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All in All

58th. 三次元

 世間で言う三次元、というのは「幅」と「高さ」と「奥行き」という三つの軸が揃っている状態のことだ。
 中学における数学では奥行きを用いることはないから、奥行きというのが何なのか、あまり意識しないまま大抵の中学生は卒業式を迎える。それでも、誰でも知っている筈なのだ。人の人生にはいつも奥行きが付きまとうということと、奥行きこそが人生なのだということを。
 時間という別の軸を加えるとそれは「四次元」と呼ばれて次の段階に進むのだけれど、人にはその軸を後退するすべがないから現代社会において四次元が実在するかどうかは仮定の中にしか存在しない。それを不可逆という。
 そんな不可逆の世界で生きている常磐津千尋の毎日は飛ぶように過ぎる。
 強化合宿の期間中、千尋たちは毎晩、お互いの弱点を列挙するという課題に臨んだ。基本的には一人に対して複数人が評価をするかたちになるから、それぞれが受け取る弱点は重複していることも多く、実際に直すべき点の数は荒唐無稽な数字にはならなかった。
 ただ、分類上同じ点への指摘だとしても参加者それぞれの視点から見た指摘であり、ときには矛盾した内容となることもある。例えば、フォームを守備面で直すか、攻撃面で直すか、だとか、ラケットの面の使い方をより精密なドライブをかけて技巧的な改善を施すのか、体力にものを言わせて純粋な打力で強打する方法を取るのか、だとか。
 それぞれがそれぞれの課題と向き合って、その過程で次の課題が生まれてを三日間繰り返した。
 テニスの為だけに寝食を費やして、そうして強化合宿は最終日を迎える。
 合宿は今日の午前中で終了だ。課題を解決したもの、未達成のまま残したもの、その結果自分の別の可能性を見出したもの。一人ひとりが得たものは違っていたけれど、四日目の朝。コートに並んだ十七人の中にはある種の充足が確かに宿っていた。
 その前提を踏まえて、平福が十七人に試合を命じる。シングルスでもダブルスでもいい。どんな組み合わせにするのかも自由だ。ただ、試合の数は指定された。ダブルスが三試合、シングルスが三試合の枠が用意され、誰かが二試合こなすような構成になっていた。
 誰が二回試合をするのか、という問題については原則立候補者制で、千尋は何の躊躇いもなく二試合の枠に名乗りを上げた。同じように挙手したのが幸村精市と真田弦一郎の二人で、合計三人で一枠を争うことになり、公平を期すためにじゃんけん大会が実施される。じゃんけんは心理戦だから公平でも何でもない、と千尋は異論を唱えたのだけれど、平福がその程度のプレッシャーに負けるなら辞退しろ、というので渋々条件を飲んだ。
 そして。
 何の奇跡か、グー、グー、パーの一発一人勝ちをした千尋が出場権を獲得して、今度は誰と誰が何の試合をするのかの交渉が始まる。くじ引きによる完全なるランダムを選ばない辺りに、平福の人となりが透けて見えた。平福は主体性を何よりも重んじる。受動的なやつが落ちこぼれていくのを丁寧に拾い上げてくれるような生易しい部長ではないと最初からわかっていたから、千尋たちは文句を零す時間を惜しんで民主主義的に試合の組み合わせを決めた。

「よう、切原」
「何すか、常磐津先輩」
「ダブルスしようぜ」
「は? 誰と誰がっすか」
「俺とお前に決まってるだろ」

 千尋と千代由紀人(せんだい・ゆきと)とのダブルスは立海黄金ペアの名で呼ばれる。三強の組み合わせをどう変えても、千尋たちから勝利をもぎ取れたことは一度もない。一度も、千尋と千代はダブルスの試合で負けたことがないのだ。そのことを誇りに思うと同時に驕っていたのだということをまだ千尋は知らない。真田が春に褒めてくれた「本物のダブルスの選手」という響きに酔っていたとも言い換えられる。
 そんな自分自身の打算すら気付かずに千尋は切原に声をかけた。誰と組んでも同じだけの試合が出来る。ダブルスでなら誰よりも上手く勝利を演じられる。信じきっていたから千尋は信用に足りない切原を選んだ。上から目線で全員を見下しているということにすら気付かない。切原がそれをどう思うかにも至らない。
 勝利と言うのがどういう味なのかを体験させてやる。
 その程度の心積もりで千尋は切原と組むことを選んだ。

