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56th. ニ十個の課題

 人生において、自分のしたことというのは基本的に取り消すことが出来ない。
 ゲームのようにリセットボタンを押したつもりでも「人生のログ」は無限にバックアップされていて、ふとした拍子に本人の意思とは関係なくロールバックする。
 だから、後悔をするような行いをするな、と大人たちは口を酸っぱくして言う。
 言っている大人たちだって後悔だらけだろうに偉そうに言う。
 そのことに気付いたとき常磐津千尋は知った。千尋から見れば完璧にも近い大人たちにだって人生の過失はあるのだろうし、その一つひとつに心を痛めていたのでは人生という長い道を走りきることが出来ない。
 だから。

「それで? お前はどこを経由してどう迷えば二時間も遅刻出来るんだ、切原」

 集合時刻を二時間半が超過した午前九時。一同の心配など知らない切原赤也が西からの客人を二人伴って立海大学の構内に辿り着いた。西からの客人――春先に合同合宿をして馴染みが出来た大阪・四天宝寺中学の白石蔵ノ介と忍足謙也の二人だ――が新横浜駅の乗り継ぎで四苦八苦していたところに遭遇して道案内をしていた、という「言い訳」ならもう聞き飽きた。二時間半だ。二時間半も何の連絡もなく遅刻してきて平然としている時点で剛毅なのだけれど、今後同じことを繰り返さないように防止策を講じなければならないのは自明で、その為には切原が自分のしたことを自覚する必要がある。
 部長である平福が代表して十三度目にもなる同じ問いを放ると、悪びれもなく切原は答えた。

「白石さんと忍足さんと飯食ってました!」

 乗るべきバスを間違えて、乗り換えるタイミングすら逸して寝過ごして、終点からどうやって軌道修正すればいいのかに悩んで、バスの定期券にチャージしてある電子マネーの限界までバスを乗り継いで気が付いたら新横浜駅に辿り着いていた。ここまで来たら鉄道に乗るのが一番合理的だ、と判断した点については適切な判断だったと言えるだろう。
 始発の新幹線に乗ってきて、誤って新横浜駅の改札を出てしまった西からの客人と遭遇しなければ、の話だけれど。
 そこから後の話は三者三様の言葉で聞いた。
 要約するとこうだ。
 新横浜駅で迷子になっていた白石と謙也が奇跡的に立海ジャージを着た切原のことを見つけて声をかける。混乱の極みにいて正常な判断が出来ない切原には道案内をするという選択肢がない。結局、朝食でも食べながら善後策を考えるべきだと判断して、チェーンのコーヒーショップに入ったというのも何度も聞いた。
 空腹が満たされてようやく落ち着いた三人はその段階で誰かに連絡を取らなければならない、と気付いたのだけれど、この時点で集合時刻からは二時間が経過しており、遅刻を回避するのは完全に不可能だった。顔色をなくして狼狽する切原を何とか励まして立海顧問の指示通りの経路で三人は大学に辿り着いた。

「それで? お前二時間どこにいたわけよ」

 溜息を零しながら千尋が問う。
 新横浜駅以降の説明には何の矛盾もないし、三人で嘘を言っている風でもない。
 仁王雅治が携帯電話で時刻表を検索すると本当の本当に始発の新幹線に乗って新横浜に辿り着く時間と相違なかったようだ。中学生を二人で神奈川まで遠征させる四天宝寺中学の顧問の神経がわからない、以外に謙也たちを責める要素はないだろう。
 ただ。
 切原が家を出てから新横浜駅に辿り着くまでの説明が非常に支離滅裂で曖昧模糊であることは間違いなく、千尋はどうしても確認せずにはいられなかった。

