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All in All

64th. ポジティブ・モンスター

 立海大学付属中学において千尋の学籍が失われることはない、と大倉初瀬(おおくら・はせ)が通達してきた朝のことを常磐津千尋は多分、一生忘れることはないだろう。
 暗転したままの世界に今日も携帯電話のアラーム音が響き渡る。午前四時四十八分。特待寮で過ごしてきた今までと何ら変わりのない千尋の起床時刻だ。病院の個室の内装を見たこともないのに、千尋はこの空間に慣れ始めていた。
 イップスの状態が続くと自然と聴覚神経が冴えわたるような感覚がある。多分、無意識的に「無我の境地」を発現しているのだということは想像がついた。聴覚だけを鋭敏にする「百錬自得の極み」が持続的に作用している。
 その現象について大倉に説明をすると聴力検査をしてみることになった。
 結果、聴力検査でも以前より「聴こえている」状態であることが実証され、立海大学付属病院においてようやく千尋の身体に「変異」が起きていると認知されるに至った。
 今、千尋の脳漿の中で病室の3Dマップのようなものが形成されつつある。多分、こんな感じだろう、と思うところにそれぞれの設備がある。洗面所に辿り着いて、歯磨き粉を歯ブラシに載せて歯を磨くという一連の流れも躊躇なく出来るようになってきた。
 絞殺未遂事件が起きてからひと月が経過した。
 立海大学法学部卒の敏腕弁護士という大倉の知人とあれこれ話した結果、千尋は大倉の養子という扱いになり、保護者が両親から大倉に変わった。大倉がまとまった金を常磐津の両親に渡したから話がまとまったのだとわからないほどには幼くもない。いつか。千尋が快癒してプロテニス選手になったら、そのときに大倉に同じ額を支払おう、だなんて考えていることを大倉は多分知らないだろうから、今は素直に甘えている。
 戸籍上、千尋は「大倉千尋」になったのだけれど、大倉は千尋常磐津千尋として中学に在籍させてくれた。
 入学金、毎月の学費、入院の治療費。それらの全てを大倉は負担してくれて、千尋は今、立海大学付属中学の一般生という扱いになっている。
 テニス部の仲間たちは怒涛の展開に驚いていたけれど、最終的にそういう収め方もあるのじゃないかとそれぞれ笑ってくれた。
 だから。

キワちゃん、今日は部活の日ぜよ」
「よっ! 待ってました!」

 週に三度。部活動の時間になるとテニス部の誰かが大学付属病院まで迎えに来る。その時間までは院内学級で勉強の真似ごとをして過ごしていた。
 今日の千尋の送迎担当は仁王雅治で、この「逆のイップス」を発症して以来、一番屈託なく接してくれるのが彼だった。心の底から蟠りがない、だなんて思わないで済むぐらいには千尋も人生を過ごしている。弱さを見せたらそこを狙う。徹底的に狙って潰す。それが戦いの正道だ。テニス部においてそれは実行してもいい理屈で、今まで千尋もそれを行使してきた。今更、弱っているから同情してくれ、だなんて微塵も思っていないけれど、それでも千尋が一人で中学のコートに辿り着くのは事実上不可能だから、その点についてはお互いに目を瞑っているというのが現実だろう。

「ちゅうことじゃき、センセ。キワちゃんは俺たちが借りていくき、安心して論文の続きでも書いてくんしゃい」
千尋君。いってらっしゃい。仁王君が来たってことは歩いていくのかい?」
「出来る範囲で運動もしろって言ってるの、初瀬だろ」

 運動がもたらす効果について、千尋は部活動に参加したのちに報告するという約束になっていた。逆のイップスが改善する兆しはまだない。それでも、千尋の毎日は少しずつ安定を得ようとしていた。

