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62nd. 遠ざかる足音

 常磐津千尋は今までに都合三度、立海大学付属病院で検査を受けている。一度目は幸村精市へのやっかみから暴行に及んだ上級生を制止したとき。二度目は跡部景吾の放った破滅への輪舞曲が大誤算を生んで、ラケットで頭部を強打したとき。氷帝学園の付属病院の検査結果を疑ったのではないけれど、保険として再度来院した。三度目が幸村のイップスを一番最初に発露したとき、だ。
 一度目こそ入院を強いられたけれど、それ以降は検査結果上、異常は認められなかった。
 それでも。人を生命足らしめる主要な臓器である頭部に関わる件で三度とも受診している。次に何かあれば速やかに来院するように、と毎回言われた。その、次がやってきてしまったのだ、と暗闇のままタクシーに揺られながら千尋は思った。
 今回も身体的には何の異常も認められないのだろうな、という予感はある。医学的に問題がなく、心理的な要因であれば時間が解決してくれる可能性があるし、何より視覚の失い方が幸村と試合しているときのイップスの落ち方に酷似していた。ただ、もし、と思う。もし、医学的に何らかの病、または欠損がある場合。その場合、千尋の世界に二度と光は射さないということだから、予感と同じぐらいの強さでその結果のことを否定していた。どうかイップスでありますように。そんな馬鹿げたことを願う日が来るだなんて千尋はあの日からずっと想像もしていなかった。いつか身体的にも技術的にも精神的にも幸村に匹敵するぐらい強くなって乗り越える。それしか考えていなかったのに、今は正反対のことを願っている。本当に馬鹿げている。それでも、今、千尋に残った僅かな希望は心因性の一過的な症状であると診断されることだけだった。
 タクシーを呼ぶ、と言って消えた佐用がテニス部の顧問と保険医の二人を連れて戻ってきた辺りに事態が逼迫していることを感じる。保険医が最低限の確認をしたようだけれど、結局は彼にとっても未知の出来ごとで大人たちも戸惑っているようだった。佐用たちは部活動こそ引退しているものの中学生の本業はまだ残っている。千尋に付き添うわけにもいかないのだろう。顧問たちが到着すると佐用たちは佐用たちの人生に戻っていった。
 立海大学付属中学の特待寮から大学病院までは車で移動して約十分というところだ。正面は施錠されており、この時間に開門することは出来ない、という病院側の返答に何らかの交渉をして、裏――緊急搬入口にタクシーを停めることで決着したらしい。こちらの症状を伝えていたこともあり、タクシーが到着すると看護師らしき大人が二人待っていた。目が見えない千尋を歩かせるわけにもいかず、かと言ってストレッチャーに乗せるほどの重傷でもなく、結果的に車椅子が用意されている。車椅子という概念は知っていたけれど、座って初めてこの乗り物はあまり座り心地がよくないことを知った。その、揺れる椅子に乗って技師のいる検査室から順に巡っていく。大学病院――入院施設を併設しているからだろう。当直の技師がいててきぱきと検査が進んでいく。てきぱきととは言っても、一つの検査にかかる時間は結構なもので、結局最後の検査が終わる頃には開院時間を大幅に過ぎていて、千尋の主治医になった大倉初瀬(おおくら・はせ)という、声を聞く限り、割と若そうな青年と対面した頃には彼の午前中の診療が終了していた。

「不思議だなぁ。数値上、君の身体のどこかに異常がある、なんていうのは何かの嘘にしか思えない」

 千尋の世界は相変わらずの暗闇で、時計を見ることも叶わないから永遠にも近い時間の経過を感じている。附属病院の医師らしくもなく間延びした声で大倉が告げた内容は千尋を安堵させるには十分な効力を持っていて、何の解決も得ていないのに最悪の状況からは脱したかのような錯覚を与えた。
 その根拠のない安堵感から、千尋は無遠慮な大倉の発言に噛みつくという発想すらない。
 ただ、「はぁ」と間の抜けた返事をするだけだった。
 そんな千尋のことをどう受け取ったのか大倉は言葉を続ける。