「電車アンドバスアンド徒歩っす」
「携帯持ってねーのかよ」
「充電切れてました」
「おーまーえーなぁ」

 それでも現代の世の中を生きる中学生か。今どき携帯式充電器の一つも持ち合わせていないのか、と続けさまに詰問したい衝動に駆られたけれど、そこはぐっと堪える。多分、口にして聞いたらもっとがっかりする答えが返ってくるだろう。
 何と言うか、自由と言えば聞こえはいいけれど、奔放なやつだなという印象が強くなる。
 千尋に弟はいないけれど、多分、末っ子弟がいればこういうやつなんだろうな、とぼんやり思う。そういう意味では千代由紀人(せんだい・ゆきと)に近いのだけれど、末っ子弟同士はどうやら相性がよくないらしい。自分が甘やかされるのはよくても、別の誰かが甘やかされているのは不愉快だ、と千代は表情で語っている。
 それを忖度するわけではないのだけれど、面倒ごとに自ら首を突っ込んでいくのが愚だということぐらいはわかったから、文句という文句を切原に浴びせつけるのをやめて一つ大きな息を吸った。

「取り敢えず、切原」
「何すか、常磐津先輩」
「弦一郎に謝ってこい」

 えっ、嫌っす。だって真田先輩マジ怖えーじゃないっすか。
 その返しに千尋の中の溜息が重量を増す。嫌、じゃないだろう。マジ怖いから嫌ってどんな理屈だ。というか、そもそもその論調だと千尋は怖くない、ということになるのだけれど、それは侮りなのか親しみなのか一体どちらだ。好意的に解釈したい自分と、批判的に解釈しなければならない義務感との間で揺れる。
 揺れて、結論は自分次第だと知って千尋は限りなく重たい溜息を吐いた。
 今朝、集合場所で無粋な賭けをした。切原が何分遅刻するのか、という信頼関係を根底に敷いた賭けをした。その賭けは結局仁王が勝ったのだけれど、それでも仁王は「大穴で三十分」に賭けたのであって二時間半というのは限度を超越している。
 その無粋な賭けにあまりにも誠実すぎる時間を賭けたやつが一人いる。
 それが真田弦一郎だ。定刻、という選択肢は真田が切原のことを信頼しているという何よりの証拠で、どれだけ言葉や態度でつらくあたっても、真田は切原を信じている。二十五分に賭けた千尋の何倍信頼しているのか、という計算になると無限大と答えるしかない。真田はゼロを賭けた。比べものになんてなる筈がない。
 だから。

「切原。俺もその意見には同意かな」
「幸村先輩」

 千尋と千代の後ろから援護射撃が飛んできたとしても、それほど意外だとは思わなかった。
 柔和な顔立ち、透き通る声。その二つから飛び出してくる辛辣な態度とのギャップが幸村精市の人間としての味だ。千尋たちはもう慣れた。傲岸不遜を地で行くくせに誰よりも優しくて仲間思いの幸村が静かに怒っている。
 千尋たちの無粋な賭けに幸村は乗らなかった。
 来ないなら来ないでいい、という意思表示だったのだろう。
 そういう、幸村が激している。こうなった彼の怖さは真田の比ではないのだけれど、切原はまだそれを理解していない。冷淡な声で冷徹な決断が紡がれる。

「謝るべき相手に謝らないようなやつは練習しなくていいよ」
「すみませんでした」
「切原、人の話を聞いてなかったのかい? 俺は『謝るべき相手』に謝れって言ったんだけど?」
「えっと、あの」

 俺はお前のこと、そんなに期待してないから謝られる道理がないんだ。
 返答に詰まって口ごもった切原を追撃でもするかのように幸村が辛辣な言葉をもう一つ放った。
 切原が何を言われているのか、理解しかねてぽかんとする。ぽかんとして、三拍ぐらい遅れて幸村の言っている内容を理解した彼は顔を真っ赤にして怒った。

「何なんすか、それ」
「言った通りだよ。口ばっかりで最低限のルールも守れない最低な後輩なんて俺は別にどうなったって興味ないからね」

 甲斐甲斐しく面倒を見てくれる先輩を探してるのなら他を当たりなよ。
 これでもか、と言わんばかりに幸村は切原を突き放す。
 この傍若無人を止めてくれ、という期待を込めた眼差しが千尋を射た。