「ほな、常磐津君。俺と謙也と勝負してくれへん?」

 その声が聞こえたときにも、千尋は所謂「鴨がねぎを背負ってきた」ぐらいの感覚しかない。
 切原と相談することもなく、二つ返事で承諾した。ちょっと待ってくださいよ、と切原が半ば悲鳴じみた声を上げても千尋はそれを知覚しない。傲慢による傲慢そのものだ。
 人生は経験を積み重ねることによって構成されている。自分が持っているものを絶対視して同じものを共有化することを千尋は望んだ。その時点で多くの間違いを伴っている、と一年前の千尋なら気付けただろう。成長をする、ということは感覚が鈍化する、という副作用を伴う。そのことを十四になったばかりの千尋は知らない。感覚が鋭敏なまま経験を蓄積すると人の脳はオーバーヒートする。一度に処理出来る情報量は人によって差があれど、いずれにしても限界があるから、本能的にそれを超えないように情報をシャットアウトする。シャットアウトして「認知しない」状態であることを人は認知しない。だから、全能状態などという当人だけの自己満足で成り立つ不完全な現象が発露する。
 それを本人が独力で是正するすべはない。「認知していない」ということを「認知」するというのがそもそも不可能の塊だ。
 だから。
 人は「現実」からは程遠い現実を認知している。
 そのことを知っていても、知らなくても「現実」は残酷に過ぎ去っていつだって突然に牙をむく。その瞬間に心構えが出来ていれば傷は浅く、不意であればあるほど深手を負う。ただそれだけのことなのに、人はすぐにその事実を忘れる。「忘れる」という人間に許された最大の権利を行使してしまう。
 常磐津千尋がそのことを思い出したのは成り行きで千尋・切原組と白石蔵ノ介・忍足謙也組の試合が始まって綺麗に勝ちを拾い続けている最中のことだった。
 殆どポイントを落とさずに四ゲームを取って、千尋のサービスゲーム。
 切原の扱い方にも大分慣れたと思っていた。アグレッシブベースライナーと自称しただけあって切原は攻撃的な試合運びを得意としている。速戦型だ、と気付いたから遠慮なく使った。まぁ、使ったというからには千尋もそこそこ動いているのだけれど、その程度で音を上げないで済むぐらいには千尋にも持久力という概念がある。
 このままサービスキープで次のゲームか。そんな感想を抱いた。
 その瞬間が訪れるまでは。
 千尋はこのサービスゲームをインコース、アウトコースで交互に打ってきた。フォルトはまだ一つも出していない。レシーバーが若干優秀なサーブの練習、ぐらいの認識だったから過度の緊張感はなく、次のサービスのコースも冷静に捉えていた。ネットの向こうに白石。白石は謙也とは正反対で堅実なテニスを好んでいる、というのが何となくわかっている。だから、今までの千尋のサービスに法則性があることには気付いている筈だ。次のコースは外角を外へ逃げるドライブをかける。上手く処理出来なければホームランで、その時点で千尋のサービスエースだ。
 それでも。千尋は敢えて白石が返球してきた場合の想定をした。
 切原が前に出ているからストレートは苦しい。クロスで返すのが妥当だろう。となると千尋が捕球するのは自明だ。ベースラインにいる謙也をどこに誘導すれば楽にポイントを取れるだろうか。ネットのぎりぎり上を引っかけて落とすか、そう思わせて背後にボレーを返すか。それとも、切原をブラインドに使ってパッシングで決めるか。
 どちらにしてもサービスエースが取れなかった時点で、一回以上は千尋の対応が必要になる。ストレートで返ってくれば切原が取るだろうが、その場合は彼は何の遠慮もなくストレートを更に強打するだろう。最短距離に必要なポジションはどこだ。視線の先に誰を捉えるべきだ。重心はどこに置くべきで、ラケットはどの高さに構えればいい。
 それらのことをボールをバウンドさせながら一通り無意識下でシミュレートする。その中で一番信憑性の高い――という感触のある戦術を選んでから千尋はボールをトスした。
 腹は決まった。あとは実戦の中で直感的に選んでいくしかない。