「脳波も心電図も正常。MRIもCTもエコーもレントゲンも何一つおかしいところはない。なのに」
「なのに?」
「瞳孔の開き方も正常。視神経を通って電気信号が伝達される。それでも、君が何も見ていないと判断するしかない状況も発生している」

 大学病院の中は何度来ても見慣れなくて、当然のことだけれど視界がない状態で空間を把握することなど不可能だ。大倉がどんな人物かもわからないし、どんな顔をしているのかもわからない。ただ、人のいる気配だけがして、時折瞼や頬骨の上から触れられているのは何とか把握していた。
 大倉の指先が千尋の上瞼をそっと押し上げる。眼球の状態を観察されているのだろう、と想像していたけれど大倉の言葉に何か引っかかりを覚えて不意に問うた。

「何かやべーことされてます? 俺」
「ううん、ちょっと君の瞳孔を超至近距離で観察しているだけなんだけど、こんなに近づいても君は何の拒絶もしないから、見えていないって言うのも本当なんだろうなぁ、って」

 いや、それは第三者的に見ると割とやべーことなんじゃないだろうか。
 そんなことを思ったけれど言葉にはならなかった。大倉の声色があまりにも平坦だったのが功を奏したのだろう。突拍子のないことの連続で、千尋の危機感がどんどん希薄になっている。

「大倉先生、結局俺はどうなるんすか」
「検査――はもう終わってるし、取り敢えず僕と遅めのお昼でも食べようか」
「はぁ?」
「医学上、君は健康なんだ。それでも、僕は君の何も見えない、っていう主張を信じる。だから、もうしばらく入院するか実家に帰るかのどちらかを選んでもらわなきゃならない」

 全盲の患者を放っておく、だなんて僕には出来ないからね。言って大倉は千尋の頭を乱暴に撫ぜた。そうして、その言葉を聞いて千尋は実家のことをようやく思い出す。そう言えばそんなものもあったな、という感じだ。大倉が車椅子を押してどこにあるのかわからない食堂へと歩き出した。
 千尋が両親のことに興味がなかったわけではない。ただ、千尋の郷里は神奈川からはあまりにも遠く、帰る、という選択をするには一大決心が必要だった。光の射さない千尋が誰かの介助なしに生きていくことは不可能なのだとこの半日が否応なく教えた。それでも、実家に戻るということは夢を諦めるのとほぼ同義だ。思いつかなかなかったのではない。その選択を排除したかった。そのことに気付いて落ち着きそうだった千尋の胸の奥がざわつく。

「大倉先生、俺――」

 実家には帰りたくない。テニスを諦めたくない。まだ戦っていたい。ここにいたい。
 そんな願望と呼ぶにはあまりにも散らばりすぎた感情をどうにかまとめようとしたけれど、言葉にはならない。
 千尋の葛藤をどう捉えたのか、大倉の間延びした穏やかな声がゆったりと頭上から降ってくる。

常磐津君。テニス部なんだって?」
「えっ? あぁ、うん」
「僕はスポーツにはあまり詳しくないんだけど、うちの付属中が結構強いっていうのだけはよく聞くなぁ」
「結構って言うか、一応全国二連覇の王者なんすけど」
「へぇ、二連覇! それは凄いね」

 君も頑張ったんだろ。テニスっていうのはそんなに面白いのかい。
 問われて、千尋は当たり前のことを聞くな、と思った。当たり前だ。テニスが好きで好きでどうしようもないぐらい好きで、千尋は神奈川までやってきた。テニスほど面白いことは千尋の中には何一つ存在しない。今の仲間たちもテニスがなければ巡り会わなかっただろう。
 だから。
 いつの間にか辿り着いていた食堂のあちこちから漂ってくる温かな食べものの匂いと同じぐらいの温度を保った声が聞こえたとき、大倉のことを「信用してもいい大人」の一人だと思った。

常磐津君。何も僕は君からテニスを取り上げようって言ってるんじゃない。君がテニスを失ってしまわないように、僕が出来ることは君の変調の答えを調べることか、君の安全を保証するか。そのぐらいのことしか出来ないんだ」

