63rd. 共犯者
平等なんてただの幻想だ。誰もが等しいだなんてただの詭弁だ。
立海大学付属中学にスポーツ特待生として入学した
常磐津千尋の存在がそれを何よりも雄弁に立証する。学費も寮費も何も支払わず、ただテニス部でテニスをするだけで
千尋の三年間は安堵された。それは
千尋の価値が他の一般生たちよりも高かった、ということを意味している。立海大学付属中学はその他大勢の生徒より
千尋を優遇した。その分、
千尋は実績を出す為に努力をした、と主張することは出来るけれど努力の内訳を定量的に表現することは出来ないから結局は主観に基づくことになる。
千尋が本当の本当に他の生徒より困難な人生を歩いている、と証明してくれるものなんて何もない。
だから、
千尋は知っていた筈なのだ。
平等なんてただの幻想で、強者の理屈だということも。
千尋の優位性なんてふとしたきっかけで、一瞬で失われることも。そうあることがある意味では真の平等なのだということも。
千尋は漠然と理解していた。
千尋の視界から光が失われて二週間が経った。
相変わらず医療機器は数値上、
千尋が健康であるということを示し続け、なのに
千尋の世界に朝は来ない。「逆のイップス」が発動し続けているのだという確信が日々強くなるのは、テニスに触れる瞬間だけ、
千尋の視界が開けるからだろう。ボールを打ち合っている間だけ、
千尋は今まで通りの
千尋でいられた。
焦っているのか、だとか、何にプレッシャーを感じているのか、だとか心療内科の医師に尋ねられたけれど、その答えを知っているのなら寧ろ教えてほしいぐらいだ、とすら思う。
テニス部の仲間が日替わりで病室を訪れるけれど、それも毎日ではなく、
千尋は少しずつ疲弊という概念を抱き始めていた。
千尋の主治医である大倉初瀬(おおくら・はせ)は毎日、
千尋の両親と何か難しい話をしている。
原因も治療法も何もわからない。わかっているのは
千尋が日常生活を送るのに十二分すぎるほど支障をきたしていることだけで、それがいつまで続くのかもわからない。
このまま
千尋の状態が変わらなければ、スポーツ特待生として在籍することを許可出来ない。そんな通達をテニス部顧問が告げに来たのは当然と言えば当然の流れだった。
顧問と両親が沈痛な雰囲気を伴って個室でずっと話し合いを続けている。
その間も当の本人である
千尋は蚊帳の外で、医師の見解はこれ以上必要ではないと
千尋の両親に追い出された大倉と雑談をするぐらいしか出来なかった。
「大倉先生。俺、やっぱ家に帰んなきゃなんねーのかな」
両親は最初、断固として
千尋を郷里に連れ帰る、と主張していた。
それでも、
千尋の郷里にある大学病院の設備が立海大学付属病院のそれよりも劣るのは確かで、大倉はこのまま
千尋の経過観察を続けたい、と言う。
「僕としては歓迎出来ないけど、そういう方法もあるのは確かかな」
「でも、テニスやってる間はちゃんと普通に見えるんだ」
「
常磐津君。君の言うレベルで『テニスをする』ために必要なトレーニングを殆ど出来ないのにそれはちょっと過信というやつだと思うよ」
筋トレもロードワークも何も出来ない。テニスラケットとボールに触れない時間、
千尋は間違いなく暗闇の中にいる。それは事実だ。その状態でテニスだけをしても何の結果も残せないというのもわかっている。
わかっているけれど、
千尋はどうしてもテニスを諦めたくなくて強がった。虚勢を看破した大倉が柔らかく労りを含んだ声で釘を刺す。大倉というのはそういう医師だった。何も強制しない。事実は淡々と述べるし、何の目的があってどう対処するのかも殆ど平坦に告げる。それでも、大倉の声色にはいつだって優しさが隠れていて、彼の声を聞くと不思議と安堵した。
「僕は君が本当の本当に君のテニスだって言えるテニスを見てみたいな」
何でもないことのように大倉が言う。言外に、今、仁王雅治たちと興じているのがただのお遊びで、真剣勝負でも何でもないと知っていると含まれていた。
何も懸けない。勝負ですらない。練習でもない。
千尋が一人ではないと実感するためだけの時間のことを大倉は見抜いている。そうだ。その通りだ。誰も来ない病室で虚空を見つめ続けているうちに