 サービスライン上から白石の左斜め前を目がけて強打した。耳に馴染む破裂音。そして狙った通りにボールが軌道を描く。白石が一瞬だけ判断に悩んで、それでもどうにかサービスエースを阻止した。ボールは美しくはないがそれでも千尋の手元へ返ってくる。体勢を整える時間を与えない方が利がある、と判断したから千尋もそのままクロスを選んだ。千尋の方はスイートスポットで叩く。
 前衛の切原が謙也の注意を引き付けている。そのことを理解しながら、千尋と白石のラリーが続いた。じり、じり、と切原がポジショニングを変える。それにつられて謙也も動く。
 派手さなんてどこにもない。ガチのガチで忍耐力勝負だ。
 心理的に負けたやつが先に崩れる。千尋は崩れないから、あとは切原のフォローだけしていればいい。
 そのはずだったのだ。
 十回目のラリーでチャレンジが必要なぐらいギリギリのラインを狙って打った。捕球する白石は完全に出遅れていて、今、切原がいる位置を考えると正面に返すのが精一杯だ。そう呼んだからフラットショットでポイントを決める為に千尋が走る。謙也は俊足だが、それでも追いつけない。だからこれは事実上ゲームポイントだ。
 そう、思って駆けた無防備な千尋の左側方をボールが通過する。
 千尋の判断が現実に即していない、と気付くのに数秒かかる。そのほんの僅かしかない時間で唯一冷静さを保っていたのが切原だった、というのは後できちんと褒めなければならないが、今の千尋は完全に思考が停止している。どうして、と、なんで、と、自分の判断が誤っている筈がない、を無限に繰り返してただぼうとコートの中にいる。
 切原が必死に走って走って、追いついて返したボールはきちんと点を取って千尋のサービスゲームはちゃんとキープされた。
 それでも、千尋はそれどころではない。
 白石のポジショニングしていた位置、視線の向き、重心のバランス、ラケットの面、反射神経と判断に至る根拠。どれを取っても千尋の中ではストレートが正解だったのに、現実はクロスを支持した。現実に起こったことが全てで、千尋は判断を誤ったのだというのが真実だ。現実はそれしかない。
 それでも。
 千尋の直近一年半でこんなにも完璧に逆を突けるのは幸村精市一人しかいなかった。
 その幸村との試合でもここ半年ほどは割といい感じのゲーム内容になっていて、これほどまでに受け入れがたい失態を演じた記憶がほぼ風化していたから、千尋の思考能力はオーバーワークを告げる。
 そして、こういう「完璧な失敗」をしてしまうと人間というのは割合、自分の判断に自信が持てなくなるもので、続く謙也のサービスゲームで千尋は完全なる切原のお荷物と化していた。どこに打てばいいのかわからない。本当にそこがチャンスコースなのか、自信がない。自信がないから強打が出来ない。威力のない打球ほど処理が簡単なものもなくて千尋の実像を結ばない視界の中で切原が必死に駆けまわって千尋のフォローをしているのも理解に至らない。
 当然ゲームを落とす。レシーブの出来ないレシーバーなんてただの粗大ゴミだ。いるだけ邪魔。寧ろいない方がいっそ諦めが付くのにテニスのルール上、ダブルスのサーブは交互に受けなければならない。切原がどんな顔をしてそれを耐えているのかもわからない。
 ただ、千尋は自分の失敗と向き合えずに全ての情報の処理を拒絶していた。
 泣きたいとか悔しいだとか、そんな感情の起伏すらない。
 現実を受け入れらない。
 現実の存在が認められない。
 必死に現実逃避して、返ってくるはずだったストレートを何度も何度も探して、ある筈のない自分に都合のいい結論だけを必死に求めていた。
 切原の怒号が飛んだのは彼のサービスゲームを既に0-30まで落とした後のことだ。切原はまだサービスエース四つで勝負を収められるだけの強さはない。だから普通にラリーが必要だ。なのに千尋は未だに使いものにならない。二対一でダブルスを耐えられるほどの強靭さもまだ切原にはない。このままずるずると負ける。わかってしまったから、切原は千尋に対して吼えた。