「初瀬、行ってくる」
「君はまだ『百錬自得』を完全にコントロール出来てるわけじゃないから、過信は禁物だからね」
「わかってる。じゃあ、また後で」

 仁王の来訪を待っていた、という千尋自身の申告の通り、部活動に参加する為の格好は整っている。夕焼け色のジャージ。履きなれたシューズに足を通して、定位置に置かれたラケットバッグを持ち上げると仁王が「じゃったら、行くぜよ」と言って病室の出口の手前で待機する。
 病院の中のことはあまりよく知らない。建物の中でテニス――及びその練習にまつわる行為をすることは出来なかったから、視認したことがない。ただ、「百錬自得」によって研ぎ澄まされた聴覚神経が構造、もしくは人の往来を知らせるから千尋は暗闇の中にいながらにして院内を歩くことに不自由さを感じなくなっていた。
 建物の外観と立海大学付属中学への道のりについては間違いなく「見慣れた」と言えるだろう。正面玄関から出て少し離れたところでラケットとボールを取り出す。そして、ラケットの面で、フレームでボールをバウンドさせることで千尋は逆のイップスの状態を脱する。イップスから回帰した千尋の両目は病院の外観を網膜に照射した。
 軽快な音を立てながら、千尋は概ねいつも通りのペースで公道を歩く。公道とは言っても自動車などの交通量は極端に少なく、半ば歩行者天国に近い状態だったから、丸井ブン太が迎えに来るとボレーボレーをしながら中学の敷地まで駆けるのが定例化していた。
 筋トレもロードワークも出来ない。自主練習も出来ないし、誰かの手助けがなければ柔軟運動すら出来ない。食事も水分の補給も一人では出来ない。
 そんな千尋が立海レギュラーの座を守れるわけなんてなくて、部活動にどうにか復帰した頃には別の選手がレギュラーになっていた。
 千尋に先立ってテニス部を離れた千代由紀人(せんだい・ゆきと)の代わりに柳生比呂士。今回、千尋の代わりには丸井ブン太が選ばれて千尋の中で特別に親しい七人は全員レギュラーとなった。
 そのことについて特待生の後輩たちは何も起きなかったかのような振る舞いをしていたけれど、鹿島満(かしま・みつる)の悪口に以前ほど刺々しさはなかったから、多分彼らは彼らで気を揉んだのだろう。
 ボールを弾く音が軽快に刻まれる。
 単調で、規則的すぎるその音が千尋の技術が失われていないことを伝えた。
 ボールから意識を離さないよう留意しながら千尋と仁王の移動は続く。

「なぁハル。赤也なんだけどさぁ、あいつ無理してるだろ」

 後輩の一人の名を挙げると仁王の溜息が漏れ出た。

「お前さんは相変わらずじゃのう。他人の心配なんぞしちょる場合かい」
「他人の心配をしないような俺なら見捨てるくせによく言う」
「聖人君子様でも目指しちょるんかい? お前さんには向かんよ」
「知ってる。だから、お前たちには何が何でも三連覇してもらわないと困るんだ」

 千尋の人生と聖人君子という概念は完全に別離している。真に誰かの為に怒るほどの誠実さも正義感も千尋にはない。あくまでもベースは自分で、その中で気付きがあれば指摘するが無私だなんてとんでもない。そういうやつが立海にいるのだとしたら、多分ジャッカル桑原こそ選出されるべきだろう。
 そんなことを告げると仁王が「俺は人のことを平然と褒めるお前さんのことは嫌いじゃないきの」と言って駆け出してしまう。校門を抜けるとテニスコートはすぐだ。出入り口のフェンスさえ開けてくれれば、千尋はコートの中まで視界を保つことが出来る。そのことを把握していて、恩に着せるでもなく自然と振る舞える仁王だって十分人としての徳を持っているだろう。
 多分。多分だけれど、千尋はこう思っている。幸村精市のイップスの世界を実体験している仁王だからこそ、千尋の暗闇の世界を推して計ることが出来る。その中で不便に思うこと、不安に思うこと、もっとこうだったらいいのに、という無限のifを仁王と千尋は共有しているようなものだ。仁王とだけではない。丸井とも桑原とも、柳生ともそうだ。千尋を迎えに来ない三強たちだってきっとこの感触を共有している。
 だから。

