までの時間、頭を空っぽにしてテニスにだけ向き合え、という宣言と大差ない。
 その意味を理解出来ていないのは一年生の三人だけだ。
 ここにいる立海においても群を抜いたテニス馬鹿たちはテニスで語り合うのが何よりも有効だろう。小さな熱球に祈りと願いを載せてひたすらに追いかける。
 切原が西からの客人を伴ってテニスコートに辿り着くまで残り一時間十五分。
 立海テニス部は今朝もテニス馬鹿の集団だった。