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61st. 転換点

 転機というのはいつでも突然にやって来る。その機会を喜べるかどうかは自分次第だということを何度も何度でも思い知っていた筈なのに、本当の意味では何も理解していなかったのだと察したとき、結局のところ自分―—常磐津千尋はまだただの十四の小僧なのだと突きつけられたような気がした。
 九月。二度目の二学期が始まって間もなく、千尋の相棒は治療の為に渡独した。徳久脩(とくさ・しゅう)が去年渡米して、それ以来千代由紀人(せんだい・ゆきと)が一人で占拠していた特待寮の一室は今度こそただの空き室になる。いつか帰ってきてもいい部屋。そんな雰囲気を残していたというのもあるだろう。徳久と千代に割り当てられた洗面所を使う時間は千尋と堺町秀人(さかいまち・ひでと)の二人に預けられ、他の特待生の二倍の時間は千尋たちのものになった。だからといって寝坊をするわけでも、ゆっくりと歯を磨くわけでもない。千代たちの割り当てが千尋たちの直前にあたるのが一番大きな理由だったけれど、千尋たちはいつも通りの時間に起きてサッカー部の特待生がいなくなった洗面所でせかせかと身支度を整える。
 そんな、当たり前でいつも通りで、何の変哲もない日々にもいつか慣れてしまうのだろう。
 感傷にも似た思いを抱き始めた頃、冷酷な現実が千尋をまた試そうとした。
 秋の気配が色濃くなり、夕暮れ時が早くなる。夜間照明の設備のないテニス部の活動も段々と短くなり、千尋や三強たちは高校のテニスコートを借りて自主練習に励む。そんな去年と変わらないテニス三昧の日々を送るのは千代との別離を少しずつ過去の向こうへと押しやろうとしていた。丸井ブン太、仁王雅治、柳生比呂士という新しい顔ぶれが自主練習に加わった、というのもある。三年生が引退した今、この八人が立海大学付属中学テニス部を支える柱となっていた。
 つるんでいるわけではない。互いに切磋琢磨し、ときに支えることはあっても慣れ合うわけではない。
 絶妙な距離感の八人。隙あらば引きずり落としのし上がる。遠慮など不要だし、それは寧ろ千尋たちの中では侮蔑にあたる。甘えているのではない。信じているからこそ預けられるものがある。それを体現しているのが立海レギュラーだ。
 だから。
 千尋は自らの変調についてただの気の迷いと黙殺した。それが悪手だったと気付いたときにはもう遅かった。現象としてはごくシンプルだ。少し世界がぼやけている。それ以外の表現など出来ない。最初はただの疲れだと思った。神経を張り詰めているから、少し疲れていてそうなっているのだと本気で信じていた。ただ、どれだけ寝てもその症状は改善されず、寧ろどんどん進行している、と気付いたときには幸村精市と戦ったときに発生する「イップス」と同種のものだと判断せざるを得なかった。心理的要因で視覚に変異をきたしている。柳蓮二の目に変化は映っているのだろうか。そうだとしたら、この相談は実を結ぶだろう。そんな希望的観測を積んだり崩したりしているうちに日にちはあっという間に過ぎる。
 そして。
 変異は最終段階を迎える。
 ある日の練習が恙なく終了し、千尋たちはコートの後片付けを済ませればもう高校のコートへと向かう段だ。黄昏時の薄暗闇の視界が、ある瞬間を境にブラックアウトする。まるで地上にあった大きな洞穴の中にぱっくりと食われたかのように全ての視覚情報が失われた。幸村のイップスに慣れた千尋の脳漿は混乱の一歩手前でどうにか踏み止まって「弦一郎、そこにいるよな」とこの場所にいて一番「甘えてもいい」と判断した存在に声をかける。真田弦一郎がどうした、と声を返してくるのに安堵しながら現状を告げた。

