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All in All

59th. 無我の境地

 強化合宿が終わってから、全国大会が始まるまでの立海大学付属中学テニス部の練習は過酷を絵に描いたような内容だった。
 今年も全国大会を勝ちきって二連覇。その夢を実現するには一分の慢心も許さないとばかりに平福は練習に次ぐ練習の毎日を強いた。
 三強たちが「無我の境地」の中にいると知ってからの二週間。常磐津千尋もまたその扉を開いてからの二週間だ。持久力だけが持ち味の千尋にとって「無我の境地」をコントロール出来ないが故の体力の摩耗は地獄と同義だった。神経が冴えわたり、あまりにも多くの情報を受け取る。柳蓮二の言うような数学的な下地はない。ただ「現象」或いは「事象」、「事実」としてのみ情報が伝播する。それを処理すること強要された千尋は一週間、立海正レギュラーの残り六人に惨敗した。誰とやっても負ける。どうすればいいのか、未来は見えているのに体力の消費が激しすぎて身体の方が追いつかない。今までに味わったことがない劣等感を抱えて、それでも千尋はテニスを愛していたから必死に自分自身のコントロールと戦った。負ける瞬間が見えているのに何の抵抗も出来ない、だなんてどんな屈辱かと思う。だとしても現実は冷たい現実だけを突き付けて、一方的に千尋を祝福してくれることはなかった。
 そんなことを一週間続けた。
 既にその扉の向こうにいる筈のあ三強はそれぞれの言葉で「無我の境地」と生きていくすべを伝えてくれたが、相変わらず理屈という概念の外にいる千尋がそれを咀嚼するにはあまりにも時間が足りなくて、結局は根性論を貫き通した。
 気合があれば「無我の境地」ぐらい制御出来る。
 その気持ちだけで一週間、ひたすらに負け続けた。
 立海黄金ペアと誇っていた千代由紀人(せんだい・ゆきと)とのダブルスですら負ける。ネットの向こうは何のデメリットもない。いつも通りを貫けば千尋が自滅する。カウンターパンチャーを自称した千尋にとって最低の負け方で、千尋の問題に千代を巻き込んでいることに若干の引け目はあったけれど、千代はいつもの淡々とした表情で負けを受け入れていた。
 思えばその千代の態度に甘えていたのだろう。
 千代がどんな気持ちでそうしていたのか、推し量るだけの余裕が千尋にはなかった。
 自分のことで手一杯で、降って湧いた「無我の境地」をコントロールすることしか頭になくて、いつもの千尋なら気付いていたかもしれないことに全く気が付かなかった。テニスコートの中ですら自尊心を折られるという状況から一分でも一秒でも早く脱したくて仕方がなかった。

「蓮二、カラーコーン百本頼む」

 レギュラーコートの一日が終わり、自主練をする為に立海大学付属高校のコートへ向かう道すがら千尋は柳に嘆願した。今日も全戦全敗で、そろそろ千尋は焦りという感情を覚え始めていた。午前、午後と練習をこなしてきた千尋の身体は既に体力の限界を訴えている。それでも、といういうよりはだからこそ、になるのだろう。千尋はより自らに負荷をかけてようとしていた。
 柳が溜息を零す。

キワ、今のお前では五十本が限界だ」
「だから! 言ってんじゃねーか! 百本やるっつってんだからやらせろよ」
「五十本だ。それ以上の負荷は何の効果もないどころか、故障の危険性を高めるだけだと何度言えばお前は理解するんだ」

 溝を三色に塗り分けられたボールを瞬発力、動体視力、それから判断力を使って三色のカラーコーンへスマッシュで打ち返す練習がしたい、というのを陳情しただけだ。一週間前の「無我の境地」に達していない千尋なら百五十は軽く消化出来た。なのに今の千尋のコンディションではその三分の一。五十で限界だと言われてどうして焦らずに肯定出来る道理があるだろう。
 