千尋は臆病になった。このままだったらどうしよう、だとか、仲間たちがどんどん先に進んでいるのに自分は何をしているのだろう、だとか。
それでも。
大倉が
千尋の為に出来ることを探したところで、早晩解決しないことはもう既に理解してしまった。
心因性の病状。その言葉の上っ面だけを聞くと
千尋の内側の問題だから意地と気合と根性があれば何とかなるのではないか、だなんて思ってしまう。
今までだってそうやって這い上がってきた。
イップスだって打ち負かせる。そう、思うのに
千尋の身体は少しずつ衰弱する。
「焦っているのではないか?」だなんて尋ねる心療内科医は馬鹿じゃないのかと本気で思った。
焦っているに決まっている。自分の身体が思い通りにならなくて、いつ復調するのかもわからなくて焦燥しない十四歳の子どもなんているのだとしたら稀有を通り越して薄気味が悪い。
だから。
千尋は中学二年生の閾値内の存在だ。恐怖も不安も猜疑もある。
ただ。そんな
千尋のことを不器用ながら励まそうとしている大倉のことは決して嫌いではなかった。
「大倉先生ってお世辞とか言えないタイプだろ」
「その根拠は?」
「俺のこと『滅多にいない貴重な症例』だと思ってるの、俺だって知ってるよ」
医師と言うのは神でも仏でもない。医術を学び、実践するだけのただの学者の類だ。
人命を救う為に善処をするのが医師の生業で、極論で言えば百人を助けるのに一人の犠牲が必要だと明示されれば悪魔の選択をすることも決して吝かではないだろう。
未だかつて見たこともない症例。その出現に解決策がないことを嘆くと同時に、その成り立ちを証明する道程に心を躍らせることもある。例えば今、
千尋の治療と称しながら様々な実験をしているように。
「否定はしない」
「先生。そういうとこだって」
「でも、本当に思うんだ。君がそんなに拘泥するんだから、君のテニスはきっと一度ぐらい見なきゃ損をするのじゃないかって」
「イップスが治ったら幾らでも見に来ればいいだろ」
「うーん、じゃあやっぱり君が実家に戻っちゃうのは僕は歓迎出来ないな」
「どうして?」
「『どうして?』だって? 君のテニスには立海大学付属中学の
常磐津千尋っていう前提が必要なんじゃないかな」
本当の本当に
千尋のテニスと呼べるものがあるのだとしたら、それは環境も仲間も必要なのではないかと言われて、
千尋は不意に蹲ってしまいたい衝動に駆られる。何だ。やっぱり大倉は知っていたのじゃないか。
千尋がこの場所で戦うことの意味も、仲間たちと過ごす時間を何よりも大切に思っていることも、大倉は知っている。知っていて、
千尋の願いを叶えようとしている。
両親が
千尋を郷里に連れて帰りたいと思っているのは決して誤りでも何でもないだろう。子どもを持つ親として目の届く範囲で守ってやりたいと思う気持ちに善悪を付けるのは無為だ。何かあったらすぐに駆け付けられる。そういう場所にいてほしいと願うことは何の罪でもない。
それでも。
「先生。本当、そういうとこだよ」
千尋と両親。どちらの言い分にも一理あることを認め、天秤の上に載せることも出来るのにそうしない。大倉は多分、未来がどうなろうとも
千尋の快癒を願ってくれるだろう。
「
常磐津君。君にとって立海大学付属中学っていうのがどんな場所なのか、僕は知りたいな」
「そんな面白い話なんてないよ」
「それでも、僕は聞きたいな。君の言葉で、君の景色を教えてほしいんだ」
ご両親が戻ってくるまで、僕に君の話を聞かせてほしい。多分、それが最後のきっかけだったのだろう。馬鹿の
千尋には時系列に語ることも順序だてて面白さを演出することも出来ない。ただ訥々と言葉を紡いだ。
どのぐらいそうしていただろう。
千尋の一年半を語っていると不意に病室のドアが大きな音を立てて開かれる。そうして、乱暴な足音が近づいてきたと思ったら、
千尋を衝撃が襲う。破裂音と頬に熱。誰かに殴られたのだ、と認識した頃には慌てた大倉の声が聞こえた。
「何してるんだ!」
「煩い! 煩い! 煩い! 全部そいつが悪いんだ! そいつなんて死んじゃえばいいんだ!」