常磐津先輩!」

 そうして、先に謝っておく、と前置きをして全力の全力で千尋の左頬が殴られる。平手打ちなどという生易しいものではない。硬く握った拳で殴りつけられた。痛い、と感覚すら今の千尋にはない。反駁をする気概も何をするのだと怒る根性もない。
 それでも。
 何か衝撃があった、というのだけはどうにか知覚した。そして、見る筈だった幻がようやく少しずつ消えて目の前で泣きそうに顔をくしゃくしゃにしている後輩の姿が網膜に照射される。常磐津先輩、ともう一度怒鳴られる。そうして、少しずつ千尋にも痛覚という概念が戻ってきた。何の構えも取らなかったから、口腔内を切っているのだろう。鈍い味が舌全体に広がっている。

「きり、はら」
「アンタ、ふざけるのもいい加減にしてほしいんすけど!」
「何が」
「テニス! する気がないなら出てってもらえます?」

 そうしたら今から後は圧倒的不利を覚悟のうえで二対一の勝負に臨むから、と言外に含まれているのに気付いたとき、千尋の脳漿はますます混乱を極めた。何が起こっているのだろう。まだはっきりと把握出来ていなかったけれど、気付く。
 今、混乱しているのは千尋一人ではない。
 切原もまた混乱の中にいる。それでも、切原はまだ前を向いているし、戦うことを諦めていない。
 それに引きかえ、自分は何なのだ、と千尋は思う。独善で始めたダブルスの「説教」を途中で放棄してただのお荷物と化している。テニスが好きだ。テニスさえあればいい。そういう気持ちで立海に来たはずなのにいつの間にそれを忘れてしまったのだろう。そんなことをふと思った。
 テニスが好きだ。テニスをしているときだけが千尋の時間だ。
 テニスの為に全てを懸けられる。All in Allを忘れそうになっていた。
 たった一つの失敗じゃないか。弱いと侮っていた相手に一杯食わされて、そこで折れるならその程度だ。そんなことぐらいでテニスを全部捨てるのか。一度の失敗すら認められなくて許せないのか。千尋はそんなにも完璧な偶像に進化していたのか。そんなはずがない。千尋の一年は重みがあったけれど、そこまでの傲慢を許していない。
 だから。
 自尊心が傷付いたのは事実だ。天狗になっていた。鼻高々と周囲を侮っていた。そのしっぺ返しが来ただけだ。その事実が問う。それでも、千尋はまだテニスを愛していると言えるのか。転んでも怪我しても、挫けても傷付いても何度でも何度でも立ち上がってやり直すと決めたのは誰だ。その矜持まで捨てたのか。
 そうでないのなら、千尋が今すべきことなど一つしかない。

「切原、迷惑ついでにもう一つだけいいか」
「何すか」
「もう一発頼む」
「はぁ?」
「出来れば右側で頼む」
「はぁあ?」

 素っ頓狂な声を上げて、切原が千尋をまじまじと眺めた。頭は大丈夫か。今殴った衝撃でおかしくなったのか、それとも千尋が真性のマゾヒストなのか。色々理解が追いつかない顔で切原は千尋を数秒間観察して、そうして結局は長いながい溜息を吐き出した。
 そして。

「あとで文句言わないでくださいよ! ね!」

 結局は切原も何らかの腹を括って千尋の右頬を拳で殴りつけた。身構えていた分、今度は衝撃も少ない。それなりに受け身も取った。口腔を切ることもない。それでも、熱と痛みが生まれる。多分、今、多かれ少なかれ、切原の拳にも同じことが起きているだろう。その罪悪まで推し量って、ようやく千尋は自分の道をもう一度視認することが出来た。
 大丈夫だ。
 今の気持ちならまだ戦える。
 立海レギュラーに負けは許されていない。たとえ野良試合でも、練習試合でも、だ。
 そのことを思い出して、千尋は自分が何に戸惑っていたのか馬鹿馬鹿しさすら覚えた。
 欠点は誰にでもある。
 弱点だって誰にでもある。
 自分の思い描く最良はあるし、目標到達地点はいつだって更新されてどんどん遠くなる。
 完璧なんて目指してもどうしようもない。そんな幻想を追い求めないで済むぐらいには千尋は現実的だ。それでも。そういうものを抱いていた自分を否定しなければ前に進めないほど弱くもない。
 この合宿で、毎晩課題を指摘し合ったのはその為だ。
 わかっている。自分の弱点を晒して、それを乗り越えて、そうしてここにいる十七人は少しずつ強くなった筈だ。
 だから。

