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All in All

57th. 目線基準

 向き合った相手、そのものを言葉で表現するのはとても難しい。
 立海大学付属中学テニス部の特待生として過ごす二年目の夏は常磐津千尋にそのことを強く認識させた。
 一年を過ごす間に相棒のポジションに収まった千代由紀人(せんだい・ゆきと)のことを客観的に説明しろ、と言われてもそもそも語彙力がない。いい意味で空気のように馴染んでしまった千代を言葉で表すなら近年メディアによって浸透した「ツンデレ」が一番適している。辛辣で表情らしい表情なんて殆ど見せないくせにその言動の一つひとつを精査するとそこにはある種の「情」に満ちている。不思議なやつだ。一生懸命に相手のことを考えすぎるほどに表現が簡素化される。額面通りに受け取れば最悪なやつだから、テニス部のことに詳しくないクラスメイトたちはどうして千尋と千代がよくつるんでいるのかを理解出来ない。
 それでもいい、と思えるだけの確信が今の千尋にはある。
 そしてそれは特別に千代に限ったことではない。個性派揃いのテニス部の連中の一人ひとりにそういった理解がある。だから、言葉なんていう不便なものではどうしたって彼らのことを語り尽くすことが出来ない。
 千尋が自分自身でそのことを理解しているのだから問題はない、という強さをテニス部の仲間がくれた。
 それでも。
 それでも、千尋は今なお思うのだ。
 千尋の中に十分な言葉があれば、この個性的な仲間たちのことをもっと雄弁に自慢することが出来るのに、と。
 そんなことを束の間考える強化合宿一日目の夕食時のことだ。
 ミーティングをニ十分後に控えた食堂の中で千尋は白桃のゼリーを頬張る。どこかで買ってきたのだろう、と思っていたのにマネージャーたちが昼間に作ったのだと聞いて彼女たちもまた立海級のマネージャーなのだなと小さな感動を覚えた。慣れてしまえばすぐに出来る、と二年生のマネージャーが謙遜していたけれど、十分に凄いことだと千尋は思う。
 その価値観を共有したいけれど、押し付けたくはなくて一人胸中で感想を転がす。
 相棒はさっさと食べ終わって柳蓮二とミーティング前のミーティングをしていた。そういうところにテニス馬鹿の片鱗が見えて、千尋は千代のことを嫌いになれない。千尋の斜め前の座席に半分ほど残ったミネラルウォーターのペットボトルを置いて、席取りをしているところまで含めて、千尋は千代のことが嫌いではない。
 その隣の座席――千尋の正面にはジャッカル桑原が緑茶の湯飲みを置いて隣の談話室へ消えていった。
 丸井ブン太もその隣に同じように麦茶のコップを置いて消えた。
 だから、現在進行形で食堂の中の座席は殆どが誰かの座席になっているのだけれど、人間自体は千尋ぐらいしかいない。概ね談話室で今日のテレビ放送に夢中になっている。特待寮でもテレビ番組の類を見る権利はあるけれど、千尋はあまり興味がなかったからいつもその時間は千代と駄目出しの交換をしていた。その千代も今日は柳と更なる駄目出しをしている。座ったまま筋トレでもしようか、と思い始めた頃、その声が聞こえた。

常磐津先輩、ここ、いーっすか」

 一年生の後輩の切原赤也だ。
 四月の頭に散々な形で負かして以来、切原は感情の連鎖を一周していつの間にか千尋に懐いていた。
 誰々先輩は怖い、だとか誰々先輩は苦手、だとかいうのをストレートに言ってしまう千尋以上の馬鹿正直で、けれどその馬鹿さ加減まで含めて、千尋も今では切原のことを特別に憎くは思っていない。
 馬鹿はいつかの未来に自分が馬鹿だったと気付いたときに穴でも掘って埋まりたい衝動に駆られる。千尋は去年、それを経験した。過去形にするのは少し自意識が過剰だろう。多分、今も経験し続けている。
 だからだろうか。
 負けん気が強くて、勝負ごとには嗅覚が鋭くて、それでいて人懐こさを隠しもしないこの後輩にも人としての美徳があることを認めた頃から、千尋は切原がいつか自分の通ってきた道を振り返ったとき、後悔に流されてしまわないか。ほんの少しだけだったけれど心のどこかで心配している。
 ただ、それをそのまま伝えるには千尋の語彙力は貧困すぎたし、多分切原の読解力も貧困すぎる。
 だから。
 同じ二年生の先輩だろうに千尋には懐いて、千代のことを苦手だと思っていることを隠しもしない切原に対する助言はすっと口を突いて出た。