大倉が誰かを制止しようとしているのが伝わってくる。頬はじんじんと痛んで、何か不測の事態が起きてることを理解した瞬間、喉が押しつぶされる感触があった。息が上手く出来ない。苦しい。頭の奥がぼう、とする。ああ、これは首を絞められているのだ。助かりたい。生きていたい。死にたくないが頭の中を埋め尽くして、首を絞める何かを必死に引き剥がそうとした。
千尋の指先に触れる「何か」は柔らかく、
千尋の手のひらよりもずっと小さかったが「誰かの両手」なのだということを教える。
千尋の十四年で、誰かから明確な殺意を向けられることなんて一度もなくて、今、自分の身に起きていることが何なのか脳漿は理解を拒む。いつも穏やかで、飄々とした大倉の声が色を失くしている。
必死に、必死に抵抗をしているとどこかの瞬間でふっと沸騰しそうになっていた頭に冷風が差し込んだ。解放された。それを理解するより早く、身体は無意識的に大きく息を吸い込んでいる。必死に酸素を取り込んで、必死に咳き込んだ。大倉がナースコールを押して幾つもの指示を飛ばしている。
その段になってはじめて、無限に「死ね」を連呼している声のあるじが誰なのか、まるで他人ごとのように
千尋は理解した。
「花楓(かえで)」
「話しかけないでよ! あんたなんかにあたしの名前、呼んでほしくない!」
何がお兄ちゃんよ。何であんたばっかり特別扱いなわけ。あんたの所為であたしがどんな思いしてるのかも知らないで、被害者面なんてもううんざり。
花楓――というのは
千尋の妹だ。郷里にいたときは兄妹として可もなく不可もなく。お互い干渉することもなく十二年を過ごしてきたつもりだ。
その実妹に殺されそうになった、というのがどういうことなのかが今一つ
千尋には理解出来ない。
憎み合っていた、だなんて記憶はどこにもないし、第一、今年の全国大会も両親と共に観戦に来ていたのを
千尋は見ている。その妹がどうして自分を殺そうとするのか。
千尋は混乱を極めた。
呆然とするしかない
千尋の視界は未だ黒く、首を絞めた妹の表情すらわからない。聞こえてくる音から察するに今は妹を大倉が押さえつけているから何とか事態の悪化に歯止めがかかっているだけで、妹が
千尋を殺めようとする意志がなくなったわけではないのだろう。
開け放たれたままなのであろう個室の扉の向こうの方から複数の足音が慌ただしく走ってくる。
千尋の担当看護師が二人と小児科病棟の師長、だろうか。そんなことがわかるぐらいには
千尋はこの病室で暗闇のまま時間を過ごした。
正体の分からない足音が二つ。それが多分両親なのだろう。また心配をさせてしまった。そんなことをふと思いながら
千尋は大きく息を吸い込んだ。錆びた鉄の味がするし、まだ頭がくらくらとする。
そこに追い打ちをかけられるだなんて思いもせずに
千尋は両親と対峙しようとした。
「大倉先生!」
「よかった、大丈夫なのね――花楓!」
その文脈を最後まで聞き届けた
千尋の脳漿が理解を拒否する。
どうして、と唇の上から声すら零れ落ちずに
千尋を衝撃が襲った。
大丈夫でないのは
千尋ではないのか。妹の心配はするのに
千尋の心配はしないのだな、と思うと胸の奥で疼痛が生まれた。両親と顧問の話し合いが難航しているのだということは察するに余りある。それでも。
千尋も妹と同じ、両親の子どもなのではないか。それとも、
千尋はもう
常磐津の家族ではなくなったのか。疑問と失望が胸中に満ちる。
千尋の感情と身体が調和していれば、
千尋の方が落涙をする場面の筈だ。それでも、逆のイップス以上の衝撃を与えられた状態で涙が出るほど、
千尋は豪胆な神経をしていなかった。
暗転した視界の向こうで更に視界が暗転したかのような気分だ。
そんな
千尋をどう理解したのか、両親から
千尋の身を案じる声は聞こえてこない。
妹がわんわんと泣き叫ぶ声を遠く聞きながら、看護師長と大倉が病院関係者だけを残して、
常磐津家の人間と学校関係者は退出するように、という指示を出すのをどうにか受け止める。
その瞬間、
千尋は理屈ではないもので何かが明確に終わったのを感じた。
「
常磐津君、大丈夫――じゃないよね?」
千尋の無事を願ってくれる人間が病院関係者だけだという時点で答えなど知れている。
人間は皆、平等ではない。真っ先に気遣う相手、に優先順位が付くことの何が不自然だろうか。
千尋だって仲間たちの親しさに序列がないとは言えない。