「よくわかんねーんだけど、『今』俺イップスなんだけど」

 その曖昧模糊として抽象的な表現で解が得られる、という現在の状態がどれだけ異常なのかを千尋は認識していない。こんなやりとりで千尋の身に起きている変異を告げられるのは日本中どこを探しても立海大学付属中学男子テニス部だけだろう。
 音は聞こえる。視覚だけを喪失した状態で、平衡感覚はまだある。地面に立っている、という確証は失われつつあるけれど、幸村と対戦した経験から言えば、まだまだ地面に倒れ込むまでには余裕がある。
 そんなことを考えてしまえるぐらい、千尋たちは幸村のイップスと戦ってきた。

千尋、俺がどこにいるかはわかるな?」
「俺から見て四時の方向? で合ってる?」
「正解だ。蓮二、幸村はどうした」
「職員室に用事がある、と言って先に戻った筈だが?」
「つまり、『幸村はここにいない』のだな?」
「そうだ。キワのイップスは精市に由来していない」

 何か別の原因がある、という結論を得るまで僅か十数秒。人体の不思議を貴ぶ気持ちも、適応能力に感動する気持ちも今、この場で味わわねばならない道理はない。全てが解決してからでも十分に間に合う。
 だから。
 千尋は原因の究明ではなく、現場の打開を願った。

「けど、俺、ガチで何も見えねーんだけど?」
「その症状はお前が二週間ほど前から廊下を歩くのに難儀しているのと同じことに端を発している、という自覚はあるだろう、キワ

 柳の目は誤魔化せない。そんなフレーズが脳裏をよぎる。不調を隠そうとしていたのが無駄な努力だったと察すると同時に知っていて何のフォローもなかったのか、と半ば呆れに近い感情が生まれる。そうだ。柳蓮二というのはそういうやつだ。能動的な行動を望み、そしてそれを有言実行するときだけ助力をしてくれる。甘やかしてくれる相手ではない。だから、千尋はこの集団の中で最も情報を抱えている柳ではなく、真田に声をかけた。その打算までを見透かして柳が馬鹿に向ける溜息を吐き出した。

キワ、原因に心当たりは?」
「ダブルスしてねーことぐらい?」

 九月に入ってからの変化なら、それぐらいしか考え付かない。千代がいなくなって、千尋はずっと流木のように誰かと誰かの間を彷徨っていた。シングルスの選手として立ち戻るのは小学校を卒業して以来だ。自分のことを自分で背負う。それだけなのにシングルスのコートはどうしてだかとても広くて、スタミナ自慢のカウンターパンチャーである千尋らしくもなく、本当に途方に暮れる瞬間に何度も出会った。
 つまるところ、千代と別離した喪失感に由来している、と千尋は認識している。徳久と別離したときも、理屈では納得出来ているのに感情が受け入れるのにはしばらく時間を要した。まして相棒と認め合った千代との別離だ。それなりにときがかかるだろうと思い、千尋を筆頭に誰も何のフォローもしてこなかった。
 それが遠因ではないか、と呟きに載せると七時の方向から丁寧な溜息が漏れ出る。

「おや、キワ君。ワタシとのダブルスは計算に含めてもらえないのですか?」
「じゃあ言い直す。黄金ペアの爽快感味わってねーことぐらい」
キワ君。意味が殆ど変わっていませんよ」
「お前が悪いとかじゃねーんだ。ただ、ちょっと物足りねーってだけで」

 どう言えば正確なニュアンスが伝わるのだろう。柳生のことを侮りたいのではない。千代と比べて劣っていると詰りたいのでもない。今の立海レギュラーのうち、千尋がダブルスを組む相手として柳生以上の選手はいないし、決して相性が悪いわけでもない。それでも、千尋は知っている。全国大会二連覇の偉業を成し遂げた相棒と戦ってきた日々が幻と消えるわけがないことも、相棒が今日明日復帰するわけがないことも、理屈の上ではきちんと理解出来ていた。
 だから。
 柳生に非はない。柳生を責めたいのでもない。そう、もごもごと返すと今度は十一時の方向からからっとした声が聞こえる。暗闇はまだ千尋の眼前に泰然と横たわって薄れる気配すらなかったけれど、丸井の声は千尋の中にあった余計な緊張感を程よくほぐしてくれた。