 今の君は一人で食事を取ることすら出来ない。
 言って大倉が食券の販売機に金銭を投入する。何枚かの食券が発行されて、そうして受け取り口と思われるより食べものの匂いの強い場所で留まった。何を注文したのか、すら今の千尋に知るすべはない。自己不全感と無気力感に襲われる千尋のことをどう察したのか、平坦な声音が淡々と話を進めていく。炊き立ての白米の甘い香りがしたかと思えば、千尋の両手は天を向けてひっくり返されて、その上に硬質な何か――プラスチックの皿が置かれた。

常磐津君、魚アレルギーとかなかったよね」
「はぁ、まぁ、一応」
「検査結果見た限りだと問題ないっぽいし、取り敢えずこのお皿を持っててくれるかな」
「えっ?」

 このままこの皿を持ち続けるのか。何が載っているのかもわからない。それでも、嗅覚が千尋に教える。千尋が今持っているものは決して危険な何かではない。
 千尋が恐る恐るだけれど、皿を両手で固定したのを見届けたらしい大倉が車椅子をぐい、と押した。
 しばらくそのまま移動したところで大倉は車椅子を止める。そうして、千尋の両手にあったものをありがとう、と言いながら受け取ってテーブルの上に置いた。かつん、という硬質な音がしたから多分そうなのだろう、という認識だけれど。大倉自身の座る椅子を引く鈍い音が聞こえて、もう一度元の場所に戻す音が反響する。

「忘れるところだった。お茶は飲む? 水の方がいいかい?」

 何かに夢中になるとすぐに水分の摂取を怠る、ってよく看護師に叱られるんだ。君が一緒なのにお茶も出さなかった、だなんて師長に知られたら向こう三か月は説教のタネが尽きないだろうね。
 言って大倉の雰囲気がふと硬質さを帯びる。冗談を言っているけれど、本質的には何か訓戒のようなものを告げようとしている。それを察して、千尋は息を呑んだ。こういう仲間を一人知っている。真面目で真面目すぎるがゆえに人には柔らかな態度を取るのだけれど、その笑顔の裏側で辛辣な事実と戦っている。その仲間――幸村精市を思わせる大倉に親近感を覚えた。それと同時に正論で殴られる覚悟をする。
 
「大倉先生?」
「僕が口を挟むことでもないのかもしれないけど、食べられるものは食べておいた方がいいよ。適切なエネルギーの摂取は脳を正常に保ってくれる。満腹感も大事だ」

 幸村と対戦すると視覚を失う、という事象に慣れたのはいつからだっただろう。暗闇に視界を閉ざされれば聴覚を総動員して、千尋はテニスを続けてきた。上下左右、前後の物音だけを頼りに千尋はテニスコートの中を自在に駆け巡ることに慣れてしまった。今も。千尋は聞こえてくる情報だけで現状把握に努めている。
 それでも。
 そうだとしても、不安がないわけではない。十四の身の上で視界を失うというのがどういうことかは茫洋としか理解していないけれど、それでもわかっている。このまま千尋の両目が光を光と認識しなければ千尋は神奈川を去らなければならないだろう。人として不全。その烙印を負って郷里に戻った千尋に輝かしい未来なんて何一つ残らない。わかっている。心因性のイップスの延長なら、千尋が自分と向き合うことでしか問題は解決しない。
 でも。それでも。
 十四の千尋が全てを割り切って受け入れることなんて到底不可能で、そんな余裕なんてどこにもない。
 だからこその忠告だ。わかっている。人は人という存在である大前提として生物なのだからエネルギーを摂取しなければ早晩朽ち果てる。何と戦うのか、誰と戦うのか。その全容はまだ千尋の脳漿では描ききれないけれど、それでも千尋も知っている。腹が減っては戦は出来ないのだ。

「大倉先生って変わってるってよく言われるでしょ」
「変人じゃない医者を探すのはイップスを抱えたままの君がウィンブルドンのセンターコートに立つのと同じぐらい無謀なんじゃないかな」
「……先生、実はテニスのこと詳しいでしょ」
「知識上はね。知っているとわかっていると出来るは全部別の概念だよ」

