. All in All => 60th.

All in All

60th. 不自由な自由

 小さな違和感、というのは大抵見過ごしてしまうものだ。
 いつも通りを僅かにずれた程度で毎日まいにち反応していたのでは人間の精神はとてもではないが、摩耗してしまう。だから、いつも通り、の検知率には幅がある。最低でも五割。酷ければそれを下回っていたとしても、人間の脳は誤差の範囲内と判断し違和感を無意識下で塗り潰す。
 そうして得た偽りの安穏で人は均衡を保つ。
 罪悪を覚える必要はない。後悔をしてもどうしようもない。
 それでも。
 親友の切なる願いに気付けなかった愚かな自分を知って、どうしようもないことだとわかっていて、それでも嘆くのもまた人間に許された権利なのだとかうそぶく強さはなくて、ただ悔しくて悔しくて、あまりにも自らが愚かしくて常磐津千尋は「自分の為に」哭いてしまいそうだった。
 真田家に一週間、千代由紀人と二人で泊まり込み、真田弦一郎の修行とも呼べる毎日を共に過ごすうちに「無我の境地」というのはそれほど特別な概念ではなかったことを千尋は知る。人間に個性という概念があるのと同じように「無我の境地」にも個性がある。ただそれだけのことだ。恐れることも、誇ることもない。真田と共に道場で瞑想をするうちにそんな気持ちになった。不安というのは一種のストレスなのだろう。自分の見ている範疇に答えが見つからない。「思い通りにならない」という状況が見えているから受けるストレスだと言い換えることが出来る。不安要素というのはストレス源であり、その要素に対して何らかの不満を抱いているから生理現象として発露する。
 ということは、だ。
 結局のところ、自分と世界との間で自在に変えられるものがあるとすれば、それは自分の方でしかない。どれだけ願っても、望んでも、何を費やしても、他人は決して思うようには変化しない。そのことを今一度突き付けられただけなのだ、と千尋は理解する。
 受け取る情報量が多すぎて処理に困っているのなら、いっそ、受け取ることを止めてしまえばいい。そんな単純な発想が出てこない自分自身を知って、千尋は自分がどれだけ解を焦っているのかを知った気がした。
 千代の寝具の一つであるアイマスクを借りて、視覚を削ぎ落す。
 目の前に広がるのはただの闇だ。
 その状態で、テニスをすること自体は幸村精市の「イップス」という前例があるから、それほど抵抗は感じなかった。聴覚と触覚だけを頼りにコートの中を駆ける。時折柳蓮二がアドバイス程度に声をかけてくれればそれで千尋には十分だった。
 四月、切原赤也を圧倒したのと同程度の試合内容が出来る。
 千尋と千代のダブルスの連敗記録も止まった。つまり、千尋は視覚情報に振り回されているのだ、という結論を得る。五感のうちの一つを排除するだけで千尋は無我の境地に至る以前の状態に復帰した。
 この心理状態なら、アイマスクを外してもプレイ出来るのではないか、という甘い目論見はすぐに破綻したから、柳のアドバイスに基づいて千尋のサービスゲームだけはアイマスクを外す。相手のサービスゲームは着用する、という形式で練習を重ねた。
 結局、全部で三日間ある全国大会の初日に至るまで、その調整がずれこんで二回戦はS1で登録された。王者立海の試合は三タテだ。S1の試合なんて当然ない。「無我の境地」にある千尋は二日目の三回戦でぶっつけ本番の実戦投入になる。その千尋にとっての「初戦」がダブルスの試合だったのは平福なりの優しさだろう。
 千代と二人、コートの中を優雅に泳いで無事勝利を収めた。
 レギュラーではない友人たちや後輩たちも千尋の勝利を我がことのように喜んでくれて、そうして千尋は「才気煥発」をどうにか制御することが出来るようになった。これからだ。ここからだ。このまま準決勝と決勝を勝ち抜いて、深紅の優勝旗を手に入れたら願っていた二連覇だ。誰にも負けしない。三連覇だって夢ではない。
 そう、思っていた千尋の横面を殴る言葉が表彰式を終えた後の喧騒を割って届く。