「それでも、五十本で全国大会で勝てるわけねーだろ!」

 全国大会の厳しさを千尋はまだ知らない。立海の看板を背負ってコートの中に立つ重みもまだ知らない。それでも、わかっていることがある。立海四十五は千尋の両肩に乗っているのだ。部員全員の期待を背負って、勝ってきてほしいという願いを預かってレギュラーの座にいる。勝てないレギュラーなんて要らない。一勝も出来ない無様なレギュラーの姿を見せ続けるのがどれだけ他の部員の不安を煽るのか、千尋は知っている。知っているからこそ焦っている。格好を付ければそういう台詞を口にすることも出来たけれど、それでも千尋はもう一つだけ知っている。そんな風に思うのは千尋の自信のなさの表れで、本当はちっぽけな自尊心を守りたいがための保身でしかない。わかっている。負けて悔しくない選手なんてどこにもいない。そうだと知っていて、千尋は順調に勝利を手にしてきた。それはつまり、千尋に負けた選手が同じ数だけいるということだ。負けたからには勝ったやつに懸ける気持ちを知っている。勝ったからには負けたやつの気持ちを背負うことも知っている。今の自分はどちらにも足りなくて、無様を晒している。それを恥だと思う自分が一番恥ずかしい存在なのだということも知っている。
 それでも。
 どうしても。
 千尋はテニスを手放したくはなかった。
 その切羽詰まった感情が表に出ていたのだろう。
 後頭部を誰かの手が軽く叩いた。何をするのだ、千尋は今必死になって前を向いているのに。
 そう、苦情を言おうとすると呆れ顔の真田弦一郎が、それでいて慈しみに満ちた声で制する。

「落ち着かんか、千尋
「けど」
「まだ一週間ではないか。それほど簡単に『無我の境地』を攻略されたのでは、俺たちの立場はどうなるのだ」

 全国大会までまだ一週間残っている。焦るよりも確実性の高い選択肢の方が長期的にも短期的にも利があるだろう、と説かれた後半の言葉に引っかかりを覚えた。

「何。お前、そういう時期あったのかよ」
「無論。お前と二時間半のタイブレークを続けていた頃がそうだな」
「はぁ? お前、そんな前から『そっち』かよ」

 時期にすれば一年生の二学期の終わりから三学期の初め頃の出来ごとだ。一週間前に扉に到達した千尋に対して、実に五か月程度のアドバンテージがあると言える。その間に真田は千尋が経験しているこの苦境を脱したのだ。そのときの千尋は何をしていただろう。多分、真田といい勝負が出来る自分に酔っていただけだ。
 そのことを改めて知って、千尋と真田の間にあった才能と努力の隔たりを知って、その結果俯いてしまわないぐらいには千尋にも矜持があるし、それほどまでには人生に対して投げやりでなかった。
 だから。
 まだ前がどちらかもわかる。その方角に視線を向けることに怯えてもいない。
 そんな自分を観測して、千尋は小さな溜息を零した。零した吐息に負の感情をありったけ込めた。そうでもしないと、今、自分の身に起こっていることを一方的に悲観して悲劇のヒーローを演じてしまいそうだった。
 
「何だ? お前には見えていなかったのか」
「何が」
「所謂『オーラ』というやつだ」

 見えていなかったとも。見えていたのなら、先週の千尋はこんなにも衝撃を受けたりしなかっただろう。そのぐらい、真田も、柳も、幸村精市も、千尋が知らないうちに自然に次の段階に進んでいた。
 そこに至るまでに三人が三様の努力をしてきたことを忘れないで済むぐらいはまだ千尋にも理性というものがある。
 自分だけが優れているだとか、自分だけが特別苦労しているだとか言うつもりもない。
 それでも、千尋は本能的に知っている。自分の気持ちの重さは自分以外には決して量れない。感情は定量的な存在ではない。どれだけ言葉を重ねても、どれだけ行動を起こしても、人は人と本当の意味で相互理解に至ることはないのだ。
 だから。
 真田の中学生らしからぬ落ち着きを見ていると、まるで自分が駄々をこねている小学生に戻ったかのような感覚すら生まれる。そこまで至って、ふと千尋の思考がリセットされた。
 そして思う。

「俺のは見えるのか」

 無我の境地に達するとその選手がオーラを身に纏う、というのは一般常識の範囲内で認知している。それでも、千尋は未だかつて一度もその「オーラ」を見たことがない。三強は勿論、全国大会の出場選手、トッププロ選手の試合のTV中継まで含めても、本当にたったの一度もその現象を視認したことがないのだ。だから、都市伝説か何かの一種だと思っていた。
 その、無我の境地に達した、と幸村精市は言った。
 実感のようなものならある。それでも、千尋は思うのだ。千尋はオーラを纏っているのだろうか。もし、誰かの目に見えているのなら千尋のオーラは何色なのだろう。
 そんな一抹の期待を込めて真田に問うた。
 彼は一瞬すら悩まずに千尋の問いを否定した。