「ハル。さんきゅ」

 夢を夢として捉え、隣を走る仲間がいなければ千尋はきっとテニスとは袂を別っただろう。号泣しても慟哭しても悲嘆に暮れても明日は来る。様々なものを失って、それでも千尋が持っているのは「今」だけで自分の十四年間を否定しそうになって、そんなときにふと思う。千尋と同じくらいテニスを好きで、どうしようもないやつらがいるから千尋はまだ胸を張ってテニスが好きだと言える。
 齢十四で人生を達観出来るわけなんてない。諦めることも全てを受け入れることも出来ない。かと言って両親や妹のことを一方的に恨むことも出来ないし、「どうして」と「なんで」の反復に叫び出したい衝動に駆られることもある。
 それでも。
 そんな「望まない今」をぎりぎり繋ぎ止めているのは間違いなくテニスだ。
 テニスをしたい。その気持ちだけが千尋の両足を支える。今、本当の本当にテニスを失ったら、千尋が人生を放棄するのは自明で、だからこそ大倉は汚れ役を買って出たのだろう。
 理屈なら整えるすべを幾らか覚えた。言葉の上でなら強がって、貫き通すことだって決して不可能ではない。それでも。千尋は知っている。どうして、の答えが明確に示されることの方が稀で、世界というのは遍く不条理の連続だ。そして、それは千尋にだけ特別に与えられることでも何でもない。よくある日常のワンシーン。その程度の価値しかない。
 だから。千尋は前を向いた。暗闇の視界で前も何もあったわけではないのだけれど、敢えて前を向いたと定義した。全てを失ったわけではない。All in All、とかつて柳蓮二をして言わしめたテニスだけが今、千尋を現実に繋ぎ止めている。殆ど全部。その表現を受け入れたときとは違う意味で千尋はその言葉を噛みしめた。殆ど全部。テニス以外の殆ど全部を失いそうになるだなんてわかっていたら千尋はテニスを選ばなかっただろうか。推論には何の意味もない。千尋はもう今、その状態でここに在る。
 だから。大丈夫だ。仁王の感情の読めない笑みの向こうに立海の仲間がいる。千尋はまだ本当の本当に全てを失ったわけではない。

「気にしなさんな。もし、でええよ。もし、俺がお前さんと同じ目に会うたら、そんときはお前さんが返してくれたらそれでええき」
「なるほど。百理ある」
キワちゃん。一億理ぐらいあるじゃろうに」
「何%だよ、それ。天文学的な数字の話がしたいなら俺じゃないやつのが向いてるだろ」
キワ、ご指名ならば話の先を引き取ろうか」

 今日も調子はいいようだな。千尋の背後から聞きなれた平坦が飛んでくる。柳蓮二だ。中学二年生ながら一端の学者のような弁舌で大倉をして大器だと言わしめた。頭のいい大人筆頭の医者である大倉が言うのだ。柳というのはそれだけ思考力のアドバンテージを持っているのだろう。
 試すような台詞に、千尋は手元から意識を離さないまま振り返った。
 そこには三強が勢揃いしていて、練習の開始を暗黙裡に伝える。
 この風景だけが千尋に残された「当たり前の日常」だ。それと理解出来ないほどには千尋も幼くなかったけれど、それで充足を得られるほどには大人でもない。
 準備運動も基礎トレーニングも出来ない千尋が体力や技術を保ち続けることは事実上不可能だ。
 わかっている。千尋だけが時の流れの中にぽつんと置いてけぼりを食らっている。それでも、まだ滞留出来ること自体が不幸中の幸いで、それ以上を望んでも誰も千尋に与えられる道理もないこともわかっている。
 レギュラーの練習になんて付いていけない。
 特待生の後輩たちに賢しら顔で出来る指導もない。
 そうなると、千尋に出来る範囲の練習は限られた。
 