常磐津先輩!」
「無理。無駄。俺は精市の方に乗ってるって言ってるだろ。棄てるつもりで賭けて準優勝だった俺の気持ちも少しは忖度しろ」

 二十五分だ。そのぐらい見込めば来るだろうと思っていた。勝ちたいなんて思ってなかった。ハンデを課して自分を追い込んで練習の難易度を上げよう、ぐらいの心算だった。
 なのに千尋はニアピン賞で二位だ。こんな意味のない名誉は必要ではない。
 助け船は出さない。明言すると切原は藁にもすがる思いでここにいる最後の一人に話を振った。

「千代先輩!」
キワ、俺、練習戻るけど」

 最後の一人――千代は多分スルーするだろうなと思ったけれど、その通りの結果になって千尋は内心苦笑する。
 その苦笑いを表情には載せないように努めつつ、千尋は千代の肩を叩いた。

「ダイ、サービス権1ゲームだったっけ」
「そういうお前はサービス権2ゲームだろ」
「じゃあ相殺で俺がサービス権1ゲームでいいか」

 そんな段取りが始まっていく。後ろで青くなったり赤くなったり白くなったりと忙しない切原のことをいつまでも気にしているわけにもいかないだろう。切原が真田に謝るまで。千尋たちは切原のことを許容しない。
 自分のしたことは決してなかったことには出来ない。
 無断で遅刻して謝罪の一つも出来ないようなやつは仲間に必要でない。
 保身の為とか、御しやすそうなやつだけ取り込むとか、そういう次元の低い交渉も必要ではない。
 だから。

「シングルスで対戦かい?」
「選抜戦も別リーグで当たらなかったしな、やろうぜダイ」
「じゃあ俺が審判してあげるよ」
「セイの審判はキワに甘いだろ」
「そう? そんなことはないと思うんだけど」

 そんなことあるんだって。言いながら千代が歩き出す。千尋と幸村は顔を見合わせて肩を竦めた。置いてけぼりの切原は今にも泣き出しそうな顔をしている。知っていた。それを少し離れた場所から見守っている四天宝寺の二人が助けてやればいいのに、という顔をしているのも知っている。
 知っていて、千尋と幸村は無視を選んだ。良心の呵責が一切ないかと言われると、やや迷うが否定は出来る。それでも。自分で出来ることが残っているのに、それを一から十まで助けてやるのは本人の為にならない。人を助けたという独善に酔いたいのならどこか別の場所でやればいい。道の数は人の数だけある。自分の思う最善を最初から決めて、その枠の中に相手を収めて、美しく整った表面だけを愛でたいとかいうやつには興味がない。興味がない、という選択をするのも千尋に許された権利の一つで、それを選ぶことに罪悪感を覚えて潰れるようなやつはここで潰れてしまえばいいのだ。千尋は――王者立海はそんな軟弱なやつを仲間として必要としていないのだから。
 俯いて拳を握りしめて何かと必死に戦っている。
 そんな風体の後輩をそれでも放置すると決めた以上、千尋に出来ることは何もない。
 多分。
 真田は切原が「正しい作法」で謝罪をすれば一喝ぐらいはするだろうけれど、結局許してしまうだろう。それは一年と数か月真田弦一郎という人間を見てきた千尋たちの理解であって、たった数か月しか接していない切原にまでそれを求めるのが酷だということはわかっている。
 先入観とか見かけ上の生真面目さとかそういったもので真田が損をする性分なのも知っている。
 それでも。お互いがお互いを分かり合いたいのなら第三者を挟むのではなく、自分自身で相手のことをはかるしかない。そのうえで敬遠すべき相手だと思うのか、それとも理解を示すのかはそいつ次第で、そいつの結論を千尋がどう受け止めるかは千尋の自由だ。
 信じている、を百の言葉で表すことも出来る。信じているのならそいつの判断に任せて口出しをしないという判断をすることも出来る。それが、道を選ぶということだ。
 だから。