それでも。命の重さで順番を付けられたことには変わりがない。
千尋の肉親は――両親は妹を優先した。
その結論に至る理由を知りたい、と思う。
多分、大倉は答えを知っているだろう。知っていて、そっとその傷口を広げずに済むように配慮してくれていただろう。
だから。
「大丈夫、かな。割と、びっくりしたけど」
どうしてこんなことになっているのか、教えてほしい。そう、率直に嘆願すると見たこともない筈の大倉の表情が曇るのがわかった。
「君の仲間が言っていたのはある意味では正しかったわけだ」
「誰か何か言ってた?」
「『キワちゃんはボジティブモンスターじゃき、周りが適当に息抜きさせちゃらんといつか首が回らんくなるんじゃ』って」
「あぁ、ハルか。あいつ、いいやつだから」
「君のそういう弱みを見せない態度がご両親からすれば心配不要、っていう風に見えるのかもしれないね」
言って大倉が看護師たちに席を外すように指示する。そして、ベッド脇に置かれたパイプ椅子に大倉自身が腰かける音がした。簡潔に事実だけを告げる、と言って彼が話した内容が
千尋を打ちのめすのは自明だったけれど、それでも
千尋は真実が知りたかった。
頭の回る理系筆頭・医学部卒現役医師の大倉がする説明は実に簡潔だった。
二週間、経過観察をしたけれど
千尋には医学的異常が認められないこと。
その状態では病欠と認められず、立海大学付属中学としては早々の復学か、今月末をもっての退学かを選ぶかの選択が必要だったこと。
事実上、
千尋は復学など出来る状態ではないのだから退学しか選択肢がなく、その場合、
千尋が今まで特待生として生活するのに必要だった金銭を学校側に返納しなければならないこと。
その額を試算したところ、実に五百万円弱になり、
千尋の両親が負担するのが困難なこと。
学校側は分割でもいいと言ったが、借金を背負うことになれば生活が困窮するのは目に見えており、母親もフルタイムで働くことが必要なこと。
妹には今までも
千尋の為に幾ばくかのしわ寄せを食っていたが、その度合いが跳ね上がること。
そして、
千尋の症状には改善の兆しすらないこと。
全てが悪い方に作用して
千尋の両親は進退窮まっていた。そのことを知った妹が諸悪の根源である
千尋に消えてほしいという最悪の願望を抱いてしまったのだろう、と大倉は話を結んだ。
その結論を聞いて、
千尋は悲しいだとか腹が立つだとか、そういう感情がなかったわけではないけれど、多分、
千尋が妹でも
千尋に消えてほしいと思っただろうと思った。だってそうだろう。平等な筈の兄妹の立場で妹は我慢を強いられているのに兄は自分の理想だけを追っている。誰がどんな負担をしているのかも知らずに、無邪気に夢を追うことが許されるだけの経済的、心理的余裕がないのが
常磐津家だ。だから、
千尋は特待生としてテニスを続けることを選んだ。それでも、それすらも家族の負担になっていたと知って、無条件に怒りが湧くかと言われるとそこは少し苦しいだろう。
「大倉先生。俺の相棒の話ってしたっけ」
「千代(せんだい)君のことなら、十分聞いたね」
「あいつ、期待してさドイツ行ったんだよ」
千尋と同じく富裕層の出身ではない千代由紀人(ゆきと)は膝を故障してしまったことに絶望していた。膨大な治療費なんて千代の両親は負担出来ない。だから、千代は全てを諦めて帰郷しようとすら考えた。あのときは――まだ
千尋が逆のイップスになるだなんて誰も想像していなくて、千代の為に協力しようと思える家族も多かった。
それを恨んでいるわけではない。
千代だけ上手く希望をつないだと妬むわけでもない。
ただ。今、二人目の――
千尋の為に医療費の基金を募ることは事実上不可能で、だからこそ学校側は
千尋に退学を求めているのだということぐらいは幾ら
千尋が馬鹿でも理解出来る。
家族に五百万もの借金を背負わせるというのがどれだけの業なのかも何となくは理解出来る。
あのとき。小学六年生のあの冬に
千尋がテニスを望まなければ誰も不幸にならなかったのは明白だ。
それでも。
誰かに不幸を押し付けてしまうのだとしても、
千尋は今、ここにいるのだ。ここにいて息をしていて、それと同じようにテニスを続けたいと心の底から願っている。両親が妹を選んでも、学校が