「一回しか言わないからよく聞けよ、キワ。今まで、本当に楽しかった。ありがとう」

 多分、もう二度とお前とはダブルス組めないと思うけど、後悔はしてないから。
 千代がお祭りムードの千尋にそんなことを言った。厳密に何と言われたのかは千尋の聴覚と海馬が拒絶したから正確には記憶していない。
 ただ。
 心の底から、本当に納得している顔で別離の言葉であろう何かを放ってくる相棒のことがどうしても理解出来なかった。

「ダイ、お前さぁ。本当にセンスねーよな」

 どっきりならもうちょっと上手くやれ。煽るのならそんなに殊勝な顔をするな。
 言いたいことが山ほどあるのに、全力で現実逃避をしている千尋の脳漿は混乱を極めていて言葉は音にならない。悪辣な冗談を放るな、だとか、今度は何の挑戦だ、だとか馬鹿馬鹿しく笑って終わらせれば済むことだ。
 なのに。
 なのに、どうしても、千代の双眸は嘘を言っているようには見えなくて千尋は返す言葉を見つけることが出来なかった。彼の表情に偽りはない。虚飾もない。ただ、心の底から千尋に別離を告げていて千尋は果てのない無力感に襲われた。

「――んだよ、それ」

 今更何を言っても千代が発言を撤回することがないのを察する。
 何なのだ、それは。千尋たちは――立海大学付属中学テニス部は栄光の二連覇を達成して、前人未到の三連覇に挑み続ける道を走っている。今日の興奮はここで終わって、明日からはまた激闘の日々が始まる。その、束の間のある種の興奮に冷や水をかけてでも、今、ここで言わなければならないことか、と暗に千代を責めると彼は呆れたように笑った。千尋を責める風でもないのが、逆に千尋の神経を逆撫でする。
 せめて慟哭の別離なら受け入れられるのか、と言われるとそれは体験していないから判断する材料が足りない。ならばいっそ開き直って逆ギレでもしてくれた方がまだ諦めが付く。
 なのに。
 千代は淡々と千尋の前から消える為の段取りを進めている。勝利が嬉しくないのか、だとか、千尋との別離が悲しくないのか、だとか正負の感情がないまぜになって千尋を襲う。
 それでも。
 千尋の喉はまだ適切な言葉を見つけられなかった。

キワだって気付いてただろ。俺はもう二度とテニスコートで戦うことなんてないんだ」
「何が! どうなって! そうなるんだっつってんじゃねーか!」
「日常生活を支障なく過ごしたいなら、俺はもうテニスプレイヤーなんて続けられないだけ」
「だから!」
キワ。お前だって気付いてただろ。俺の左足はもうスポーツなんて出来ないんだ」

 知っている筈だ、と含んだ言葉が飛んできて千尋の胸中にやっと千代の感情が染み始める。
 多分、今、千尋は千代にとってあまりにも残酷な言葉を投げ続けているのだろう。周囲だってそのことに気付いているだろうに誰かが千尋たちの会話を止める兆候すらない。自分たちのことぐらい自分たちで決着しろ、と暗に言われているのだと気付いて千尋は再び、泣きたい衝動に駆られた。
 泣きたい。
 勝利の余韻に浸る時間すら与えられずに相棒から別離を告げられる今の心中はその一言で十分に表現出来る。でも、と千尋は思うのだ。表情らしい表情なんて何ひとつ浮かべないで、淡々と「事後報告」をしている千代だって泣きたいと思った瞬間がある筈だ。その瞬間に千尋は何をしていただろう。多分、何も考えずに無邪気に笑っていたのじゃないかと思う。だって、千代は千尋と同じようにテニスを愛して、愛しすぎているがゆえに立海に来るまで仲間という概念を知らなかった。そんな千代がテニスを棄てるという選択をするまでにどれだけの葛藤と戦ってきたのか、今更尋ねても傷口に塩を塗り込むだけだろう。
 わかっている。
 わかっているのだ、千尋にはもう時間も機会も何も与えられていない。遅すぎたのだ。
 結果が結果として実を結んでしまったのが今で、今更取り返せるようなものは何もない。
 何も覆せないからこそ、千代は今更慟哭もしないし、千尋を詰ったりもしない。
 それでも、千尋はもう一つだけ事実を理解した。
 千代はテニスを棄てるけれど、千尋のことまで棄てたいとは思っていない。仲間だった、あるいは相棒だった。その事実まで否定したいとは思っていない。
 だから、ここで別離の言葉を紡いでいる。
 そこまでをどうにか周回遅れで理解して、千尋は奥歯をぐっと噛み締めた。