「そこの二人もさぁ、遊びに来たわけじゃねーだろ」

 立海正レギュラー同士の試合なんてそうそう見られるもんじゃねーぞ。
 言って西からの客人を煽る。神奈川観光に来たのであって、テニスはついでだとかいうのなら、彼らもその程度だ。切磋琢磨する価値もない。
 そこまでを含めて不敵に笑うと、白石と謙也はお互い顔を見合わせたあと静かに双眸を伏せた。多分、心の中だけで切原に詫びたのだろう。
 そして。

「立海黄金ペアの試合とか、見たないやつおったらテニス馬鹿やないで」
「お互い戦法わかりきってる相手とどないして戦うか、見せてもらうで常磐津君」

 好奇心と闘争心を矛盾なく載せた笑顔が輝いて、千尋たちのあとを追ってくる。
 切原は今が踏ん張りどきだろう。ここでなし崩し的に挫折をするのか、荒療治しかしない先輩に慣れて自分のスタイルを確立するまで戦うか。その一番最初の試練と戦っている。頑張れ、とは言わずにコートの中に入った。
 安易に頑張れ、なんて誰かに言われると今の自分は頑張っていないように見えているのかと思ってしまう。今だって頑張っているのだけれど。愚痴の形をしてそう吐露出来る相手がいないといつか心は折れてしまうだろう。心が折れる前に信頼と信用を見出すのがベストで、誰かにベターな答えを教えてもらっても不安は決して拭えない。どころか悪化することだってある。
 千尋には仲間がいる。仲間のことを仲間だと言えるまでには色々あった。妬みも嫉みも蔑みも羨みもあった。武家屋敷や西洋御殿の三強のことを暗い感情で罵ろうと思ったこともある。
 それでも。
 千尋は自分で選んだのだ。三強も丸井ブン太たちも仲間だと胸を張って言える。
 切原は後輩だからどうしたって完全に同じ土台の上で競い合うことは出来ない。それでも、切原のことも仲間だと思いたいし、切原には切原と同じ高さで戦う仲間がいることにいつか気が付くだろう。そのときが来るまで、千尋は冷徹だとか冷血だとか言われてもいいと思えた。上っ面だけ優しい上級生、なんてポジションは要らない。
 馬鹿なことをしている、と千尋自身もわかっている。
 それでも。そうだとしても。
 千尋は切原赤也というのがそのリスクに見合うだけのテニス馬鹿なのじゃないかと少しずつ思い始めていた。
 サービス権を1ゲーム譲ったから3ゲーム目まで千尋にサービス権はない。圧倒的ではないかもしれないけれど不利には違いない。遊びと言えば遊びで、真剣勝負と言えば真剣勝負の試合が始まる。捕球ポジションに着いた瞬間、千尋の世界から雑音が消えた。千代とボール。それからシングルスのコートしか千尋の中にない。次に来るコースを読んで、走ってプレッシャーをかけては読み違いに歯噛みして。そういう緊張感と達成感と臨場感に満ちたテニスが好きだと改めて思う。
 ニ十分後に幸村が「4-6、ウォンバイ常磐津」のコールが聞こえるまで本当に千尋はテニスに没頭していた。今日も勝った。その充足を手に入れて自分の失敗を反省しようとして、千尋は気付く。結局、いつも通りの顔ぶれが千尋と千代が対戦していたコートの周囲に集まっている。
 その中には切原と鹿島の顔が並んでいて、二人ともがきらきらと瞳を輝かせていて、千尋は自分の伝えたかったことが二人に届いたのだと知る。

「切原ァ、随分いい顔になったな」

 薄っすらと頬を腫らした切原に声をかける。何だ、真田にだって手加減という概念がちゃんと存在したのだな、と思うと彼もまた先輩――規範としての道を探していることを知った。
 腫れた頬と、夢中でテニスを見ているテニス馬鹿の顔の両方を一度に指摘すると切原はばつが悪そうに笑ってそして言った。

常磐津先輩、俺、ケータイ、毎晩ちゃんと充電してから寝ることにするんで」
「馬鹿じゃない。そんなの今更気付くことじゃないと思うんですけど」
「赤也ちゃんはさー、その前に夜中まで起きてんのやめるべきだとオレは思うわけよー」
「別所、それが出来たらそいつは遅刻してこないと思うぞ、おれは」