 だから、大倉はテニスのことがよくわからないけれど知っている、と言う。
 言って、そうして彼は今まで以上に柔らかな声で告げる。

常磐津君。はい、おにぎり」
「……いただきます」
「うんうん。それがいい。その方がずっといい」

 何が、だなんて問わなくても大倉が評価したものの正体がわかるぐらいには平常心を取り戻している。大倉は、千尋の小さな苦笑を視認して、そうして笑うという行為の尊さを肯定した。
 両手で持つと丁度いい大きさのおにぎりを手のひらの感覚を頼りに一口、二口と頬張る。昨晩の夕食は取っていないし、朝食は飲みものばかりだった。紅鮭の程よい塩味と白米の甘味が口腔内を満たしていくのに小さな幸福を感じながら、最終的に三つもあったおにぎりを食べ終えると来た道とは少し違う通路を通って千尋は小児科の病棟へと送り届けられた。
 午後の診察があるから、と大倉とはそこで別離した。千尋の両親が辿り着いたらまた来る、と大倉は言っていたからそのうち再会と相成るのだろう。そうは思っても、割り当てられた個室の中にぽつんと座っているのは退屈で、時間の経過があまりにも遅かった。
 ベッドの上に横になって、眠れもしないのにただの暗闇とずっと遊んでいたのはどのぐらいの間だろう。
 不意に入り口のドアがスライドする摩擦音が聞こえたかと思うと聞きなれた足音が飛び込んでくる。両親でも顧問でも大倉でもない。この足音は仁王雅治のものだ。

「おー、ここにおったんかい、キワちゃん」

 個室とは流石特待生様じゃのう。言って仁王の軽快な足音が病室の中に入ってきた。後に誰かが続く気配はない。ということは授業が終わっている時間ではないのだろう。そう察したから、呆れが先に口をついて出た。

「ハル、お前またサボりか」
「せっかく、様子を見に来ちゃったのにその言い草はないじゃろう」
「ただの事実確認だろうが」

 お前さんはいつの間にかああ言えばこう言う口だけは達者になったもんじゃのう。言って仁王がベッド脇のパイプ椅子に腰かける音が聞こえた。どうやらすぐに帰る予定はないらしい。時間を持て余している千尋にとっては歓迎する展開だけれど、仁王はそれでいいのだろうか。まあ、彼は千尋と違って要領を得ているから半日ぐらい学校の授業を放棄しても何も困らないのだろう。そんな結論を出して、千尋は想定外の来客と会話を弾ませた。
 医学的には何の変調もないから心配はしなくてもいい、と千尋が言うと仁王の指先が何の手加減もなく額を弾く。痛い。文句を陳情しようとして仁王の雰囲気がいつもと少し違うのを感じた。

「ハル?」
「のうキワちゃん」
「どうした」
「お前さんが決めることじゃちわかっちょるけど、先に言うとくぜ」
「何を?」
「俺はお前さんまで遠くに行くのは嫌じゃのう」

 仁王にテニスの楽しさを教えたくせに、最後まで見届けないで勝ち逃げなんてずるい。そんなことを仁王は訥々と語る。知っている。楽しみを共有して一つずつ前に進んできた仲間が順々に消えていく。そのことに寂寥感を覚えずにいられるほど、千尋たちは大人ではない。別の道を進んでいる。それでも同じ空の下にいるのだから何も変わらないだとか嘯けるだけの強さなんてない。仁王もまた千尋と何も変わらないただの十三の小僧だった。

「俺だってここで戦いてーよ」

 それでも、千尋が立海に残るのか郷里に帰るのかの決定権を持っているのは千尋ではない。願望を語ることが許されるのなら、千尋はまだここにいたい。ここで仲間たち共に最高の最後の一年を戦い抜きたい。その気持ちにおいて、千尋と仁王の間には何一つ変わりはない。
 そのことをお互いが確かめ合うと仁王の雰囲気がいつもの飄々としたものへと移ろっていく。