「理由は」
「お前、本当ときどき無神経すぎてぶん殴りたくなる」
「じゃあ殴ればいいだろ」
「前言撤回する。お前、かなり無神経すぎて殴る気もなくなる」
「――っ」
「殴られてお前はすっきりするのかもしれないけど、殴る俺の気持ちも考えろよ馬鹿キワ

 千代はここで前線から退く。その最後の思い出を苦々しい気持ちで終わりたくない、という千代の主張は何ら間違っていないだろう。千代が殴ってそれで棒引きに出来るようなやつかどうか、まで問われなければわからないのかと詰られている。詰られるを通り越して呆れられてすらいる。
 同じ高さにいない、という現象を理解して、千尋は胸を握りつぶしてしまいそうだった。
 そこに追い打ちをかけるかのように幸村精市の声が割って入る。

「由紀人。千尋が無神経なのなんて今更だろ。言っちゃえばいいじゃないか。俺の所為だって」
「――え?」
「覚えてるだろ。お前と由紀人の夏がなくなったときのこと」

 覚えている。覚えているとも。去年のことだ。幸村の能力があまりに高すぎるがゆえに起きた事件のことなら、今もまだ忘れられない。忘れられる道理もない。あの日、あのとき千尋が失ったもののことなんて忘れられる筈がない。
 それでも、と千尋は思う。
 あのとき千代が負傷したのは右足で、左足は傷一つなかった筈だ。後遺症も残らない。そう聞いていたし、そうだと認識していた。
 なのに幸村は千代の左足がテニスの試合に耐えられない理由が自身にあるという。
 意味が分からなくて、千尋はますます混乱を極めた。
 息が上手く吸えない。空気と言うのはこんなにも粘度のある存在だったのだろうか。それとも、千尋の肺腑が本当に潰れてしまったのか。そんな錯覚すら与えながら淡々と千代の告白が続く。

「人間ってさ、不思議だな。無意識的に右足を庇ってたんじゃないかって。軸足の左にずっと過度な負担がかかってたんだってさ」
「でも、お前、今日も普通に――」
「そう? キワ、気付いてる? お前の『才気煥発』がどんどんポイントから遠ざかってたこと」

 気付いている。そのことなら、千尋も十分に認知している。
 ただ。

「それは、俺が上手く『無我の境地』をコントロール出来ねーからで」
「お前って本当に自己中心的なやつだな、キワ

 二人でやってる試合なのに全部お前一人で抱え込むなんて、俺にはとても真似出来ない。
 言った千代の表情にやっと浮かんだ感情が皮肉そのもので、千尋は弁明をしたい衝動に駆られる。それでも、反駁しなかったのは領分を弁えていたからではない。何を言い返せばいいのか、皆目見当もつかなかったからだ。馬鹿の自分が少しだけ役に立ったと思う。馬鹿でなければもっと上手く千代の主張を聞き届けるという選択肢があったことにすら気付かない馬鹿だったことに気付くのはいつか、なんて考えもしない。

「俺が本当の本当にお前のお荷物になる前に一番上に届いて、本当によかった」

 千代の左足はもうスポーツなど出来る状態ではないのだという。
 本当は三学期の途中にテニスを休むという選択肢を示されたのだという。
 そのときに治療に専念していれば千代はテニスを棄てなくてもよかったかもしれない。ただ、治療には莫大な金銭が必要で、千代の実家にはそれを支払う能力がなかった。だから、実質、千代に示された選択肢は「いつテニスを辞めるか」のときを決めるだけで、テニスを辞めないという結論は許されていなかった。
 少しずつ、テニスプレイヤーとしての能力を欠いていく千代の姿を千尋も見ていただろう、と問われた。千尋はそんな記憶が見当たらなくて反駁しそうになって、諦観を示した千代の表情の前に口を噤んだ。
 多分、千代の言うような光景もあったのだろう。と何となく千尋も理解し始めていた。千代が上手くリターン出来ない瞬間、を過ぎゆく景色の一つとして見過ごして、そうして千尋がここにいることを否定出来るほど千尋は弁舌に長けていない。今、何を言ったとしてもそれはもうただの言い訳の域を出ないのだということを今更やっと理解した。