 一年生の四人がじゃれあっている。その光景が眩しく映って、千尋は自分の人生にも似たような通過点があったことを思い出した。あのとき。先輩たちも同じように千尋たちの進歩を見守っていてくれたのだろうか。
 人を殴ることで幸福感を得るような下等なやつは立海にはいない。
 鉄拳制裁をするのはほぼ真田の役割のようになってしまっているけれど、殴った真田は心も拳も痛めている。殴られた方が痛い、だなんて被害者面をするより前に、どうして自分が殴られたのかを鑑みる必要があることに切原は気付いた顔をしていた。

「それで? テニス馬鹿一年生カルテットに宿題だ。俺とダイの試合で直すべきとこ合計ニ十個考えておけよ。夜ミーティングで確認するからな」
「げっ、二十っすか?」
「足りないなら一人につきニ十個でもいいぜ?」
「合計ニ十個、考えさせていただきます!」
「まぁ精々無理して考えてくれ」

 そんな脅迫まがいの指示を出すと柳蓮二が不意に言う。

キワ、どう考えてもお前は『ただのいい先輩』になりつつあるな」
「どこが」
「俺ならば最低条件が一人ニ十個ずつ、願望でいいのなら一人三十個は課すところだ」
「お前、本当容赦ねーな」

 テニス馬鹿にしても限度があるだろう、と言外に含める。
 一年生たちは立海の流儀に接してまだ三か月ぐらいのものだ。
 いきなりハードルを上げるのは好ましくない、と主張すると柳は束の間何かを考えていた様子だったけれど、何かに気付いて、そうか、と一人で納得をしてしまった。

「お前は去年、強化合宿を欠席したのだったな」
「ってーと?」
「俺たちは去年、智頭先輩から毎日一試合を観戦、のちその試合に対する感想を六十個以上箇条書きで提出が最低ラインだった」

 課題となる試合は幸村、真田、柳で違っていたから、相談をすることも出来ない。
 自分で考える、ということを体感した夏だった、と柳が何かに思いを馳せている様子で穏やかに語った。
 誰かの試合を見て、弱点を見つける、というのが立海の流儀だと思っていたけれど、それを最初に始めたのは確かに三強たちだった。千尋と千代がそれに巻き込まれて、いつの間にかそういうものになっているけれど、そういえば、去年の夏休みが始まるまでこの習慣はなかった。
 なるほど、千尋たちだってなかなか無茶苦茶な練習を強いられていたのだ、と理解したけれど、それでも泣き言を口にしようとは思わなかった。
 だってそうだろう。
 立海の無茶振りが千尋を育てて、強くして、上の世界を見せて、そうして今の千尋がここにいる。
 未来への不安はずっとある。このまま三強に勝てないまま中学生活が終わってしまうのか、とか、二連覇は出来るのか、とか。そういう細々とした不安はいつだって絶えない。
 絶えないのだけれど、潰されないだけのメンタルに鍛え上げてくれたのは立海の流儀で、千尋はここに来てよかった、と心の底から思えた。

「蓮二、じゃあお客にも同じこと要求しようぜ」
「白石と忍足にか?」
「いいだろ? そうじゃなきゃ二時間かけて何しに来たのかわかんねーじゃねーか」
「ライバル校の選手を育てるリスクについて考慮したことは?」
「ねーな。相手がどれだけ強くても勝つ。負けねーよ」

 王者と言うのはそういうものではないのか、と挑発的に尋ねると柳が苦笑する。
 相手が誰であろうと潰す。自分が育てた相手でも遠慮なく潰す。
 負けるかもしれない、だなんて後ろ向きな心配をして自分を磨かないだけの理由なんてどこにあるだろう。どこにもないに決まっている。
 だから。

「ほう、ならば千尋。次は俺と勝負をしようではないか」
「お前、1ゲームそのもの賭けたの覚えてる? 0-1から始めるけど、言い訳とか聞かねーからな」
「ほざけ。1ゲームのハンデでは不足だったと嘆かせてやろう」