「そりゃそうだろぃ。立海黄金ペアが誰とでも成り立ったら、お前がガチの天才ってことになるじゃねえかよぃ」
「ブーンー太ー、人がガチでやべーときにまで塩対応しなくてもいいだろ!」
「大丈夫大丈夫。俺にそれだけ食って掛かれるならお前まだ大丈夫の範囲内だろぃ」

 なっ? その声が聞こえるのと前後して左肩と後頭部に軽い衝撃があった。手のひらの大きさが違う。片方は丸井だけれど、多分もう片方はジャッカル桑原だ。今後、白金の名を得られるまで共に切磋琢磨すると誓った彼ららしい、息の合った景気づけだった。
 千尋の視界は依然何の光も示さない。
 なのに。
 なのに、千尋の後頭葉は美しく仲間たちの表情を描き出す。知っている。終わりのないイップスはない。朝の来ない夜がないように終わりのないイップスはないのだ。精神的に安定すれば千尋の視界は再び光を取り戻すだろう。それが今日のことなのか明日のことなのか、それだけは誰にもわからないけれど、それでもこの仲間たちは勿論、千尋自身も知っている。千尋が前を向きさえすれば景色は千尋のもとに戻ってくる。
 だから。

「ルック、悪いんだけどさ。通り道だろ? 特待寮まで連れて行ってくんね?」

 何の結論も、方策もなかったけれど千尋は桑原に依頼をした。このままここで開けぬ朝を待つぐらいなら、自室でゆっくりと休むのもまた練習だ、ということを最近ようやく千尋も理解していた。とはいっても気持ちは逸る。逸る気持ちで成しえるものなどないこともまた自明で、ならばいっそ暗闇を暗闇として受け入れ眠りの底にいる方が幾ばくかましかもしれない。
 そんなことを考えながら桑原に依頼を放り投げると、見えてもいないのに彼が晴れやかに微笑む姿が簡単に想像出来た。
 桑原が太陽の笑顔で言う。

「じゃあキワ、また明日。朝練で会おうぜ」
「おう、明日な」

 いくら何でも明日までには復調するだろう。焦っても事態は好転しない。
 だから。
 だから、千尋は前を向いた。特待寮までは本当にすぐのすぐで、桑原が寮母に事情を説明してくれたから今日は早めの就寝ということになる。暗闇の特待寮は初めてだったけれど、何となく身体が空間を把握していた。手探りで二段ベッドの上の段に潜り込んで、そうして千尋の暗転の一日は一時閉幕となる。
 異常を異常と判じたのはその次の朝だ。
 目覚まし時計のアラームが起床時間を告げる。夜明けが少しずつ遅くなり、部屋の中が薄暗い時間に起床するようになったとは言え、完全なる暗闇に支配されている筈もない。
 だのに。

「ヒデ、やべーことになった」
「どうかしたの?」
「真っ暗なんだ」
「四時半だからじゃなくて?」
「じゃなくて。携帯の画面すら見えねーし、何かやべー感じがする」

 携帯電話の画面にはバックライトが付いている筈だ。朝でも夜でもその光に照らされて千尋は毎日画面を視認してきた。それに、と思う。千尋の目覚まし時計はデジタル表示で暗闇の中でも時刻が見えるようになっている。その、どちらもが見えないというのならそれはもう時間だとか何だとかではないのだろう。千尋の視覚が機能していない。明けない朝と出会ってしまった。つまり、そういうことだ。危機感と焦燥感から千尋の頭の中はごちゃ混ぜになっているけれど、それでも冷静であれと何度も何度も自分に言い聞かせる。そんな努力は時間の無駄だとわかっている。わかっているのだ。これはイップスなのだから、何らかの心理的障壁があって、それさえ解決出来れば千尋の視界は再び光を灯すだろう。
 ただ。何が原因なのか。どうすれば千尋は解決を得るのか。その片鱗すら掴んでいない。気持ちだけがただ焦る。焦っても何も生まないとわかっているのに逸る気持ちを押しとどめることが出来ない。