「そんな顔するなよ。俺、間に合ったじゃないか。立海二連覇だろ? もっと嬉しそうにしろよ、キワ

 嬉しいと悔しいと淋しいが同時にやって来るだなんて多分、千尋の人生の中でもそれほど機会のあることではないだろう。間に合った、と言った千代の気持ちを無視したいわけではない。恨むのなら例の上級生を恨むのが筋で、幸村も千代も詰られるようなことは何一つしていない。
 誰も悪くないのに、千代はテニスを千尋は相棒を失おうとしている。
 悔しくないだなんて嘯ける筈もない。
 それでも、千代の悔しさを上回る感情を千尋は持っていない。そのことだけは間違いがない。その、当の本人である千代が現実を受け入れて選択をして結果が実った。途中で気付けなかった千尋が口を差し挟める要素なんて一つもなくて、それがまた悔しさに拍車をかける。

「お前、これからどうすんだよ」
「テニスの出来ないスポーツ特待生なんて要らないだろ」

 学校も辞める。郷里に帰る。そうしてそこで負け犬の人生でも送ると千代は淡々と語った。

「日常生活に支障がないなら、俺はちゃんと生きていけるってことだろ。テニスが出来なくても死なないし、文化部が何しているか気になってたからちょうどいい」

 案外、千代に文化部という世界は馴染むかもしれない。
 そんなことを平坦に紡がれて、今から自分がしようとしていることの罪深さと豪の深さを何となく察したけれど、千尋はその「大人びた対処」を投げ捨てる決意をする。
 十四の千尋に綺麗な別離なんていう綺麗ごとを実行するだけの余裕などなかった。

「――っざけんなよ! お前いなくなったら俺はどーすんだよ! 誰とストレッチすんだよ! 誰とロードワーク行くんだよ! 誰とダブルス組むんだよ!」
「そんな大事だと思うなら、もっと早くに気付けよ、馬鹿キワ
「知るかよ! お前、何も相談してこなかったくせに今更被害者ヅラかよ!」
「俺、言っただろ。『俺はお前ほど強くない』って」
「それが何だよ」
「最後まで言わなきゃわかんない? お前が大事なのはお前だけだろ! いて当然の俺がいなくなって困るから今更慌ててるだけだろ! 代わりがいないから焦ってる顔してるだけで、俺じゃなくてもいいくせにお前こそ悲劇のヒーロー気取るなよ!」

 吼えた千尋に応じるように千代もまた吼えた。
 千尋、やめなよ、と幸村が仲裁をしようとしたけれど、それは真田弦一郎によって留められる。

「お前こそ人の話聞いてなかったのかよ! 俺、言ったよな! 『お前がいたから自由に出来てたんだな』って! お前、俺がそれ言ったときにはもう諦めてたんだろ! 諦めてたくせに結果だけちゃっかり手に入れてんじゃねーよ! 立海二連覇をお前の思い出の為に利用してんじゃねーよ!」
「仕方ないだろ! 俺だって! 辞めたくないけど! でも、仕方ないんだ!」