 挑発に更なる挑発を投げてきた真田の駆け引きに応じる。
 ラケットを持っていない方の指先を軽く握って拳の形にして真田の前に突き出した。一拍置いて、真田が同じように拳を突き合わせる。この試合を四天宝寺の二人への課題にしよう。そう言うと真田は「ならばいっそう手加減は出来んな」と凶悪な笑みを浮かべた。本人は爽やかに微笑んでいるつもりらしい、と知ったのはいつだっただろう。テニスコートの中での「皇帝」の笑みはいつだって獰猛で凶悪で、自信に満ち溢れている。
 そういう真田が真剣な顔をして、千尋の揺さぶりに耐えている様を見るのが好きだ。そんな真田と駆け引きが出来るコートの中が好きだ。幾つもの好きを教えてくれたテニスが好きだ。
 そんなテニスをもっと好きになって合宿を終わりたい。
 願いを願いとして認識して千尋は言う。

「ブン太。審判頼む」
「お前と真田の試合ってタイブレーク前提だから長ぇんだよなぃ」
「嫌ならヤギに頼むけど?」
「嫌とは言ってねぇだろぃ」

 言いながら指名を受けた丸井が審判台に上る。
 それをきっかけに、真ん中のコートに集まって観戦をしていたやつらがそれぞれの練習に戻っていく。四天宝寺の二人は幸村が審判台の横に座らせた。
 サービスライン上でボールをバウンドさせながら、千尋は白石と謙也だけが神奈川までやってきた理由、というのをまだ聞いていないことに気付いた。
 平福がこの試合が終わったら昼食にする、と宣言しているのを聞いて丁度いい、と思う。
 千尋と真田の試合がタイブレーク前提だなんて今に始まったことではない。去年から、もうずっとそうだ。それをライバル校の選手に見せる、というのがどれだけのリスクを負っているのか、千尋は敢えて考慮しなかった。
 弱点を見せて、無理やりにでも探させて、そうして負けるのなら千尋も真田もその程度の選手だったと言うだけの話だ。弱点を見つけさせたら、それは大会に臨む前に克服するに決まっている。
 だから。

「白石! 謙也! 頑張れよ、ニ十個」
千尋、ホンマ、お前ってテニスに関してだけは別格のやつやな」
「謙也、三十個見つけたいならそう言えよ。慎ましいやつだな」
「お前、ホンマ、エエ性格やわ! ニ十個でエエわ! ニ十個頑張らせてもらうわ!」

 苦しそうに、それでも満更でもない声色で謙也が叫ぶ。
 こうでなくてはライバル校の選手ではない。そんな含みを持たせて「おう」と答えると謙也の隣の白石が柔らかく微笑む。

「ほな、常磐津君。お手柔らかに頼むわ」
「悪い、白石。それだけは絶対に無理」
「えっ?」
「こいつ相手に『まぁまぁ』とか『そこそこ』とか『いい加減』の試合とか絶対無理だから」
「ぬかせ。それはこちらの台詞だ」
「ってことだから、全力で行くけどニ十個。頑張れ」

 言って、千尋は一際強くボールを地面に向けてバウンドさせた。
 サービスラインの上に立って、今から狙うコースを確かめる。真田の捕球位置はあそこだ。ということは――と順に頭の中でラリーをシミュレートする。
 そして。
 ボールを中空高く放り上げる。放物線を描いて落下し始めた位置を見計らって跳躍。ジャンプサーブを決めると千尋のラケットが高いインパクト音を奏でた。
 二試合連続だったけれど、千尋の体力ではまだまだ全力の範囲内だ。
 1ゲームのハンデがある。ということは千尋は自分のサービスゲームをキープしさえすれば自動的に勝利だ。ただ、それを真田が易々と許してくれる筈もない。この試合もまた難しいものになるだろう。
 そんな感触を確かめながら、リターンを受ける。
 人生は一度しかない。リセットも出来ない。
 だから、今を全力で生きていくしかない。
 千尋にそのことを教えてくれた仲間たちを尊く思いながら、新しい仲間が増える予感に胸をときめかせて、千尋の夏はまだ続いていく。