「今日も一年のボール出しか?」
「お前にとっては残念だろうが、正解だ」
「いいぜ、別に。何だよ、お前の方が残念そうな顔してんじゃねーよ」

 千尋が逆のイップスから完全に解放されないまま、それでも部活動には復帰する、という決定がなされたとき、千尋の仲間たちは来年の全国大会に千尋が間に合わなくても、必ず深紅の優勝旗を持って帰る、と誓ってくれた。後ろ向きに捉えると、立海テニス部に千尋は不要だと受け取ることも出来たのだけれど、仁王の称した通り千尋は「ポジティブモンスター」だったから、努力目標の一つだと解釈している。
 千尋がいなくても、一番高い場所に立海の名を掲げる、と言われて心のどこかで安堵したのもまた事実だった。責任感や使命感に押しつぶされなくてもいい、という気遣いの一種なのだろう。それでも、立海三連覇の夢を見ているだけで手に入れたくはなくて、千尋千尋に出来る最高の努力をすると自分に誓った。
 最高の努力の内訳は千尋しか知らない。他人から見ればつまらないことかもしれない。地味で、何の価値もないように見えるかもしれない。それでも、千尋はテニス部の一人であるという誇りを失いたくはなかった。だから、千尋に担える役割があるのなら、今はそれに全力で向き合いたい。

「俺、言ったよな。心が折れても、泥まみれになっても、傷だらけでも、俺は絶対に諦めない」
「それがお前の答えでいいのか」

 多分。千尋がテニスのその先を求めた小学六年生のあの日。千尋は家族よりもテニスを選んだ。家族と離れ離れになってもテニスをしたいと願った。その小さくて大きな我がままが今を作っている。
 テニスだけがあればいい。テニスさえ出来ればそれでいい。
 それが願いとして破綻していると知った今も、千尋は同じ願望を抱いている。
 ただの逃避かもしれない。現実を受け入れたくなくてテニスに依存しているのかもしれない。
 答えなんて早晩決まるものではなくて、残りの人生が終わる頃にどうにかわかる次元の概念かもしれない。
 それでも。

「俺は立海の常磐津千尋でいたいんだ」
「試合に出られなくとも、か?」
「蓮二、見くびるなよ。試合に出られねーならテニスを辞めるだとか、誰かに勝てねーから諦めるとか、そういう答えを選ぶぐらいなら、俺は『大倉千尋』になってまでここに残ったりしねーよ」

 それとも戦力でなくなった千尋には何の価値もないのか。反語で問うと弁舌に長けた筈の柳が返答に詰まる。代わりに彼の隣にいた幸村が苦笑した。

「困ったやつだね、お前は」
「何だよ。精市、お前も説教か」
「そうやって一々線引きをして、自分が何なのかを確かめなきゃならないぐらい不安なら素直にそう言いなよ、千尋
「不安だっつって、ここに来なかったら本当の本当に『何もなくなる』のがわかんねーほど馬鹿じゃねーよ」

 不安のないやつなんていない。
 病院の中にいるとそのことを痛切に思い知る。千尋は個室で寝起きするから、自分の不幸に振り回されていたけれど、他の大部屋には別の子どもの患者がいて、その中には明日がないものもいる。千尋の世界には朝が来ないけれど、明日はある。
 だから。

「それにさ、俺、思うんだ」
「具体的には何を?」
「ここに来て、お前たちの『練習の手伝い』して、そうしてたら逆のイップスに勝てる方法が見つかるんじゃねーかって」
「お前って、本当。底抜けの馬鹿だよ」

 そうだとも。千尋は底抜けの馬鹿だ。過ぎ去った昨日のことは忘れ、かつての栄光に後ろ髪を引かれることと別離し、暗闇の明日の向こうに希望を見出し、一瞬で無限に続く今だけを生きている。細かな理屈なんてどうでもいい。今、千尋はここにいる。それだけが唯一にして絶対の答えだ。

「精市。今は無理かもしれねーし、未来にそうなる保証もねーけどさ。全国三連覇したお前に勝てたら、証明完了なんじゃねーの」
「全く、お前は本当に覚えたての単語を使うのが好きだね」
「絶対なんて絶対にないんだ。お前が教えてくれたんだろ」