 千代には大金を支払う能力も、部活の延長に人生を懸けて棄てる覚悟もない。誰かに助けてもらえるのならそうした。でも、どうにも出来なかった。だから諦めるという選択をしたのにそれさえも非難されたら一体千代はどうするべきだったのか、どうしてそこまで考えてくれないのだ、と悲痛に歪んだ表情で千代が言葉を吐き捨てる。
 誰かの人生を他の誰かが肩代わりすることは決して出来ない。
 千代の心痛がどれだけの痛みなのかは千代にしかわからない。
 多分、どれだけ言葉を尽くしても、どれだけ心を巡らせても人の感情を定量化することは決して出来ない。だから、千代は苦痛に蓋をして最善の終わり方を模索した。幸村や真田や柳蓮二はそんな不器用な千代の愚策に早々に気が付いた。気が付いたけれど何もしなかった。安易に誰かの人生を背負おうとするほど、彼らは愚かではなかった。
 それでも、その正しくも賢しい選択が千代をより傷付けていることには誰一人として気付かなかった。仁王雅治や丸井ブン太たちも途中で千代の異変には気付いたけれど、三強の判断に追従した。
 立海三強などと持ち上げられても十三、四年しか生きていない小僧なのだということにこの場にいる誰もが気が付かなかった。
 悲劇と言うのなら、この場にいる全員がその演目の登場人物なのだろう。

「絶望しか待ってないのを知ってても、キワは走り続けられるんだろうけど、俺はもうここが限界なんだ。これ以上、何かに期待して、何かに裏切られるのはもう嫌なんだ。俺だって楽になりたい、そう思って何が悪いんだよ」

 眦の端に薄っすらと涙を滲ませて、自らの身を切りつけるようにそう吐き出す千代を見ていると、千尋は彼が背負っていたものの重みを少しだけわかったような気がした。
 ただ。

「ダイ、お前、本気でそう思ってるのかよ」
「何なんだよ、俺が悪いって言いたいわけ?」
「違う、そっちじゃない」
「そっちって何の話だよ」
「絶望しか待っていなくても俺が走り続けられるだろうってやつの方」

 千代は何も悪くない。悪かったのだとしたら巡り合わせが悪かったのだとしか言えないだろう。
 その点において、千尋も千代も大きな差はない。
 もしかしたら千尋が千代だったかもしれないし、千尋や千代が動かなかったなら幸村が千代の運命をそのまま背負っていたかもしれない。
 だから。
 言えることが一つある。

「お前は乗り越えてくんだろ」
「俺だってそんな状況なら走らねーと思う」

 千尋は馬鹿だけれど、何の支えもなしに独力で立っているなどと勘違いしない程度の知性はある。
 千尋は一人ではない。もしも一人で悪路に放り出されて誰の助けも得られないことが明らかなら、千尋にだって諦めという概念は襲い掛かるだろう。
 そう、言うと千代が秒速で否定する。

「嘘だ」
「嘘じゃねーよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃねーよ! お前が! 決めつけんな!」
「でも、だって、キワ

 だって、キワ。お前、そういうのないだろ。
 大粒の涙が千代の頬の上を滑り落ちる。それを拭いもせずに、千代はただ「でも」と「だって」を無限に繰り返す。
 逃げたいと思う気持ちがないなんて嘘だ。どんなに強がっても、どれだけ自分を戒めても、逃げたいと思う瞬間は誰にだって絶対にある。どれだけ希望を抱いても、そのすぐ隣に絶望は待っている。
 幸福と言うのは最上の状態だから、転落は次の瞬間から始まっている。
 そのことを、千尋たちは少しずつ経験しようとしていた。
 その、あまり多くない経験が千尋の背中を押す。
 千尋の器用で不器用な相棒の手をもう一度掴みたいのなら、まだ今なら間に合う。
 だから。

「お前には届いてなかったみたいだからもう一回言う。『お前がいたから自由に出来てたんだな』」
「それ、どういう」
「最後の最後になってから勝手に一方的に消えんなよ。消えるんなら、ちゃんと合意の上で消えろよ。お前、知ってるだろ」
「何を?」
「シュウに置いてかれて、お前どう思ったんだよ。勝手に決めて、勝手に消えて、お前本当につらかったのにお前もそういう消え方すんのかよ」

 去年の出来ごとだ。見守るしかなかった千尋たちの願いを背負った徳久脩(とくさ・しゅう)が全国大会優勝を果たして、これから一緒に戦っていくのだと思っていたのに渡米することになった。徳久は一人で決めて、一人で海を渡っていった。そのときの喪失感を千代は知っている筈なのに、同じことを千尋に味わわせようとしている、と明言するととうとう千代は俯いてしまった。