「見えんな。全くといっていいほど見えん」
「蓮二、お前もそうなのかよ」
「そうだな。強いて言えばいつもより目の輝きが強い。その程度の変化しかないだろう」

 何だ、見えないのか。そう思うと正直なところ、内心がっかりした。
 やっぱり無我の境地なんて都市伝説だ。そう結論付ける為に、千尋はもう一つ問いを重ねる。明確な答えがほしかったのではない。ただ、期待感を肯定してほしかった。

「それって何が違うんだよ」
「俺が思うに、キワ
「何だよ、蓮二」
「統計的な根拠があるわけではないから多分、という可能性の話になるが――」

 まるで立て板に水を実演するかの如く、柳の前言い訳がつらつらと紡がれる。そのどれを取っても千尋が反駁する要素と結びつかなくて、はっきり言えば気勢を折られた。お互い言い訳をしなければ突っ込んだ話を出来ない間柄ではない。なのに千尋は妥協と忖度を求めようとした。馬鹿だとしか言いようがない。転んでも、躓いても、折れても、足をはらわれてもそれでも何度でも立ち上がり、前に進むと決めたのは誰だ。その覚悟を忘れたわけではない。
 だから。

「前置きされてもわかんねーからさっさと言えよ」
「俺たちが到達した『無我の境地』というのは一般的に認知されているその状態とは少し異なっているように思う」
「は?」

 その唐突で、突飛で、なのに現実味を帯びた返答を聞いた千尋は間抜けな声を上げるに留まる。
 適切な返答がわからない。深く眉間に皺を寄せた柳が何を憂慮しているのかもわからない。ただ、自分たちの存在が規格外だと言われたのだけが理解出来た。柳蓮二というのが、そんなことを自慢げに言うやつかどうかならわかる。言葉や科学では表現することの出来ない人生そのものにしか存在しない「奥行き」が生んだ誤差の範囲内だ。だから、柳は数字を示さないし、真田はたるんどると一笑に付さない。つまり、千尋たちが自身を常識すら超越した存在だとかいう傲慢に浸ることを許さないし、異端だと自虐をすることも許さない、と柳は含んでいる。
 そこまで説明されて、ようやく千尋の視界が少しずつクリアになる。
 この一週間、ずっと忘れていた感覚だ。ずっと「当たり前」の世界と別離していた千尋には懐かしさすら覚えさせる。その「人として当然」の世界に引き戻した柳は眉間の皺を消さないまま話を続けた。
 
「現にお前はダブルスで才気煥発の予見を使った」
「ああ、あの何球で決まるかわかるやつか」
「本来、ダブルスの試合で才気煥発の予見は不可能だと言われている」
「なんで」
「主要な因子が多すぎて人の能力では把握しきれないから、だと俺は認識している」

 それでも、お前は四人分のシミュレートをこなして見せた。
 誇ってもいい、と柳は言っている。
 それだけ深く千尋が相手の選手を観察していたということを、自分自身の能力を量り損ねていなかったことを、テニスという競技において勝利に必要な要素が何かを把握していたことを、それを可能にする為の努力をしていたことを、千尋は誇ればいい。
 オーラが何色だとか、能力の本来の定義がどうだとか、そんなことは現実の前では些事だ。
 それらがどれだけ千尋を否定しても、千尋はもう現実に存在している。理屈は必要だ。それでも、理屈が人の存在を消し去ることはない。人の存在を消し去るのは悪意をもって理屈を使う人間だけだ。
 だから。