「ヒデ、どうしよう、俺――」

 このままだったらどうしよう、自分の人生はここで終わるのか。そんな負の感情の連鎖がやまない。
 悲劇の主人公になりたいわけではないのに、その座に収まってしまったような錯覚を感じる。人間の認知は視覚が八割だ。その、八割を永劫失うと知ってなお泰然と振る舞えるほど、千尋は成熟していないし、そんな状況でも理性的であれるほどの人格は有していない。絶望だ。テニスコートの中で幸村のイップスを初めて経験したとき以上の絶望が千尋を襲う。
 起床時間も朝の身支度も全てを放棄して悲劇の淵にいる千尋を慮る言葉を一つ二つ残して堺町が部屋を出て行く。何だ、結局同室の朋輩だなんてその程度のことなのだ。被害妄想すら抱き始める頃、千尋の耳に聞き慣れた足音が四人分響く。一つは先程失望したばかりの堺町で、残りはこの学生寮で最も信頼の置ける先輩たちだった。

キワ君、目が見えないって本当?」
「ルックが昨日、何か言ってたやつか?」

  テニス部三年の先輩たちは先日、部活動を引退した。特待生であってもそれは例外ではなく、三年生の起床時刻は千尋たち現役世代より一時間ほど遅い。テニスコートで聞き慣れた先輩たちの足音が聞こえて、それぞれ心配の声色で語りかけてきたとき、千尋は安易に堺町に失望した自分の頬を張ってやりたい衝動に駆られる。まだ目覚める時刻にない先輩たちを機転をきかせて起こしに行ってくれた。そんな堺町のことを疑うだなんて、最低なやつだ。そう思うと同時に特待寮の仲間は学年、部活動の壁を越えて仲間なのだと再認識する。
 だから。

「先輩、俺、もう無理ですー!」
「まぁまぁ落ち着いて、ね?」
「無理です! 無理なんです!」

 もう嫌だ。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだ。そんなことをつらつらと陳情すると、佐用が困ったように笑うのが何となく伝わってきた。困り顔だろう佐用の声が柔らかく響く。

「僕たちは医者でも心理士でもないから、正確な判断は下せないけど、でもひとつだけわかってるよ」
「何ですか」
「君がまだ大丈夫ってこと」

 佐用たちが来て、無理を訴える気力があるのならまだ全てが駄目になったわけではない。千尋の中に正常に戻りたいという気持ちがあるからこそ弱音を吐けるのだろう。そう言って佐用は二段ベッドの上段から降りることも出来なくて梯子に腰掛けた千尋の膝を軽く叩いた。

キワ君。救急車とタクシー、どっちがいい?」
「えっ、それ俺が選ぶんすか」
「うん、冗談だよ。寮母さんに頼んでタクシーを呼んでもらうから、カラと二人でどうにか身支度を整えてて」

 堺町君は心配だろうけど、君の日課があるよね。そっちを優先しようか。言ってテキパキと場を仕切る佐用の声を聞いていると、ああ、この人は本当に自分の「先輩」なのだなと唐突に理解して別の意味で泣きたいような気持ちに駆られる。いつもそうだ。千尋は失う頃になってようやく相手の価値を知る。佐用たちのことは敬っているし、理解していると思っていた。それでも。テニスの技術では自分の方が上だ、だなんて侮っていた部分が確かにある。それを佐用たちに気付かれていない、だなんて夢想を描かないで済むぐらいには愚かではない。多分、それと知っていてそれでも佐用たちは先輩としての仕事をしてくれた。切原赤也や一年の特待生たちのことを偉そうに値踏み出来る立場にない。そんなことを茫洋と感じていると、河原が千尋の着替えと洗顔を手伝ってくれた。どこの引き出しに何が入っていて、何が必要だと告げると河原はいつも通りの本当にいつも通りのまったりとした喋りで細々と面倒を見てくれる。
 そして。

キワ、そんな顔似合わないよー? 殊勝なんていうのはもっと大人になってからでいいんだ」
「まぁ、でも俺、今、完全にお荷物ですし」
キワ、それ以上の謙遜は駄目だよー。自分のことをね、否定するのはいつでも出来るから。否定するのに遅すぎるってないから。俺はいつもの自信たっぷりのキワの方が好きだよー」