「だって、お前が別に俺のこと要らないって言ったら、俺、どうすればいいのかわかんないし」

 俺、本当に何の取柄もなくて、お前のお荷物でしかなくて、お前がいなかったら俺、多分もう立海にいなかっただろうし。
 そんなことを地面に向けて吐き続ける相棒を見ていると、彼にとって千尋というのはその程度しか信用出来ない存在なのかと思うと悔しくて、同時に同じぐらい淋しかった。
 だから、身長というアドバンテージで千尋の視線と同じ高さにある千代の襟元を無理やりに引き寄せる。
 そして。

「本気で言ってんならぶん殴るぞ、お前」
「何が」
「俺が! いつ! お前のこと要らねーなんて言ったんだよ」
「言ってない」  
「立海の誰が、お前のこと要らねーなんて言ったんだよ」
「誰も、言ってない」
「言ってねーだろ? 今から言おうとするやついたら俺がそいつぶん殴るだけだけど、俺はお前のこと要らねーなんて思ったこと一度もねーよ」

 だから、そんなに思い詰めた顔で一人で悔し涙を零さなくてもいい。喜びだけを分かち合う、表面だけの仲間は要らない。千代は苦しいこともつらいことも一緒に乗り越える仲間だ。あの日、あの朝、千尋と千代はその気持ちを共有した。その約束をまだ忘れていないし、これから先に忘れる予定もない。
 それでも、多分、それは綺麗ごとの一つなのだろう。
 顔中をくしゃくしゃにして、動揺と絶望の中で号泣している相棒に千尋がしてやれることなんて殆どない。千代の問題を根本的に解決するには千尋はあまりにも無力過ぎた。
 そこまでをどうにか直視して、千尋もまた泣きたい気持ちになる。
 全国大会二連覇という偉業を達成したのに、千尋たち中学生の目の前には乗り越えられない壁がこんなにも林立しているだなんて世の中は本当に不条理の塊だ。
 そう、思って千尋もまた悔しさを全身で噛み締めていると、「千尋、ちょっとだけ由紀人を貸してもらえない?」と幸村が声をかけてきたので、半泣きのまま千代の襟元を握りしめていた両手を離した。

「由紀人。お前は迷惑だって言うと思ってたから、黙ってたことがあるんだ」
「――何?」
「先に言っておくけど、これは同情じゃないし哀れみでもない。俺たちの自己満足だから由紀人が受け取らなきゃいけない理由もない」
「だから、何、セイ」

 回りくどいまでの前置きに号泣が止まった千代が問う。
 その表情には戸惑いがありありと浮かんでいて、これ以上の地獄が待っているのではないか。疑心暗鬼に襲われているのが見て取れた。千尋もまた幸村の提案に心当たりがなくて、自分のことではないにしても手のひらが薄っすらと汗ばんでいるのを感じる。
 そうして、死刑宣告を待つ虜囚よろしく幸村の言葉が紡がれるのを待った。
 状況についていけない特待生の二人を他所に立海大学付属中学テニス部一同がそれぞれの表情で幸村に希望を託している。
 そんな空気を感じて、千尋は汗ばむ手のひらをぐっと握った。
 そうすると。

「ドイツに行ってみない?」
「えっ?」

 思ってもみなかった言葉が聞こえた。
 誰が、だとか、どうやって、だとか、何の為に、だとか一瞬でまた千尋の脳漿は疑問で満ちる。
 千代にしてもそれは同じだったのだろう。これ以上ないほど目を見開いて唇だけがぱくぱくと何度が上下する。
 幸村の方はそこまでが想定の範囲内だったのだろう。畳みかけるように言葉が続く。

「鹿島のお爺様がドイツでスポーツドクターをしているそうなんだ」
「セイ、でも、俺、そんな大金払えない」
「知ってる。だから、部長が顧問と理事長と鹿島のお爺様とに交渉してくれたんだ」
「――何て?」
「結論だけ言うよ。由紀人、出世払いでドイツ、行きなよ」
「でも、俺――」
「お前が将来、トップ選手になったら絶対に返してもらうから。立海全員への借金を背負うことになるけど、それでもお前はドイツに行くべきだと俺は思う」