「さんきゅ、赤也」
「えっ?」
「ってことで、あと2ゲームさっさと取って終わらせるか」
「あっ、ハイ」
「白石! 謙也! お前らにも言っとく。『さんきゅ』!」

 千尋が見ていた地点よりもっと遠い場所を白石が示した。ゴールは遠い。遠くても一歩ずつ進めば、諦めない限りいつか届く。正比例の成長なんてない。頑張ったから頑張った分だけ報われる、だなんてただの願望だ。それでも、千尋は前へ進むことを選んだ筈だ。
 そのことを今更思い出して、一度の失敗を自分自身で重く受け止めて、そうして立つテニスコートの中は神聖で充足感を千尋に与える。
 テニスが好きだ。テニスを好きだと言える自分が好きだ。
 それの何が悪い。勝つ為のテニスだって意味がある。楽しいだけのテニスを千尋は選ばなかったけれど、それはテニスの中に楽しみを見出さないという意味ではない。
 そういう気持ちで前を向いた千尋の身体はどこか軽く、そして未だかつて味わったことがないほど思考が澄み切っていた。
 視界から得られる情報が脳漿で正確に処理される。切原がどのタイミングでどこを狙ってサービスを打つのか、が理論を飛び越えて感覚として伝わった。その情報が更にリターンのコースを知らせる。そういう仮定による仮定が瞬間的に想起されて、そして千尋の中に「結論」が導き出された。七球目。それでポイントが得られる。
 ポイントが得られる、というのが何なのかよくわからないまま千尋はコートに入った。
 切原がサービスを打つと、先ほど千尋の脳裏でシミュレートされた通りの光景が現実として再現される。千尋の手元に来るのは謙也の返すドロップショットの処理だけで、それを間違えなければポイントだ。不思議な感覚に戸惑いながらもその通りを演じると本当に「七球目」で勝負が付く。残りの三本のサービスを打つ前にも同じことが起きた。それぞれ何球目かは異なっていたけれど、千尋の思い描いた通りの結論が出る。
 何なのだろうこれは。
 切原が失敗をする光景も当然見える。そこを千尋がどうフォローすれば勝てるのかのシミュレートは即座に修正されて、最初に感じた何球目かを超えずに勝つ光景に変化した。
 超能力者か何かになったのか、と思う反面、身体が「軽すぎる」という感覚がある。それに伴って、シミュレートは千尋の体力の損耗を判別しているのか、少しずつポイントまでに必要な打球の数が増えた。
 それでも、立海においてすら圧倒的な持久力を誇る千尋が持久戦で負ける道理もなく6-1で勝敗は決した。ウォンバイ常磐津・切原ペアと平福がコールするのが聞こえて、千尋の「軽すぎた」身体に突然重力が作用したような錯覚を感じる。身体が重い。あまりにも重い。このあともう一試合しなければならないのに、真田とタイブレークを二時間ぐらいしていたときと同程度、疲労困憊していた。
 その原因はどう考えても先ほどの身体が「軽すぎる」という事象に含まれているとしか考えられなくて困惑する。自分の身の上に起きていることなのに何もわからない。
 コートの外では直情径行。その評判がまだ生きているということを改めて突き付けるように幸村が微笑んだ。
 そして。

「おめでとう、千尋。お前も今日から『こっち側』の世界へ来たんだね」

 心底嬉しそうに幸村がそう言う。
 こっち側とか、今日から、とか問い質したい部分が多すぎて何から問えばいいのかすらわからない。
 その優先順位を判別できない程度には千尋にはエネルギーが不足していた。

「……意味、わかんねーけど」
「三月、いや四月だったかな。急に来るんだ、それ」
「それ、ってだから何だっつーの」
「お前だって聞いたことはあるだろ。それが『無我の境地』ってやつさ」

 お前は百錬自得の方かなって思ってたけど、才気煥発の方なんだね。
 完全に自己完結した幸村の返答に、理解を求めることを放棄して千尋は柳蓮二を必死に探した。「無我の境地」についてなら少しは知っている。テニスをプレイし続けているとある境界線を越えた瞬間、常人の域を逸して感覚が研ぎ澄まされ、所謂「オーラ」というものを発するものがいる。その領域に達したのだ、と言われても何の実感もないしこの後具体的に何をすればどうなるかの説明がほしい。何より、このコンディションでもう一試合出来るのか。そのことばかりを意識していて千尋は相棒が泣きそうな顔をしていることに最後まで気が付かなかった。