「その正面、お前の苦手なダイちゃんだけど」
「えっ、じゃあ反対側にするっす」

 この麦茶、誰っすか。
 問われたから丸井だと答える。その返答に切原の表情はぱっと輝いて彼の中では丸井も「好きな先輩」に分類されていることを今一度伝えた。
 好きとか嫌いとか、苦手だとか得意だとかその手の感情は千尋の中にもある。
 特待生の先輩で言えば倉吉のことはわかりやすく好きだけれど、河原のことは未だによく理解出来ていないし、佐用は苦手だ。それでも三人とも違うスタイルで自分の道を歩いていることは知っている。知っているし、学ぶべき点を無限に見せてくれる彼らのことを敬遠したいとは流石にもう思っていない。
 だから。
 生まれて初めて出来た後輩という存在に戸惑った四月。少しずつ馴染み始めた五月。理解を示すことを覚えた六月。彼らの個性を認めた七月。
 月日は千尋に「先輩」というのが何かを少しずつ教えた。
 万能を示さなければならないわけではない。有能を説けと言われたわけでもない。
 ただ。自分の歩いてきた道を見ているやつがいるのだ、ということの重みに少しだけ千尋は臆病になった。
 誰かが自分の歩いた道の後ろを歩いてくる、ということに真実何も感じないのなら、そいつはきっと度の過ぎた馬鹿かでなければ途方もない大器だ。そいつの中にはきっと自分以外の答えなどないのだろう。
 自己と他者が矛盾なく存在している千尋には凡そ想像も出来ない感覚だけれど、そういうやつは多分生まれたときから特別な存在で、千尋とは完全に別の次元を生きているのだろうから出会ったとしてもその次の瞬間に別離するだけだ。
 だから。

常磐津先輩でもゼリーとか食うんすね」

 そういう悪辣な冗談でも言わなければ会話のきっかけを見つけられない切原のことも決して嫌いではないと思えた。

「お前、俺のこと何だと思ってんだよ」
「えっ、だって先輩って間食するぐらいならプロテイン飲んでるんでしょ?」
「きーりーはーらー」

 言いながら切原の脇腹を強か殴る。
 強か、だけれど決して本気ではない。普段千代を殴る程度よりも更に弱い。
 千代とまるで同じように扱っていいのかぐらいは馬鹿の千尋にも判別が付く。

「冗談! 冗談じゃないっすか!」
「まぁプロテインは万能だと思うけどな」

 この後も飲むし、と続けると虎の尾を踏んだような顔になっていた切原の表情に色が戻ってくる。
 失敗なんて数えきれないほどすればいいのだ、と千尋は先輩たちに教えてもらった。今でもその手の手解きを受けることは少なくない。
 だから。
 たった一度の失敗で全てを失うこともあるだろう。取り返しのつかない選択だってきっとある。
 それでも。自分の意志で道を選んだことについて、後悔や不安で胸中を曇らせてばかりいる必要なんてどこにもないのだ。未来の絵図が見えているやつなんていない。万有の答えもどこにもない。
 悪辣な冗談を放ったのなら悪辣な冗談が返ってくるのは相場だ。
 それでも、どうしても悪辣な冗談を放りたいと思うときに、それを禁ずるだけの正当な権利なんて誰も持っていないのだから、切原は胸を張って言うべきだ。
 やっぱり飲むんじゃないすか! と。
 そうしたら千尋は笑って「それとこれとは別だ」とか答えるだろうし、次の会話につながっていくだろう。
 そうして、そういう言葉や表情の応酬を繰り返して、そうやって人は相互理解を深めていく。
 文明が発達しても、科学技術が進歩しても絶対にこの過程はなくならないだろう。
 人の心理は機械ではないのだから、この単純な学習段階を経ずに精神が発達することなどあり得ない。
 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の気持ちで感じたことから自分が成長する。
 だから、自分が経験した分しか人は進歩しない。
 切原が本当に千尋の中で「いい後輩」というポジションを必要としているのなら、彼はその印象を何度でも繰り返し千尋に与えるしかないのだ。
 人間とはそういう生きものなのだから。