キワ、全国大会まであと一週間ある。お前も気付いている筈だ。お前の勝利は少しずつだが現実のものになろうとしている」

 お前の手にした才気煥発はお前の敗北を告げるだろう。それでも、お前は一週間前のお前よりずっと強かな顔をしているのに気付いているか。
 問われてその意味を図りかねて千尋は首を傾げた。そうしてありもしない知性を最大限動員して考える。考えて、そうして空回っている千尋を支えてくれた四十五の優しさを思い出す。
 無我の境地に至って以来、勝てもしない正レギュラーの千尋を罵倒したやつは一人もいない。千尋が自分で壁を乗り越える瞬間を信じて、託して、千尋以上の焦燥を抱えて、それでも立海の四十五人は千尋を温かく見守ってくれた。
 だから、千尋が今、何をすべきかだなんて愚問を口にするほどには千尋も知性を欠いていない。知っている。立海というのはそういう集団だ。一度信じたものはどこまでも信頼される。同じ理念を抱いたと認めている。認めたからには一緒に苦境を戦ってくれる。
 知っていたのに、千尋は自分一人で答えを出そうとしていた。
 柳のアドバイスを受けても、真田の苦悩を聞いても自分で咀嚼しきれなくて焦っていた。もしも。本当に万に一つの可能性で千尋がこのまま潰れても。多分、千尋がいなくても立海は二連覇を果たすだろう。三タテの立海における七分の一なんてその程度の存在だ。使えないのならS1に登録されてお終いだ。わかっている。別に千尋に全てを超越する存在であれなどと望んでいるやつはどこにもいない。一番になれなくても、勝負に負けても、自分の能力に振り回されていても。明日は来るし陽は登る。今日と明日の境目はあるけれど、それでも現実の世界に境界線上でシャットアウトされる瞬間なんていうのはやってこない。今日は緩やかに明日変わり、明日は緩やかに昨日に変わる。
 だから。

キワ、苦しいときにまで無理やりに自分をいたぶるような真似をしなくても俺たちは消えたりなどしない」
「そうそう。千尋、テニス、楽しんでる?」

 俺はテニスを楽しんでるお前のテニスが一番好きだな。強くて格好よくて輝いてるお前のテニスをお前が忘れちゃうなんて反則だろ。
 不意にそんな気障ったらしい言葉が聞こえて、瞬間的に声のあるじを察して、千尋は長くながく息を吐き出した。わかっている。わかっているのだ。この世界に何十億という命があっても、その中で常磐津千尋千尋一人で、千尋の人生を誰かが肩代わりしても、それはその時点で千尋の人生ではない。だから、千尋千尋の人生を生きる以外の正解なんてどこにもない。わかっているのに千尋は結果を急いでいた。
 誰のテニスが格好いいって?
 誰のテニスが輝いてるって?
 当たり前だろう。All in Allをかけた千尋のテニスが無様だったら何の実りもない。そんな無為なものの為に立海の大人たちが大金をはたいてまで千尋を育てる道理がある筈もない。
 努力は人を育てる。認めたくはないし、非情に残念だけれど、千尋は天才ではない。天才ではない千尋は努力をするしかない。心が折れても、砕けても、途中で挫けても、後悔しか生まなくても千尋は努力をする以外の選択肢がないのだ。
 だから、千尋は結論を焦っていた。
 何の力もない、誰の役にも立たない自分を認めて受け入れるのが怖かった。
 そんな筈はないと信じて、信じたくて、疑いたくなくて必死に拒絶していた。
 そのことを千尋以外の全員が知っている。知っていて、部員たちも顧問も千尋の思うようにさせてくれた。誰かの顔色を窺うのじゃない。誰かに褒めてほしいのじゃない。自分が好きでいられる自分でいたい。ただそれだけのことから逃げていた。等身大の自分が受け入れられないくせに、周囲には等身大の自分を認めてほしがっていた。
 馬鹿だ。千尋は馬鹿だと自分で思っていた以上の馬鹿だったと今気付いた。泣き言を口にするなんて格好悪くて出来ないと思っていた。誰かの力添えがなければ前に進めないのは弱いやつだと思っていた。
 でも、多分、違うのだろう。

「精市、俺、楽しくなさそうに見えるのかよ」
「うん。ずっと苦しそうにしてるよ、千尋
「そうかよ」

 だって、まぁ、今、俺の頭の中混乱してるからな。
 言って瞼を伏せる。もう一度開いたときに見えた幸村精市は穏やかに微笑んでいて、千尋の小さな欺瞞なんていうものは幸村の前では何の効力もないことを実証していた。
 その笑みに向けて言う。

「テニス、楽しみてーな」
「『勝ちたい』じゃないんだ?」
「よくわかんねーけど、『勝ちたい』と『楽しみたい』はどっちか一つしか選べないわけじゃないだろ」

 勝つことの中には色々な楽しみが存在するだろう。それらが最も輝きの強い「楽しみ」だということを千尋は知っている。
 それでも。玉石混淆の「敗北」の中にも少なからず「楽しみ」が存在する。
 勝ちも負けも千尋を育ててきた。負けの中に見出したものが千尋の根幹を支えている。そのうえで、千尋は強く思うのだ。「テニスを楽しみたい」と。
 だから。