「子どもっちゅうんは不便じゃのう」

 生殺与奪の権を持たない。自分で自分の道を選ぶことも許されていない。庇護する誰かの元でしか生きられない。一秒でも早く大人になって、そうして自分の最良を描けたらいいのに。
 千尋たちの思う最良が世間的に言う最良なのかはわからないけれど、それでも、もう少しこの場所にいたいという想いすら否定されるのなら願望を抱くことこそが罪なのだろう。何も願わずに生きていけと言われているのと大差ない。
 無力な自分を知って、明日に僅かの希望を託して、不安に蓋をして千尋がここにいることの意味を斟酌してくれる大人ばかりなら、多分、世界は戦争なんていう概念とは未来永劫出会わないだろう。

「まぁあれだ。この状態で帰るとか帰らないとか多分ねーから、入院なんだろうな」
「じゃのう。ときにキワちゃん」
「なんだ、ハル」
「ここにラケットが二本とボールが一つあるんじゃが」

 言外にテニスをしよう、とあって千尋は顔面を覆って蹲ってしまいたい衝動に駆られる。日本語の用法が間違っている。「ある」のではない「用意した」の間違いだ。
 わかっている。ベッドの上に横たわっていても千尋の容態には何の効果もないだろうし、幸村と対戦し慣れた千尋なら仁王とそこそこのゲームをするだけの感覚は備わっている。足音、インパクト音、空気抵抗と風の色。そこに仁王の「自己申告」があればコートの上の千尋を十分に活かすことが出来るだろう。
 ただ。

「お前さぁ。本当デリカシーとかないわけ」
「出来るじゃろ、キワちゃんじゃったら」

 何の根拠もなく、何の躊躇いもなく仁王はそう提案した。確認の形をしていたけれど、試す雰囲気を持ち合わせているところが仁王雅治が仁王雅治たる所以だろう。挑発も煽りも平然と投げる。それでも。本当にそこに乗っかって問題がないのかを判じるのは千尋自身で、だからこそ仁王は敢えて千尋に決定権を残した。策士、というか計算高いやつだ。わかっている。それでも、千尋には舌戦で仁王に勝てる見込みなんて微塵もない。
 溜息を吐き、降参の二文字を頭上に掲げて、千尋は最後の悪あがきをする。

「じゃあ押せよ、そのナースコール」
「こっそり行ってもうたらわからんじゃろ」
「いや、あの、仁王君? バイタルデータ飛ばなくなったら看護師さん顔面真っ青で飛んでくるからな」
「お前さん、無線っちゅうのは知っちょるかい?」
「お前さぁ、ブレねーなぁ」

 実行可能か不可能かには興味がない。実行するかしないのか。その一点しか仁王の眼中にはない。
 このいつも通りで平常運転の駆け引きこそ、仁王が千尋の身を慮っているという何よりの証左だ。自分と対等の存在として認め、受け入れ、励ますに値すると思った。
 だから。千尋は敢えてナースコールを手繰り寄せてボタンを押した。

「これじゃき、A型男子は面倒くさいんじゃ」

 黙って外出する気概もないのか、と言外にある。気概の問題ではない誠意の問題だ、と返すと仁王の溜息が更に重たくなった。
 それでも。最終的に千尋と仁王の平和的合意が成立して顔も知らない大倉の説教を食らって、看護師が付き添うことを条件に病院の敷地内の空スペースへの外出が許可された。ラケットとボールを抱えた千尋が車椅子に乗って、それを仁王が押してくれる。看護師は千尋の両親が到着したら問答無用で病室に連れ戻す、と不安そうにしていたけれどテニス馬鹿の千尋たちにとってそれは大した効力を発揮しなかった。
 それどころか。
 空きスペースの使い方について諸注意を受け、仁王が千尋の腕を引いて車椅子から立たせる。どうやってここに持ってきたのか、という疑問は残るものの使い慣れた千尋のラケットを握らされて仁王と対峙した。仁王が空間の大きさを説明する声を聞きながら暗闇の中に三次元映像を描き出す。そして、仁王がボールを何度かバウンドさせる音が聞こえたかと思うと、その、かりそめの景色が唐突に白――明るさを帯びた。少しずつ彩りを取り戻していく景色の中、黄色の点を追う。焦点が噛み合うのに時間はそう必要ではなかった。仁王の表情が見える――つまり、千尋の両目は視覚機能を取り戻している、と気付いたけれどそんな自己申告をすればどうなるのかがわからないほど千尋はもう幼くはなかった。理由はわからない。でも何となくわかってしまった。これは多分、逆のイップスだ。テニスをしているときだけ、千尋の双眸は景色を描く。仁王との打ち合いを終えればその時点でまた暗闇だ。そんな予感がある。だから。千尋の担当看護師はこういう人相をしているのか、だなんてよそごとすら考えながら千尋は昨日の夕刻以来、別離していた世界を眺め続けた。