「で? 何。ミーティングで発表する駄目出しが足りないとかなら聞かねーけど」
「あんた、本っ当に俺に対して失礼っすよね!」
「四月のお前ほどじゃねーよ」

 とっくに反省した過去を掘り返されると誰だっていい気がしないものだ。
 それでも。今の千尋と切原の距離感なら「ちょっと気まずい」ぐらいで済むだろう。そう見越して言葉を放る。千尋の信頼に応えて、切原は何とも言えない表情で苦く笑った。

「それで? 別に喧嘩売られに来たんじゃねーだろ」
常磐津先輩の喧嘩買うのは世の中広くても千代先輩だけだと思うんすけど」
「お前、本気で言ってる? 俺の下手くそな喧嘩は大体みんな三強が破格値で買ってくんだけど?」

 千尋がどれだけ高値を付けても大体いつも八割引きから九割引きで三強が買い占めていく。まるで千尋の稚拙な挑発にはそれだけの価値しかないとでも言うように、三強たちは率先して買ってしまうのだ。だから、切原の言うような事実はどこにもない。ツッコミ待ちか何らかの更なる悪辣な冗談かと思って真顔を返すと、切原はきょとんとした顔をして、そうして結局「えっ?」と問い返してきた。

「『えっ?』じゃねーよ。ダイは寧ろ売ってくる方だから俺が言い値で買ってんじゃねーか」
「またまたー。常磐津先輩てば幾ら俺でも騙されないっすよ」
「お前騙して俺が何の得すんだよ」
「いやいやいやいや。えっ? だって幸村先輩たちでしょ? 喧嘩売って買ってくれるようには見えないんすけど」
「それはどっちの意味でだよ」

 切原の返答は千尋の挑発が稚拙すぎて買うに値しない、という意味と、三強が人格者すぎて喧嘩などという低次元の争いに加担しない、という意味の二通りに受け取れる。
 彼の真意はどちらだ、と問うとまたきょとんが返ってくる。
 ああ、こいつも馬鹿なのだ。多分、千尋と同じ馬鹿正直の道を歩いていくのだ。
 相手の言葉は額面通り。相手の態度も見たそのまま。そういう素直というか単純な受け取り方をしているのがわかって、なるほど、切原が真田弦一郎のことを「怖い」と評する理由が少し理解出来た。

「切原。お前、三強だと弦一郎が一番怖いと思ってるだろ」
「違うんすか。俺、しょっちゅう怒鳴られるし、ときどきぶん殴られるんすけど真田先輩より怖い人なんているんすか」
「まぁ、俺の中では精市が一番怖い」
「は? 常磐津先輩軟弱すぎるでしょ? 幸村先輩の何が怖いんすか」

 何が怖い、と問われると幸村精市という人間そのものが怖いとしか答えようがない。
 幸村は自分と他人の軸が完全に別だ。自分には厳しく、他人には優しい。他人には優しい、というか興味がないから与える印象を丸くしている、という言い方をすることも出来る。
 だから、幸村は「自分」の範疇にあるものに対しては叱責もするし、腹を立てたりもするけれど、「他人」のことはどうだっていいのだ。人生で負けていようが、どこかで何かの事件に巻き込まれていようが、二時間も遅刻していようが「自分」のことではないから無視出来る。無視しているからその場の雰囲気に合わせて微笑んでいるだけで、その実、幸村が一番苛烈な性格をしている、と千尋は思っている。

「お前、昼間何言われたのか覚えてねーのかよ」
「何か言われましたっけ、俺」
「なるほど。お前、ぶん殴られたから弦一郎のこと、どーこー言ってるだけだろ」
常磐津先輩だってぶん殴られたら感想変わるんじゃないすか」
「その理屈で行くと、俺はダイが一番怖くないとおかしいんだけど?」
「そこはダブルスペアの愛情とか」
「ねーよ、んなもん」