「弦一郎、お前んちに一週間泊めてくれよ」
「一週間で悟りを開くとでも言うのか、お前は」

 笑わせるな、と言外にある。そうだ、笑わせるつもりなんて微塵もない。千尋は本気の本気で自分に与えられた選択肢の選別を行っているだけだ。千尋は宗教になど興味がない。座禅を組んで瞑想をして得たい実利なんて千尋の中にはない。
 それでも。そうだとしても。
 千尋の人生に今、必要なものだと思った。

「そういうわけじゃねーよ。ただ、お前の人生見てるのが一番近道かなって」
「特待寮のようには甘やかさんが、いいのだな」
「当然、余裕に決まってるだろ」

 そもそも、特待寮の一日が甘いと思っている時点で認知に誤りがあるのだということを証明してやろう、だなんて思った。強化合宿初日の朝、真田が言った起床時刻のことを思い出したけれど、心は別段悲鳴を上げはしなかった。
 持久力と耐久力を誇りとしてきた千尋が真田家で一週間過ごしたところで潰れたりなどしない。寧ろ得るものの方が多いだろう。人生という道を真摯に歩いている。そんな真田の向こうに最適解が見つかる予感すらして、千尋の心は一週間ぶりに高揚を覚えていた。
 高校の通用門から構内に入る。少しずつ夕暮れが早まって、暑気は消えないくせに水銀灯がほんのりと辺りを照らし始めていた。その中をいつも通り、六人で歩いてコートへと向かう。立海大学付属高校構内の通路は中学とは違い、殆どアスファルト舗装が施されている。景観を損ねないように、とアースカラーに塗装された通路だったけれど、この時間では既に色相は失われ、半ば影と同化していた。
 その上を歩きながらの会話に、少し気を張った硬い声が割って入る。

「だったら、キワ。俺も行く」
「お前も?」
「そう、俺も」

 俺がいないと、お前の中の駒が足りないだろ。
 その台詞を千代がどんな気持ちで口にしたのか、馬鹿の千尋には正確に伝播してこない。それでも、千代の申し出を拒めば二度と千代の瞳に千尋が映らなくなるのだけは何となく理解出来てしまった。
 切羽詰まっているのは千尋の筈だ。千代は何も得ていない代わりに何も失っていない。どうして千代が焦っているのだ、と思ったけれど口にはしない。これは、決して言葉にしてはならない疑問だと直感が告げた。
 だから。

「弦一郎、立海黄金ペアを助けると思って。な?」
「この馬鹿者どもが」
「一週間お世話になりまーす」

 棒読みの「ありがとう」が聞こえて、根負けした真田がふっと息を漏らす。
 そして、彼は挑発的に微笑んで千代の断定を否定した。

「ダイ、俺はまだお前たちを泊めると約した覚えがないが?」
「でも泊めるだろ。お前は必死のキワを突き放したりしないだろ」

 真田弦一郎というのはそういう優しさを持ったやつだろう、と千代が確信すら持って言う。
 その声色に薄っすらと滲んでいた悔しさと無力感と、虚しさのことを千尋が知っていたら違う道を選べただろうか。未来の自分がそんな後悔をすることすらまだ千尋は知らない。
 知らないからこそ言えた。
 
「二人で抱えりゃお荷物もちょっとはましになるかもしれないだろ」
「俺はお前なんて抱えてやるつもりないけど」
「ダーイーちゃーん! それは! 思ってても! 言わない手のやつだろ!」

 戦意を煽る為の挑発だと思った。だから、いつも通りに拾って大袈裟なリアクションを返した。
 薄暗闇の中、千代の口角が千尋にだけにわかる角度で吊り上がる。ああ、いつも通りだ。千代はずっとそこにいる。才気煥発の予見ではなく、千尋本人の認知機能がそう判断した。だから、待っていてくれるやつがいるのなら、千尋は何度だって立ち上がって前に進むだけだ。今、千尋の視界にはやっと「前」が見えようとしている。その「希望」に縋るのに必死で、千尋は千代の顔色が曇っていることに気付かない。

キワ、俺はお前ほど強くないんだ」

 その泣きそうで消えてしまいそうな独白は千尋の耳に届かない。今日を明日を生きる糧を探すことに夢中になっている千尋が気付かなかった最後の小さなSOSを見過ごして、千尋の「前進」が続く。
 十四になったばかりの千尋には「希望」の持つ残酷さが理解出来ない。
 そのことを一方的に突き付けられるとも知らないで、千尋は少しずつ。本当に少しずつ、無我の境地にあることに慣れようとし始めていた。