千尋を選ばなくても、
千尋はテニスだけは手放したくなかった。
そんな
千尋の胸中を知ってか知らずか、大倉は少しだけ強張った声で問う。
「
常磐津君。君は何を棄てられると思う?」
「棄てるって、例えば?」
「家族、とか、夢、とか、仲間、とか色々あるよね」
君が今持っているものをどこまでなら棄てられるのか、念の為に訊いておきたいんだ。
大倉がその言葉を慎重に紡ぎあげるのを聞きながら、
千尋は自分の人生が急速に自分の手のひらから遠ざかっていくのを実感していた。運命の流転に巻き込まれている。
千尋の独力で解決出来る次元なんてもうとっくの昔に終わっていたのだ。そのことを告げる問いに、その躊躇いの声の向こうに
千尋は一抹の期待を見出した。
「何を棄てたら俺がテニスを棄てなくてもいいのか、先生には心当たりがある、ってわけだ」
「可能な限り全部を棄てられるなら、僕は君の為に五千万まで積めるよ」
「――えっ?」
「君の人生を僕の研究の為に買い上げたいって言ったら君は納得するのかな」
ちょっと待ってほしい。大倉は今、幾らと言った。凡そ、
千尋の人生では無縁の数字ではなかったか。一般的なサラリーマンの生涯賃金の半分程度。千代の治療費として集められた基金の総額を更に超越した金額だ。
その大金を大倉はどうしようというのだ。
どうやってその大金を捻出して、どうしてそれを
千尋の為に使おうというのだ。
両親にすら縋れない、妹には憎まれる、学校からは邪魔者扱いで、
千尋の心配をしてくれるのは
千尋と同じように無力な仲間たちだけだ。
その状態の
千尋を拾って何になる。
千尋の人生なんてそんな価値があるわけがないだろう。
そこまで思考が到達して、そうして
千尋はやっと胸の奥がきゅっと締め付けられるような気持ちを味わった。
千尋の居場所と呼べるものが悉く失われたのをようやく実感したと言える。
助けてほしい。その簡単な言葉が言えなくて、
千尋はずっと仁王の言う「ポジティブモンスター」を演じてきた。弱さを見せれば引きずり降ろされる。相手も必死でその場所に立っているだろうに足を引っ張るような真似はしたくない。そんな意地にも似た何の役にも立たない矜持で
千尋はどうにかまだ立っている。
でも、多分。大倉は傷だらけで立つのが精一杯の
千尋のことに気付いている。仲間たちがそうであるように、大倉は
千尋の感情の内側に気付いて、そうして
千尋の心情を慮ってくれている。
頼ってもいい大人をやっと見つけたのに、その容姿もわからない。
わからないけれど、
千尋は大倉のことを信じてみたいと思った。
信じてみたい、どころではない。信じさせてほしい。信じるしかない。それでも、
千尋は敢えて信じてみたいと思ったと認識する。
そう、思った瞬間、
千尋の喉の奥から慟哭がせり上がった。
「先生、俺、テニスだけはやめたくない」
「その感情を僕は利用するわけだけど、それでもいいなら、今日から君と僕は共犯者だ」
大倉が学会で認められる論文を完成させるその日まで。
千尋は大倉の強いる全てを甘んじて受けなければならない。それでもいいのか、と大倉が問う。多分、それに首肯出来たのは
千尋の視界が暗転していて、
千尋より妹を選んだ両親の表情を見ていなかったからだろう。憎しみか、困惑か、同情か。或いはもっと別の感情を載せていたかもしれない。彼らの誰の表情も見えないからこそ、
千尋は別離の痛みを受け入れられた。
だから。
「先生が、うちの親に一銭も渡さないなら、俺は先生の共犯者でいい」
別離を選ぶのは
千尋で、両親には何の非もなかったと思ってほしい。金銭の授受が発生することで、この後も永続的に関係が続くのは耐えがたかったし、何より、額が額だ。分不相応の金銭は人間の感覚を狂わせる。これ以上、
千尋にまつわることで
常磐津の家を狂わせる業は背負えそうになかった。
仕方がないじゃないか。多額の借金を両親に背負わせるのは本意ではない。妹の自由を奪う権利が
千尋にある筈もない。お互い憎み合うぐらいなら、別離を選んでも仕方がないじゃないか。
何度も、何度も、何十回でもそう自分自身に言い聞かせながら
千尋は慟哭する。
今日はもう休みなさい、と大倉が言うのを聞いて明けない夜に今日もまた包まれるのだった。