 切原の主張を一笑に付して、なのに千尋は溜息が漏れた。
 切原が何かの小細工をする為に千尋に話しかけてきたわけでも、嘘や偽りで自らを弁明しにきたわけでもないのは自明だ。そんなことをするやつなら、立海テニス部で一番危険視しなければならないのが誰か、だなんて見誤っている筈もない。
 真田は確かに厳つい印象を与えるやつだ。
 語調は強いし、断定的だし、自らの価値観を頑として譲らない。実力行使だってするし、間違っていると彼が思うものに対して、絶対に持論を引っ込めることもないし、彼は「真田弦一郎」という人格を半ば確立している。
 それでも、と千尋は思うのだ。
 自分のことを一方的に怖がっていて、遅刻常習犯の切原のことを許せない面が多々あるだろうに「合宿ともなればきちんと定刻に間に合う」だろう、だなんて信じてくれるやつが怖い筈がない。
 寧ろ。

「三強だと弦一郎が一番優しいだろ、切原」
「だから!」
「自分が間違ってないと思ってるのに間違ってるって言われるの、そりゃすげー面白くねーしさ。一方的に怒鳴られたらいい気分しねーけどさ、よくよく考えるとその『いい気分しねー行為』ってさ別に無視しようと思えば出来るわけだろ」
「そうっすよ、一々全部言わなくてもいいじゃないっすか」
「お前が優しいって言った精市だけど、あいつもゼロかイチしかねーのな」

 自分に関係のあることは一から十まで全部言わなければ気が済まないのがA型男子というやつだ。
 その代わり、関係のないことは何も言わない。全部言うか、何も言わないか。そのゼロかイチかの選択肢しかない点では千尋も真田も幸村も大差ない。
 大差ないのに印象に差がある理由を十四の千尋は何となく納得している。
 それを言葉にするなら、こういうことなのだろう。

「見放して、テキトーにあしらうのが『優しさ』なら、俺は別に『優しく』なんてしてほしくねーよ」

 だって、それは最初から諦められているということだ。
 期待をしないから失望もしない。失望しないから腹も立たないし、文句もない。文句もないから説教をしないし、自らの拳を痛めてまで道を示したりもしない。
 真田は多分立海テニス部で一番「自分」の範疇の広いやつだ。「自分」のことだと思っているから怒りもするし、心配もする。その時点で切原は気付くべきなのだ。真田が怒鳴るのは切原に何かを望んでいるのだ、ということに。
 確かに、真田の思う「理想」の姿は独善的で偏っている。切原の考え方とは合わないことだってあるだろう。千尋の思う「理想」とも違うからときには怒鳴り合ったり、テニスを通じて殴り合ったりもする。力づくで自分の正しさを主張し合うのだから、お互いに嫌な気持ちになることだってあるだろう。
 それでも。負けたから従うだとか、勝ったから正しいだとか、そんなつまらない人生を選ばなくてもお互いが肯定し合えるぐらいには千尋の中の「自分」の概念も広くなった。
 真田だけが一方的に正しくて、千尋が一方的に間違っている、だなんてそんなことは稀だ。お互いの主張と価値観が異なっているからぶつかってしまう。ぶつかった結果、自分の中で受け入れられない、という結果が生まれることだってあるだろう。その「結果」をどう解釈するかは自分自身の自由で、そういう意味では真田の思う「自分」の範疇は極端に狭い。
 それでも。
 真田は「自分」の思う「理想」ではない「自分」を受け入れるだけの器がある。
 だから。

「あんま怖がんなよ、あいつのこと。そういう、決めつけ面白くねーだろ」
「真田先輩も常磐津先輩くらい馬鹿だったらよかったんすよ」
「お前、そりゃどーいう意味だ」
「俺は! 馬鹿だから! 難しいことは全然わかんねーんすけど!」
「けど?」
「歩み寄る余地があるんなら、そういう風に言ってもらわねーとわかんねーやつだっているんです!」