 その覚悟があるのなら、千代はまだテニスを諦めなくてもいいのだと幸村は告げていた。
 出世払いでどのぐらいの借金になるのか、それがどのぐらい重要なことなのか。十四の千代はことの重要性を図りかねている。それでも、十三の幸村は言う。

「由紀人、俺はまだお前とテニスがしていたいな」

 そう、何でもないことのように幸村は言うけれど、この提案を受け入れてもいいのか正直千尋は千代にアドバイスを出来る立場にない。逆の立場なら当然千尋だって困惑する。
 それでも、涙の止まった千代の双眸には薄っすらと希望の光が灯っていた。

「セイ、立海全員って」
「立海大学から付属中学まで全員。勿論、特待生の千尋とジャッカルは対象外だけど、学籍がある全員に対して基金を募集しただけだよ」

 一口一万円で四千五百口集まった、と柳が補足する。
 四千五百口とはまた相当集めたものだな、と思いながら千尋は最近ではそれほど苦痛でもなくなった掛け算を頭の中で巡らせる。単位が揃っているから、それほど難しくもない。

「ってーと、四千五百万円?」
「そう。正解だよ、千尋。これでもまだ足りないかもしれないけど、少なくともお前が中学生を終わる頃までは何とかなるんじゃないかな」

 つまり、一年半かけてゆっくりと治療をしろ、と幸村たちは言っているのだ。
 去年に起こった事件の遠因である幸村が自身のことを責めていたのだ、ということを改めて知って、そうして人は互いに痛みを分け合って生きているのだということを教えられたような気がした。

「俺、四千五百人に借金するわけ?」
「複数口出資してくれた人もいるから、実際はもう少し少ない、かな」
「それ、返せなかったらどうするわけ?」
「俺や蓮二たちの信頼が崩壊するだけで、お前は社会的には何の制裁も受けないから安心していいよ」

 つまり、治療の末に根治しなくても、トップ選手になれなくても誰も千代を責めないしペナルティもない。千代はただドイツに行って治療を受けてもう少し先の未来を夢想する権利だけを与えられる。
 責任は発案者である幸村たちが負うから気負うな、と言われても千代がそれで気負わないやつかどうかは千尋が一番よく知っている。間違いなく、責任に押しつぶされて駄目になるタイプだ、千代由紀人というのは。
 だから。

「おい、精市。それ、一番やべーやつじゃねーか」
「まぁでも、基金ってそういうものだからね」

 返ってくるのを期待して出資する人間など殆どいない。偽善と欺瞞に満ちた一万円を四千五百口分受け取って、千代は自らの為だけに治療をすればいい。
 そう、何の曇りもない笑顔で幸村が言った。

「由紀人、どんなに小さな雀でも受けた恩は忘れないだろ? これで俺とお前の貸し借りは棒引き。それでいいじゃないか」
「セイ、俺はまだテニスをしてていいわけ?」
「俺は是非ともそうしてほしいっていうだけだよ」

 勿論、お前が望まないなら基金は返還する。
 そこまで言われて、千代の双眸にはっきりと希望の輝きが宿る。まだ諦めなくてもいい。ここに戻ってくるという夢を抱いてもいい。その夢を思い描く権利を手に入れて、千代が不意に千尋の方を見た。

キワ、お前はどう思う」
「そうだな。どの道ストレッチの相方いなくなるなら、本人が前向きな方でいーんじゃねーの」

 行ってこい、と言うのはプレッシャーだろうか。そう思って表現をぼかす。
 受け取った千代の表情がぱっと笑顔で彩られて一瞬で消えた。
 そして。
 いつも通りの悪口が始まった。そのことに千尋はこのやり取りを始めて以来、ずっと忘れていた安堵と歓喜の感情を思い出す。