 この世界に絶対を保証するものは何もない。「絶対に無理」も「絶対に大丈夫」もなければそれらが「絶対にない」という確約すらない。
 広くて狭いこの世界で生きるものは自分の気持ちすら絶対に定まらないで今だけを生きている。
 だから。千尋は今、諦めないという選択をした。幸村にテニスで勝利する未来を描き、その絵図があまりにも遠いことを知り、それでもなお片鱗さえ掴めない明日を望んだ。そんな自分のことを馬鹿だと思う。思っても、強がっていなければ本当の本当に足が竦んで立ち上がることさえ不可能になる。そんな恐怖と背中合わせだ。一人の病室は不安を無限に増殖させる。だから。一人ではない場面で、人と言葉を交わす瞬間に千尋は有言実行を自分に言い聞かせた。その為だけに虚勢を張った。
 テニスコートの中にいる仲間たちは千尋の虚勢を受け取って、それでも誰一人千尋を否定しない。弱みを見せているのに全力で傷を抉ることをしないのは思いやりだろう。
 千尋が真に不幸になる手前で仲間たちは世間と千尋との防波堤になろうとしている。
 立海大学付属中学テニス部という集団が千尋に教えてくれたあまりにも多くの事実に、この場所に来たことを後悔しそうになった過去の自分の横面を張りたい気持ちになる。
 諦めるのは一瞬あれば出来る。それでも。一度諦めてしまったことを取り戻すのは何十倍も何百倍もの苦労を強いる。だから、せめて、立ち止まることはしても手放さないままでいたい。
 そんな強さを千尋に与えてくれたのは目の前にいる立海の仲間たちだ。
 ここにいたい。
 絶対に千尋が快癒する保証なんてなくても。このまま大倉の実験に付き合って命を落とすとしても。
 千尋は自分の意思で立海の常磐津千尋であることを選んだ。
 その覚悟を灯して幸村を直視すると、彼はどうしようもない馬鹿を見る柔らかな顔つきで言う。
 
「そうだね。お前がそれを存在証明したいっていうなら、俺はもう何も言わないよ」

 その後を引き取って、参謀が部活を開始する旨を告げると、一同は散開した。
 ボールを打ち続けたまま、一年生のコートへと向かう千尋の背に参謀からの提案が飛んでくるのがまだ信頼されていることの証左の気がして、千尋は少しだけ気持ちが軽くなるのを感じる。

「やる気が有り余っているうちに、キワ。お前に頼みたいことがある」
「何だ?」
「お前がその状態で『才気煥発』と『百錬自得』のどちらもを使えるのか、ということを空き時間で検証したい」

 その、到底病床にある相手に依頼する内容とも思えない発言に千尋は一瞬、言葉を失って、それでも結局は破顔を返した。
 
「――お前、本っ当にブレねーな」
「お前ほどではない」
「言ってろ」

 千尋もまた悪口を返しながら、大倉に病院へ戻るのが少しぐらい遅くなってもいいか、打診をしよう。そんな段取りを自分の中で進めながら、千尋は一年生のコートに入る。
 まずは今日の部活動に専念しよう。立海テニス部の最優先目標は全国三連覇だ。戦えない千尋のフォローをしている時間で次の有力な選手を育てるのが最も実利ある選択肢だろう。
 だから。
 自らを軽んじられている、だとか、人体実験の体のいい標本にされている、だとかそんな馬鹿なことで疑心暗鬼になる必要はどこにもない。大丈夫だ。千尋は柳のことを信じられる。柳の検証の向こうに千尋にとって有益な何かが含まれていればそれに越したことはない。何かの利益が確定しなければ何も試せない、だなんて言わなければならないほどにはまだ千尋も臆していない。

「じゃあ、まずカラーコーン三十本から行くか。準備出来たやつから手、挙げろよ」

 そうして、下積みの地味で華々しさからは程遠い基礎練習の手伝い、なんていう練習が始まる。
 テニスが好きだ。テニスに関わっていられる時間が好きだ。この仲間たちと同じ目標に向かって邁進するこの瞬間がとてつもなく好きだ。
 だから。
 千尋はどうにかして外出時間を延ばせないか。今日の大倉の診察で交渉する内容について、考えていた。