 怒鳴ったりとか殴ったりとか、そういうのフツーに怖いって思うじゃないすか。
 言った切原の双眸は真剣そのもので、彼の中で今、必死に認識の上書きが実行されようとしているのを千尋は理解した。そして同時に思う。なるほど、切原の言い分には一理ある。千尋たちは同じ高さから出発した。お互いにお互いを潰し合いながらここまで来た。そのことを千尋も三強もすっかり忘れている。「自分」の目線の高さで同じ水準を求めるからお互いに齟齬があってお互いが不満に思っているのだということを、千尋たちは理解出来ていなかった。
 二年生の千尋たちと一年生の切原たち――特待生で大言壮語した鹿島満(かしま・みつる)たちの間には一年という大きな隔たりがある。
 それを無視して壁にぶつかっている一年生のことを不甲斐なく思うのは筋が違うだろう。
 そのことに、千尋は今気付いた。

「悪かったな、馬鹿で」
「えっ、いや、あの」
「でもな、これだけは言っておくけど」
「何すか」
「遅刻すんのはもうどーしようもねーから、せめてホウレンソウしろよ」

 今どこにいて、どういう状況で、この後どうするか。目的地にはいつぐらいに着きそうか。それとも目的地に辿り着く手段がわからないのか。
 そういう連絡があれば、こちらで気を揉むことも少なくなる。
 最低でもそれだけは心がけろ、と言うと切原は本日三度目のきょとんとした顔で「そんなんでいーんすか」とうわ言のように呟いた。

「それ以外に何があんだよ」
「いや、あの、別所が言ってたみたいに『夜早く寝ろ』とか」
「言ってもお前、寝ないだろ」
「まぁ、そうなんすけど、言わないんすか」
「悪かったな、器の小ささだと立海正レギュラートップクラスなんだよ」
「えっ、あの、そういう意味じゃなくて」

 千尋の中にも「理想」の「自分」がある。
 その「理想」の範疇は真田ほどではないけれど独断と偏見に満ちていて、なのに相手にそれを押し付けるだけの気概もない。器が小さいのだと自覚出来ないぐらいには自分を見失っていない、ということを自虐的に告げると切原が気まずげに視線を彷徨わせた。
 誰かに言われて、一度で直るやつは何度も繰り返し指摘されたりしないだろうし、何度も同じことを注意されているやつが、別のやつが今更違う言葉で注意したところで簡単に直ったりはしないだろう。
 それに、と千尋は思う。自分の意志でしていることを誰かの思う「正しさ」で批判されるのはとても不愉快だ。別にこのぐらいいいじゃないか。その気持ちがあるのに矯正されたところで本質は何も変わっていない。表面だけ繕ったやつと一緒にいて楽しいのか、と問われると千尋は当然ノーと言えるから、別に無理やり自分に合わせてほしいだなんて思ったこともない。

「なぁ切原」
「何すか、常磐津先輩」
「俺の言ってること、無駄にすんのもしないのも全部お前にかかってるから、そこんとこだけ忘れんなよ」
「――っ! そういうの一番ずるいと思うんですけど!」

 知っている。期待しているとはっきりと告げて、一歩引いてみせる。そのうえで更に駄目押しをされて、それでもなお断ることが出来るやつなら最初から千尋に声をかけてきたりなんかしない。
 知っている、と返すと切原はしばらくの間俯いて、そうして言った。

「敵に塩送ったって後悔しても知らないっすよ」
「まぁ俺たちは敵で味方で同時に敵だから、どーしようもない」
「絶対! 絶対あんたをぼろぼろに負かして正レギュラー、もらうんで覚悟しててください!」
「期待してる」

 その言葉を待っていたかのように食堂の入り口が俄かに騒がしくなる。
 桑原を先頭に談話室でテレビを観ていた集団が食堂に戻って来たらしい。四天宝寺の二人も一緒だ。時計を見る。ミーティングまで残り五分を切っていた。
 後輩を相手に真剣に説教をしていた、だなんて見透かされるのが嫌で千尋は手元のゼリーに意識を戻す。
 よく熟れた白桃は程よく甘くて、千尋もそういう存在になれたらいいのに、とぼんやり思った。