「鹿島、お前、明日からキワとストレッチしたらいいんじゃない?」
「ダーイーちゃーん! 当事者二人分の意思確認忘れてますけど!」
「そうですよ。そのぐらいのこと、千代先輩に言われるまでもなく僕が気付くに決まっているでしょう」
「みーつーるーくーん、お前、あとでちょっとツラ貸せ」
「いいですよ、千尋先輩。立海二連覇を成し遂げた大先輩に対する敬意ぐらい、僕にだってありますからね」

 でしょう? 千代先輩。
 満足げに微笑んで千代の悪辣な冗談に乗った鹿島満(かしま・みつる)を見ていると千尋は自分たちが随分遠くへやってきたのだということを今更、本当の本当に今更実感した。
 
「ダイ。行けばいいだろ。ロードワークは一人で走れるし、ストレッチは『満君』が引き受けてくれるし、昼飯は精市たちと食う。晩飯はルックが一緒に食ってくれるし、朝は俺たちだけ洗面所を倍の長さ使うだけだから、お前はいつか俺ともう一回ダブルス組んでくれたらそれでいい」
「俺の場所、まだあるわけ?」
「精市、いいだろ? 俺とダイで立海黄金ペア。こいつが帰ってくるまで黄金ペアは俺たちがキープしても、いいだろ?」

 泣きそうだった気持ちを手放して、千尋はいつものように笑った。
 ここで終わるわけではない。今はいっときの別離で、いつかの未来に千代はここへ戻ってくる。その約束を交わすのに泣き顔では話にならない。
 それを察したから、千尋は心の底から微笑んだ。
 微笑みが立海四十五に伝播する。幸村、真田、柳とそれぞれが笑んで、そして千代は先ほどまでとは違う理由で号泣した。

「いいんじゃない? その代わり、丸井とジャッカルには黄金を上回ってもらわないといけないけど」
「そういう話なら俺も乗るぜ、幸村。黄金じゃないなら、そうだな。白金ってお前たちに言わせてやる」
「だよなぃ。黄金ペアいなくなったから負けたなんて格好悪すぎだろぃ」
「ダイちゃん、お前さんが帰ってくるまで俺たちも進化するき、簡単に黄金の名前を返してもらるち思わんことじゃ」
「おや、仁王君。そこは素直に一日も早い復帰を願っている、と伝える場面では?」
「柳生、おまん、俺を何じゃと思うちょるんじゃ」
「キミとダイ君は立海二大天邪鬼ですから、今更何とも思っていませんよ」
「やぎゅー先輩! そこに鹿島も足して三大アマノジャクがいいと思うっす!」

 そんな悪辣で辛辣でなのに何よりも柔らかくて優しくて思いやりのあるやり取りが嗚咽を漏らす千代に向けて放たれる。

「ってことだから。えっと、三大天邪鬼君? 安心してドイツ行けよ。んでさっさと帰ってこいよ」
「――ありがとう、千尋

 お前がいたから自由だったんだなって俺も思う。
 そう言われて、微笑みの送迎ムードを保っていた千尋の涙腺が唐突に崩壊した。
 知っている。知っていた。千代と千尋はいつでもニコイチで、千代が千尋を、千尋が千代を信頼しているからお互いが自由だった。お互いがお互いの一番大切な存在であることに気付くのが少し遅れたけれど、今、それに気付いたのだから明日からは違う毎日を描いていけるだろう。一番大切なお互いを失った毎日をお互いの存在の大きさを噛みしめながら、それでも歩いていけるだろう。
 そのことが殴るよりずっと酷い痛みを千尋の胸に植え付ける。
 泣き止んだ千代が慟哭の千尋を慰める、だなんていう立場が逆転した光景を描いていると不意に頭上から誰かのジャージが被せられる。
 そして。

「この馬鹿者。お前が泣いてどうするのだ」
「弦一郎、そういうお前も――」
「蓮二! 俺のことは構うな!」
「まったく、俺たちは本当にどうしようもないね」

 そうして三強は言う。
 立海二連覇を達成した寿ぎと千代の新たなる旅立ちへの祝福を四十六人全員で祝おう、と。
 深紅の優勝旗を手にして、そこに二つ並んだ立海大学付属中学の名前を誇りにして、千尋と千代の最後の夏が終わった。