キワちゃん、お前さん、見えとるじゃろ」

 とは大倉が許した外出時間を上限いっぱいまでテニスのような何かを楽しんだ後の仁王の言だ。なんだ、気付いていたのか。千尋のラケットを預かりに来た仁王が千尋にだけ聞こえる音量で問う。右手からラケットを手放すと、千尋の視界は再び、ゆっくりと焦点を失いぼやけていく。その、予想通りの光景に「見えてた、が正解っぽい」と返すと仁王は「じゃったら部活に出たらええじゃろ」と何でもないことのように言うのだけれど、大倉が難なく首肯してくれるとも思えない。
 それでも、多分。
 部活を――テニスをする間だけ千尋の身体が本来の機能を取り戻すのだということさえ立証出来れば、千尋はまだここにいる権利を失わないのではないか。そんな希望的観測を抱く。仁王に明瞭な答えを返せないでいる間も視界は明度を失い続け、結局はまた車椅子に載せられる。担当看護師が「最近の子って凄いのね」などと言っているのが聞こえないぐらい、千尋はどうすればテニスを続けられるのかを考え続けていた。
 病室に戻ってしばらくすると、部活が始まる刻限になったのだろう。明日も来る、と言い残して仁王が帰ってしまった。仁王のことだ。上手く幸村や柳蓮二に説明してくれるだろう。その説明が幸村の心痛を少しでも多く拭い去ってくれることを祈りながら、光の射さない病室の中、千尋はずっと考えていた。
 両親が到着したのはその日、随分と遅くなってからだった。
 矢継ぎ早に郷里に連れ帰る、というようなことを捲し立てては大倉と看護師に宥められる。郷里にある大きな病院は国立大学の附属病院ぐらいで、それでも千尋の実家からは行き来するのに数時間を要する。現実的ではない、と大倉は何度も良心を押し留めた。
 勿論、大倉が純然たる良心からそう言っているなどと信じているわけではない。大倉がどんな医者かはわからないけれど、大学病院にいるぐらいだ。当然探求心も持ち合わせているだろう。千尋のような不思議な症例の患者がそう頻繁に来院するはずもない。となると大倉は千尋を研究対象として考えていると予想される。
 それでも、千尋が郷里に帰らないことで千尋と大倉との間の利害関係が一致しているのなら、彼とは共謀者になれると思った。いいぞ、もっと言ってくれ。千尋の両親の心配をどんどん薄めさせてくれ。その為に必要な手札の一つを千尋は仁王から預かった。テニスをしている間だけ視力が戻る。その現象を突き詰めていけば千尋は正常な状態に戻る可能性がある。その結論に誘導するべく、千尋は大して回りもしない頭をフル動員して大倉に今日起きたことを説明した。

「取り敢えず、今日明日結論の出ることではありませんし、もうしばらく様子を見てからご実家に戻られる、という判断をしても遅くはないと私は思っていますが」

 千尋君も今はまだ混乱しているでしょうし、急に環境を変える、というのは医師として奨励できることではありません。言った大倉の声色が最後の決定打だった。両親はしばしの沈黙ののち、大倉の判断に委ねるが状況が変わればその限りではない、と宣言してその日は解散となった。千尋がいるのは個室だったし、両親はここに泊まるのかと思っていたけれど、大倉の足音と共に退出していく。そのことに少し――ほんの少しだけ落胆した自分のことには気付かなかった振りをして、千尋の暗闇の一日は終わった。
 明日が来たら。朝が来たら。千尋の世界に陽は射さないけれど、仁王がまた来てくれると信じるのだけが、今の千尋に残された希望だった。