「蓮二! 説明! 出来るだけ簡単で後腐れないやつ!」
「実にお前らしい反応だな、キワ

 だが、安心するといい。その反応まで想定の範囲内だ。
 言って柳がすっと瞼を薄く開く。
 強い輝きを宿した柳の双眸には確信が宿っていて、多分、彼もまた「そちら側」の存在なのだと察した。
 「無我の境地」の到達点には三つの種類がある。そのうちの二つが先ほど幸村が口にした「百錬自得」と「才気煥発」だ。残る一つが「天衣無縫」であり、これが最も稀有であることまでは千尋も理解している。
 だから、千尋が知りたいのは「無我の境地」が何なのかではない。
 自分がどのタイプで、今後何を意識してどう練習をするか、だ。
 その解説を率直に求めると、柳が穏やかに微笑んでそうして言った。

キワ、その前にその顔をどうにかした方がいいだろう」

 殴られたままだと明日には酷く腫れるぞ、と揶揄する含みがあって、そうして千尋はやっと思い出した。一度目は不本意ながら、二度目は自ら望んで拳で殴られたのだということを。

「何。無我の境地って痛覚消えるわけ」
「その名の通りだ。無我の状態だからな。神がかり、だの、トランス状態だの表現は種々あるが、基本的には同じ状態のことを指す」

 常人の域を超えて集中力が高まり、人間の脳が普段行っている能力の制御が外れる。リミッターが解除されているから交感神経が活発に働き、凡そ常識の範囲にないことが実現可能になる。その代わり、脳、および身体は通常以上の負荷がかかった状態になるから損耗が酷い。
 そんなことを淡々と語りながら、柳は千尋の健康状態を的確に検査し、そしてマネージャーへと引き渡した。

キワ、じゃんけんで勝ったのにすまないが、今日の試合はこれで打ち止めだ」
「……やっぱり」
「自覚があるのならいい。なるほど、お前はそうしてみると才気煥発の傾向にあったな」
「まぁ、テクニック勝負じゃねーし」
「ダイ、お前も何かキワと話したいことがある、という顔をしているぞ。少し二人で休むといい」
「へっ?」
「レン、余計なお世話なんだけど」
「まぁそう言うな」

 言って柳は残った顔ぶれを連れて二巡目の練習試合へと戻ってしまう。
 一巡目で試合の終わった千代が一緒にベンチに残されて、不貞腐れていた。不貞腐れているのに、どこか切実で切迫した顔をしている、とやっと気付く。
 そうして、千尋はやっと思った。
 千尋の無様な姿を千代はいつから見ていたのだろう。
 格好が付かない、だとか、みっともなかった、だとか思った千尋に反して千代が口にした「キワ」の呼び声はどこか硬く、ぎこちない。お前だけがずるい、お前になんて負けない、俺もすぐに無我の境地覚えるから。そんな言葉を期待したのに千代はいつまで経っても「キワ」の次の句を継がなかった。
 だから。

「ダイ、俺さぁ思うんだけど」
「……何」
「お前がいたから、俺、好きなように出来てんだなって」
「気障。臭い。格好つけすぎ、夢見すぎてて気持ち悪い」
「おっ、それだけ言えるなら大丈夫か、お前」

 言いにくいことを言ってくれる。帰るべき場所にずっと立っている。そういう色々あって、それでも普段は「当たり前」だと思っていることが――千代と共にいるということが尊いのだということを切原が教えてくれた。
 後輩だなんて侮っていたけれど、それでも学ぶべきことを示してくれるかけがえのない存在だ。そのかけがえのない存在が示してくれた相棒の存在感を貴んでいる。そう、告げるといつもより若干弱いジャブが返ってきて千尋はやっと息を吐けた。

「なぁダイ」
「何」
「お前はさぁ、百錬自得覚えろよな」
「馬鹿? キワ
「何が」
「俺はお前ほど強くない」

 けど、お前がどうしてもって言うなら考えてもいい。
 言う千代の表情を見ているとまだ何か胸の奥につっかえているものがあるように感じたけれど、千尋は生憎カウンセラーではない。千代の苦悩を懇切丁寧に聞き届けてやるだけの器と体力が今の千尋にはなくて「うん、頼む」だなんて答えているうちに四天宝寺の二人がやってきて千尋と千代の時間は終わってしまう。
 このときにもう少し千代と話せていたら。
 もっと違う結論を導き出せたのかもしれない、と思う日が来ることを千尋はまだ知らない。
 可能性という名の「奥行き」を得た千尋の今日がゆっくりと終わる。
 時間という概念は今日も不可逆的に過ぎていった。千尋の夏は本番に向けて、少しずつ進んでいる。