 だから、そんなに思い詰めた顔をするな、と河原は言う。言葉の少ない河原は感情がすぐ顔に出る。それを今、千尋が見ることは叶わないと知っているから、河原は表情に頼るのをやめて、言葉を選んで紡いでいる。千尋の為だけに紡がれた言葉だ。それと知って何の感慨もない、だなんて言わないで済むぐらいには千尋にも畏敬の念がある。

「カラ先輩、俺、嫌です。カラ先輩の顔、二度と見られないとか絶対に嫌です」
「そうだねー。俺もそれは嫌かなー」

  だから、取り敢えずは大学病院に行こう。その言葉に頷いていると倉吉の足音がばたばたと廊下を駆けてくる。ドアが開いた、かと思うと手のひらにひんやりとする何かを握らされた。触り心地、大きさ、温度、形状からゼリードリンクだと理解する。

「悪いキワ! 今朝の飯、間に合わねーから取り敢えず俺の非常食でも食っといてくれ!」

 じゃあカラ、頼んだ。言うなり倉吉の足音が再び遠ざかっていき、千尋は思わず河原に何ごとなのか尋ねてしまった。

「カラ先輩? クラ先輩は何と戦ってるんすか」
「うーん、取り敢えず食堂に行こっかー」

 階段を一段ずつ降りながら、河原が訥々と語る。河原は人を導いたり、手配をしたりだなんていう大それたことは得意ではない。その代わりではないけれど穏やかに人と接することが出来る。まぁそれしか出来ないんだけど。言って河原の声色が若干の歯痒さを帯びる。それでも、彼は自分で言ったように千尋の手を引いて、ゆっくりと階段を降りてくれる。一年半。毎日上り下りした階段は空間として把握していたけれど、手探りの不安をかき消すような丁寧な説明に千尋の気持ちは少しずつ、本当に少しずつだけれど前を向こうとしていた。

「カラ先輩は高校行ってもカラ先輩でいてほしいっす」
「サヨみたいにテキパキしてないしー、クラみたいに行動力ないよー俺」
「でも、カラ先輩いなかったら先輩たちとっくに空中分解してたでしょ」

 佐用の判断力、倉吉の行動力。それらは確かに美しいだろう。人の長所として十分に語るに足る。それでも。あの二人をこの場所に繋ぎ止めているのは特筆した能力を持たない河原だということは千尋の目にも明瞭だ。テニスの腕前でも千尋に劣る。それでも、河原はテニスを立海を愛し続けている。だから。

「カラ先輩、クラ先輩の置いてったドリンク。何味か当てたらカラ先輩も何かくれます?」
「前向きな提案は嫌いじゃないよー。いいともー、じゃあヨーグルトドリンクを進呈しようー」

 そんな会話をしながら夜明けの来ない朝が始まった。これが本当にイップスなら。大学病院に行ってもカルテには異常なしと記入されて終わるだろう。それでも。観測をしなければ現実は確定しないのだから、原因と思われるものは一つずつ潰していく他ない。神様とかいうやつが本当にいて、千尋のことも見ているのなら。もし、そうなら絶対にこの夜の底が幸村と何の因果もないと証明する手立てを残しておいてほしい。でなければ彼は心優しいから自分を責めてしまうだろう。眉間にしわを寄せて、泣きそうな顔をしているのも見えないのに「ごめん」だなんて一方的に謝られない未来を残してほしい。そんなことをグレープフルーツ味のゼリーという正解を叩き出し、ヨーグルト飲料も受け取って簡易な食事を取りながら河原に陳情すると彼は俺は神様じゃないけど、そういう未来が待ってると俺も嬉しいなーと複雑な感情を載せた声を返す。
 特待寮の朝を告げるチャイム音が流れる。つまり、時刻は今、午前五時半であることを意味していた。こんな時間から仕事だなんてタクシーの運転手というのも大変な職業だ。そんな見当違いなことを考えていないと千尋は今にも恐怖と絶望に飲み込まれてしまいそうだった。